【ゆっくり解説】伊都国が分かれば邪馬台国の場所が分かる

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正史三国志4巻 ちくま文庫
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Пікірлер: 137

  • @tucker_skebevich
    @tucker_skebevich5 ай бұрын

    2:55 そうそう。倭と接してるですから、その北岸は、倭の北岸ですよ。釜山という説もありますが、巨済島あたりかと。 7:09 ここで分かることは、女王国の北に一大卒がいて国々を監視していること、一大卒の役所が伊都国にあること。 30国=邪馬台国=7万戸とみた場合、女王国は邪馬台国の「京(首都)」ではないかと。 8:21 ここ(伊都国)にとどまるというのは、女王国には行かない(行けない)ということ。 つまり、普通は、首都に行って君主に挨拶するところ、 当時の邪馬台国では、君主への挨拶もないし、首都にも行かない、特別対応の国ということかと。 10:45 倭種が中国四国を指すってのは、私もそう思います。 「水行十日」は、12000里は水行だと十日の距離だよと換算距離を示していると思います。 巨済島から対馬まで最短で56km、対馬から壱岐まで最短で47km。 間をとって52kmが1000里とみると、12000里は624km。 そうすると、水行で1日あたり62km。陸行で1日あたり21km。妥当じゃないかな。

  • @user-dc6qf7cp7c
    @user-dc6qf7cp7c9 ай бұрын

    期待したけど過去に多くの先人が考察した内容そのままでした。

  • @katumoku10

    @katumoku10

    9 ай бұрын

    おっしゃるとおり、今までの考え方では正解にはたどり着けないのです。あらたな科学的な発想が必要ですね(^_-)-☆

  • @serfdom221
    @serfdom22110 ай бұрын

    隋書で倭国の国境は南北3ヵ月と言っているし、水路10日or陸路1ヶ月とすると少し近いけど有明海沿岸の筑紫平野は妥当だと思います。

  • @Legendary_mapo_tofu
    @Legendary_mapo_tofu10 ай бұрын

    町興しの具になってたり、学者の飯の種だから、確定的な史料が見つかるまでは、何とも定まらないでしょうね

  • @user-fh7iy6rp5d
    @user-fh7iy6rp5d9 ай бұрын

    九州説で、当時の川や水路などを研究してるのですが、イトコクは面白い地形になってますwwwおそらく邪馬台国も、この動画の通りだと思われます

  • @user-xr1jp4cm8d
    @user-xr1jp4cm8d10 ай бұрын

    糸島市付近の事を伊都と言われているね。 近畿地方にも伊都とよばれる場所があったのかな?

  • @hisashi626
    @hisashi62610 ай бұрын

    中国の学者が魏志倭人伝について語っている動画があるが、魏志倭人伝は後に編纂された可能性が高いそうで、言い換えたら書いた人は1人ではないと言う事です。 なので、最初は距離を里で表してるのに、途中から日数になるという。らしいです。

  • @user-bs4ul7nu7s
    @user-bs4ul7nu7s9 ай бұрын

    昔から中国は数字に関しては盛ることを考えると、九州説が妥当なかんじがしますね。より遠くからわざわざ中国に挨拶に来たことにしたほうが、中国の面子が立ちますし

  • @宴は終わったが
    @宴は終わったが10 ай бұрын

    動画ありがとうございます。 九州説を前提に、さらなる根拠としての邪馬台国の解説ということで勉強になりました。ありがとうございます。

  • @gc8zacc3
    @gc8zacc39 ай бұрын

    基本動画に同意なんですけど、宇佐や宮崎など、 後に大和朝廷に直結する勢力との関係性などの考察もお願いします。特に宇佐には卑弥呼の墓とおぼしき遺構もありますし。

  • @sunsun2181

    @sunsun2181

    8 ай бұрын

    それ、新しいです。あと、なぜ宇佐あたりが重要かは、水銀脈があるからです。神武天皇がいったのは、宇佐八幡宮ができる前ですが、朱の鉱脈はあって、堀に行った可能性が大きいです。

  • @user-kd8eo9io8g
    @user-kd8eo9io8g9 ай бұрын

    リスナーが琵琶湖を渡った位置と書いたみたいだが、当時の琵琶湖は小さい。

  • @user-maya-yuko
    @user-maya-yuko10 ай бұрын

    伊都国住民です。 糸島半島にある『平原遺跡』は 世界最大級の《内行花文鏡》が出土したことで有名ですが 卑弥呼の時代より昔 女王が治めており  この地域ではそれなりに大きな国だった。 と地元の歴史民俗資料館に有ります。

  • @nekono_mimikon

    @nekono_mimikon

    10 ай бұрын

    漢委奴国王を「漢のイト国の王」と解釈した説で見れば、魏志倭人伝で伊都国に王がいると記述される部分も説明が付きそうですね。 前漢からのお墨付きである伊都国王が外交・交易面で倭人たちを主導していたのは自然でしょう。 その一大卒も、蜀の丞相府のように祭祀を担う皇帝から半独立した、政治・軍事を担った重要機関だったと考えられる筈です。

  • @user-maya-yuko

    @user-maya-yuko

    10 ай бұрын

    @@nekono_mimikon 歴史民俗資料館の解説文でも (大きい)→(武力)と解釈してました。 卑弥呼の時代より前に 巨大な武力を持った《小国》が有ったのかも しれませんね✨🦊

  • @kenn8438

    @kenn8438

    10 ай бұрын

    三角縁、じゃなくて内行花文鏡だと思います。 一度確認してみては?

  • @user-maya-yuko

    @user-maya-yuko

    10 ай бұрын

    @@kenn8438 おっしゃる通りでした❗ 修正いたします‼️(ヽ´ω`)💦

  • @user-er2pr7wj2y

    @user-er2pr7wj2y

    8 ай бұрын

    失礼しますよ。 魏志倭人伝はふつーに読めばふつーに邪馬台国が阿波(徳島)にあったと解釈できます。 まず陳寿がウソを書いたりややこしく書いたりする理由がまったくない。 また魏志倭人伝の時代の古代中国では、渾天儀、周髀算経の一寸千里法といった測量技術がすごく発達していて、ピタゴラスの定理も編み出されており、地球上の一点から一点の直線距離をほぼ誤差なく計測できていました。 魏志倭人伝の計測において、帯方郡ー釜山(7000里)、釜山ー対馬(1000里)、対馬ー壱岐(1000里)などは、現在のGoogleアースを用いた計測値とほぼ誤差が無く正確だった事が証明されています。 1里=約75m 阿波(徳島)を邪馬台国とした場合の、帯方郡ー邪馬台国(12000里)は、現在の計測でも正確だったと証明されています。 また後漢書(東夷列伝・倭条)において、阿波(徳島)を邪馬台国とした場合、狗邪韓国ー邪馬台国(7000里)、楽浪郡ー邪馬台国(12000里)も、現在の計測でも正確だったと証明されています。 つまり魏志倭人伝の頃の測量技術は現在と遜色なく正確だったとすでに証明されているわけです。 畿内説・九州説派は、この計測の正確さを無視して、距離方角の記述を何ヵ所も恣意的に改ざんしているので話になりません。 ★これらより邪馬台国は阿波(徳島)にあったと考えるのが一番、整合性が取れます。 畿内説九州説では、魏志倭人伝の距離方角の記述に何ヵ所も恣意的な訂正を加えてむりやりに場所を導き出しています。 しかし阿波説(徳島)では【投馬国】の記述の一カ所だけを変えるだけですべてに整合性が取れます。 距離方角をイジる必要が一切ない。 投馬国の記述にせよ魏志倭人伝の元ネタとなった「大平御覧」を参考にして【又南至投馬国】を【又南至(於)投馬国】に変えるだけ。 阿波説は(於)を加えるだけですべてに整合性が取れるのです。 ★あと日本神話に出てくる有名神単体の延喜式神社(大元中の大元の元宮)のほとんどが阿波に集中しているのも見逃せません。 つまり神話の神々が活躍した舞台は阿波という事になります。 ★さらに天照大神が降臨され憑依される大嘗祭の麁服(アラタエ)の儀式。 麁服(アラタエ)とは阿波の剣山の麓の忌部の畑で取れた麻で織った織物を指します。 この織物でしか天照大神は憑依されない。 つまり高天原の神々から繋がる天照大神は阿波の剣山におられそこからしか今上天皇のもとに行かれないということです。 ★延喜式神社の状況証拠と魏志倭人伝の記述から推定する邪馬台国の場所は、阿波に一番、整合性があります。

  • @shou-sho
    @shou-sho10 ай бұрын

    『魏略』では伊都国の戸数を「戸万余」としています。 他国とのバランスからいってこちらが正しいでしょう。

  • @kooota7455
    @kooota745510 ай бұрын

    個人的に松浦国へは上陸してない説を支持してます。 理由は松浦国の官名が書いてない事と、わざわざ藪の中を歩いて伊都国へ行く必要性が無い事。 そう考えれば一大国から東南へ船で1000里で伊都国、松浦国から伊都国へは陸路500里が成り立つのです。

  • @gin_mero
    @gin_mero10 ай бұрын

    一大卒の件については、原文を読む限り 「一大卒の役所があったために 伊都国が 恐れられていた」 ではなく 「諸国で恐れられていた一大卒 の役所が 伊都国にあった」 ではないですかね? まあ似た意味ではありますが、伊都国に権威があったというよりは出先機関の所在地として紹介されているような気もします

  • @zennin375
    @zennin3754 ай бұрын

    伊都国は大宰府あたりの可能性があると考えている。 末盧国を松浦や唐津とするには一大国(壱岐)からの距離が近すぎ、伊都国を糸島とするには方角が合わない上に水行ではなく陸行とする意味が見いだせない。 末盧国が壱岐から千余里の場所であれば少なくとも博多湾近辺ということにはなるのでそこから東南に五百里であれば伊都国は大宰府や筑紫野とするのが妥当だと思う。 この場所は地理的にも山に挟まれた隘路となっており防衛上重要な関所となる地域で女王国がここを無視するとも考えにくい。 伊都国に置かれた一大率は大宰府に置かれた大和朝廷の太宰や総領と同等の役職のようにも思える。

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s7 ай бұрын

    伊都国を平原に比定したのは、明治の頃で、その第一人者は、東大教授の白鳥庫吉博士。 律令制に於いて怡土郡の名を得ていたことが理由。遺跡は其の後の発見だわなあ。

  • @user-fi2gc6zr8z
    @user-fi2gc6zr8z9 ай бұрын

    日本って埋め立てとかいっぱいしてるみたいただから、考えても確定させるのは難しそう…

  • @user-bf4up4vc5r
    @user-bf4up4vc5r10 ай бұрын

    宗像辺りが万津浦マツラなら、北九州が伊都国で、宇佐神宮や京都郡辺りが女王が居た場所かな?東に行くと倭種の国がいる。瀬戸内海の何処か?それとも機内?

  • @sarusaru19467
    @sarusaru1946710 ай бұрын

    伊都国って糸島って常識化と思ってたわ

  • @sunsun2181
    @sunsun21818 ай бұрын

    伊都国の比定地は、糸島市です。遺跡があります。ただし、邪馬台国の属国になったのは後の話であって、神武天皇の母が平原遺跡に眠っており、天孫降臨であり、神武天皇出発の地です。 実は、日向は宮崎県ではなく、九州北部で、糸島市の日向峠です。糸島市なら、韓国に向かい合っておりますので、古事記の記述にあいます。 原田大六先生という、昭和の考古学者が解明しております。PRが足りないぞ。糸島市。もっとしっかりPRしろ。物証もあるんだから。 伊都国が邪馬台国の属国になったのは、トップの神武天皇とその有力な兄弟・部下・縁者がごっそり畿内に移動したからです。要するに、留守居役のひとや老人、大旅行についていけない、体力のない住民ばかり残って、国力がそがれたからですなあ。

  • @kei.suzuki
    @kei.suzuki10 ай бұрын

    伊都国にいた一大率は刺史に例えられてるんだから九州は地方でしかないでしょ

  • @majesty164

    @majesty164

    9 ай бұрын

    某動画で、海外の学者なる人物が「伊都国に一大率を置いたならば都である邪馬台国はその近くのはず」 と言うようなことを言ってましたが、真逆だと思うんですよね… 遠隔地だからこそ刺史的位置付けの一大率を置いたと見るべき。

  • @kei.suzuki

    @kei.suzuki

    9 ай бұрын

    ずっと後の大宰帥の原型のように思います

  • @wajin5695
    @wajin56956 ай бұрын

    里数は天体観測(一寸千里法)による測量と思われ、必然的に1里は80m位になります。測量可能な範囲は、九州本島付近まで。10日水行などは測量が不可能な地域、つまり九州以外とも考えれる。  女王国の12000里は、九州の南端を示すに過ぎす、西に会稽があるず。会稽はもう一つ、種子島(侏儒国)の西も、候補に上がる。240105

  • @user-dn8mz5po4n
    @user-dn8mz5po4n4 ай бұрын

    松浦をマツウラと読まれる方が大半ですが、地元民はマツラと発音していますので😊

  • @jirushizou5962
    @jirushizou596210 ай бұрын

    魏略だと伊都国では万余戸と書かれていたようで外国の使者がとどまるのにふさわしい人口になってます。 ここは議論になってるところでおそらく魏志倭人伝の千余戸のほうが正しそうなのですが、おそらく西晋の時代の最新情報としてアップデートしたのではないかと思います。 畿内と比較して北九州は戦が多かったようなので急激に人口が減ってしまったのかも?

  • @user-gc4lu1ur2p
    @user-gc4lu1ur2p10 ай бұрын

    この時代の海面位によっては今の地形と違う可能性が高い(神武東征の大阪付近の記述など) また、この時代の外交使節はそれなりの期間滞在するだろうし、なにより秋口は台風により渡航が危険だと思われる なので、渡航可能な喫水の深い船が台風などから船を守れる長期で停泊可能な港であった可能性は無かろうか? 船の異常に気付くため目が届く範囲で滞在していたなら人口の少ない場所に留まるのも納得できるし、海上交通の要所であれば役所が置かれるのも納得できる また、この時代は各国が覇を競っていた時代と考えれば陸路の整備はそこまでされていなかったのではないか 実際、中華においても始皇帝の業績として「轍の統一」による交流の活性化が挙げられるので、統一されていなかった当時は陸上交通網はそこまで発達していなかったのでは無かろうか 吉野ケ里の位置も海面が現在よりも高く、海岸がもう少し内陸側であればいろいろと違う気がする

  • @user-ow1ww6cf7p
    @user-ow1ww6cf7p9 ай бұрын

    投馬国と邪馬台国の日数表記って帯方郡からの日数だと思うんですよね。 つまり邪馬台国と投馬国はそれぞれ別のルートで着く場所だと思います。 そして魏の使者は投馬国には行っていないし投馬国が実際に女王国の傘下なのかは疑わしいです。 この動画では邪馬台国を筑紫平野と考えているようですが自分は熊本だと考えています。 筑紫平野では近すぎてわざわざ一大卒を置く意味がないからです。

  • @shou-sho
    @shou-sho10 ай бұрын

    文献から邪馬台国を詳しく知りたいならちくまの『正史三国志』より 〇石原道博『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・ 宋書倭国伝・隋書倭国伝』(岩波文庫) 〇佐伯有清『魏志倭人伝を読む(上・下)』(吉川弘文館) どちらかの方がいいと思います。(あとは講談社現代新書の山尾幸久とか中公新書の渡邉義浩とか) ちくまのはあくまで三国志の本であって邪馬台国を専門に扱った本じゃないことと、意訳が多かったり補った語彙を()をつけずにそのまま載せてたりするので…  例えば使者が「いつもここにとどまる」のとこなんかひらがなにしちゃってるんだけど、「止まる」か「留まる」か「駐まる」で全然ニュアンスが変わるのにこだわってない。(正しくは駐まる) あくまで一般向けの本なのです。

  • @user-rs6dn7zl3l
    @user-rs6dn7zl3l4 ай бұрын

    伊都国から北に一大卒を置いたは糸島では考えられず吉野ヶ里がふさわしいことになるよって東に長里100里43.4キロは日田ふみ国になる

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s7 ай бұрын

    動画「遂に解明」邪馬台国はココにあった(15:20~)の「中華古文の道行き記述ルール」で倭人伝を読めば、真実の行程がわかる。 則ち、唐津末盧国からは、主線行程東南500里37.5km で佐賀大和町川上の伊都国に到る。 其の東南傍線行程100里の佐賀城付近に奴国2万戸あり、再び主線行程の伊都国にもどって東行100里の吉野ヶ里不彌国に至る。 不彌国からは四至(東西南北)の周辺国説明となり、南至の宮崎投馬国と、同じく南至の熊本邪馬台国女王の都が併記されている。

  • @user-hj6ue6pr3d
    @user-hj6ue6pr3d10 ай бұрын

    松浦は元は宗像近辺の地名です。

  • @user-nw1in7nz8r

    @user-nw1in7nz8r

    10 ай бұрын

    たしか宗像神社の古文書か何かに万津浦の地名記述があるんでしたっけ

  • @user-bf4up4vc5r

    @user-bf4up4vc5r

    10 ай бұрын

    ​@@user-nw1in7nz8r宗像近くの地名に万津浦とは。マツラとか音が似ていますね。ということは、北九州が伊都国ということになるのかな?そうすると、宇佐神宮周辺とか京都郡辺りが女王が居た辺りで、東に行くと倭人の倭種の住む国があると。😊😊😊

  • @user-hj6ue6pr3d

    @user-hj6ue6pr3d

    10 ай бұрын

    @@user-bf4up4vc5r 英彦山(日子山・天照大神の子が君臨する山)の巫女が卑弥呼(日巫女)です。京都(みやこ)郡・田川郡が中心地です。仲哀天皇が都を置いたので京都郡です。

  • @user-nw1in7nz8r

    @user-nw1in7nz8r

    9 ай бұрын

    宗像は海女の始まりの地と言われるように末盧国の習俗とよく合致するんですよね 邪馬台国は阿蘇から大分の一帯に有り、卑弥呼の住む場所はそこから水行十日陸行一月の場所(徳島辺り)ではないかと考えています。その東の海の向こう千里にまた別の倭種の国(近畿や紀伊半島)があると妄想しています

  • @user-bf4up4vc5r

    @user-bf4up4vc5r

    9 ай бұрын

    @@user-nw1in7nz8r 四国の徳島説なんですね。自分は北部九州説だけど、いろんな説があっても良いと思います。自分は、畿内は無い派です。阿波の国説は最初は無いと思っていたが、他の動画を見ていたら、この説を押す人の気持ちもわかるような気がします。

  • @ulojjyu
    @ulojjyu9 ай бұрын

    地名について、当時の中国語の発音で考えないと駄目じゃないでしょうか? 文字のなかった倭国の人間から地名を聞き取って、その当時の発音の近い漢字を当てたと考えるのであれば

  • @user-lm9sy2qq6w

    @user-lm9sy2qq6w

    9 ай бұрын

    その通りです。言語学の助けなしに邪馬台国を解き明かすのは不可能だと思います。当時は後漢中国語の時代かと思いますので、その頃の発音で検討する必要がある。

  • @majesty164

    @majesty164

    9 ай бұрын

    @@user-lm9sy2qq6w 残念ながら、現代の中国語、日本語で解釈してしまっているケースが殆どです。 当時の漢語、倭語の音韻対応をベースに解読する必要がありますね。

  • @user-wz3vk7ip5o
    @user-wz3vk7ip5o10 ай бұрын

    壱岐の人口の記述が 大きいという指摘も ありますがそれは大丈夫でしょうか? 倭種が韓国に存在し くや韓国としていて 近いから船で日本から 渡って住み着いたんでしょうと おっしゃってますが 大陸から分離する際 半島に残されてしまった倭人という推論されるかたもみえるので一概に 日本から船で渡って半島に住み着いた、と断言してもよいのでしょうか? 以上2点ほど話させていただきました。

  • @user-ml8ri3np5k
    @user-ml8ri3np5k9 ай бұрын

    魏の使者は邪馬台国まで行っていない。倭人から7万戸の伝聞を記した、 倭人は距離とか一と月の概念を持たなかった。 松浦湾から陸沿いの船で有明海水行10日、 草深き背振山越え獣道で一月(倭人の感触)要する 明国の古代地図でも、日本列島が南北に配置されている

  • @user-ub4pg2wm9g
    @user-ub4pg2wm9g10 ай бұрын

    伊都国が吉野ヶ里とすると卑弥呼が亡くなってから、又は亡くなる頃には衰退していた事になるんですかね。半島内で狗奴国との争いもありますし。(大卒は)伊都国に於いて治めていたとすると余り変化ない様にも思います。糸島市を末盧国とすると吉野ヶ里は東南方向へ500里30kmに位置するので距離、方向共に記述通りでは?(壱岐島18.3km四方、方300里で一里61m)(糸島市笹山公園より吉野ヶ里北郭まで30.5km))余が付かないデータは稀少ですね。  まぁこの後最東南の奴国から東に不彌国、(不彌国)南より以降、邪馬台国(宇佐)を目指して筑後川を進むとしてここからは上手く計測出来ないから日数で言うしかないのでしょう。15パーセントに縮小する説難しいです。

  • @AKIHIKO-uz7wf
    @AKIHIKO-uz7wf2 ай бұрын

    イト倭国の王族は、奈良盆地南部に東遷、移動した。これが、,伊都国東遷説。❤

  • @user-ou1cv6fl7d
    @user-ou1cv6fl7d10 ай бұрын

    伊都国が太宰府の可能性もあるのでは?

  • @user-dk8bd4yh9n

    @user-dk8bd4yh9n

    10 ай бұрын

    どのように考察されたかは判りませんが、私も同じように思います。当時の福岡県を中心に考えると、太宰府が置かれた意味も、理解できます。

  • @user-ie7wd9rj9v

    @user-ie7wd9rj9v

    5 ай бұрын

    東南500里陸行なので太宰府だと思ってる。 糸島に水行しないのは不自然。

  • @masamasaict7312
    @masamasaict73128 ай бұрын

    邪馬台国は日高見国のことで、常陸の国。ヤマト政権に北に追いやられた。文字も無くなった。

  • @user-in2jy7ov6n
    @user-in2jy7ov6n10 ай бұрын

    一大率の役所が伊都国にあるとか凄い誤訳、「治」に「役所を置く」などの意味は無い。 「治」は治めるの意味だから「伊都国に於いて治める」の意味 「州治」や「郡治」みたいに役所の名称に使われるから「役所を置く」の意味だとか無茶苦茶な訳 本来の意味は (卑弥呼は)女王国以北に特別に一大率を置き、国々を監視させていた、国々これを畏れ憚っていた。 (卑弥呼は)常に伊都国に於いて(一大率を使い国々を)治めていた。 (一大率は)魏での刺史のようであった。

  • @user-cs6gj6kh5p
    @user-cs6gj6kh5p10 ай бұрын

    九州と畿内の地名の一致からしてホシは北部九州でしょうね、台与が共立された時にでも権力中枢が畿内に移ったんじゃないですか? それが神武東征かはわかりませんが。

  • @user-qx5ww1sj9u
    @user-qx5ww1sj9u10 ай бұрын

    本当に実在したかは知らんけどこう言う話見てたらやっぱ邪馬台国って九州にあって大和王権とは完全に別勢力と考えるのが自然なのかなあ🙄 しかし奈良時代の遣唐使や鑑真和上もあれだけ渡航に四苦八苦したのにさらに3〜400年も前の時代の人がアッサリと辿り着いてる感が💦

  • @user-gb9iw6ih5y

    @user-gb9iw6ih5y

    2 ай бұрын

    つまりはヤマト王権は海洋民族ではなく外洋を渡る技術がない。 交易の盛んだった邪馬台国とは縁もゆかりも無いというこてかな。

  • @user-in2jy7ov6n
    @user-in2jy7ov6n10 ай бұрын

    北部九州全域が邪馬台国で女王卑弥呼は伊都国に居た。

  • @biwa108
    @biwa10810 ай бұрын

    中国人に道を尋ねるともの凄く適当なのは世界の常識😅 適当に答えても、もうその人と合うことは無いからと人口多過ぎか 国土が広すぎて自分の位置ですら分からなくなるせいか

  • @user-un3fk2dc6c
    @user-un3fk2dc6c10 ай бұрын

    近畿の和歌山県に伊都という昔からある古い地名があるのですが高野山付近一帯すべてが伊都ですね 平安時代には貴族が頻繁に高野山参りをしたようですが古代から高野山(伊都)周辺には平安時代前から何か縁があったのかもですね

  • @MRiguana99
    @MRiguana9910 ай бұрын

    自分は天孫降臨の四国説を支持している なので、邪馬台国はちゃんと大和国(奈良県)にあって、九州南部、四国、機内を勢力に治めていたと考えると辻褄が合う気がする また、出雲周辺には強力な豪族が実際にいたから、ヤマトとは別の国という扱いであってもおかしくない気がする

  • @user-qs5wu6pv8t

    @user-qs5wu6pv8t

    6 ай бұрын

    高天原、天孫降臨、そして日本神話の舞台は阿波徳島を中心とした四国です。そうしたら邪馬壹国を中心とした女王国連合が四国、吉備、北部九州の領域だと思いますよ。

  • @user-lm9sy2qq6w
    @user-lm9sy2qq6w10 ай бұрын

    狗奴国の人名「狗古智卑狗」は当時の東海地方で使われた上代東国語なので、それに隣り合う邪馬台国は近畿で決まりだと思います。

  • @seiji5431

    @seiji5431

    9 ай бұрын

    くこちひこ=旧高知です。

  • @majesty164

    @majesty164

    9 ай бұрын

    @@seiji5431 現代の日本語でそのまま解釈すること自体が間違いです。 更に高知の名称自体、古代まで遡りません。 せめて平安時代くらいまでの書物は調査される事を薦めます。

  • @seiji5431

    @seiji5431

    9 ай бұрын

    @@majesty164 はい。では証拠の動画をどうぞ。 kzread.info/dash/bejne/h62Vz8mqj8uvqKg.htmlsi=0zroM4qDG1t3AU8t ピタゴラスの原理で狗奴国は高知県になります。また、邪馬薹国(ヤマトコク)は阿波で倭(ヤマト)大国魂神社(延喜式式内社、日本一社)、倭大国敷神社(延喜式式内社)があり、阿波は間違いなくヤマトで奈良はおおやまと(大倭→大和)で別の倭種です。

  • @majesty164

    @majesty164

    9 ай бұрын

    @@seiji5431 どうも四国説などの支持者の方に見受けられますが、 考古学的に決着してもいないのに、安易に"証拠"と持ち上げる姿勢には疑問を抱きます。 "有力説"と主張される分には何の問題もありませんが…。 阿波地方とヤマト地方の弥生末期頃の考古資料の類似点、 墓制の共通点などから考えますと、 ヤマト地方が狗奴国ですら無く別の倭種と言うのは苦しいでしょうね。 せめて女王国の範囲に含めた方が無理が無いと思うのですが 倭大國魂神社、倭大國敷神社の存在にしても、 後代の分祀(勧請)でない事を明確に記す資料の有無も分からないのでなんとも。

  • @seiji5431

    @seiji5431

    9 ай бұрын

    @@majesty164 もう一つこの動画も狗奴国=高知で倭=阿波の動画 kzread.info/dash/bejne/h2aTmMmsicTJlrA.htmlsi=hnwrTbT4dqZw2CX2 邪馬台国=阿波説ではだいたいが狗奴国=高知の方が多いです。

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s9 ай бұрын

    仲哀記のイトは 伊都国 でなくて伊覩縣。つまり都(みやこ)でなくて、覩(じっとよく見る)なんだけどね。

  • @nekono_mimikon
    @nekono_mimikon10 ай бұрын

    吉野ケ里町・神埼市・佐賀市にまたがる佐賀平野にあったと予想されるクニでも一千戸クラスの小国なので、佐賀平野を含める筑紫平野であっても数千戸程度が限度でしょうね。 当時は干拓や治水事業が行われておらず、毎年のように流域を変える筑後川沿いは居住区としても農地としても適した土地とは言えません。 なので吉野ヶ里周辺の遺跡群は水害から守られる高台にあるのでしょう(例外的に河口側の微高地・諸富地区で集落跡が発掘されていますが、ここは交易を担った拠点と見られます)。

  • @nnkk8888

    @nnkk8888

    9 ай бұрын

    筑紫平野の弥生時代の遺跡と分布を調べてみることをおすすめします。

  • @dry301
    @dry30110 ай бұрын

    畿内説はゴールまでレールが敷かれて金印が発掘されるのを待つのみでしょう!

  • @user-wb3uk1yt3c
    @user-wb3uk1yt3c9 ай бұрын

    伊都国が邪馬台国の出先機関でいざという時には、邪馬台国の救援に向かう。 したがって南の近い距離にあったと考えます。 筑紫平野一帯の中小の国々が邪馬台国連合です。 卑弥呼は、吉野ケ里の宮殿にいたと思われます。 熊本に熊襲がいて邪馬台国に戦いを仕掛けています。 弓に鉄の鏃がついているので強力です。 吉野ケ里の多くの兵も弓にやられています。 しだいに追い詰められて北に逃げていったと思います。

  • @nasubichannel
    @nasubichannel10 ай бұрын

    いくら海上距離に誤差があるとは言え、松浦など目視さえ可能な半分の500里、いい加減さにも程がありすぎですね。 よって、論が壱岐から千里の上陸時点で解説が崩壊していますね。

  • @seiji5431
    @seiji543110 ай бұрын

    伊都国はみやこ郡です。日本書紀と豊前風土記に伊都をいとじゃなくていつと読んでの記載があります。また、壱岐から千里まつら国は宗像市の万津浦に比定になりそこから東南500里が伊都国みやこ郡に到着します。倭(い)の国のみやこ(都)があった場所です。

  • @katumoku10
    @katumoku109 ай бұрын

    とてもいい動画をありがとうございます。多くの皆さんからコメントが寄せられていますが、なぜこうも意見が百出し、結局邪馬台国は一体どこなのかも分からない現状を分析すると、考古学や民俗学などの成果をつまみ食いして自分の好きな場所に邪馬台国を持って行けると考える人が多いのだと思います。タイトルの通りなのです。だから、この伊都国に着目するのは正しい発想です。なぜならば、伊都国には考古学の成果などからたくさんの情報が詰まっている当時の倭国にとって一番重要な国のひとつだからです。逆に伊都国を無視するような意見は考古学の成果を無視することになり、採用しにくいのです。 それで邪馬台国の女王とされる卑弥呼が登場する経緯は現実離れして、とても怪しいのです。なぜならば、卑弥呼の死後に登場する新しい女王は13歳ですから、千人ほど死ぬような争いを治められるはずありません。抗争の勝者が卑弥呼の後継(宗女)として立てたことが分かります。だから、13歳以上の卑弥呼であっても倭国大乱を自ら終結させるだけの政治力があるとはとても考えられません。そこには何らかの政治力学があったはずです。 そこで、二世紀末の倭国大乱の実態が気になります。どういう勢力が何故、争ったのか?従来、弥生時代は大陸から人を殺傷するための武器を持ち込んで、稲作で生まれた食料を互いに奪うような戦乱の時代だという意見がありましたが、弥生時代は紀元前十世紀後半から北部九州で始まり、水田稲作は時間をかけて東に普及していったことが分かってきましたので、弥生中期の甕棺墓の分布と殺傷人骨の例を調べると、水や土地や食料の争いなどが頻発したとは言えない結果が得られています(「弥生人は戦争好き?ウソですよ」参照)。 弥生後期になって、倭国大乱が起こっているのですが、これも鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、主に筑紫平野・佐賀平野・福岡平野などで、環濠などの溝から出土する矢戦の痕跡が見られ、南九州や中国・四国地方やその東の地方にはこのような痕跡は皆目見られませんでした(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。 だから倭国大乱の状況は主に北部九州で起こった限定されたもので、ここが倭国だったと考えられます。そして、敵対する勢力は菊池川沿いの方保田東原遺跡・うてな遺跡に、山陰から畿内の土器が数多く見られ、これらの地域から兵を集めて前線基地にして倭国側を襲ったと分かります。だから狗奴国の王卑弥呼よりも先に登場する狗奴国の官狗古智卑狗は指揮官だったのです。 この時点ではまだ卑弥呼は登場しません。そして、阿蘇山麓から大分県大野川流域に数多くの鍛冶集落がありますので、ここに半島南部の板状鉄素材を持ち込んで武器を生産し、狗古智卑狗勢に供給していたと推理できます。ということは半島南部の鉄資源を支配していた勢力が狗奴国側だと分かります。倭国と敵対勢力ですから、糸島市の伊都国から壱岐経由で狗邪韓国に渡ることができませんから、沖ノ島経由で渡ったと推理できます。玄界灘を活動域とする縄文海人ムナカタ族が狗奴国側だったと分かります。 ということで、狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコの誤記)はどこにいたのかも推理できますね。3世紀に突然生まれた大型の宗教・政治都市の纏向遺跡には列島名のほとんどの地域から首長クラスの人々が集まって祭祀・祈祷を盛んに行っていたのです。外来土器から分かります。しかし、北部九州の倭国の人はほとんど来ていないことが分かりますから、狗奴国の正体は纏向遺跡だったと推理できます。 それではなぜ、倭国と狗奴国が戦争するようになったのかですが、これが伊都国という国名から推理できてしまうのです。 107年に後漢安帝に160人もの生口(奴隷)を献上した倭国王帥升の史実が范曄「後漢書」にありますが、原本は残っておらず、後の文献から倭の面土国王師升が正しいと分かりますが、面は回の俗字を誤写したもので回土(ウィト)国だと白鳥庫吉先生が指摘しました。 糸島市三雲遺跡に伊都国王の王宮がありました。その番上地区からは楽浪土器が集中して出土していますから、シナの外交使節や華僑などが居住していたと分かります。伊都国王は彼らと交流し漢字の読み書きもできたはずです。福岡市雀居遺跡から木製の組み机が丸ごと出土していますし、硯石の欠片は北部九州を中心に出土していますから、当時の倭人の中には文字を読み書きする人間が居たのです。倭人の中に通訳も居たはずです。ですから57年には後漢光武帝から金印を賜うことができたのです。この当時は回土国と書かれたのを伊都国と書いた人物が特定できました。この字は倭国の他の国々や人名にない、歴史的に意味のある好い字だったのです。女王卑弥呼の居た邪馬台国への行程記事を書いたのもこの人物だと推理できました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。 ということで、邪馬台国の場所も発見し、卑弥呼の正体も分かりました(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)。 ですから、逆に行程記事のなぞも解けたのです。 従来の研究者も含めて、多くの方は文献に書かれたことをある程度信じて、後は想像を膨らまして文献を解釈してつじつま合わせの作業に没頭するだけで、何が正しいのかさえ分からなくなっていたのです。文献に真実が書かれていたら謎など存在しません。だから真実を見つけ出すには事実との食い違いを分析すれば分かります。そこから真相に導く仮説が生まれ、事実で検証を重ねて真相を解明する科学的な推論手法が必要なのです。詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。お邪魔しました(^^;)

  • @siapakuma
    @siapakuma10 ай бұрын

    すみませんが、自説を書かせていただきます。 一大国は「石田国」で、石田というのは壱岐の南東部の石田町の原の辻遺跡周辺のことを指していると思われます。一支国の単純な書き間違いということではないでしょう。 末蘆国は、現在の松浦市ではなく、松浦川河口部の現在の唐津市周辺が有力だと思います。 この時代は、川が高速道路の役割を果たしていたと思われます。で、物流も川の利用が主だったと思います。一本の川にたくさんの川港があって、その周りが集落だったイメージです。 伊都国については、糸島市と言われますが、「怡土国」「志摩国」が合わさって「いと・しま」になっている説が有力です。 怡土国は、現在の怡土小学校・伊都国歴史博物館がある辺りで間違いないでしょう。遺跡も山ほどありますし。志摩国は、半島部旧志摩町でしょう。 また「伊都国には世々王がいた」とはっきり書かれていますから、志賀島で発見された金印は、怡土国王に与えられたものと断定できるのではないでしょうか。でなければ、次に奴国が出てきて「奴国王」に触れないのはおかしいでしょう。金印まで渡していたとして、触れないことはありえないと思います。 「委奴」は「わのな」などといかにも日本風に読む意味が分かりません。すなおに「いど」もしくは「いと」と読んでいいのではないでしょうか。 魏志倭人伝には「参問倭地、絶在海中洲㠀之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」と、倭国は「一周して5千余里の島」と解釈できる文があり、九州(島)が倭国と見立てられていたと考えるのが自然ではないでしょうか。

  • @user-mj8vx1dl7t
    @user-mj8vx1dl7t9 ай бұрын

    伊都国って伊都島あたりじゃないの?

  • @Hayato_Takezawa
    @Hayato_Takezawa10 ай бұрын

    末廬国が松浦・唐津 伊都国が糸島 奴国が福岡 この前提が本当に当たっているのか、検証の余地あり

  • @megane-tetugaku
    @megane-tetugaku10 ай бұрын

    中国からの使者は邪馬台国へ行ってないと思います。 家が数万戸とか有るけど、おそらく中国、邪馬台国双方の使者が大げさに書いたのではないかと想像しますね。 その半分とすれば、ある程度開けた土地なら人口を維持できるのでは? それに中国は数字を大げさに書いたり、言ったりしますから。 中国からの使者は返礼品を持って行った可能性は高いでしょうね。 まあ、本人達にしたら未開の野蛮な土地と思っているから、邪馬台国からの使者に預けて終わりにしたかもしれない。

  • @user-ub4pg2wm9g

    @user-ub4pg2wm9g

    10 ай бұрын

    女王国には帯方郡や韓からの使者が往来していたようですが⋯

  • @user-lm9sy2qq6w
    @user-lm9sy2qq6w9 ай бұрын

    重大な情報として、当時は「北」は「ニシ」と言いました。今も沖縄にその名残があります。方角に関しては、今の感覚で読んだらとんでもない事になります

  • @majesty164

    @majesty164

    9 ай бұрын

    「南」は「ふぇー」(はえ)が残っていますね。 隼人(はやひと)も元々は「南の人」の意味のようです。 当時の倭人が東西南北を大陸と同じ基準で測っていた証左は無く、 当時の大陸との間で通訳を介していたはずですし、 方角の記述に誤りが生じた可能性はかなり高いと思われますね。 また、その他に"渡海"の記述も、 現代の感覚で解釈してしまっている人が多いですね。 陸続きならば陸路で行くはず、と言うような先入観を取り払って考える必要があります。

  • @satosin2660

    @satosin2660

    9 ай бұрын

    当時の日本語で書かれた金文が発見された際に『ニシ』と書かれた文字があったら気を付ける必要があると思いますが、これは違いますよね。 当時の倭人が『北』を『ニシ』と呼んでいたとして、魏の使者が『北の事を倭人はニシと呼んでいる』とさえ知っていれば何の問題も無いです。 その程度知らなければ通訳なんてできないでしょうし。

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s9 ай бұрын

    韓は倭と接する、といっても、接にはいろいろな程度がある。 図ではくっついているが、これは密接な状態。他に近接という接もある。 ここで動画が取り上げている接は近接で、対馬や壱岐を介して近いという表現だね。

  • @user-qs5wu6pv8t
    @user-qs5wu6pv8t6 ай бұрын

    1つだけハッキリ言えることは従来の定説の伊都国は現在の糸島市ではないということです。

  • @user-vn4ed8kd3c
    @user-vn4ed8kd3c10 ай бұрын

    最後の水行10日陸行一月は帯方郡からの総距離じゃないかと個人的に思ってます、魏志倭人伝の解釈が難しいのですが、主国の使者に合わないなんて失礼なことするかな?また使者を自分から遠く離れた地域に留め置くかな?使者を歓待しなければならない立場と思うんだけどね、個人的に邪馬台国は女王の治める国の総称、つまり日本って名前の都市がないように邪馬台国って名前の土地もない、女王の在するところつまり伊都国 と思ってますw

  • @user-tz7gv8hj2s
    @user-tz7gv8hj2s9 ай бұрын

    糸島だろ。

  • @turu-1000
    @turu-10009 ай бұрын

    徳島説で決まりですよ。

  • @0086R2D2
    @0086R2D29 ай бұрын

    せんえつながら, 私もyoutubeに「未発見の国邪馬台国」という動画を掲載しています。 「その弐」の30分から40分ぐらいに, 壱岐から不弥国までの行程と伊都国についての考察を記載しています。 よろしければ、お互いに議論し合い、より真実に近づけて行ければ幸いと存じます

  • @yoshitome6648
    @yoshitome664810 ай бұрын

    定説で普通だか、伊都国は糸島市で宜しいんじゃない。😊 あとは解釈だけですね。 皆さんほぼ、誤訳のオンパレードですが、結構コメントに正解がある。笑

  • @kenn8438
    @kenn843810 ай бұрын

    いや、伊都国の位置がわかっても、邪馬台国の場所は特定できないですよ。

  • @may23k68

    @may23k68

    7 ай бұрын

    伊都国も不彌国も倭種です。九州説、近畿説、他説。それぞれの定義が面白い

  • @kenn8438

    @kenn8438

    7 ай бұрын

    @@may23k68 伊都国を倭種と読み取る解釈もありますが、別の見解からのアプローチに感じます。 それぞれの定義も私には面白い段階は過ぎました。ただただ、読み取りの浅薄さを嘆くばかりです。

  • @AKIHIKO-uz7wf

    @AKIHIKO-uz7wf

    2 ай бұрын

    明石書店の、倭人とはなにか、漢字から読み解く日本人の源流。は出野正氏の力作ですが、YTの動画主たちは無視?しているのか?それとも、知らないのか?理解に苦しみます。

  • @kenn8438

    @kenn8438

    2 ай бұрын

    @@AKIHIKO-uz7wf さま、 その本は持っていますよ。いい本だと思います。張莉氏もなかなかいいことを書いています。 ただ飽きたのでそろそろメルカリで売ろうかと思っているところですね。

  • @AKIHIKO-uz7wf

    @AKIHIKO-uz7wf

    2 ай бұрын

    続編は、魏志倭人伝を漢文から読み解く。倭人論、行程論の真実!という、古田史学会らしいタイトルなのですけど、投げ馬🐴国=出雲として、内容がチヤランポランになっています。😅

  • @user-mc4lv4zx2j
    @user-mc4lv4zx2j9 ай бұрын

    「倭人伝」北九州(伊都国)までは しっかり と記述しているのに、その後は あやふや 何故?私の暴論、そこまで来たら邪馬台国がどこにあるか、誰でも分かったから。大街道が通じている、道しるべがある、人の移動が頻繁にある等。当時は何かがあったと思います。私の推測する一番は「目に見えた」と思います。大集落です、電気ガスの無い時代、そこまで来たら7万戸の生活煙が見えたのではないでしょうか。その時点で陳寿は手を抜いた。「後から来た人も分かるだろう、倭人のいい加減な距離を記述しても大丈夫。だって、帯方郡から12,000里って書いている。何よりここから目に見える」。しかし7万戸の集落が無くなった、人の移動も無い、道しるべも無くなった。現代では意味不明になってしまった。もちろん、九州です。

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