【ゆっくり歴史解説】邪馬台国東遷説

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邪馬台国が東に移って、大和王権になったとする説を解説します。
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Пікірлер: 192

  • @nanoto103
    @nanoto10310 күн бұрын

    東征というより婚姻による吸収合併とかはありそうかなと思う。 多数の国が林立するなかで、実力のある大和と、大陸とのつながりと権威をもつ邪馬台国の合併は戦略的にありな気がする。 大和政権の記録が仄めかしが多いのにスッキリしないのも説明がついたりしないかな?

  • @user-hg5no2bz4j
    @user-hg5no2bz4jАй бұрын

    ヤマト朝廷成立の答えは古事記に書いてある通りだと思います。 高天原(大和朝廷のルーツ)は筑紫(福岡県)にあり、出雲を征服した後宮崎に領土を広げ その後、近畿地方を征服して都を福岡から奈良に移したのではないでしょうか。

  • @sirasuhatsukuni8725
    @sirasuhatsukuni87256 ай бұрын

    鯨面文身と生口を考えるだけでも邪馬台国と大和朝廷との関連性は無いと考えています。

  • @Tom14141414141414
    @Tom14141414141414 Жыл бұрын

    北九州市が存在するので、北九州と言うとJR小倉駅を中心とする地域に限定されるので、北部九州と言ったほうが望ましいと、福岡県民として思います

  • @kenohzu5518

    @kenohzu5518

    Жыл бұрын

    それは同じく思いました 北関東という言い方もあるから本来は変じゃないのだろうけど 九州の人に北九州というと普通に北九州市をイメージしてしまいます

  • @user-eo3no9wz2o
    @user-eo3no9wz2o Жыл бұрын

    邪馬台国は、北九州にあったと思います。邪馬台国の前に、神武天皇は、南九州から東遷して大和を建国したと思います。

  • @himinnblar594
    @himinnblar594 Жыл бұрын

    主の意見が真っ当だな〜

  • @sasakurasakurad
    @sasakurasakurad Жыл бұрын

    邪馬台国論争好き

  • @user-ct8fk3cx8t
    @user-ct8fk3cx8t Жыл бұрын

    磐井の乱の磐井軍が 邪馬台国残党の最後の決起説を推している

  • @user-rs6dn7zl3l
    @user-rs6dn7zl3l Жыл бұрын

    宮崎県半分の5万の領域国家投馬国と鹿児島県ほぼ全体の邪馬壱国7万戸が一部近畿に移住して大和朝廷を作ったと考えています

  • @user-ow1ww6cf7p

    @user-ow1ww6cf7p

    9 ай бұрын

    なんのためにそんな大人数で移住するんですか? いく先々で戦闘になるし補給もで厳しいしうまくいくと思いません。

  • @user-di2fh6xq8x
    @user-di2fh6xq8x Жыл бұрын

    案外一族内での権力争いとかあったんじゃないかな

  • @renren5491
    @renren5491 Жыл бұрын

    那珂八幡古墳 祇園山古墳 光正寺古墳 石塚山古墳など 邪馬台国と同時代の前方後円墳・方墳が三角縁神獣鏡を伴って福岡だけでも複数見られる。 北部九州・瀬戸内・近畿は一体だった。3世紀前半の畿内系土器が北部九州で普通に発掘されるようになった。壱岐からも発掘される。 論争に関わりなく、考古学は内堀まで埋めてしまっている。

  • @user-pf1ii4mg1q
    @user-pf1ii4mg1q Жыл бұрын

    700年ほど後の時代とはいえ旧唐書なんかでも倭国と日本国は別種であるとはっきりと書いてありますからね。加えて大和政権と対立した蝦夷達に入れ墨の文化があった事を考えると当時にあったであろう事がおおよそ想像は出来ますよね🧐

  • @user-kf6xc2lq6j
    @user-kf6xc2lq6j6 ай бұрын

    ちなみに、邪馬台国大和(畿内)説で研究されている先学諸氏も、実は弥生文化の北九州地域からの東漸と伊都国や奴国またはその残党などの北九州勢力の東遷を認めているのである

  • @user-um8xt9tr7i
    @user-um8xt9tr7i5 ай бұрын

    私はもともとうぷ主さんと考えが近かったせいか毎回そうだよなって感じで楽しく見させていただいております。 他の方の投稿に邪馬台国四国説というのがあり気になったので見てみると、都合が良い所ばかりが強調されてて始めは四国説ももしかしたらとも思いましたが、だんだんオヤ、オヤオヤって思う所が出てきて(瀬戸内海が危険だから愛媛→阿波を一月歩く⇒返礼品を持って悪天候もあるなか一月で四国横断可能か)(阿波の南に狗奴国候補の勢力はどの辺りにあるのか)(途中に他の国名が出てこない)など。 あり得ない邪馬台国東遷の動画もキチンと説明してくれたので、同じくあり得ない邪馬台国四国(阿波)説も動画作成よろしくお願いします😊

  • @si-vl9ju
    @si-vl9ju Жыл бұрын

    うぷ主さんのお考えに賛同致します。邪馬台国と大和王権は別のものでしょうね。

  • @mcxgf9051

    @mcxgf9051

    Жыл бұрын

    東遷したかは知りませんが音が似通りすぎてまったく別のものと考えるにはかなり無理があります。 日本にこのように音が似た名称の国名等はありませんのでもとは同じものである可能性が高いといえます。 漢字名だけ見てまったく別のものと認識し音が似通っていることに気付けない鈍感な日本人が多いのは嘆かわしいことです。

  • @zennin375

    @zennin375

    11 ай бұрын

    @@mcxgf9051 邪馬壱国と大和がそれほど似ているとは思えません。

  • @kiyotamu3298
    @kiyotamu3298 Жыл бұрын

    イギリスとアメリカみたいに東遷とは違って新天地開拓したグループが本国を凌ぐ力付けちゃったり? こっちはチャンチャンバラバラの結果本国滅ぼしちゃったの何かあれだからあんま触れないようにするぜ!とかあったのかしら

  • @mocchi2643
    @mocchi2643 Жыл бұрын

    平和的に東遷したなら、急に大和盆地まで遷るのではなく徐々に東遷していったはずで、中国地方や四国地方に「ここに何年間都が置かれた」という伝承が残っていないとおかしい。

  • @fkfm34r

    @fkfm34r

    Жыл бұрын

    火山噴火の影響で九州を出たと言う人もいますよね。途中の土地では火山灰の影響が大きく留まらなかったのでは

  • @zennin375

    @zennin375

    11 ай бұрын

    平和的な政権交代はむしろ急激に起こるんじゃないかな? 明治維新は急激だったけど平和的でもあったよね。

  • @user-ow1ww6cf7p

    @user-ow1ww6cf7p

    9 ай бұрын

    @@zennin375 明治維新は世界史的な観点でみれば同一勢力内でのクーデターみたいなものだから別の国が他国を征服するのとは別物だと思う。

  • @user-kb5gv3zv2z

    @user-kb5gv3zv2z

    Ай бұрын

    ⁠​⁠​⁠@@zennin375平和的?

  • @user-ql4ri8nx5x
    @user-ql4ri8nx5x3 ай бұрын

    日本書紀は明確には書いていませんが、三国志からの引用はあちこちに有るし、もっと言えば神功皇后を卑弥呼に寄せて書いている(はっきりと書いてはいませんが)と言うのは昔から言われていることだと思いますよ。関係するのは日本書紀の神功皇后39年の部分です。卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」卌三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」つまり神功皇后40年を魏史で言う正始元年とし、その前年39年は太歲己未なんだけど、魏志ではその39年(景初3年)に倭の女王が難斗米等を天子の元に派遣したんだよねと書いています。つまり神功皇后39年に倭の女王が魏に難斗米を派遣したのだから神功皇后=卑弥呼だと日本書紀は言いたいわけです。もちろんこれは史実ではなく藤原不比等の創作だと思いますが、日本書紀には魏に関する記述は有りますよ。ただUP主さんの言う通り神功皇后は卑弥呼じゃないと思います。

  • @cvsq-xy8fo
    @cvsq-xy8fo4 ай бұрын

    「宋書倭国伝」で475年倭の五王の五番目の武は「東方のまつろわぬ者どもを征する事95カ国、西方の刃向かう者征服する事66カ国、海北に渡って平定する事95カ国」と自らを説明してるので、東遷してたら元々の自国をこういう風に言うのかなあ?と疑問はあります

  • @uetotesshu

    @uetotesshu

    25 күн бұрын

    東遷してたら、北に海を渡ると誰もいません。武が九州に居たら矛盾は有りません。

  • @tigerion9275
    @tigerion9275 Жыл бұрын

    道鏡問題で、朝廷が神託を聞きに行ったのは宇佐神宮 大和王権の祖先が豊前にいたのは間違いなんじゃないかな 豊は「とよ」と読むし

  • @sayaandmasa
    @sayaandmasa Жыл бұрын

    大国主命の国譲りは不戦降伏だよね。

  • @user-ql4ri8nx5x
    @user-ql4ri8nx5x3 ай бұрын

    古代天皇の長寿なのは、当時の2年が現在の1年だったと解釈すれば良いのでは?記紀によれば大和(人)と出雲(神)は時を分けて治めたみたいなので。現在でも10月を神無月と呼びますが、4月~9月を表(人、大和が治める)の1年、10月~3月を裏(神、出雲)が治める1年と解釈すれば130年は半分の65年だから当時の短い寿命の人々の中でも、その位は生きる人がいたかも?日本の神様は西洋の神様とは違って単に上位の人かもしれないし。

  • @kiikebe5884
    @kiikebe5884 Жыл бұрын

    いつも楽しく拝見させてもらってます。おっしゃるように東遷説はムリがあるようにおもいます。大和朝廷の始まりについては「大和朝廷はいつ始まったか」(桂川光和)という本が面白かったです。「邪馬台国の全解決」(孫栄健)という本も最近読んだのですがこれも面白かったですね。

  • @kenohzu5518
    @kenohzu5518 Жыл бұрын

    〇〇な地名が実在するってのは、邪馬台国〇〇説でそれぞれ言ってるし、 正直、証拠価値を見出せない…

  • @mimi-hm2ez
    @mimi-hm2ez Жыл бұрын

    現代韓国語では「和=ホァ」「倭=ォエ」、中国語だとそれぞれ「 hé」「wō」と、二つの漢字は発音が異なります。古代日本でも違う音の漢字だったかもしれないと思っています。つまり倭と和はストレートには繋がらないと。あと、魏志倭人伝は中国の文献なのになぜ日本語の発音で読み解こうとするのか、ずっと疑問でした。台与は古代の魏の国で「トヨ」に近い音で発音したのか、古代日本で豊は「トヨ」と発音していたのか、知りたいですね。

  • @mecom3450
    @mecom3450 Жыл бұрын

    卑弥呼=アマテラス節を取るなら邪馬台国四国説を検証して欲しい。自分は倭国大乱以降、九州から四国に遷都したと考えます。邪馬台国と大和王朝は連続していたとも考えます。

  • @mcxgf9051
    @mcxgf9051 Жыл бұрын

    大和と邪馬台は発音が似すぎで本来は同根だった可能性が高いと思います。 臺をタイと読ませたのは江戸時代からの様なので本来はトに近い発音だったのではと思われます。

  • @user-bh8oo6rf3g

    @user-bh8oo6rf3g

    Жыл бұрын

    それ😳開成高校の友人は😳それを論文にしておりましたわ_φ(・_・

  • @zennin375

    @zennin375

    11 ай бұрын

    原文では邪馬台国ではなく邪馬壱国の旧字体表記ですね。 大和と発音は似ているとは思いません。 7世紀以降に邪馬台国と表記が変更されたことに対する疑問の方が興味深く感じます。

  • @yamatotakeru2008
    @yamatotakeru2008 Жыл бұрын

    すんなり入ってくる説明です。

  • @demioer
    @demioer Жыл бұрын

    中国地方の色んな所に東征伝説が残ってます。東征と聞くと軍隊で短期間に征服したイメージになりますが、私は数十年以上も掛けて移動したと思ってます。伝説でも実際に中国地方のあちこちに居を構えていたと思わせる逸話も結構あるんですよね。ですから私は東征したというよりも、食料とか選り住みやすい場所を求めて東に向かって移住していった結果だと仮説を立てています。

  • @user-ql4ri8nx5x
    @user-ql4ri8nx5x3 ай бұрын

    京都郡は記紀によれば「景行天皇が行宮」を置いたから京都郡と言う名前になったと書いてありますよ。豊の国は古事記によれば筑紫島(九州のこと)の4面(4つの国の意味)の一つで豊日別がその由来になっています。なので京都郡=壱与の都は恐らくは誤りだと思いますが、本当に壱与(台与をイヨと読むのは無理が有る)が天皇家の祖先ならば可能性は有りますね。ただ風土記を読んでも景行天皇説の方が有力だと思いますが。

  • @isamu4994
    @isamu4994 Жыл бұрын

    YAMATai = YAMATo ? 時がたち発音が少しなまったのでは?

  • @yukkey
    @yukkey Жыл бұрын

    記紀の記述から神武東征は河内潟が存在する紀元前1050年から紀元前50年の間ということになります 魏志倭人伝による記述では邪馬台国は2世紀から3世紀の話になります ですので、邪馬台国東遷はないかなー?と思います

  • @toshiyam2853

    @toshiyam2853

    Жыл бұрын

    その神武東征伝承の推定時期と高地性集落が瀬戸内全域や大阪湾岸エリアに乱立した時期がぴったり符合しますね。卑弥呼の時代よりはるか前に九州勢力による東方進出が数世代にわたって行われていたと考えるのが妥当でしょう ちなみに卑弥呼の時代になると高地性集落は北陸や東海地方に広がります。邪馬台国とは東遷した勢力が打ち立てた畿内覇権、すなわちヤマト政権の初期段階で問題なかろうかと。ヤマト=ヤマタイという解釈ならば隋書の記述とも矛盾がありません 私は東遷説の支持者です。ただし一人の英雄によって短期間に行われたものではなく、卑弥呼の時代より前ですね

  • @phoenityan
    @phoenityan Жыл бұрын

    卑弥呼の邪馬台国は神武の東遷時期よりも後なので まだできてもいない邪馬台国が東遷するはずがないから 東遷説はあやしいかなと思う それに卑弥呼が亡くなった後国が大いに乱れるんだよね? そんな時期に卑弥呼の古墳であるとされる箸墓古墳なんて造ってる余裕ある? 東遷してないから違う地域なんだと思うし箸墓古墳も他人のお墓なので関係ないと思う ハッキリ言えば東遷どころか邪馬台国と大和王権は別モノ

  • @dietrichgarten7434
    @dietrichgarten7434 Жыл бұрын

    私の妄想:3世紀に今の奈良県にあった邪馬台国が出雲と姻戚関係になって、出雲を従えた後、豪族である大臣らの裏切りにより、東遷してきた神武(実は崇神か応神?)の日向国に征服され、台与の子孫である王は殺されたが、このクーデタは有耶無耶にされ、そのまま大和王権が発足した。

  • @user-uc2jt1fi1r
    @user-uc2jt1fi1r Жыл бұрын

    わーい新しい動画ワクワク😄古代史たのしいです!在位年数とかで見るのは面白いですね! 日本のこの時代は戦国時代よりもさらにゴチャゴチャしてそうですよね。韓国の三国志って民族が違って別の国みたいになってたように、日本も民族レベルで別と思ってたのかもなぁとか想像してたら楽しかったです!

  • @struts6773

    @struts6773

    Жыл бұрын

    在位年数は安本美典さんの研究が有名ですよね。

  • @user-sz4qi3tp2v
    @user-sz4qi3tp2v Жыл бұрын

    流石に無理がありますよね。😥

  • @user-xt4fg8ln4z
    @user-xt4fg8ln4z Жыл бұрын

    歴史は勝者の歴史と言いますが、勝者が敗者に寛容であったなら、より詳しい史実が後世に伝えられたんでしょうか。残念です。

  • @KM-ix1so

    @KM-ix1so

    Жыл бұрын

    自称敗者のグダグダした言い訳なら全部正しいんですか?

  • @user-kg3vz2jy9m

    @user-kg3vz2jy9m

    Жыл бұрын

    @@KM-ix1so 歴史は勝者が作るものだけど、敗者が作る歴史は余裕がない分だけ勝者が作るよりも劣ってるよな。

  • @atabo3641
    @atabo3641 Жыл бұрын

    邪馬台国は九州にあったが、東遷はしていないと思います。 日本書紀は素直に読めばよく、神武の出身は宮崎で、邪馬台国ではなかった。邪馬台国であれば、関連する記述を残したでしょう。 九州は豪族がいくつもあり、宮崎は南北の豪族に挟まれて、今一つだった。活路を求めて、開発が遅れた近畿に、宮崎から移動したのが神武で、ヤマトは後発ながら勢力拡大に成功し、日本統一を成し遂げた。

  • @user-ek2qd9px2k
    @user-ek2qd9px2k Жыл бұрын

    私は以前は東遷説が正しいのかな?と思ってましたが、神武東征の時期を考えると3世紀の邪馬台国と矛盾するので、今は違うかなと思っています。九州から離れた大和に植民地?を作ったらそっちの方が発展して本国が衰退。倭国大乱?で滅亡したが巻き込まれなかった植民地大和が今度は発展した?とかでしょうか。

  • @user-sw2xu2qr6y
    @user-sw2xu2qr6y Жыл бұрын

    記紀の天皇は基本的に春秋年でしょうし、年齢を半分にすればよいと思います まあそれでも結構長生きですけどね

  • @user-vs7gl7zl4y

    @user-vs7gl7zl4y

    Жыл бұрын

    いわゆる春秋年解釈の場合、 問題はどのあたりから西暦に近い数え方になったかですよね。

  • @satosin2660

    @satosin2660

    Жыл бұрын

    @@user-vs7gl7zl4y 継体天皇の年齢が『日本書紀』では82歳、『 古事記』では43歳だから、この辺りではないでしょうか。

  • @user-vs7gl7zl4y
    @user-vs7gl7zl4y Жыл бұрын

    邪馬台国、色々な読み方の説があるので私は「やま(何とか)こく」と呼んでおります やっぱりげ い面分身が一つの鍵になってますね

  • @user-tq7tm3mi7b
    @user-tq7tm3mi7b9 ай бұрын

    東遷説って神武=崇神説取ってる事多いけど、これだと長髄彦に苦戦したすぐ後で四道将軍を派兵して景行天皇や日本武尊や仲哀天皇神功皇后のヤマト王権拡張戦争をしたことになる。戦国時代の北条早雲とその数代後継者たちもそれだけ時間をかけて関東でまあまあ強い勢力になっただけだから現実的じゃない。やはり欠史八代時代に婚姻戦略によって数代かけて国力を増強し崇神天皇以降の拡張戦争に入ったと見るべき。

  • @user-kb9xj2fd4e
    @user-kb9xj2fd4e Жыл бұрын

    邪馬台国をヤマタイコクと読むことが普通ですが、表音文字で二音は誤りだと思います。ヤマトコクと読むと、話が変わってくるように思います。

  • @toshiyam2853

    @toshiyam2853

    Жыл бұрын

    古代日本語は母音の連続を嫌うという原則がありますから「TAI」という発音は不自然ですね。台の一文字でタ行一音で読むべきでしょう。とはいえ邪馬台国論争が完全解決したわけではないので「邪馬台」と「ヤマト」は切り分けて置いた方がよいでしょう

  • @user-kb9xj2fd4e

    @user-kb9xj2fd4e

    Жыл бұрын

    @@toshiyam2853 少し関連する可能性がある程度に感心を持ち続けるぐらいが良いように思いますね。ご評価ありがとうございます。

  • @renren5491

    @renren5491

    Жыл бұрын

    日本では古来から「ヤマトコク」と呼んでいました。 江戸時代新井白石が自説を九州説にしたとき、 大和国と区別するため「ヤマタイコク」という読みを 使いました。

  • @zennin375

    @zennin375

    11 ай бұрын

    魏志倭人伝では邪馬壱国なわけで後年の遣隋使あたりが大和に近付けるため邪馬台国に書き換えさせたんじゃないのかな? 今でも現地のクレームで呼び名を変えることはたまにあるよね。

  • @user-mi9zw1ni4o
    @user-mi9zw1ni4o Жыл бұрын

    卑弥呼の話はイザナミ、アマテラス、神宮皇后、百襲姫など複数人に割り振られてるんじゃ? これなら時系列を乱さないし バレにくい。 一人の人物に重ねるとすぐに バレますからね。 また東遷などはなくて 合意の上で和合し邪馬台国の要人だけが大和へ移ったのでは?

  • @katumoku10
    @katumoku10 Жыл бұрын

    とても興味深い議論をありがとうございます。歴史は文献がないと話にならないのですが、その文献が誰によってどういう目的で書かれたのか?シナの歴史書の場合、史官がどういう目的でどのような文献から文章を使って編纂したのか?日本の正史の場合はどうなのかということをまず検討しないと、そのまま記述を信じたら考古学や民俗学などの成果と矛盾するので謎だらけですよ。  三国志は曹魏から帝位を禅譲された西晋の正統性を書くのが第一ですが、もっと重視したのは西晋の基礎を作った魏の実力者の司馬懿の功績を称えるためです。ですから、司馬懿の最大の功績はライバルの呉を挟み撃ちする場所にある東夷の大国の倭国を朝貢させたということなのです。ですから、倭のことを特に詳しく書いていいて、倭国の女王の朝貢に最大限の誉め言葉の詔勅をほぼ全文載せていることからも分かります。ですから、倭国は呉の東海上にある大国でなければならないので、当時戦乱で人口が1/10に減った洛陽が十万余戸だったので、邪馬台国7万余、倭国全体で十五万戸もあると言いたかったということです。また、洛陽から遠い大国が皇帝の徳を慕って朝貢したというのが皇帝の評価になり、それを実現した司馬懿の功績だったと言いたかったからです。ですから、実際よりも大げさになっているので、そういう記述を信じても邪馬台国にはたどり着けないことは、二、三百年論争しても決着つかなかったことから分かります。  ですから、魏志倭人伝の記述を解釈するだけではだめで、日本の建国に注目する必要があったということです。この動画もそういういいセンスで議論してくれています。ただ、日本書紀は天武天皇が編纂を命じたので、天皇の歴史書だと皆さん思っていますが、完成したのは崩御して34年後なのです。当時は天武天皇の皇后鵜野讃良(持統天皇)と組んで権力を握っていた藤原不比等が、藤原氏に都合の好い歴史に改ざんした証拠があります。ですから、不比等は何を隠したかったのかを考古学などの証拠から推理すると謎がどんどん解けてきます。邪馬台国問題もヤマト建国もすべてわかりました。詳しくは以下の拙ブログに要点を述べましたので、よろしければご参照ください。卑弥呼の墓も見つけましたよ!どうもお邪魔しました( ^)o(^ ) 「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?」blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/e6a9a4b9dbcb70408e9095a1d9662327 「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/b10e9e3b086acbfb734e7892c25e390e

  • @user-bb8zo2vg6o
    @user-bb8zo2vg6o Жыл бұрын

    三国志の注釈を書いた裴松之が、「魏略いわく。その習俗は正しい暦や四季を知らず。ただ春に耕し秋に収穫するを計って、年紀となす。」と残していますから、記紀の記録では1年を2年としていた事がわかります。 継体天皇より以前の即位期間を半分で計算すると、神功皇后が亡くなったのも西暦380年頃と計算もあいますし、同様に神武天皇は紀元前50年前後となり、神武東征時の大阪平野の地形とも合致します。 更に纏向に都市が作られた時代と魏志倭人伝での時期がほぼ同じですから、遷都説はありえません。

  • @user-kg3vz2jy9m

    @user-kg3vz2jy9m

    Жыл бұрын

    いや、一年を二年として数えてたとかそれ完全にデマだし、というかそっからどう曲解しても一年を二年と数えてたことにならんよ。

  • @user-bb8zo2vg6o

    @user-bb8zo2vg6o

    Жыл бұрын

    @@user-kg3vz2jy9m 個人的には非常に納得できる説なのですが、「魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀」をどう読むのでしょうか? デマだという具体的な根拠を教えて頂けるとありがたいです。

  • @user-kg3vz2jy9m

    @user-kg3vz2jy9m

    Жыл бұрын

    @@user-bb8zo2vg6o デマという根拠も何も、お前が出してる根拠がデタラメなんだからデマ以外の何者でもないでしょ。 それに、「春に耕し秋に収穫するを計って年季を成す」ってつまり、春+秋で一年と数えるだけで詳細な暦は知らない、って意味じゃん。これでどこをどう読めば一年を2年と数えるってなるんだよ。

  • @user-bb8zo2vg6o

    @user-bb8zo2vg6o

    Жыл бұрын

    @@user-kg3vz2jy9m 面白い解釈ですね、春+秋ってなんでしょう?夏と冬はどこに? 秋(収穫)で1年なら分かりますが、足す意味はなんでしょう? 倭人は1年の始まりが冬ではなく秋だというなら分かりますが、春に耕し、秋に収穫を計るなら、春に耕したで1年、秋の収穫で1年とみるべきでは? また、裴松之が1年の概念が同じなら態々注釈として書かないのでは?現在も旧正月とは言いうがそれは時期が違うだけで、現在の概念で裴松之が書くとすると、春に耕しは不要で「秋に収穫するを計って、年紀となす。」と書くだけでよいのを態々「ただ春に耕し」と入れる意味はなでしょう? 少なくともデマだというなら、裴松之はそんな注釈は書いていないというなら、確かにデマですが、記述が残っているなら解釈の違いというレベルでしょう。

  • @user-kg3vz2jy9m

    @user-kg3vz2jy9m

    Жыл бұрын

    @@user-bb8zo2vg6o えぇ、お前日本語伝わらないの....?もう一度いうよ、春にた耕して秋に収穫して一年と計算する、だよ?なんで春に一年、秋に一年になるんだよ。何回も言われてもわかんないならお前マジで日本語の勉強からやり直した方がいいよ。 夏も冬もどこいったって、夏冬原文に書いてないじゃん。マジで何言ってんのおまえ....

  • @fxterninator8286
    @fxterninator8286 Жыл бұрын

    魏志倭人伝は、距離・方位誤差が殆どないという説が出てきました。 これまでの九州や近畿説とは違い、当時使われていた長里で説明が付くそうです。。 出発地点;洛陽から狗邪韓国、金沢あたりで上陸し、糸魚川経由で到着地点;鹿島神宮です。 ミステリー事件簿:kzread.info/dash/bejne/q556xbuem9zNiJc.html

  • @user-qq2ij4ue4c
    @user-qq2ij4ue4c Жыл бұрын

    この辺りは神社の祭神で見ると面白いんじゃないかなぁ? 邪馬台国の卑弥呼=宇佐八幡の比売大神というのがやっぱり一番しっくりする考え方だと思います。 そうなると、大和朝廷側のキーパーソンとなるのは神功皇后の子である八幡神=応神天皇なのですが… 宇佐系により応神朝でのっとられた説みたいになりますかね。 なんかこうこの問題は絶妙に『疑える記録』があるせいでややこしくなりますよね。 地図の関連性の話題が出てましたが、日向から宇佐にかけての地形と、熊野から伊勢にかけての地形って結構似ていますよね。 実のところ、日向の前神武朝と邪馬台国には血縁関係なり何らかの関係があったことは間違いではないんじゃないでしょうか? そう考えると、大和~邪馬台国の再統合が記紀でそれほど大きな話題にならないのもわかる気がします。

  • @user-eo7rp1ty6p
    @user-eo7rp1ty6p8 ай бұрын

    古代史がデタラメになりました‼️ 学者がアルツハイマーになったのか⁉️ ⛩️🇯🇵🦜🐦🕊️🐍🪂🌈🌠🌏㊗️🎌❤️💘🔴

  • @shou-sho
    @shou-sho Жыл бұрын

    邪馬台国東遷説というか安本美典氏の説ですねこれは。(東遷説にもいろいろ流派があるのです) 東遷説自体は戦前は東大を中心に一定の支持があったのですが、考古学の発展した現代ではほぼ相手にされていません。 なお、神功皇后55年=西暦375年であるというのは明治時代に那珂通世が提唱した説です。こちらは有力なんてものじゃなく、これを基準点にして東アジア史の研究が始まったといえます。

  • @user-wn6ro1jr1d
    @user-wn6ro1jr1d Жыл бұрын

    昔、この説をTVで初めて見たときに、この説こそ真実では?と思ったものですが、記紀に邪馬台国が出てこない事実等を考えると、邪馬台国とヤマトは別の国で、邪馬台国はヤマトに滅ぼされた可能性の方が高いような気がしますね。仮に東遷説が事実なのだとしたら、記紀になぜ邪馬台国を描かなかったのが謎ですね。

  • @juntakada1020
    @juntakada1020 Жыл бұрын

    お待ちしておりました‼︎イエーイ(ノ゚Д゚)ノシ)`Д゚ )ノベチベチベチ

  • @nekono_mimikon
    @nekono_mimikon Жыл бұрын

    在位年数が伸びるのは単純に子供を作る年齢にもよるでしょうね。 昔は子作りできる歳になれば子供が出来ますから。

  • @user-pp7psytex
    @user-pp7psytex Жыл бұрын

    古くより貴人の名前は地名で呼ぶ事が一般的であり、卑弥呼はヒムカ=日向(東に向いている)=宮崎だったのでしょう。 その跡を継いだイヨ=伊予=宮崎の向かいの愛媛であるように、連邦国の幹事国が転々と移ったのが、神武東遷で。 (邪馬台国は、連邦国の総称で。やまと言葉に影響を残すポリネシア語で、村の代表が集まって行なう合議制を「マタイ」と呼び、強調の接頭辞をつけてアマタイとなる=首都に行こうとした中国からの使節に「アマタイだから」と答えた。だから「女王国の力の及ぶところ」がやたら広くなり、邪馬台国への道程と混同した) 倭をヤマトに改名するにあたり、ヤマタイの本来の意味である「大(ア)和(マタイ)」の字を当てた。 大和自体がヒントだった。

  • @user-lb7iw8xq7t
    @user-lb7iw8xq7t Жыл бұрын

    今なら 1:04 AIか?宜保愛子さんに聞いてみればよかったのでは? 忖度、妄想、現状証拠では、ハナから答えは導き出せないやろ!

  • @pocapamas
    @pocapamas Жыл бұрын

    長浜浩明先生の動画を見ると 邪馬台国と大和王権は異なるルーツを持つ全く別の勢力であり 東遷説もありえないということがスッキリわかりますよ!

  • @usa7006

    @usa7006

    Жыл бұрын

    長浜さんは在野の歴史愛好家であり、アカデミックの学者ではない。最近、歴史を興味を持った人間からしたら、目に鱗かもしれないけど、数十年、研究している者からしたら、突っ込みどころ満載。

  • @pocapamas

    @pocapamas

    Жыл бұрын

    @@usa7006 ボンクラ学者達の研究結果に突っ込みどころしかないから長浜さんが理系の視点からバッサバッサと切り捨てていったのは爽快だったよね^^ まあ、奈良説なんてのは、女王国の東の千里の海の先の先のそのまた先でしかないから 本当にボンクラしか信じてないんだよね^^

  • @usa7006

    @usa7006

    Жыл бұрын

    @@pocapamas Qアノン信者みたいだね、きみは。知識の乏しい奴が、長浜氏の説に飛びつく。

  • @TATANKA-nf4ck
    @TATANKA-nf4ck Жыл бұрын

    当選説

  • @ulojjyu
    @ulojjyu Жыл бұрын

    私も超ド素人ですが邪馬台国と大和は別物じゃないかと思っています 決め手は私も入れ墨ですね 記録なんていくらでも都合よく書き換えられますけど文化の痕跡を消すのは難しいんじゃないかと思っています

  • @nekono_mimikon
    @nekono_mimikon Жыл бұрын

    個人的には神武の東征などは卑弥呼よりもずっと前の話だと思っています。 紀元前には既に青森県にまで水田技術が伝播しており、大陸由来の文化が東日本を支配する縄文勢力に速やかに浸透した事が伺えます。 単純に知識や技術、道具類だけが友好的に譲渡されるとは思えないので、それに伴い支配者の交代や反乱の鎮圧も行われたでしょう。 それら口伝で語り継がれた記憶を当時の世情に合わせてまとめたのが日本の神話なのではないでしょうか。

  • @KM-ix1so

    @KM-ix1so

    Жыл бұрын

    考古学的に既に否定された騎馬民族征服王朝説の亜流説に過ぎませんね。

  • @swanyou
    @swanyou5 ай бұрын

    なんか、ピントがずれれるなー

  • @user-qh2vt2hm7i
    @user-qh2vt2hm7i Жыл бұрын

    東遷なんてできるわけない

  • @usa7006
    @usa7006 Жыл бұрын

    「東遷」する意味を感じないんだよw

  • @zennin375

    @zennin375

    11 ай бұрын

    九州を追い出されたからじゃね?

  • @user-ub1cq8yp7h
    @user-ub1cq8yp7h Жыл бұрын

    いつも(45年以上前から)思う事なんだけど(大半の人はわざと言わないの?もちろん言ってる人も居るんだろうけどね)。 台与(いよ・とよ)‐豊の国って言うのに邪馬台国って何で「やまと」じゃなく「やまたい」なの?ルビを振ってたの? (動画的に、論外でジャブにもなんないけど⁈) 【最後まで見ると考察してあるみたいだね!】 討論出来る間が花(楽しい)なのかも知れませんね。

  • @user-gb6dk8el5t
    @user-gb6dk8el5t Жыл бұрын

    個人的には邪馬台国の時代と神武東征の時代が逆だから神武東征で倒した政権が邪馬台国だと思ってる。 ただし(ヤマト)とという言葉を受け継いで連続性自体は多少あったと思う。

  • @user-pq2db8xc9l
    @user-pq2db8xc9l Жыл бұрын

    アマテラス=女性神というのは持統王朝の正当化のための装置なので、卑弥呼とは関係ないんでしょうね。 それよりトヨ=豊受大神=神功皇后のラインのほうが現実的だと思うので、 そちらの主さまの見方を聞いてみたいです。

  • @user-vs7gl7zl4y

    @user-vs7gl7zl4y

    Жыл бұрын

    天照=女神というイメージは持統天皇の影響という説はありそうですね

  • @user-um9yo2xg6b

    @user-um9yo2xg6b

    Жыл бұрын

    天照大神と持統天皇を重ねたのは正しいと思う

  • @user-qe3ce4yy8e

    @user-qe3ce4yy8e

    Жыл бұрын

    トヨの女神の流れを、持統が乗っ取った。 そう思ってます。 神功皇后は架空であると、あまりにもカンタンに歴史の学者さんは言いすぎ、とも。

  • @tomonorishinozaki9397
    @tomonorishinozaki9397 Жыл бұрын

    邪馬台国と大和王権はまったく別のものだと考えます。纏向遺跡が邪馬台国で箸墓古墳が卑弥呼の墓….。 纏向遺跡は、垂仁天皇、景行天皇の都、初期の大和王権の都なんだと思います。 長浜浩明さんの著書がかなり詳しく調査されており、神武天皇の即位が紀元前70年とする説、しっくり繋がります。 一次資料をもとに考察されており素晴らしい内容です。

  • @TATANKA-nf4ck
    @TATANKA-nf4ck Жыл бұрын

    通せん説

  • @1977okazaki
    @1977okazaki Жыл бұрын

    王様がそうそう引越しなんてしないんだよな 邪馬台国がどこにあろうが、邪馬台国=ヤマト王権が前提になってるのがそもそも苦しいんだよね

  • @aamm11111
    @aamm11111 Жыл бұрын

    一時的に邪馬台国の下に付いて、文化や技術を与えられて国力を養っていたのかもしれないと思います。 その後、中国の戦乱で邪馬台国はそういった強みを失い、権威だけを葦原の中つ国に乗っ取られたのかな。 まあでも、東遷と言うあんまり有利にならなそうな記録がしっかり残っているのが面白いと思います。 例えば投馬の東遷がその中で行われたとすると、色々整合取れたりするんでしょうか。 こういった事情があるので、魏志倭人伝のことも邪馬台国のことも、記録からは消されているのではと。 皇室にはもうちょっと何かの史料が残っていたりして。

  • @user-rm7nw8om3d
    @user-rm7nw8om3d Жыл бұрын

    天津神と国津神の問題がなぁ。

  • @kirin4126
    @kirin4126 Жыл бұрын

    昔のNHKの番組で天照大神がヒミコでその弟がスサノオ見たいな説で番組作っていたけど やっぱり無理があるかな?って思っていてうぷ様もその考えに近いので 因みに私は邪馬台国ハワイ説を提唱

  • @osamuarima1118
    @osamuarima1118 Жыл бұрын

    我々は、対外的にはNIPPONといわずにJAPANといいます。それと同じだと思います。少なくとも神功皇后のときには、邪馬台(ヤマト)国が倭国を代表して朝貢していたことを知っていました。推測ですが、恐らくその国名をそのまま国と共に譲ってもらったのでしょう。つまり併合し国名を対外的に知名度の高いヤマトにしたのだと思います。なので、宇佐神宮の拝礼の仕方が出雲大社と同じなのだと思います。時代は欠史八代のころと推測します。

  • @sean2540
    @sean2540 Жыл бұрын

    筑紫の①日向の②橘の③小戸の④アワキガハラこれらの地名が全て揃っているのが宮崎市です。 日向と小戸が揃っているのが福岡市周辺。つまり日本神話の故郷は九州であり、そこが高天原であり皇室の故郷とすれば自ずと畿内大和は遷都後のヤマトなのです。 記紀にそう書いてあるでしょ?三文歴史学者や考古学者より記紀の方が信用できます。

  • @harahamaken5625
    @harahamaken5625 Жыл бұрын

    九州と近畿の多数の地名は似てることが初めて知った…… 驚きました、前には気がつかなかった。

  • @user-um9yo2xg6b

    @user-um9yo2xg6b

    Жыл бұрын

    紀伊半島と房総半島の地名も類似してますよ。

  • @ernest-tachibana

    @ernest-tachibana

    Жыл бұрын

    @@user-um9yo2xg6b そのどちらもが阿波(徳島)に似てるんです。 房総も紀伊半島もどちらも阿波忌部が進出して開拓した場所だから各地に阿波の地名をつけていったんです。

  • @hirosat5269
    @hirosat5269 Жыл бұрын

    入れ墨の風習は沖縄やタヒチ、ポリネシアなどにあり、古代では縄文人や春秋戦国の越もあると言われ、邪馬台国は黥面文身民族の一派だったのでしょう。 それに邪馬台国では高度に絹が作られているのに、ヤマトではそれがまったくない。邪馬台国東遷説では絹を失った理由が説明できない。

  • @mabuhay3316
    @mabuhay3316 Жыл бұрын

    台与ご一行が宇佐か日向から阿波神山町を経て奈良纒向に入った(おそらく九州ののちの菊池か磐井の勢力から逃げた)ので、邪馬台国東征ということになったんじゃないですかねー。神武は台与より先に奈良に入っていたと思います。

  • @user-bh8oo6rf3g
    @user-bh8oo6rf3g Жыл бұрын

    開成高校の友人は昔それで😳論文を書いておりましたわ_φ(・_・今の写本と昔の写本の矛盾をついておりましたわ😌💕😉

  • @user-lu3wh1ly3r
    @user-lu3wh1ly3r Жыл бұрын

    昔は神武東征と邪馬台国東遷説を絡ませてこじつける学者が多かったようだけど、今は邪馬台国が畿内(というか三輪山付近、箸墓古墳が卑弥呼の墓)って考えが専門家では多いらしいので、神武と卑弥呼は切り離して考えることになっているようです。で、アマチュア研究者は邪馬台国は畿内ではない、九州・四国・山陰・北陸にあったと考える人が多いようで。結局、邪馬台国は日本列島のどこにあってもおかしくない、三角縁神獣鏡も東北以外の列島ほとんどで見つかってる、物的証拠があるけど、証拠としての証明ができない、わけのわからない状態になっています。卑弥呼にあたる人が本当に実在したのか、それさえも分からない。個人的には古代に女王というか女性の祭祀者が国を治めていたってファンタジーは面白いと思います

  • @user-xo8fu2md1t
    @user-xo8fu2md1t Жыл бұрын

    たった100年で九州から600キロも離れた新天地を開拓し、本州全域を平らぐ大国を築きあげるなんて可能なんだろうか…? 東遷は有り得ないと思うなぁ。

  • @user-gm9hb3gq5o

    @user-gm9hb3gq5o

    Жыл бұрын

    イングランド「たった百数十年でブリテン島から大西洋の向こうへ移民した宗教家・貧民・犯罪者が新大陸で独立とか言い出して、チート帝国を築いた件について…」

  • @toshiyam2853

    @toshiyam2853

    Жыл бұрын

    @@user-gm9hb3gq5o 技術力の差がありますね。鉄器は豊富で武力も卓越してます。同列に並べるのが無茶ですね。麦畑と比較して水田の造設は大変手間がかかります。あれはインフラと呼んでも良いレベル。それを乏しい金属器や石器で成し遂げるわけです。時間がかかって当然です

  • @user-gc4lu1ur2p
    @user-gc4lu1ur2p Жыл бұрын

    自分は北九州(邪馬台国他)は元々、大陸との交流(交易)があって、日向とかは北九州を通じて交易していた しかし、何らかの理由(桜島の噴火で凶作?若しくはジリ貧で新天地を求めたか?)で日向から神武東征 奈良盆地で力を蓄え大和王権となる 順調に力を蓄えた大和王権が北九州を圧迫、北九州の利権の奪取を狙う 北九州は交易の利権を守るために魏に朝貢して交易ルートの独占を考える(卑弥呼の時代で金印貰う) 神功皇后が交易ルートを圧迫された土蜘蛛辺りを味方に引き入れ大陸側に手を伸ばして独自の交易ルート確立 魏の衰退もあり、従わない勢力を討伐(多分、邪馬台国もこの辺でグッバイ、目的は鉄器辺りかと) 景行天皇の時代になると交易にも慣れてきた上に様々な技術者の招致にも成功、土蜘蛛辺りに頼らなくても良くなった為、外交圧力を掛けた上で討伐 その次に熊襲に圧力を掛けて暴発させた上で出雲で物資(鉄器?)を補充しようとしたら嫌な顔されたので討伐して奪い取った上で熊襲討伐 大体、こんな流れだと思ってます

  • @user-bx8kj9ch6b
    @user-bx8kj9ch6b Жыл бұрын

    魏志倭人伝というのは、これを書いたとされている陳寿が実際に日本へ来て調べて記憶して書かれたものではなく、いろんな人から日本について聞いた話を書き綴ったものでしかありません。 どんな歴史書であってもこのような性質のものがほとんどで、現代のように第三者からきちんと検証されることはありませんでした。文字を知り、読み書きができる人は限られていましたので。書物に記述されていることが正確でないのは当たり前なのです。ですので、魏志倭人伝のような外国のことについての書物などは継ぎ接ぎだらけとなるのです。

  • @user-bx8kj9ch6b

    @user-bx8kj9ch6b

    Жыл бұрын

    追記:現代における歴史論争というのは記述の検証ですね。当時はこれがありませんでした。当時に検証されなかったものを、正確さを前提とした現代で検証しても意味は無いかと思います。否定はしませんが。

  • @user-mb5iv3ut5q
    @user-mb5iv3ut5q Жыл бұрын

    邪馬台もやまとだと考えます

  • @investor-2020
    @investor-2020 Жыл бұрын

    邪馬台国東遷説の最大の問題点は、古事記や日本書紀といった大和王権の歴史書に邪馬台国のことが出てこないことです。”天皇家の誇るべき歴史”なのであるならば、その旨しっかりと記述されるはずです。そうでないということは、邪馬台国は天皇家とは関係の無い国であったと考えるのが妥当だと思います。よって私は東遷説には疑問を持っています。

  • @kooota7455
    @kooota7455 Жыл бұрын

    邪馬台国が東遷したと言うより、投馬国の一派が東遷したと言った方がイイのかもしれませんね。 西都原遺跡には沢山の前方後円墳がありますから、機内のヤマト政権と強いつながりがあったのではないでしょうか?

  • @wrm67561
    @wrm67561 Жыл бұрын

    話はややこしくて解りづらいです。

  • @jodasow
    @jodasow Жыл бұрын

    倭は蔑称ではないように思える。というより、魯のような意味がネガティブな語を諸侯国が国号にしているわけで、この頃は基本的には佳字悪字をあまり考慮してなかったんじゃないでしょうか。もっとも匈奴のような直接的な脅威はまた別でしょうけど。

  • @user-un2lw3yq9y
    @user-un2lw3yq9y Жыл бұрын

    邪馬台国とうせんせつ? まず なぜ東へ移動する必要があるのか? なぜ 終点が奈良なのか?

  • @magical-song
    @magical-song Жыл бұрын

    2ヶ月も前の動画にコメントするのもどうかと思いますが、このチャンネルでは「九州北部(北部九州)」のことを「北九州」と呼んでいますが、「北九州」とは福岡県北九州市とその周辺地域を意味します。経済では山口県下関市とその周辺まで入る場合もあります。なので、今後は「九州北部」もしくは「北部九州」でお願いします。ちなみに南九州も、鹿児島県南九州市とその周辺地域を意味します。

  • @tanteino01
    @tanteino01 Жыл бұрын

    卑弥呼以降、急速に中国の文化を取り入れていき、刺青は無くなっていったんじゃないかと思う。自国こそ素晴らしいと思っている熊襲とは違い強い影響を受けたんじゃないかと思う。 東征も熊襲に追いやられて民族移動したのかもしれない。まぁ倭国は熊襲に滅ぼされたんやろなぁとは漠然と思う

  • @yuasa5042
    @yuasa5042 Жыл бұрын

    別勢力とは言っても鎌倉源氏か甲斐源氏の違いくらいしかなかったと思いますね だって記紀には天津神の饒速日が先に大和の地に降り立っていたと書いてあるわけだからね さしずめ、筑紫天津神(保守)と大和天津神(進歩)って感じですかね。 倭国大乱や狗奴国の圧迫で筑紫高天原は衰退の一途を辿り 大和天津に大斎王を差し出だし実権を奪われ風下に立たされたのが ちょうど邪馬台国の時代やったと思います。 それから程なく、これまた別天津神である日向天孫が熊襲と通じ後ろ盾になってもらいつつ 弱りきった筑紫の神々をアメムチしながら3世紀終わりごろ東に打って出たのが神武東征やね。

  • @user-gb9le9lv3k
    @user-gb9le9lv3k Жыл бұрын

    肥前説にー票

  • @hosozoku
    @hosozoku Жыл бұрын

    ❎北九州 ✅北部九州 ✅九州北部

  • @amakun0115
    @amakun0115 Жыл бұрын

    吉野ケ里が3世紀末に、自分たちでここを畳んでおり、皆で移住したのではとの説があります。私は東遷より東征の方が可能性があると考えます。力のある一部地域が実行したのではと考えます。BS番組でこの問題が取り上げられ、「埋葬者に高価な副葬品を供えるという、それまでは九州のみの風習だった行事が、纏向が発展するにつれ、畿内にも広まった事実が確認される。これは九州もしくは吉備辺りからの遷都が考えられるのでは?」と、問い掛けがあり、それに対し畿内説学者は全く答えられなかった。ただ一人、纏向発掘学者のみ発言があり、「大阪湾には多くの遺跡が眠っていると思うが、畿内の学者は調べようとしない」と、嘆いていました。何が何でも、畿内を文化発祥の地にしたい様です。

  • @ernest-tachibana
    @ernest-tachibana Жыл бұрын

    自分も邪馬台国東遷説はありえないと思います。卑弥呼=天照大御神についても卑弥呼は魏志倭人伝の中で 「年長じて夫なし・・」と記されているので当然子供も居なかった筈で、それに対して天照大御神には子もいれば孫もいます。卑弥呼に実子が居なかったからこそ 後継者が子でも孫でもない宗女の台与となったのでしょう。 卑弥呼が天皇家の皇祖(天照大御神)となる為にはどうしても卑弥呼に子が居なくてはならないので、卑弥呼=天照大御神 説は成り立ちませんよね。 しかし、こうして見ると邪馬台国が北部九州で高天原が四国だったとすれば、色々と辻褄が合っているんじゃないか・・? と思われるのですが。

  • @user-um9yo2xg6b
    @user-um9yo2xg6b Жыл бұрын

    卑弥呼=天照大神、壱与=神功皇后→箸墓 神武=祟神=応神 日本書紀編纂時、藤原不比等が有り得ない古い歴史にするための改ざんが未だに問けない。

  • @renren5491
    @renren5491 Жыл бұрын

    魏の権威を飛鳥の時代に振りかざしても仕方がない。また中国から見た日本観であることも考慮に入れる必要がある。 ヤマト王権は、前方後円墳を受け継ぎ継承されたことがうかがえるが、記紀が生まれた頃の王朝との関連は不明な部分も多い。 万世一系と考える方が無理がある。基盤地域は同じながら、権力構造は変わった可能性が高いことだろう。

  • @user-uc4wi6ox6h
    @user-uc4wi6ox6h Жыл бұрын

    全部ウソだろ

  • @user-ip7jy8qb6o
    @user-ip7jy8qb6o Жыл бұрын

    「ヒミコ」て個人名じゃなく役名、だから何代もいたと思う。九州のどっかに で、最後の「ヒミコ」が神功皇后になった女性と想像 この時代、大和のオオキミと九州のヒミコ、両TOPが政略結婚した。仲哀と神功 で神功が大和を乗取りその子応神が継いだ。で地名変えたし東遷神話も作った と大学の時20年以上前に妄想。まあどっちでもいいけど自作妄想は記憶には残るw また九州旅行に行きたくなってきた

  • @eresseeresse478
    @eresseeresse478 Жыл бұрын

    三種の神器の鏡と剣の原型は魏の国から卑弥呼の使者が持ち込んだものでしょうし、他国(倭)を滅ぼし鏡や剣を奪って我が国の宝とした記録もないし、記紀に魏に使いを出した歴史が書かれなかった理由は、他国に頭を下げた歴史を書きたくなかったからではないですか。 そもそも記紀が書かれたのは卑弥呼の時代から3~400年?も後の時代だし。 邪馬臺国が東遷したからこそ神武天皇の東征が祖先の歴史として残っているので、奈良のヤマト(ナガスネヒコの国)が神武天皇が出征した国を滅ぼしたのなら奈良のヤマトが九州の卑弥呼の国を滅ぼした歴史が残り、神武天皇の東征は歴史から抹殺されているでしょう。 別のページで神武天皇の東征を事実と言い、ここでは神武天皇に征服された国(ナガスネヒコの)国が九州の邪馬臺国を滅ぼしたと言う。

  • @zallful12
    @zallful12 Жыл бұрын

    高天原が中国(魏)だ

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