日本プロレス時代の「ジャイアント馬場」②1963-1968世界3大タイトル連続挑戦と日プロ絶対エース時代!

Ойын-сауық

ジャイアント馬場の日本プロレス時代、全盛期と名勝負からアントニオ猪木とのプロレス観の違いを探るシリーズ。
②は1963-1968 2度目のアメリカ遠征での「伝説の世界3大タイトル連続挑戦」から、帰国後の「インターヘビー級王座 連続防衛」の“絶対エース“時期を振り返ります。
【チャプター】
00:00:00 オープニング
00:00:57 再びアメリカへ
00:02:46 力道山死去からの日米・馬場争奪戦
00:03:47 1964 馬場の世界3大タイトル連続挑戦
00:05:10 日本帰国を決意
00:05:56 凱旋帰国、名実共にエースへ~「32文ロケット砲」開発
00:06:40 インター・ヘビーという「王位継承」
00:07:36 馬場名勝負②vsルー・テーズ
00:08:17 馬場名勝負③vsフリッツ・フォン・エリック
00:08:52 絶対エースへ
00:09:32 馬場名勝負④vsジン・キニスキー
00:10:06 BI砲結成!プロレス・ブーム再来
00:10:46 馬場名勝負⑤vsボボ・ブラジル
00:11:27 インター選手権・21回連続防衛
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Пікірлер: 58

  • @ryo6976
    @ryo69764 ай бұрын

    60年代の馬場さんを見ると、このサイズでこのスピードはあり得ないです。 ただこの馬場さんから、74年生まれの私が知っている「ネタにされるくらいスローな」馬場さんへの変化があまりにも急激なのは切ないです。

  • @user-vd6wk7pv3f
    @user-vd6wk7pv3f4 ай бұрын

    虚飾や偏見もない、考察、解説。お見事です。

  • @zmaster432
    @zmaster4324 ай бұрын

    日本プロレスの時代は現代とはまるで違いますね。 プロレスのコミッショナーに現役の大物国会議員が就いていて、その裏では山口組の田岡組長が睨みをきかせていたのですからね。 そんなカオスな状況もプロレスが日本の娯楽の中枢にあったこと、そしてその中で馬場さんは太陽のごとく光り輝いていたということの前では些細なことです。

  • @mitsuhiro7825

    @mitsuhiro7825

    4 ай бұрын

    日本プロレス時代の動画を見るとフィクサー児玉誉士夫がリング上にいたりして、その時代のプロレスがどれだけ巨大な存在だったかが分かりますね。そしてその中心に馬場が立っていたということは凄い事です。

  • @user-pw6qg5yt5d
    @user-pw6qg5yt5d4 ай бұрын

    私は1963年生まれで、BI砲全盛期にスピードがある猪木さんのファンになりました。今回は馬場さんの際立った強さと人気が、ひしひしと感じられました。また、ロジャースやブルーザーなどと肩を並べていたアメリカでのトップレスラーの1人だったことがよくわかりました。

  • @user-ke7qf5gs3v
    @user-ke7qf5gs3v4 ай бұрын

    この頃、父親がテレビでよくプロレスを観ていて幼少期一緒に観ていた記憶があります。フリッツフォンエリック、フレッドブラッシー、ボボブラジル、ザ・デストロイヤーとの闘いは迫力と恐怖を感じていました。まさに馬場さん全盛期だったのかも知れません。

  • @toshnoton1180
    @toshnoton11804 ай бұрын

    柳澤健さんはその著書“1964年のジャイアント馬場”の中で、3大タイトル連続挑戦とMSGでのメインエベント登場を以て、アメリカで最も成功した日本人レスラーはカブキでもムタでもなくてジャイアント馬場だと断言されてますね。 その本の中では、グレート東郷とフレッド・アトキンスから10年契約を持ちかけれた時には馬場も相当悩んだそうですが、個人的に東郷の事がどうしても好きになれなかったのがネックに‥‥ 一方アトキンスは厳しい指導の中にもよくしてくれたとの事で感謝しているそうです。 アトキンスは後にタイガー・ジェット・シンとアドリアン・アドニスを育成した名白楽で、アトキンス死去の報を日本で聞いた際のシンの神妙な顔つきがとても印象的でした。

  • @syu1958
    @syu19584 ай бұрын

    この当時は手がつけられなかったとか。凄かったらしいですね!

  • @tochipi
    @tochipi4 ай бұрын

    日本プロレスをかろうじて見れたジジイです。力道山や豊登は記憶に無いけど、BI砲は見てた。全盛期の、馬場の、桁外れの強さを知らない人は残念です。胸板も腕も太かった。基本的にパワーファイターだけどスピードもあった。 もちろん猪木の躍動感も すごかった。なつかしい。

  • @bushbongoviva
    @bushbongoviva4 ай бұрын

    私は72年生まれですので「強い馬場」というのは長髪時代の77年ぐらいまで、父が無理矢理ドリフからチャンネル変えた時の印象ぐらいしかありません。 その後の衰えが凄まじかったので竹内宏介氏などが「巨体で動きが俊敏だった」と形容していても「大袈裟で酷い身贔屓の評論」と見ていましたが、桜井康雄氏の「激録 馬場と猪木」中での64年当時の馬場の画像を初めて目にし、その想像を絶する逞しい身体に「これは強すぎるだろ」と説得力を持ちました。 静止画から伝わってくるとてつもない迫力、スケールの魅力、これは今に至るまで日本人でも馬場が圧倒的にナンバーワンだと思っています。 ネット時代になり「動く全盛期の馬場」を見て更に確信しました。 私は大のA・猪木ファンですが、両者全盛期同士で対戦を想像しても、猪木は相当苦戦するんじゃないかと。 あの巨体とあのポテンシャル、地獄のアトキンス特訓を耐え抜いたこと。 50歳とはいえ、直前までNWA王者だったテーズに完勝というのも、7年後対戦した猪木との比較でも相当な実績。 G・草津事件でわかるようにテーズは実力を認めない相手には容赦しないだけに、馬場はそれだけのものがあったという証拠ですね。 長々と失礼しましたが、馬場の全盛期を生で見ていた方の感想など聞きたいですね。 自分としては64年の馬場は全レスラーでもトップクラスの魅力と強さがあったと。

  • @mitsuhiro7825

    @mitsuhiro7825

    4 ай бұрын

    私は59年生まれで全盛期の馬場を知る者です。ベストバウトと言われるキニスキー戦もはっきりと記憶があります。猪木ファンの私でも、全盛期で見れば馬場に軍配を上げざるを得ません。例えば馬場と対峙した全盛時のブラジルやジョナサンを猪木が力でねじ伏せる姿は想像できません(実際に勝ちはありますが、制圧した感はありません)。今でも2メートルを超えるプロ野球の投手なんて現実離れした存在だと思います。

  • @ykkzm2743

    @ykkzm2743

    4 ай бұрын

    テーズはブリッジも出来ないレスラー馬場はジョークだとこき下ろしてるようです。 テーズは単にカネで寝たんでしょう。

  • @user-xh4hg9tv4d
    @user-xh4hg9tv4d4 ай бұрын

    今回も面白かったです。当時のアメリカマットとジャイアント馬場のスケールの大きさの分かる話でした。

  • @user-il6to6dk8n
    @user-il6to6dk8n4 ай бұрын

    田岡親分の一声がなければ日本のプロレスは終わってたね。日本でも馬場の活躍のお陰で潤った連中が大勢いた時代。

  • @maruhiroya417

    @maruhiroya417

    4 ай бұрын

    逆に言えば田岡ストップが無ければBI対決も普通にあったかも、外人側の馬場さんを日本側の猪木さんが迎え討つ図式。

  • @user-gj3hj1ok3x
    @user-gj3hj1ok3x4 ай бұрын

    63歳の黄昏族です。幼少期からプロレスが好きで、毎週欠かさず観てました。又、専門誌や自叙伝など読み、心底から感動感銘を受けました。野球を断念し、プロレス転向した時は、母親は人の優しい息子の事を思い猛烈に反対し、力道山から貰った金は借金してでも返すと云った程でした。そんな馬場さんも誰もが知るスターに成り、田舎から母親を東京見物に呼び寄せ、山手線に乗車する母と子の姿は、何とも微笑ましく素敵でした。晩年のTV番組では、キニスキーとの野外試合で、精も根も尽き果て、場外へ放り投げられ、大の字で夜空の星に向い「おふくろ、何とかしてくれっ」と、思わず口にしたそうです。心優しき巨人の馬場さん、天国で沢山の親孝行をしている事でしょう。

  • @takenorikawai
    @takenorikawaiАй бұрын

    素晴らしい動画ですね。 私の場合、父が馬場ファンだった事もあり、馬場の全盛期の武勇伝をよく聞かされておりました。今、思えば当時のプロレスマスコミは人気があり雑誌も売れる猪木、新日本をある意味偏向報道した結果、ジャイアント馬場の偉業や実力を伝え切れていなかったと感じます。馬場で惜しまれるのは1964当時のアトキンスに鍛えたられた頃の素晴らしい肉体を日本帰国後は維持できなかった事です。レスラー仲間の話でよく聞かれますが、馬場はお世辞にも練習熱心では無かったようですから、1965年以降はどんどん筋肉が落ちていきましたね。巨人症の影響で、老化が早く、アスリートとしてのピークは医学的にも30歳までくらいだと思われますから、せめて肉体の維持をしてくれていればもっと評価は違っていた気がしています。

  • @mitsuhiro7825
    @mitsuhiro78254 ай бұрын

    私は幸い馬場の全盛期を知るオールドファンですが、それはそれはスケールの大きい素晴らしいレスラーでした。戦った相手も米マットの超一流ばかり。そして全く位負けしないファイトぶりでした。全盛期に対戦相手に恵まれなかった猪木とはそこが違っています。猪木ファンの自分ですが、全盛期で比較すると、やはり馬場のファイトの方がワールドクラスだったと言い切れます。2メートル超のプロ野球投手って、はっきり言って空前絶後のアスリートだと思うんです。

  • @888888combat
    @888888combat4 ай бұрын

    若い頃の馬場さんてすごい体してるね

  • @user-ne7in2ly1p
    @user-ne7in2ly1p4 ай бұрын

    自分が生まれる前の貴重な情報が知れて良かったです。アトキンスに鍛えられた事は知っていましたが、この頃の馬場さんが最盛期だと思うし、アメリカでの活躍、成功が馬場さんのプロレスの価値観を創り上げたと思う。成長した猪木さんとBI砲として活躍した続編期待しています。

  • @user-vc8jh6il9x
    @user-vc8jh6il9x4 ай бұрын

    三沢も社長になってから身体かわったしやっぱ経営者になると中々プロレスだけに集中できないんだろうな

  • @user-jw8sl4nh4o
    @user-jw8sl4nh4o4 ай бұрын

    当時のアメリカマットでのジャイアント馬場選手はメインイベンターで、お金もお客様をよべる選手ですね!

  • @user-eo8hf1dr2n
    @user-eo8hf1dr2n4 ай бұрын

    昭和の特撮ヒーロー番組に使われていそうな効果音が面白いです。

  • @norakuroneko9038
    @norakuroneko90384 ай бұрын

    アメリカ遠征時代の腕の太さよ。

  • @user-cs6iq3yr2q
    @user-cs6iq3yr2q4 ай бұрын

    全日本プロレスがゴールデンで放送されていた時代以降しか知らなかったですが、若い頃の馬場さんの体つきが全然違うことを知らされました。

  • @user-pm8mx7vd3c
    @user-pm8mx7vd3c4 ай бұрын

    非常に興味深い内容。秀逸です。皆さん、私見を語るプロレス関係の投稿をするなら、これくらいの知識を持って欲しいものです。

  • @user-lu6cp6jh9j
    @user-lu6cp6jh9j4 ай бұрын

    編集、作成ご苦労様です。とても興味深く拝見しました、パート3も楽しみにしております。

  • @user-jn9qr2sl8o
    @user-jn9qr2sl8o4 ай бұрын

    私は1969年12月生まれの新潟県長岡市出身です。小学校の図書館には、地元の錦感なのか、田中角栄物語の横にジャイアント馬場物語がありました(恐らく田舎の出版誌)。インター王座を世界の強豪から守ったこと、ボボ・ブラジルから劇的にタイトルを奪還したことが綴られて、子供ながらにとても興奮しました。  TERUさんの硬質な番組レイアウトにはいつも感服し、正座しながら拝聴しております。1970年生まれと伺いましたが、どうしても同世代には思えない。一歩上の目線が心地良いです。僭越ながら申し上げると、恐らく、兄上の影響なのでしょうね。

  • @user-sy1ow2bl4p
    @user-sy1ow2bl4p4 ай бұрын

    本題からズレますが、あらためてグレート東郷のマネージャーとしての有能さを感じました。 まあ、日本のプロレス関係者で東郷さんのことをよく言う人はいないようで、「金に汚い」「守銭奴」といった評価がつきまといます。 実際、力道山の四後、日本プロレスからは絶縁され、国際プロレスともトラブりました。 その後も、ルー・テーズを誘って第3団体設立を目論むなど、といった話しがあるのも確かです。 話しを戻しますが、もちろん、ジャイアント馬場というとびきりな素材があったから、というのは確かですが、世界チャンピオン以上のギャラを保証した、というのは凄いことです。 また、馬場さんに遅れてアメリカ修行に出た猪木さんはテネシー、テキサスといったメインから外れた地域で試合をすることになります。 この時、窓口が東郷さんだったら、全く違う展開になっていたのでは、と想像してしまいます。

  • @amagasaki527
    @amagasaki5274 ай бұрын

    私が記憶しているのは、馬場がNYでアントニオロッカに勝った試合 NYの帝王ロッカに勝ったのは、どういう経緯だったんだろう🤔

  • @user-tu2si1vy7c
    @user-tu2si1vy7c4 ай бұрын

    感謝,父親的最愛,謝謝,很懐念。

  • @user-ot2vx6ig1h
    @user-ot2vx6ig1h4 ай бұрын

    時代とはいえ、反社会的勢力がバックにいて強い影響力を持っているというのはちょっと今の感覚では考えられないです😅(野球や芸能もそうだったとは思いますが…)

  • @user-qg4gj3vc8j
    @user-qg4gj3vc8j4 ай бұрын

    当時はWWA認定のインターナショナル選手権なんていう報道もあったような記憶があります。 NWAという言葉が認知されたのは何年か後にドリーファンクジュニアが来てからだったと思います。

  • @bikeyoshiro
    @bikeyoshiro4 ай бұрын

    馬場選手は一時期巨人の長嶋より稼いでいたとのこと。六十年代が全盛期でした。

  • @user-tu2si1vy7c
    @user-tu2si1vy7c4 ай бұрын

    感謝,父親如果能看到,謝謝。

  • @user-pb9dp9ne1n
    @user-pb9dp9ne1n4 ай бұрын

    身長2メートル以上の東洋人。 元プロ野球選手なだけに運動神経抜群。 更に馬場が素晴らしいのは、技を受ける際の顔の表情。 そりゃあ、アメリカで売れるわと思います。

  • @user-yf8jl1tt9l
    @user-yf8jl1tt9l16 күн бұрын

    いつも思うが馬場と猪木ではどちらが強い?という 議論、各レスラーのプライムタイムが違うからみん な比較はできない。 馬場はこの動画のように1963~1968が全盛期、対 する猪木は1973~1980頃が全盛期だからオールス ター戦時に猪木が馬場に対戦を迫ったのも頷ける。 馬場はやはりあれだけの巨体だから自身の身体を コントロールするのは難しかったと思う。 しかし馬場の巨体ならもう少し強くてもよかったか ?とも思う。常にアンドレ級のレスラーと戦ってい たらもっと強くなってたかも…だ。

  • @ngknhr9216
    @ngknhr921623 күн бұрын

    自分が小学2、3年生くらいがインター防衛の全盛期だった。凄い選手が相手だったと改めて思います。 テレビの前で怖く震えて見ていた覚えがある。

  • @MsYasube
    @MsYasube2 ай бұрын

    馬場が日本に帰って来ては困る人・・・エース豊登しかおらん。 馬場が帰ってきたが、今更馬場の下ではやりたくない。 日プロやめた。ついでに猪木をさらっていこう。 東京プロレス立ち上げた。 ギャンブルに会社の金を使い込んだ。 東京プロレス倒産した! そのあとどうなったかは知らん。

  • @user-yk2iq6zv7g
    @user-yk2iq6zv7g4 ай бұрын

    日プロの時は俺たちは天使だのおきまさやが馬場、柴田恭兵が猪木、ひょうきん族のたけしが馬場、さんまが猪木。ジュリーが馬場でショウケンが猪木って感じでしょうか。馬場猪木の関係は、実は主役の沖より柴田恭兵の方が人気あるかもという感じだったと思います。 ただ当時幼稚園児の記憶ですがプロレスの序列として一番は馬場二番は猪木って大人は思ってましたね。 この記憶もどこまで正しいかわからないので当時のことよく知ってる人にこのあたり聞いてみたいです。

  • @user-pc1oh5cn7l
    @user-pc1oh5cn7l4 ай бұрын

    確かに馬場の全盛期を顧みると、このサイズでこの運動量は凄いと思う。しかしプロレスはそれだけでは語れない。猪木の悲壮感溢れる侍のような闘いは日本人のテイストを大いに刺激した。 戦後の力道山→馬場はアメリカ人に負けない体格が必要だったが、やがて目が肥えてくると日本のプロレスは大男たちのドンパチだけでは満足できないようになる。猪木には馬場のダイナミックさはないが、玄人受けする技術力があったし、練習に余念がなかった。試合直前まで麻雀三昧の馬場に比べて猪木の練習好きは好感が持てる。 第一ブリッジできない馬場のプロレスではドリーやロビンソンには向かなかったと思う。しかしこの両者の対立により日本のプロレスはアメリカにはない独特の進化を遂げることになった。

  • @user-rq5qc8om7r
    @user-rq5qc8om7r4 ай бұрын

    アントンが野心家ではなく、兄貴馬場さんを慕い、エース馬場さんを立てて日本プロレス界を盛り上げる(いわば坂口のような)存在になっていたら、日本プロレス界はどうなっていただろう…? BIの黄昏と共に、プロレスはもっと早くマイナーなジャンルになっていたかも。

  • @user-gy4tn2sr5m
    @user-gy4tn2sr5m4 ай бұрын

    よく馬場はアトキンスに鍛えられたからセメントも強いと言う人がいますが、動画で取り上げられた実際の馬場の回顧でも基礎体力のトレーニングばかりであったというコメントを見ても明らかなように、セメントの技術を教わることはありませんでした。タイガー・ジェット・シンさんはアトキンスから直接セメントの技術のコーチを受けた選手ですが、馬場については同様の証言をしています。

  • @maruhiroya417

    @maruhiroya417

    4 ай бұрын

    ソコは馬場さん嘘はつかないんですね。

  • @user-gy4tn2sr5m

    @user-gy4tn2sr5m

    4 ай бұрын

    @@maruhiroya417 というより、馬場の価値観ではプロレスにガチの実力や練習なんて不要なんだろ。だから自分が弱くても気にしないだけの話。

  • @maruhiroya417

    @maruhiroya417

    4 ай бұрын

    @@user-gy4tn2sr5m とにかく怪我に関しては異常に臆病でしたからね、砧のガチスパ禁止令は逆に呆れられましたし。

  • @user-fg3yj1ki2y

    @user-fg3yj1ki2y

    4 ай бұрын

    馬場はプロレスの強さがどういうものか分かっていた。 後年UWFの試合を見て、ああいうのは、自分の身を守るためにやるんだよ。 関節技も知っていたけど、それは仕掛けられた際に防御のためにやる。 セメントの強さなんて、意味がない。 客を呼べる事が全てなんだから。

  • @user-gy4tn2sr5m

    @user-gy4tn2sr5m

    4 ай бұрын

    @@user-fg3yj1ki2y 馬場は自分の身を守るためにガチの練習をするという考えすらなかったよ。それがあれば自分ももっと熱心にしていたし弟子たちにもガチの練習をさせていただろ。馬場が全く強さに意味がないと考えていたことはその通りだと思う。しかしそれが正しいとは思わない。関節技を知っていたのは力道山道場で教わっていたからだが、熱心でもなかったし実際に全然強くなかったことは多くの証言がある。

  • @ykkzm2743
    @ykkzm27434 ай бұрын

    巨人症や糖尿病もあっただろうけどトレーニング嫌いがピークを縮めたね。

  • @joemax6916
    @joemax69163 ай бұрын

    世界3大タイトル連続挑戦だけど、「ジャイアント台風」では間違いだらけ。 WWA挑戦は本当はブラッシーが相手だが、漫画ではデストロイヤーが相手。 次期も第5回ワールドリーグ戦参加前の出来事になっているが、本当は第6回参加の前。 それ以前にバディ。ロジャースのWWWF王座に挑戦のエピソードが出てくるが実際にはNWA王座に挑戦。 アメリカ武者修行中にアントニオ・ロッカに勝ち、フリッツ・フォン・エリックと引き分けと描かれているが、その時点で対戦はないはず。

  • @user-zp1ki6jy9r
    @user-zp1ki6jy9r4 ай бұрын

    全部ブックでしょ?

  • @maruhiroya417

    @maruhiroya417

    4 ай бұрын

    今更な事言ってもマウント取れてねぇし😅😅😅

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