邪馬台国畿内説を考えてみる!考古学や史料で紐解く古代日本

Ойын-сауық

自説では邪馬台国は九州にあるという考えですが、ここでは邪馬台国畿内説を考えてみましょう。
謎の女王・卑弥呼の邪馬台国はどこにあった?
議論を巻き起こしているのが、少ない情報のために邪馬台国の場所が特定できないことです。
まず、帯方郡から伊都国までの記述はほぼ定説化しているところです。
議論を巻き起こしているのが、伊都国から邪馬台国へ至る経路です。
畿内説はもちろん、四国説、関東説、沖縄説、インドネシア説なんてのもあるそうです。
そして、存在しなかった説もあります。
さて、続きを見ていきましょう。
不弥国からの移動
不弥国から東へは船で移動しました。
航路としては、瀬戸内海ルートだけでなく、日本海ルートを利用した可能性もあります。
この場合、投馬国は出雲や但馬に比定されます。
不弥国から南へ行くと投馬国、さらに南に行くと邪馬台国という記述をそのまま追うと、九州南方の海に行ってしまいます。
正しくは「東」であるのを誤って「南」と記したと考えられ、「南して」を「東して」に読み替えるべきだというのが畿内説。
使者が日本に上陸後、不弥国から投馬国までが「水行二十日」、投馬国から邪馬台国までが「水行十日、陸行一月」とあります。
この日数から考えると、これらの場所を九州内に求めるのは難しく、大和までの移動日数を示していると考えられるといいます。
この畿内説に対する反論をみてみましょう。
【目次】
00:00 スタート
02:42 不弥国からの移動
04:25 東が海に面している国
05:45 邪馬台国はヤマト
06:51 倭国大乱
08:18 卑弥呼=神功皇后説
09:42 三角縁神獣鏡
10:44 古墳
12:55 まとめ
日本古代史の謎を紐解き、すこしでも本来の日本建国の姿を再現できればと思い、ご紹介させていただきました
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【参考書籍】
・『記紀以前の資料による古代日本正史』原田常治 著
・『日本書紀上下』宇治谷孟 著
・『葬られた王朝 古代出雲の謎を解く』梅原猛 新潮社
・『出雲と大和ー古代国家の原像をたずねて』村井康彦 岩波新書
・『古代史が解き明かす 日本人の正体』関裕二 じっぴコンパクト新書
・『古代史おさらい帖』森浩一 著 ちくま学芸文庫
・『日本書紀と神社が語る天皇誕生史』崎元正教 著
・『古代日本神話の考古学』関裕二 著
・邪馬台国の会・畿内説の主張
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#邪馬台国 #卑弥呼 #日本史 #歴史チャンネル #畿内説 #九州説 #当時の #纏向遺跡 #箸墓古墳

Пікірлер: 5

  • @user-ym8hr9jd7l
    @user-ym8hr9jd7l2 ай бұрын

    纏向遺跡=邪馬台国 箸墓=卑弥呼の墓であるかは別にして箸墓、纏向4世紀説は考古学とは相反することです。 年代を特定する主は炭素年代測定や年輪年代法ではなく土器編年です。纏向遺跡が4世紀(しかも末)なら全国の全ての遺跡の年代がずれますね。

  • @kumao01nigi

    @kumao01nigi

    2 ай бұрын

    コメントありがとうございます。考古学界隈でも意見が分かれていて、最近は畿内説有利なんですね。ご指摘ありがとうございます。

  • @user-ql4ri8nx5x
    @user-ql4ri8nx5xАй бұрын

    考古学者はまともなんですが、歴史学者は論理的な思考ができません。Wiki等で「集合」とか「写像」と言う言葉を調べてみて下さい。証明(又は証拠)には多くの場合方向性があります。簡単に説明すると「卑弥呼は魏志倭人伝等で3世紀中頃に存在したと思われているので、その住む都も3世紀中頃に有ったはずである。」と言う命題は真(正しい)なのですが、その逆命題である「3世紀中頃の都市遺跡は卑弥呼の都である。」と言うのは必ずしも真ではありません。むしろ偽(間違い)である場合が多く、逆命題が成立するのは「日本に邪馬台国以外の国が無かった場合」だけです。よく纏向遺跡が出雲や尾張の都であっても3世紀中頃の都市遺跡が纏向にある可能性があるのでは?と言う質問に歴史学者が答えられないのはそのせいです。他に国が有る場合には逆命題は成立しないのです。纏向遺跡はかって昭和の時代には大田遺跡と呼ばれていました。出雲の太田田根子が住んでいた場所だからです。しかもすぐ目の前には事代主命を祀った三輪山が有ります。なので本当は(島根の)出雲で生まれた大国主命がお兄さん達に2回も殺され(そうになり)逃げて奈良県あたりに新しい第二の出雲をつくったんだと思います。古事記にお母さんから逃げなさいと言われて木の国(多分紀ノ國でしょう)に逃げたとそう書いてあります。だから歴史学者は多分「大人の事情」でウソをついているのだと思いますよ。歴史学者の非論理的な推論が許されるのならば、私も非論理的かも知れない推論をすると、宇陀市榛原石田付近は昔は「伊那佐」と呼ばれていました。今でも文化センターの名称に名前が残っています。古事記には国譲りの場所を「稲佐の小濱」とは書いていません。「伊那佐の小濱」です。しかも「小濱」とは昔は川砂の岸辺もそう呼んでいたようです。ここ宇陀市の芳野川の「伊那佐の小濱」が国譲りの場所で、葛城氏(及びその後をついだ蘇我氏)が出雲の大国主命の子孫ならば、歴史の色々な矛盾が半分くらい解けるような気がします。証拠が無いのであくまでも推論ですが。

  • @kumao01nigi

    @kumao01nigi

    Ай бұрын

    コメントありがとうございます。「大人の事情」確かにありそうです。

  • @katumoku10

    @katumoku10

    Ай бұрын

    お邪魔します(;^ω^) >考古学者はまともなんですが、歴史学者は論理的な思考ができません。 全く同感です。理由を考えると、歴史学は文学部なので一次史料重視なのです。一次史料は正しいので、正しく解釈すれば真相が得られるはずという思想です。でもこれって、明らかに間違いなのです。史料が誰によって、何の目的で編纂されたのかを鵜呑みにすると、事実、つまり考古学や民俗学などの成果と合致しないのです。「古代史には謎があるね!ロマンだね!とふんぞり返っているから真相が分からないのです。合致しないということは書かれた内容に虚偽があるということなのですが、いや・いや表現を正しく解釈すればいいだけだと思っているのですが、正しく解釈してもダメですよね。何故なら、嘘が書かれていたら事実とは違いますからね(^_-)-☆ ですから、ここで、何のためにウソを書いたのかを考え、事実に基づき真相を推理すれば正解にたどり着けます。19世紀末から20世紀初頭に活躍した米国の偉人C.S.パースが提唱したアブダクションという第三の推論法によって明らかにできることが分かりました。よろしければ詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください!

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