欠史八代の天皇は実在したのか?

Ойын-сауық

今回は謎多き欠史八代についてです。
■欠史八代とは
欠史八代とは、Wikipediaによると、『古事記』『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇、あるいはその時代を指す。とあります。
続いて、現代の歴史学ではこれらの天皇は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力であるが、実在説も根強い。ともあります。
Wikipediaを読むと、津田左右吉という戦前から戦後にかけて活躍した歴史学者が発祥です。
実在説、非実在説それぞれ筋が通った説にもみえるところが、この論争の複雑なところです。
欠史八代は、本当なのでしょうか
非実在説をみていくと、なんとなくわかってくるような気がします。
■神武天皇の辛酉即位年は偽作説
綏靖天皇から開化天皇まで八代の天皇は、古代中国の革命思想である辛酉革命に合わせることで、皇室の起源の古さと権威を示すために偽作したという言説です。
そもそも『日本書紀』には太歳辛酉としか記載されておらず、干支と紀年を関係づけて固定化することはできません。
辛酉は60年に一回巡ってくるので、辛酉であるからといって皇室の古さと権威を示すために偽作したというのはおかしいです。
数百年周期で巡ってくるなら分かりますが、60年周期の辛酉というだけで、欠史八代は非実在というのは無理でしょう。
つまり、即位年を辛酉にしただけで、欠史八代になるというのは飛躍しすぎでしょう。
■古代天皇の寿命が異常に長い
古代天皇は寿命が異常に長い方がおられます。
神武天皇は『古事記』では137歳、『日本書紀』では127歳と記されているので、創生期の天皇達が皇室の存在を神秘的に見せるために創作されたことを示唆している。という言説があります。
現代のように医学が発達した時代の寿命は、80歳程度であり、長生きしても100歳が限度です
ましてや医学の発達していない古代において130歳生きたとは考えられません。
最近は、この異常な長寿について、春秋暦で説明している言説もみられます。
つまり、昔は農作物の収穫を基準とした、春と秋の2回年代わりがあったということです。
寿命が春秋暦で127歳なら、本来は半分の63歳程度になります。
ただし、この春秋暦を使って計算しても神武天皇の即位は紀元前となり、弥生時代終盤と古すぎるので、この春秋暦説では説明しきれていません。
応神天皇110歳、仁徳天皇110歳など、欠史八代以外でも異常な長寿の天皇は記載されています
欠史八代の根拠として正しいかどうかはわかりませんが、異常に長い寿命は謎に包まれていることは確かです。
【目次】
00:00 スタート
01:17 神武天皇の辛酉即位年は偽作説
02:16 古代天皇の寿命が異常に長い
03:52 二人いる「ハツクニシラススメラミコト」
04:47 すべて父子相続で兄弟相続は否定
05:55 綏靖天皇:第2代
07:15 安寧天皇:第3代
08:53 短期間で譲位した3代の天皇
09:57 孝安天皇:第6代
11:09 まだ磯城県主の勢力内にあった三代の天皇
12:18 孝元天皇:第8代
13:38 雀部臣系(内色許男命)の皇后
14:42 大彦命
16:50 持統朝による日本書紀の改ざん
1. 欠史八代とは
2. 神武天皇の辛酉即位年は偽作説
3. 古代天皇の寿命が異常に長い
4. 二人いる「ハツクニシラススメラミコト」
5. すべて父子相続で兄弟相続は否定
6. ここまでのまとめ
7. 綏靖天皇:第2代
8. 安寧天皇:第3代
9. 懿徳天皇:第4代
10. 短期間で譲位した3代の天皇
11. 孝昭天皇:第5代
12. 孝安天皇:第6代
13. 孝霊天皇:第7代
14. まだ磯城県主の勢力内にあった三代の天皇
15. 孝元天皇:第8代
16. 開化天皇:第9代
17. 雀部臣系(内色許男命)の皇后
18. 大彦命
19. 敢國神社
20. 持統朝による日本書紀の改ざん
日本古代史の謎を紐解き、すこしでも本来の日本建国の姿を再現できればと思い、ご紹介させていただきました
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【参考書籍】
・『日本書紀上下』宇治谷孟 著 講談社学術文庫
・『古事記上中下』次田真幸 著 講談社学術文庫
・『記紀以前の資料による古代日本正史』原田常治 著
・『上代日本正史 神武天皇から応神天皇まで』原田常治 著
・『藤原氏の正体』 関裕二 著 新潮社文庫
・『埋もれた巨像』 上山春平 著 岩波書店
・『古事記及び日本書紀の研究』津田左右吉 著 毎日ワンズ
・『古代日本神話の考古学』関裕二 著 河出書房新社
・『日本古代史の論争』歴史読本編集部 著 新人物往来社
・『天皇諡号が語る古代史の真相』関裕二 著 祥伝社新書
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Пікірлер: 13

  • @user-lx5rz2ml5u
    @user-lx5rz2ml5uАй бұрын

    中々天皇の血筋の祖がニギハヤヒ系が入っていて興味深かったです。神武の血の万世一系なのだと皇室の代々天皇が神武を受け継ぐと言う事も八代中盤からと知りました。ニニギもニギハヤヒも天孫降臨の兄弟間で皇室を守った事に成りますね。神武の血一本じゃなく協力した事に成りますね。失史八代など言葉作った学者によって曲げられる所でした。

  • @user-kf6xc2lq6j
    @user-kf6xc2lq6jАй бұрын

    いわゆる欠史八代について、系譜伝承と后妃およびその出身豪族と皇子を祖とする氏族名そして各代の宮城(皇居)と陵墓という『帝紀』的記事しか無いため架空だけではなく研究の参考にする価値もないという考えが日本古代史学界と在野研究で常識となっている。 しかしながら、裏を返せばその『帝紀』的記事も「残っている」、それらも「記されている」という考えも出てくるべきである。

  • @journey3451
    @journey3451Ай бұрын

    勝手なことをいいます。 いつから天皇という位があったのか。天皇と呼ばれた位です。 これが正確にわかっているのであればそこからはきっと系譜も 大事に扱ったんではないでしょうか? それ以前はやはりその後の天皇が作り上げた記紀にあまり背きたく 無いと思います。なので嘘もあるのかもしれないですが神話という 形が自然だし、みんな納得できたのではないかと思います。 どうも今残っている史跡を見ると讃岐、阿波が天皇家の発祥で 崇神天皇が奈良に移る前は四国におられた気がします。 この四国時代をあまり伝えたくないという思いが記紀に出ている 気がします。でもそれでいいんじゃないのかなと思います。 明治天皇が神武天皇像を徳島に建てたのは公になっていない 歴史をご存じの表れではないか。。。なんてことを思うと 別に暴かなくてもいいのではないかという思いは強くなります。

  • @kumao01nigi

    @kumao01nigi

    Ай бұрын

    確かに四国が意識的に隠されているように感じます。

  • @user-kf6xc2lq6j
    @user-kf6xc2lq6jАй бұрын

    また欠史八代系譜伝承の古さの根拠の一つとされている部分は、『日本書紀』の本文ではなく「一書」や「一云」という注で記載されている当該各代天皇の后妃の出自が、磯城(『古事記』では「師木」)県主、春日県主、十市県主というように『記紀』編纂時に権勢を誇っていないヤマトの土着豪族と記されていることである。 これに対して架空及び後世造作論者は「天武朝前後の時期の造作であり、それはそのころ壬申の乱を契機として勢力をえた当時の内廷・侍従家(自祖の県主県伝承)と天皇家との間に存在した密接な関係の反映」つまり欠史八代の后妃伝承は「古さ」を立証するものではなく天武朝期に、内廷・侍従家の自祖伝承を創作されたものであると反論している。これについて再反論するとしたら以下の2点となる。 1、天武朝前後に『記紀』につながる史書の編纂が行われていた当時の史料として、内廷・侍従家から欠史八代天皇の后妃婚姻伝承が「発見」されたのである。その後、編纂当局に提供されて分析後、欠史八代系譜伝承に組み込まれたと考えるべきこと。 2、例え欠史八代系譜伝承が7世紀後半から『記紀』成立直前に整理されたと仮定してもそのことで後世の造作と断定するのはナンセンスである。7世紀の編纂時に7世紀までの系譜伝承特に欠史八代伝承が漸次発見・集約されたと考えてもいいということ。 以上のことから、特に『紀』の注記載の后妃の出自伝承は、結局「古いもの」に変わりはなく、欠史八代系譜伝承自体はやはり古い伝承や史料を元に編纂されたものであり、初期ヤマト王権を理解するための史料としての価値は完全に否定はできないかもしれない。

  • @kumao01nigi

    @kumao01nigi

    14 күн бұрын

    欠史八代に関する詳細な情報ありがとうございます。

  • @lebaronde3204
    @lebaronde320428 күн бұрын

    個人的には出雲口伝の記載がある程度正しいと思っています(とは言え直接読んだわけでは無くToland Vlogの受け売りですが)。 徐福または子か孫が、現在神武として知られる存在(ただし武力でなく縁戚関係により王になった)であり、卑弥呼の頃が「孝」の字がつく天皇の頃、開化・崇神の時代に物部東征(現在、神武東征として知られるもの)が起きたと思います。 「孝」の字がつく天皇と崇神は男系では繋がって無いでしょう。

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