【ゆっくり解説】親魏倭王
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主の邪馬台国考察すごく面白いです! どこっていう場所だけじゃなく各説の中身をしっかり解説してくれてて、歴史詳しくない自分にも楽しめました。 ただ公孫康アイーン説は… ちょっと信じられないかもw
基本的に、魏って、蜀漢より規模が大きい呉の動向をメインに動いてたから、 呉が魏を挟んで反対側にある遼東公孫氏と結んで、魏を牽制する動きと、 魏が呉を挟んで反対側にある倭国と結んで、呉を牽制する動きが連動してたと見ると、 倭国である邪馬台国が位置的に、呉の反対側に地理的に存在しないと行けない記述で描く必然性が陳寿にはあるんよね。そう言う渡邊先生の見方は当時の情勢を踏まえてるよね。
太祖武皇帝「ええっ、魏のシンボルって青い鳳凰じゃなかったんですか⁉️(KOEI並感)」
三国志14の公孫康のポーズは亡命を申請してきた袁煕と袁尚の処遇をどうするか部下に伝えてるイメージでは? 公孫康「ゆっくり”にして(首だけにして。斬〇して)曹操の元に送っておけ」 ↑的な・・・(^_^;)
確かに…、これはアイーンだ。
面白かった。いつのまにか主さんと 近い考えをこのトピックでは持っているので三国志+公孫氏+邪馬台国 +狗奴国の六国史も全然あると思うしそう考えると楽しい。最後には晋と大和王権しか残らなくても国々人々のあれこれは歴史を変えたはずだと考えますしおすし。
アイーンのかまえって、右手を見えるようにして手を開いてるから 両手のときは平手に拳をあてる感じでやる武人の敬礼を 片手でやるときの形なのかと思ってた
黄幢が注目されるのは、赤とか青と違ってここにしか出てこないというのもあります。 まあ幢自体は周訪が「幢麾を数十本頂きたい」とか言ってるくらいで、そんなに貴重ではないかもしれません。
三国志と邪馬台国って結構関連性あるんだなあ🙄
@nekono_mimikon
8 ай бұрын
むしろ邪馬台国の記述があるのが三国志なので。
@user-qx5ww1sj9u
8 ай бұрын
@@nekono_mimikon なるほど🤔
陳寿(及び呉書)は特に触れていませんが、孫権は夷洲・亶洲の探索によって倭と朝鮮半島と公孫淵の関係を知り、親元と連携を図ろうと思ったのかも知れませんね。 卑弥呼も先の朝貢から大幅に見劣りする貢物を魏に贈ったのも、元々は独立宣言し窮地に陥った公孫淵が卑弥呼に対しても倭王か単于に封じた返礼品で、実際に倭の難升米が帯方郡を訪れてみると公孫淵は既に司馬懿の包囲下にあったので、現場判断で魏に鞍替えしてついでに渡した可能性もあるでしょう。 この判断は魏から大きな評価を得ていますので、卑弥呼も知らない内に魏から厚遇されて戸惑ったかも知れません。
なるほど公孫氏を中心に考えてみれば、日本列島も十分に外交圏に入りますね。 桜井茶臼山古墳から、国力が邪馬台国の記述とは比較にならないほどの大量の銅鏡などが出てきたというニュースが有りましたし、軍事技術はともかく小さな勢力ではなかったのかも。 このあとの時代の記録が残っていないのは、色々と政治的な事情があるのかもと思ったり。
他国が近い場所って影響力工作なんかで良く荒れる 韓国や沖縄何かはそのいい例で 当時の九州ってそういう場所だったんだと思う。 だからこそ、安全で肥沃な近畿辺りを盟主にしたんだと思っている。
@user-qz3go1ft3p
8 ай бұрын
賛同。サイズや実力などは不確かな 情報しか無い以上それぞれを一つの プレイヤーとして公孫氏、邪馬台国、 狗奴国などを考えるのは間違いでは無いと思いますね。
台与はまだ13だーからー♪ 九州全体としてはそれなりの人口規模≒戦力だったから魏としても呉としても予備兵力もしくは補給拠点として抑えておきたかったのかな。それでも小国分立されてると、使いづらいと思う。 魏志倭人伝は晋の時代に書かれているから、いつまでも東夷呼ばわりするなと和人として言いたい。
これは素晴らしい。 後漢書「卷三十二·志第二十二·郡國四」に、会稽郡のことが書いてあって、 「會稽郡秦置。本治吳,立郡吳,乃移山陰。雒陽東三千八百里。十四城,戶十二萬三千九十,口四十八萬一千一百九十六」 「吳郡順帝分會稽置。雒陽東三千二百里。十三城,戶十六萬四千一百六十四,口七十萬七百八十二」 とあるんだが、、、よく見ると「洛陽」から「東3800里」となってるんだよね。呉郡も「洛陽」から「東3200里」なんだよね。 これって、後漢書だと「洛陽」→東「下邳」→東「呉」→東「会稽」→東「倭国」ってことになるんだよ。 つまり、范曄は、洛陽の真東に「倭国」があったと書いてるってこと。しかし、これは「 事実 」。 だが、倭国を事実とすると、会稽の場所がウソになるんだけれど、、、シナ人ならば「洛陽の東に会稽や呉があるはずが無い」とすぐに気が付くから、「これは倭国の位置を操作」してるんだなぁってわかるってこと。 なので、後漢書を書いた范曄は、事実と記述を操作してるってこと。わかりやすいバレバレなウソ記述からの「真実」ってのは流石范曄ってことなのかもしれません。 がしかし、、、そういった「言葉遊び」を理解してない人からすると、范曄はウソを書いてるって思われるんでしょうね。 漢書の「東鯷人」の記述は、、ぶっちゃけ「狗奴国」かと存じます。 漢書を書いた班固は「倭人=燕地」だと考えてるから、「呉地」の倭人のことを「東鯷人」としたのではないでしょうかね。 陳寿もそれを踏まえて、夷州亶州は「倭国」と考えてなかったように思えます。 もし、夷州亶州が倭国ならば、陳寿ならば喜んで「倭国が呉を撃退した」と書くでしょう。 まぁ、いずれにせよ、記述による「思考実験」てのは面白いってことですかね。 正直、ウプ主さまの動画は、非常に面白いと感じます。次回も楽しみです。
魏の親は倭の王である。あれ? でも魏にも倭にも「委」という文字は入ってるし・・・?
@nekono_mimikon
8 ай бұрын
漢字で考えると面白いですよね。 魏は鬼(幽霊)、倭は人間ですので。 ただの偶然だとは思うのですが、元蜀臣で魏を滅ぼした晋に仕える陳寿からすればほくそ笑む内容なのかも。
魏は赤壁でもわかるように船絡みの技術には疎かったから陸続きでの支配や交流が主だったと思う そうでなければ海上から呉の後ろを付く戦略を曹操が取らないとは思わない たとえそれが民間商人を経由したとしても曹操ならやりそう なので、民間での海上交流は呉の方(南方商人)が進んでいたのではないか? 呉は台湾から琉球経由で鹿児島のルートと長江河口辺りからの南朝鮮への渡航をしていたのではないか? ちょっと陸から見えないトコまで離れると直ぐに朝鮮半島は目視できると思うから、軍船何隻も出すなら半島経由の方が動きやすいと思う 入れ墨の文化って中華の南方にもあったと記憶しているし、超古代の日本列島が大陸と繋がっていた時代から行き来はあったのではなかろうか? 徐々に海岸線が侵食してきて徒歩から舟に変わったのなら、南に島がある事も知っていたし、航海技術の発展としても徐々に進歩した方が不思議ではない 張政が長く倭国に滞在したのは台風により船が破損したか航海技術を学ぶための現地駐在員だったのではなかろうか? 黄旗については邪馬台国を飲み込んだ大和王権が(多分ヤマトタケルとか景行天皇?)戦利品として持ち去って、魏が滅び、次のが来たから埋葬したのかもしれないし、景行天皇とかヤマトタケル本人のお墓に功績として埋葬したのかもしれない 妄想が捗りますなぁ
夷州が台湾ですか・・・
@866083
8 ай бұрын
地図の黒い部分かと思いましたw
Nippon began to import Chinese character after AD 280's from Korea. Kyushu was using Chinese character during AD 240's. It is because that Kyushu belonged to Korea.
中国の動きとリンクして考えるのは、気候変動で不作が続いたせいで戦乱になったという、せいぜい相関があるかも程度のことでしかなく、因果があるとは考えないほうが良いものです。また親魏~が2か国しかないって、魏の国の期間が短かっただけのことですからね。 あと魏志倭人伝の記述は、魏略の引用で残っている部分と非常によく似た文章であるため、これを陳寿が書いた物と考えないほうが良いでしょう。むしろ陳寿は、元になった資料をほぼ手を加えずに書き残したように思えます。もちろん歴韓国7000里などの記述も陳寿が書いた物ではなく元資料そのままであるので、『西の大月氏国に対抗して陳寿が大げさに書いた~』などという説は全部、的外れのウソっぱちというわけですね。 私もいくつか動画を挙げているので、興味のある方に見て頂けるとありがたいところです♪