命がけだった?遣唐使の謎

Ойын-сауық

■白紙に戻す遣唐使
鳴くよウグイス平安遷都
白紙に戻す遣唐使
「白紙」つまり894年に遣唐使が廃止されたという語呂合わせです。
ちなみに、なく夜鶯、平安遷都の「鳴くよ」は794年です。
学生の頃が、なつかしい!
■遣唐使とは
舒明天皇二年(630年)犬上御田鍬の派遣により始まり、以降200年以上の間、遣唐使を派遣しました。
最終は寛平6年(894年)に使節派遣の再開が計画されましたが、907年に唐が滅亡すると、そのまま消滅する形となったようです。
遣唐使船は1回あたり2隻から4隻で、1隻の人数は100人から後期には150人程度が乗船しました。
■回数と航路
遣唐使の回数については、いろいろな説があり、定説はありませんが、12回から20回程度となっています。
航路については、北路、南路、南島路、その他に渤海路があります。
①北路
当初、北九州より朝鮮半島西海岸沿いを経て、遼東半島南海岸から山東半島の登州へ至るルートを使用していました。
663年の白村江の戦いで日本は朝鮮半島での足場が無くなり、676年の唐・新羅戦争で唐と新羅の関係が悪化し、日本は北路での遣唐使派遣ができない状況になりました。
②南路
筑紫大津を出港し、肥前国松浦郡の平戸から東シナ海を横断、南を目指すルートです。
③南島路
薩摩の坊津(鹿児島県南さつま市)より出港し、種子島、奄美大島、沖縄など南西諸島を経由して東シナ海を横断するルートです。
ただし、③の南島路は遣唐使の航路として採用されたかは疑わしいことが判明しています。
終盤には大幅な日数削減につながる②の南路が主流となりました。
【目次】
00:00 スタート
01:13 回数と航路
02:47 唐国の概略
05:06 円仁の命をかけた入唐
08:17 遣唐使船の構造
09:26 なぜ渡航は難しかったのか
11:42 反論
日本古代史の謎を紐解き、すこしでも本来の日本建国の姿を再現できればと思い、ご紹介させていただきました
このチャンネルでは、独自の視点から見た歴史について発信しています
この動画は下記の音声読み上げソフト、画像、動画、音楽を使用しています。
・Wikipedia
・Adobe stock
・KZread オーディオライブラリ
・VOICEPEAK
【参考書籍】
・『日本書紀上下』宇治谷孟 著 講談社学術文庫
・『古事記上中下』次田真幸 著 講談社学術文庫
・『続日本紀上下』森田悌 著 講談社学術文庫
・『遣唐使の光芒 東アジアの歴史の使者』森公章 著 角川選書
・『遣唐使が歩いた道』曹復 著 二玄社
#遣唐使 #阿倍仲麻呂 #日本史 #歴史チャンネル #鑑真 #ニギハヤヒ #空海 #円仁 #最澄

Пікірлер: 3

  • @user-lx5rz2ml5u
    @user-lx5rz2ml5uАй бұрын

    船に龍骨が船底にない船と、一緒に行った空海と小野中万呂怖がり震えてました。空海に船の構造教えられます。

  • @kumao01nigi

    @kumao01nigi

    Ай бұрын

    遣唐使船、壊れすぎですよね。

  • @user-lx5rz2ml5u

    @user-lx5rz2ml5u

    Ай бұрын

    @@kumao01nigi 申し訳ないけど遣唐使船の構造、外洋航海する造りとなってなく板を左右に張って底板あるだけだから、荒波を行く物じゃなく竜骨が中心にあってあばら骨の様に船低作って強固な造りです。運良く嵐など会わず行けた船は日本に帰えれたし中国に辿り着いただから、3、4ソウにしてどれかが着く様にしてたし晴天な航海なら全員無事だった

Келесі