【ゆっくり解説】倭種とは何なのか
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Пікірлер: 53
旧唐書にも倭国と日本国が出てきて別って書いてるから大陸は2つの勢力の存在を認識してたっぽいね。
@user-gg7cu2hz7p
10 ай бұрын
倭国が日本国に改名した事に気づかなかった、もしくは別国だと勘違いして書いた説がある。
@hirouchida3068
9 ай бұрын
@@user-gg7cu2hz7p 気づかなかったor勘違いはないと思うよ。改名説と併合説をきちんと本文内に併記しているので。 その上で倭国伝と日本伝をそもそも分けてたり、日本国は倭国の別種なりと明確に記述しているので、大陸側はどちらかというと別勢力説に傾きつつも結論を留保している感じじゃないかな?
僕も同じ意見です。新羅本紀の「倭国の東北一千里の場所」の事を知りませんでしたので、大変勉強になりました。ありがとうございます。
全て、全く、自然で素直な理解ですね。
古代の中国にとって倭とか倭国という概念は現在の日本や日本列島と比べてずっと狭い範囲のものでしかないということ
ほとんど同意。 にしても倭種を知らない人が多くて逆に驚いた
倭種というのは初めて聞きました
倭種。初めて聞きました。続編をお待ちします。
興味深い内容でした。 倭種の事はあまり意識していませんでした。 思考の幅が拡がりました。卑弥呼のお墓は百人の殉葬者のお墓がヒントになるかもしれませんね。
@beatnixspeedster2963
10 ай бұрын
日本の国土は火山性酸性土 骨などは全部溶けて跡形も無く消え失せる 一部酸性土壌では無い地域がある 其処から一万年以上前の人骨が出る
同意見です。
女王国より東に倭種の国がある記述は、隋書倭国伝でも筑紫より東は、秦王国があると記述してあるので間違い無いと思います。 三国史記新羅本記にも、昔脱解の故郷は、倭国の東北一千里の多婆那国にあると記述しており、倭国が北九州にあると考えた方が自然だと思います。 ただ、何れかの時期に筑紫から阿波に邪馬台国が移った可能性も考えられます。 近畿に都を築いたのは、壬申の乱以降中央集権国家が樹立した後だとおもいます。
卑弥呼の墓の周りには100人分の人骨が埋まっている。でもそんな人骨だらけの古墳が発掘されたことはない。1800年も経てば人骨も完全に土に返るのかもしれないが
初めて聞きました
邪馬台国が踏み込めない地
当時の中華王朝の史書に、北や南、西の蛮族がどのように記述されているかで、東の倭の記述も比較できそうなものだが・・、そういったのは少ないよね。北方の騎馬民族、益州の西の民族、山越やさらに南の民族に対して、距離や国の制度や民族性などの記述を計れば、日本も解りそうなものだけど。 現実的に、当時の日本はおそらくは何周か遅れで中華の制度が少し入っているはずなので、戦国春秋の頃のそれぞれ社稷の違う小国乱立に似た状況ではないかなと。
鷲羽?
ヨウムの喋る速度も2人に合わせてくれるとありがたいっス
概ね同意ですが、百歩の解釈だけおかしいですね。歩は長さの単位で、1里=300歩です。1里=400m(韓伝・倭人伝以外の三国志の距離感)とすれば百歩=130m程度、1里=75m(魏志韓伝・倭人伝の距離感)とすれば百歩=25mとなります。
倭種は日本語を話す人々かもと思ってしまいました
8:04 普通に考えたら卑弥呼の墓の「歩」は尺貫法の歩(ぶ)でしょ。晋の頃の1歩は1.452mらしい。日本では長さとしては廃れた単位だけど、今でも面積の単位(町歩)に名残りがある。
千年後に書かれた東方見聞録でさえめちゃくちゃなのだからその時代に邪馬台国の位置が正確に記述されているとは思えない。 例えば正史でも兵数を何十倍に誇張したりするし、これも日数を何十倍に誇張したことも考えられる。
邪馬台と大和の音声の近さは気になるな。同じとまでは言わなくても、何らかの関係がありそうだな
倭種と言う表現だと倭人を和牛の様に思ってたかも知れませんね!
2:25 琵琶湖やで。琵琶湖渡った先の越の国。
願師古注の魏略逸文に「倭在帯方東南大海中依山島為国度海千里復有国皆倭種」とあります。 これが答えですね。
ワシと言ってるのを聞いたんでしょうね
冗談ですけど、日本から海を東に行くと、ハワイ王国?米大陸のインディアン???米大陸まで行くと中米付近は当時文明国だったらしいし。
そんな話聞いたことないねえと思ったけど、ここの 1:19 の訳が間違えてますね。 ここでの復は副詞なので、①また②ふたたび という意味になり別々という意味はありません。 おそらく複(=複数)と間違えたのでは? よってその後の文章も「それらの国々の民衆 "も" 皆倭種である」になります。 あと、歩というのは尺と同じく単位です。 6尺=1歩(140cmくらい) ※[歩 (尺貫法)]で検索
九州北部に邪馬台国、九州中部の部族が流浪してたどり着いた機内で立ち上げたのが大和王朝、これが一番しっくりいくと常々思っています。というか魏志倭人伝や後漢書を読む限りそうなると思うんだが
5:52 歴史に政治的な問題を持ち込むw 7:23 邪馬台国と一大卒の関係は、大和朝廷と大宰府の関係に繋がってくると思われます。役職の名前もかなり近いらしい・・・。
@hirouchida3068
9 ай бұрын
うーん。何に対して政治的な問題と言っているかは分からないですが、「自女王國以北特置一大率」とあるので女王国の北側に一大率があったかと。 一大卒=大宰府というのはあり得ると思いますが、大和朝廷と大宰府との関係はまた別の話なのでは?
古墳と稲作の関係が知りたい。埴輪には馬があるけど鹿かな?w
倭種とかもはや人間扱いじゃないな
そもそも倭種なんて言葉を初めて聞いたけど人種云々と言うより大陸の人から見たら九州と本州で別の国の人って扱いだったって事かな🙄 しかし実際本当に邪馬台国と大和朝廷が両立していたのかとか邪馬台国の場所がどこにあるのかとか分からん事ばかりだなあ💦
@user-oi8lp2es8t
10 ай бұрын
フェニキア人やギリシア人みたいに、移民後の集落は別の国扱いしていたのかも。
@user-qx5ww1sj9u
10 ай бұрын
@@user-oi8lp2es8t 確かにそう言うのはあるかも知れませんな🙄
素晴らしい。 というかワイと同じ意見ですなぁ。いろいろな動画を見てきたけれど、ここの動画が一番スッキリする。 個人的には、卑弥呼の時代の邪馬台国と台与の時代の邪馬台国の「場所」が違うんじゃないかなってこと。 纏向が「台与」ならばあり得るんだよなぁ。。。卑弥呼はそう九州ってこと。
成る程 邪馬台国は九州以外という事でしょうね
@may23k68
8 ай бұрын
そうなんだよ。 邪馬台国は九州以外なんだ。
町興しの具になってるから、かなりの決定力が有るネタが出ないと、邪馬台国の場所は特定されないでしょうね 卑弥呼の墓には、大量の人骨が埋まってる訳ですな 邪馬台国が大和政権の事ではないかと思ったり
出雲を無視した議論はほとんど意味ないでしょうな
@user-vt1lh6jq2j
8 ай бұрын
@@conspiracy_shine 杯、全く理解負脳です
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種、又有侏儒國在其南、人長三四尺」 女王國とは伊都国、奴国、不弥国(福岡市付近)のことで、博多湾から1000里(80km)で山口県、中国地方が倭種であり、その南に侏儒國が又在った(四国に侏儒國) 「去女王四千餘里、又有裸國、黒齒國、復在其東南、船行一年可至」 女王(邪馬台国)を去る4000里(320km)に裸國、黒齒國が南東の方角に在った(大分国東半島付近から320kmで関西付近に裸國、黒齒國)船で行くと一年で至るべし(12日を12月と誤認した可能性大) 「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」 卑弥呼は既に死んでいて、多数の塚が作られた、径100歩に殉葬者の奴婢100余人。
@nekono_mimikon
10 ай бұрын
魏志倭人伝では短里が使われているという主張が一部にありますが、三国志全体を見れば短里はありえず、一里は400m程度だったと考えられています。 当時の軍勢の一日の行軍速度は通常で40里程度とされますが、短里では僅かに3.2kmと現代人が1時間のんびり散歩した程度の距離しか進まない事になります。 劉備が曹操の襲来に怯えて家族を捨てて逃げ出す長坂の戦いでは、劉備一団は勝手に付いて来たとされる10万人もの群衆が原因で一日10余里しか進めなかったとされますが、これを短里で考えると僅か800m程度しか進めていません。 一方で曹操は精鋭騎兵を率い一日一夜を強行軍で300余里を走り抜けて追いつきますが、短里では24km程度でしかなく普通に歩いても半日あれば追いついてしまいます。 一里が400m程度でも劉備の一団は一日4km余りしか進めない事になりますが、荷物を担いで逃げる無秩序な10万人の老若男女に紛れているとしたら仕方がないでしょう。
@user-in2jy7ov6n
10 ай бұрын
短里が使われているの三国志の中でも東夷伝だけですね、公孫氏あたりが使用していたのが公孫氏滅亡で帯方郡にあった資料を陳寿が入手して使用したのかも。
隼人はインドネシア人、倭人は縄文人。
邪馬薹国はヤマト国と呼びます。奈良はヤマトではなくてオオヤマトで漢字は大倭奈良で倭(ヤマト)とは別の国です。ヤマトは倭京があった徳島で徳島は大倭奈良の遷都前の1000年間粟が倭(ヤマト)国で倭京の近くには倭大国魂神社(延喜式式内社、日本1座)と倭大国敷神社があり、倭(ヤマト)の中心部になります。