むらくも歴史チャンネル

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古代から現代につながる、歴史の真相を探求する、むらくも歴史チャンネルです。
歴史学者ではないため間違いがあるかもしれません、ご容赦くださいませ。

Пікірлер

  • @user-fw5jy1zf7y
    @user-fw5jy1zf7yКүн бұрын

    出雲族の、 幸(サイ)の神信仰(原神道)の神。 原形はインド時代の象頭神ガネーシャ。 鼻高彦。 サルタ。は、 大きな鼻(勃起マラの比喩の1つ)の ドラビタ語 (~古出雲語) 阿多(天神)の御子神 、、、アタゴ神。 境界を結界し、疫病や敵から守護する神。 ~塞の神。 荒神。

  • @ChianMindoSagi
    @ChianMindoSagi2 күн бұрын

    名前が高麗、韓子なのに渡来人じゃないとは考えにくいな。勝者が創る歴史とは言え、神道を蔑ろにし、大王を暗○した一族であることに変わりはない。

  • @user-uu5xe6jf8k
    @user-uu5xe6jf8k2 күн бұрын

    猿田彦の「サルタ」は、サンスクリット語の「サールタ」に由来するのかもしれません。隊商、キャラバンの意味ですね。ラクダを正しい方向へと導く意味で、「導きの神」と言われているのかもしれません。

  • @sunsun2181
    @sunsun21812 күн бұрын

    サルタヒコは、ハプログループがわかっていて、グループCです。これは先着縄文人です。国津神はだいたい縄文人なのですが、正しいようです。 いまは、DNA分析ができるので、古文書に嘘があったらわかります。出雲族、天皇も縄文人です。藤原氏がグループOで、渡来系です。天皇は出戻り縄文人です。

  • @dekahi4004
    @dekahi40042 күн бұрын

    貴殿の動画を、少し見せていただいたのですが、 並外れた 古文書への造詣で、執念に似たモノを感じますが、 その 構成能力たるや、凄いモノで、尊敬していす。 しかし、 やはり、古文書だと我田引水なので、限界があるようで、真相には到達されておられないみたいですね、 なので、もし よろしければ?、73代 竹内宿禰の睦泰さんが 殺された理由?となった、 三重県在住の弟子の 大和竜二氏に暴露してしまった歴史の真相をお伝えできるのですが、 どうしましょうか?。 ロマンがあるから、知らない方がいいですか?。 私の予想だと、貴殿の動画の 40%~60%が再構成になる可能性がありますが、 一つだけお伝えすると、猿田彦は 瓊瓊杵尊が三つ子なので、3番目の弟です。 関心がございましたら、他の話もさせていただきます。 m(__)m 聖徳太子の三論宗 98年時 導士 白い兄こと 髙原義仁より 2024年7月9日㈫ 16:42   書き込み ・

  • @user-gz2ty9ob6j
    @user-gz2ty9ob6j2 күн бұрын

    猿田彦は銅鐸に関係すると言われいます。天孫族の前に弥生時代に日本に渡来し水田稲作や青銅技術を北部九州に伝えたと思われます。水田稲作や銅鐸のルーツは中国南部にあるようですから中国南部から来た東南アジアチベット系稲作民ではないでしょうか。

  • @user-jd7gb2xt5h
    @user-jd7gb2xt5h3 күн бұрын

    東北出身として個人的に思ってるのは大和朝廷は弥生人で縄文人を地方に追いやったと思っている

  • @user-fw5jy1zf7y
    @user-fw5jy1zf7y3 күн бұрын

    一言主神は 役行者(出雲神族)の いわば氏神さま。 どうやら、西出雲の王家、神門(郷戸)家の大和(葛城)の分家、高神(タカカモ)家(多岐津彦~)の分家の役家の方かと。 要するに?に没落した元王族(神(カモ)族)。 3体の金剛蔵王大権現 や、 不動明王等は 出雲の幸の神信仰の神々を 仮託したもの。 不動明王さま(原形はシバ神)などは 正に最高神、 クナト大神(原形はシバ神) 出雲族は四千年前、インド先住民ドラビタ族の クナ王国が クナト王に誘われ率いられて国毎集団移住した一族 (今の日本人の大半。皇室はクナト王の子孫末裔) クナト大神

  • @hayek218
    @hayek2184 күн бұрын

    いつから宮崎で丹がとれたんだ? 我田引水のこれまでと変わらないロジック

  • @user-zd3qd2if2x
    @user-zd3qd2if2x4 күн бұрын

    天武、天智の出自はともかく、壬申の乱は日本書紀に書かれている通りである、という解釈でよろしいのですね。

  • @user-kz8wk6mn3y
    @user-kz8wk6mn3y5 күн бұрын

    天武天皇は記紀に書かれているとうりです。

  • @user-lx5rz2ml5u
    @user-lx5rz2ml5u5 күн бұрын

    大和が出雲のニ王殺害し国が滅び蝦夷方面に避難は大ありと言っています東北地方の言葉の発音が出雲に暮らす人々と良く似ているし、またアイヌの人々は縄文時代辛の民族の狩猟し暮らす民族と思っています。独特な文化ありすぎるが日本人です。 興味深い話しでした

  • @gigabite1968
    @gigabite19685 күн бұрын

    方言の類似性は砂の器ですね。

  • @user-lb8vc8it6z
    @user-lb8vc8it6z5 күн бұрын

    蘇我ってふしぎな名前ですよね。

  • @user-lx5rz2ml5u
    @user-lx5rz2ml5u5 күн бұрын

    様々な地域に徐福の痕跡ありましたが船団が始め一体で航海したものが、バラバラに各地域に付いて徐福とされたと思うものでした。

  • @user-lx5rz2ml5u
    @user-lx5rz2ml5u5 күн бұрын

    徐福は漢民族ではない ヨーロッパ方面の人間ですか?シュメール文明も知っているだろうし、竹取物語につながりますか?

  • @user-fw5jy1zf7y
    @user-fw5jy1zf7y5 күн бұрын

    東北地方から北海道、千島列島や樺太等は 紀元2、3世紀頃~ 元々は 大和王国海(アマ)王朝 (官制偽系図の神武天皇~孝霊天皇の間) の孝霊朝の大彦(皇太子) らが 進攻してきた同祖(徐福)親戚の物部王家軍に大和を席巻されて 大彦らは 東近江~伊賀地方に盤きょして クナト王国としょうして 物部軍と対峙した。 (中国人はクナト王国を狗奴国と卑下した表記をした) しかし、物部軍の猛攻の前にクナト王国は瓦解、滅亡を余儀なくされ、 日本海側(大彦の本隊)と太平洋側(御子のヌナカワ別ら別隊)の2方面に分かれて 退去。 物部軍はそれらを執拗に追撃し続けた。 太平洋側に退去したヌナカワ別らが 行く先々で 例えば、富士(伊豆)国、 日立国(鹿島神宮を建立) 日高見国等を建てました。 が、物部軍の激烈な追撃にそれらは瓦解を余儀なくされ続けた。 やがて、 2方面に分かれていた元大和王国海王朝の大彦の子孫勢力は東北地方で合流合体(合津) 態勢を建てなおし、 強力な国家、日本国を建国した。 勢力圏は↑の通り。 大陸との交易も盛んに行って繁栄し続けた。 大王家の大彦の子孫、 安倍家(後の安東氏)は 津軽に都し、 津軽は政治経済、更には地政学的にも日本国の中心にあったから 津軽は日本中央 (ヒノモト中央)と呼ばれた。 政体は各地の有力な豪族の首長らによる合議制により 統治された。 北海道や千島、樺太のアイヌ他もこの合議に参加していたという。 官制偽書の古事記が編纂~完成を見た 8世紀は 北日本の日本国(ヒノモトの国)の最盛期とも言える時代。 全く歯が立たない日本国を 大倭国は 小中華思想~ 蝦夷(エミシ)と蔑み また、恰も自国領域かの様に奥州などとごまかした。 古事記のヤマトタケルが関東討伐をして更に東北地方に進攻せずに なぜそこで引き返したのか? は、↑の日本国の存在が厳然としてあったから?

  • @user-rd2wg4cz6k
    @user-rd2wg4cz6k6 күн бұрын

    面白い解釈ですね。 天智vs天武  であれば、私は天智推しです。 天武皇統の平城京造営の際の古墳破壊の事実。 いったいどんな人柄だった100年前、200年前の100m超えの古墳複数を破壊してその上に長安を模した平城京を作れるの〜😢 この古墳破壊と言う考古学的事実は動かし難いので。 天武は白村江の戦いの敗北をも画策したのでは…と。 40代天武から48代称徳までの位牌が泉涌寺に安置できていない事実もあるし。

  • @lebaronde3204
    @lebaronde32047 күн бұрын

    個人的には出雲口伝の記載がある程度正しいと思っています(とは言え直接読んだわけでは無くToland Vlogの受け売りですが)。 徐福または子か孫が、現在神武として知られる存在(ただし武力でなく縁戚関係により王になった)であり、卑弥呼の頃が「孝」の字がつく天皇の頃、開化・崇神の時代に物部東征(現在、神武東征として知られるもの)が起きたと思います。 「孝」の字がつく天皇と崇神は男系では繋がって無いでしょう。

  • @celiacartery5090
    @celiacartery50909 күн бұрын

    BGMもいいですね。

  • @user-rd2wg4cz6k
    @user-rd2wg4cz6k10 күн бұрын

    高句麗は宋の劉裕即位後征東将軍から征東大将軍に出世。 百済の腆支王も同様に鎮東将軍から鎮東大将軍に出世。 倭国の外交は宋に交代してから大いに遅れをとっていた。 卑弥呼の外交センスを引き継いでいたであろう倭国の外交手腕も代が下って思うようにいかなかったようだ。 後年の隋との外交で、 ”冊封は真っ平御免”と云う外交姿勢へ発展するにはまだ200年強待たねばならない。 そこへ至るまでの国外事情と外交方針を指南したのは、いったい誰⁉︎

  • @siraki77
    @siraki7711 күн бұрын

    蘇我는 百濟王子 (天智와 天武는 新羅王子)

  • @messer-zj1pk
    @messer-zj1pk11 күн бұрын

    揖宿神社、聞いたことなかったけど8世紀創建⁈ずいぶんとまあ新しい

  • @trinitydisconnect
    @trinitydisconnect11 күн бұрын

    深みにハマると蟻地獄。知れば知るほど、ミステリーでサスペンス。 名張夏見廃寺の近所に春日大社奥の院がー 柘植は大彦命の敢國神社がー椿大神社の猿田彦・多度大社の天照大神三男・鳥取国造の鳥取神社。南宮大社の金山氏に・・・ 大海人皇子は神社がお好き説(笑)

  • @mecom3450
    @mecom345011 күн бұрын

    信じていただけないと思いますが、壬申の乱には四国徳島舞台説があります。 大野寺の起源がポイントです。奈良の大野寺は弥勒寺という名前でした。

  • @asa01053
    @asa0105311 күн бұрын

    古事記は縄文時代日本人、日本書・紀は渡来民族の歴史。

  • @user-lx5rz2ml5u
    @user-lx5rz2ml5u11 күн бұрын

    あし原の中津国を作る事にあたり大国主さまの補佐をされた神様

  • @user-lx5rz2ml5u
    @user-lx5rz2ml5u11 күн бұрын

    ここにも不比等の手が入っているのか?悪だ

  • @user-rd2wg4cz6k
    @user-rd2wg4cz6k12 күн бұрын

    建御雷神は諏訪湖へ追い詰めた建御名方神を、 諏訪で祀ったあと、フォッサマグナを南下して中央構造線の東端の鹿島まで行ったのかなぁ。 縄文から続く古い社は磁場の異常が認められる所も多いようだし、縄文人達は発達した第六感を駆使して各地で自然の脅威を畏れ祀ったあとが今に伝わっている神社。 日本の神社は縄文から続く驚愕の神の道!?

  • @user-lx5rz2ml5u
    @user-lx5rz2ml5u12 күн бұрын

    歴史は勝者の物の原則の始まりですね。出来事があり記紀など編集段階で天智天皇を皇子でなかった者に皇子の称号に書く、その書く事が権利者の都合で書く✏️、何とも曲がった土台の上に今の時代に乗ってしまったとは?

  • @siraki77
    @siraki7713 күн бұрын

    百濟王

  • @user-su3ej6qg2h
    @user-su3ej6qg2h14 күн бұрын

    一般には神武天皇や欠史八代は空想という意見が主流である。確かに中国思想にある申酉説に合わせたり、和風諡号が後世に作ったというのも頷けるので、崇神天皇を実在初代にもってくるという意見が妥当というのも頷ける。  ただ、これだけでは漢書地理誌や魏志倭人伝に描かれた弥生後期の倭国の描写が描けないので、箸墓や纏向遺跡を絡めて邪馬台国大和説を唱えるのが時代の潮流というマスコミもある。しかし、唐古鍵遺跡で見られたように弥生後期の大和は鉄器も多く見られず、墳丘墓もあまり見られない後進地域だったことは確か。北九州や河内(ニギハヤヒ→物部氏の根拠地より遅れている)より遅れていたのだ。ところが、大和が孝霊天皇遠征伝承もある吉備発祥の特殊器台や楯築墳丘墓の影響を受けて急速に強国化し、短期間で纏向型墳丘墓→箸墓、纏向遺跡と進み、崇神の実質全国制覇につながるのである。  この現象をみると、邪馬台国大和説の方がむしろこじつけのようにも思えてくる。もっと、紀記記載の王族や豪族の外戚系譜、各地の伝承、朝鮮の情勢、記録と考古学成果(遺跡分布、土器、鉄器、銅器、初期埴輪、墳丘墓、稲荷山鉄剣記載の系譜等)を結びつけた上で、地理や古代技術、人口等の発展状況に照らして常識の範囲で再構築予想するしかないと思います。  このチャンネルは、春秋二倍暦、四倍暦、平均在位年数、系図検討、地理状況など、安本美典氏や宝賀寿男氏、長浜浩明氏などの考え方も踏まえて独自の展開を図っているようで大変興味深いです。  (これらの人は皆、神武東征説に基づいているが、東征の時期は違う。)  安本美典氏は卑弥呼=アマテラス、長浜浩明氏は当時の船技術、人口といった点からやや飛躍しそうな気がするので個人的には宝賀氏の170年くらいが無難かなとは思いますが?なお、纏向発掘に携わった関川尚功氏は邪馬台国説にとらわれていないらしい。  ただ、欠史八代の宮跡、御陵が紀記では纏向地域に記されていないのが、考古学成果と矛盾する。神武から数代(神武、綏靖は親子、安寧〜孝安は磯城氏の外戚関係から兄弟?)は、小規模の墳丘墓でいいとしても、孝霊天以降は纏向古墳群に陵墓を比定してもいいのに敢えてそうしていない。その点はかえって紀記が真実ぽいが、それなら纏向古墳群は誰が葬られているのか。  地元ではホケノミヤ古墳を豊鍬入姫、紀記では箸墓をヤマトトトヒモモソ姫とか敢えて孝霊や崇神の娘にして王墓にしていないのが気になるところです。案外、纏向古墳群は磐余や葛城の元王墓から孝霊以降に改葬されているのか、あるいは外戚である磯城氏?の地盤に妃だけが葬られれているのかと勝手に想像辻褄合わせしています。  神武天皇東征は九州や中国では多くの伝承あるのに、紀記は無視、河内湾突入以降が詳しい。これは、神武東征が小規模の移民であり、どうにか磯城氏の勢力圏の端の磐余に地盤を置かせてもらい、その後数世代で婚姻政策も含めて葛城方面から周り、やっと孝霊以降に纏向の旧磯城勢力圏に至ったのではと想像しています。(唐古鍵遺跡でも1000人、大和全体でも3万もいない人口とか)  神武天皇の本当の陵墓は旧洞村の丸山(数戸から始まった守戸村あり)で小規模、真の宮は旧柏原村らしいので、初期大和政権はかなり小勢力だったのではないかと思っています。

  • @katumoku10
    @katumoku1015 күн бұрын

    有難うございます。「複雑怪奇な紀年論」ですが、前提となるものが思い込みに過ぎないと気づかないから、いつまでたっても解決しないのだと思います。 二倍年歴が間違った発想だということは、日本書紀の本文を見れば明らかです。1年おきに春・夏の記事と秋・冬の記事になっていません。魏略の記事の「倭人は1年を春と秋で数える」というのを都合の好いように曲解しています。二倍年歴のことではなく1年の二十四節季の祭祀を正しく行っていないという意味なのです。天皇の平均在位年数の前提も、すべての天皇は実在したという思い込みなのです。 つまり、現存する最古の歴史書「古事記」や正史「日本書紀」が天皇の歴史書だと信じているので古代史が謎なのですよ。天武天皇が編纂を命じましたが、日本書紀は崩御34年後に完成しています。 また、712年に完成したとされる古事記について正史に記録はないですし、日本書紀で参照した痕跡すらないのですよ。 日本書紀は当時の権力者藤原不比等による勝者の歴史書なのです。 古事記は日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られることないように暴露する暗号書だったのです。 これによって、卑弥呼が隠された理由も、富雄丸山古墳や吉野ヶ里遺跡の謎の石棺の被葬者も判明します。 また、邪馬台国問題も同様の思い込みから抜け出せないので解決できないのですよ。 共通するのは「1次史料は正しく書かれているので、正しく解釈すれば真相が分かる!」という思い込みなのです。 魏志倭人伝が何のために書かれたのか、どういう史料をもとにしたのかが分かると、 史料の信ぴょう性が考古学や民俗学の成果、つまり事実から分かります。 編纂者の目的を考えて、ウソを見抜いて古代史の真相を推理できますよ。 こういう科学的な手法で古代史を解決しましたので、よろしければ拙ブログ「刮目天の古代史」をご参照ください。失礼しました(;^ω^)

  • @kumao01nigi
    @kumao01nigi15 күн бұрын

    コメありがとうございます。貴重なご意見ですね。「刮目天の古代史」拝見させていただき勉強します。

  • @katumoku10
    @katumoku1015 күн бұрын

    @@kumao01nigi さん お返事までいただき、恐縮です。今までとは全く異なるアブダクションという第三の推論法を使っていますので、もしも疑問点などありましたら遠慮なくおっしゃってください。研究の進展に役立つはずです。どうぞよろしくお願いいたします(;^ω^)

  • @user-kz8wk6mn3y
    @user-kz8wk6mn3y4 күн бұрын

    神武天皇の即位年は紀元前60年です。

  • @user-lx5rz2ml5u
    @user-lx5rz2ml5u16 күн бұрын

    中々年齢の計り方ややこしいです。ごちゃごちゃして仕舞います

  • @user-lx5rz2ml5u
    @user-lx5rz2ml5u16 күн бұрын

    中々天皇の血筋の祖がニギハヤヒ系が入っていて興味深かったです。神武の血の万世一系なのだと皇室の代々天皇が神武を受け継ぐと言う事も八代中盤からと知りました。ニニギもニギハヤヒも天孫降臨の兄弟間で皇室を守った事に成りますね。神武の血一本じゃなく協力した事に成りますね。失史八代など言葉作った学者によって曲げられる所でした。

  • @fate8507
    @fate850717 күн бұрын

    役小角は『鬼神童子ZENKI 』で知りました。😊

  • @kumao01nigi
    @kumao01nigi16 күн бұрын

    役小角のアニメがあったとは!

  • @siraki77
    @siraki7718 күн бұрын

    百濟 王子

  • @etohumi
    @etohumi19 күн бұрын

    いい感じにまとめられた動画ですね 高良大社の奥の院は武内宿禰の霊廟との伝承あるそうです 出生の紀国ですが、古代の国は後の郡なので和歌山に影媛が祀られていないという情報は興味深いですね 肥前杵島郡とか?

  • @kumao01nigi
    @kumao01nigi19 күн бұрын

    佐賀県は可能性高そうですね。

  • @user-qq2ij4ue4c
    @user-qq2ij4ue4c19 күн бұрын

    長江流域からの米の伝播と鉄の話するなら、燕の鉄もだけど長江南部での湖沼鉄利用の話に触れても面白かったかも……

  • @kumao01nigi
    @kumao01nigi19 күн бұрын

    中国関連はもっと勉強します!ご指摘ありがとうございます。

  • @user-od7uk5nq7t
    @user-od7uk5nq7t20 күн бұрын

    そろそろ朝鮮半島経由と云うルートの可能性は無くしませんか? そしてなぜ歴史家の方々は種の進化と云う歴史の可能性を排除して考えます。 日本列島の形成に稲の進化が可能性を見せてくれます。東日本側の列島形成は地殻プレートが押す事によって削りながら押し曲げて盛り上げます。さらに海底から付加体を押し上げて列島の陸地を造りあげました。この付加体に種子植物である海草が陸地へと上げられ、たまたま湿地帯もしくは湖畔の浅瀬に残り、環境適応の進化をしたのならば稲に進化してもおかしくはありません。また海草であるアマモが東京湾に自生しています。 世界の稲作が日本発祥とまでは言わないものの、日本の稲作は日本で生まれたと考える事が出来ると思うのです。

  • @kumao01nigi
    @kumao01nigi20 күн бұрын

    あれだけ美味しいお米を作れるのは日本だからですね。そういう意味では「KOME=米」は日本発祥です。

  • @pochi6349
    @pochi634922 күн бұрын

    北部九州では 広く神宮皇后伝説が伝わっている。そして北部九州各地に神宮皇后を祀る神社が存在している。戦後 進駐軍の威信を借りて左翼日本史学者が日本史をねじ曲げてきた歴史がある。その思考の神髄は自虐史観の日本国への浸透である。進駐軍の指導によって 神宮皇后は否定される教育が繰り広げられる。その影響は今の日本に残っている。戦後の日本には左翼化したマスメディアが戦前の体制批判を繰り広げ自虐史観の浸透させたが、現在はその自虐史観には疑問視する風潮が強まっている。

  • @kumao01nigi
    @kumao01nigi20 күн бұрын

    自虐史観、少しずつですが、正常に戻りつつありると思います。そして、あちら系に染まったマスコミが邪魔をする。

  • @haruyukihayashi3796
    @haruyukihayashi379622 күн бұрын

    出雲口伝と比較されたし!

  • @kumao01nigi
    @kumao01nigi20 күн бұрын

    出雲口伝興味が湧いてきました。

  • @user-lx5rz2ml5u
    @user-lx5rz2ml5u22 күн бұрын

    藤原氏余計な事をしたものです。神社のご祭神がこんなにニギハヤヒにある事分かりましたが、持統天皇の藤原氏豪族の策略で、綺麗に消されてしまった悪人ですね⁉️ 後世の日本人に正しい事残す気がない自分が上手く天皇の外戚として立ち回る事だけと持統天皇の願い達成する事だけ、困った権力者です

  • @user-lx5rz2ml5u
    @user-lx5rz2ml5u22 күн бұрын

    ニギハヤヒは十種神宝の天孫降臨されたミコト、ニニギの兄ですね、物部氏の祖になって行くんですね⁉️ 古事記では奈良を渡さない戦いありますが、戦いなどしてません、ナガツネ彦は自害し神武に渡しました。地元の人々は慕ってましたから名を隠し神社作りました

  • @user-lx5rz2ml5u
    @user-lx5rz2ml5u22 күн бұрын

    行動力のある皇后さまと思います。応神天皇に新羅に日本に避難したい民族を解放された神がかり武内宿禰を軍最高司令官と共に救出作戦、三韓征伐されました。 征伐ですからGHQは確かに皇軍ですから、先のアメリカとの戦争皇軍として日本戦いましたから内容全然違う。卑弥呼の転生とか天照さまの御霊が転生したとか都市伝説にされている事ありますが助けに応じた立派な行動と思う

  • @user-ukiy
    @user-ukiy22 күн бұрын

    ありがとうございます、勉強になりますw

  • @kumao01nigi
    @kumao01nigi20 күн бұрын

    コメントありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いいたします。

  • @mecom3450
    @mecom345023 күн бұрын

    八丈島や横須賀に残る丸石が徐福船団のバラストではないかという説がありこれを検証していただきたく存じます。自分でも調べましたがよくわかりません。

  • @kumao01nigi
    @kumao01nigi20 күн бұрын

    そんな遺構があるとは、面白そうです。

  • @journey3451
    @journey345124 күн бұрын

    勝手なことをいいます。 いつから天皇という位があったのか。天皇と呼ばれた位です。 これが正確にわかっているのであればそこからはきっと系譜も 大事に扱ったんではないでしょうか? それ以前はやはりその後の天皇が作り上げた記紀にあまり背きたく 無いと思います。なので嘘もあるのかもしれないですが神話という 形が自然だし、みんな納得できたのではないかと思います。 どうも今残っている史跡を見ると讃岐、阿波が天皇家の発祥で 崇神天皇が奈良に移る前は四国におられた気がします。 この四国時代をあまり伝えたくないという思いが記紀に出ている 気がします。でもそれでいいんじゃないのかなと思います。 明治天皇が神武天皇像を徳島に建てたのは公になっていない 歴史をご存じの表れではないか。。。なんてことを思うと 別に暴かなくてもいいのではないかという思いは強くなります。

  • @kumao01nigi
    @kumao01nigi20 күн бұрын

    確かに四国が意識的に隠されているように感じます。

  • @asa01053
    @asa0105324 күн бұрын

    蘇我仏教ペルシャ民族。物部、蘇我、藤原。

  • @user-kf6xc2lq6j
    @user-kf6xc2lq6j24 күн бұрын

    戦後歴史学に影響を与えた、かの津田左右吉は、戦後の著作『日本古典の研究(上)』(岩波書店)第2篇第7章「結語」で、神武天皇から仲哀天皇までの特に開化天皇までの系譜については、「(前略)綏靖天皇から、開化天皇までの歴代に物語が一つも無いということはその歴代の天皇の存在を疑うべき、少なくとも強い根拠になりかねる(後略)」と述べていました。また津田全集第24巻471~472頁に掲載されている津田事件裁判控訴の上申書には「(前略)或る時期に於いて大いに皇威を伸長あそばれた英主、即ち神武天皇の御名によって後に伝えられました御方からの御歴代の天皇の御名はこのやうにして言い伝へられて来た(後略)」として神武天皇と欠史八代の実在を肯定している記述がありました。 以上が私が通読して認識したことです。なお、津田全集第24巻は続田中卓著作集第4巻の268頁を参照したことをご了承下さい。そして長くなったことをご了承ください。 ちなみに私は小説投稿サイト「小説家になろう」に同じ名義で、日本古代史研究論文を小説として投稿・連載をしております。論文なのに小説? と思うでしょう。それは、『記紀』等の文献史料を漢文ではなく、書き下しか現代語訳で記載しているから「小説」と私は認識しております。最後に宣伝恐れ入ります。