【ゆっくり解説】狗奴国東遷説

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Пікірлер: 73

  • @user-eh8em4mw6y
    @user-eh8em4mw6y8 ай бұрын

    NHKによく出る小和田哲夫さん(戦国時代が御専門みたいですが)が日本の通史のわかりやすい本の中で、九州邪馬台国東遷説に並べて「狗奴国東遷説、邪馬台国でなくて狗奴国というのがミソである」と少し楽しそうな感じ強調して紹介してたのが印象に残りました。邪馬台国連合が合従?して対抗した狗奴国もどんな国だったのでしょうね。

  • @user-lm9sy2qq6w
    @user-lm9sy2qq6w8 ай бұрын

    狗奴国は「クナ=クニ」という上代東国語の一般名詞に対して「国」をつけたものだという説があります。「チゲ鍋」みたいなもので、チゲは鍋という意味なのに、もう一回同じ言葉をくっつけて異なる言葉を使う人にとっても理解しやすいようにした状態ですね。 狗奴国は固有の地名だと思い込んでいたので私も大変仰天しましたが、納得感があります。なお大前提として狗奴国も狗古智卑狗も上代東国語で解釈する場合、現在の岐阜・静岡より東のどこかにあった、ということになります。

  • @gc8zacc3
    @gc8zacc39 ай бұрын

    狗奴国東遷説、おもしろいですね。ただ、神武東征は邪馬台国の一部、宇佐が手厚い支援をしてるんですよね。このへんをどう考察するか。個人的には宮崎の勢力と熊本県南部の勢力は別勢力だと思ってます。あの辺りを頻繁に行来してた経験からすると、地形で峻別されてるイメージなんですよね。後に大和朝廷が九州を平定する時に出てくる女王(女酋長)たちが、卑弥呼の末裔だと思います。

  • @nagino_matasaburo
    @nagino_matasaburo9 ай бұрын

    弥生時代の物とされる「免田式土器」は現在の熊本から鹿児島にかけて特に濃厚に出土していますね。このエリアが弥生時代に一つの文化圏を形成していたのは間違いないと言えそうです。ちなみに宮崎から免田式土器はあまり出土していないようですね🤔

  • @user-pi4sf8hi6x
    @user-pi4sf8hi6x3 ай бұрын

    指定天皇陵調査するしかないで

  • @sonnawakana
    @sonnawakana9 ай бұрын

    問題なのは150年で全身入れ墨の風習が消えた、という事ね。風習って完全に滅びないと無くなるものじゃない。邪馬台国は土蜘蛛なんだよ。ヤマタノオロチも全身入れ墨のイメージに合致するけど。とにかく一つの風習が短期間に消えたのは事実なのね。

  • @user-cs6gj6kh5p

    @user-cs6gj6kh5p

    9 ай бұрын

    現在でも青刺文化はありますよ、主に恐い893な人たちですが、カタギになって態々入墨を消す人もいます、私有民が怖がらないように努力したのでしょう。

  • @aaaaa-gk1uf

    @aaaaa-gk1uf

    8 ай бұрын

    @@user-cs6gj6kh5p全身刺青の風習言うてるやん

  • @akiyoshi5907
    @akiyoshi59079 ай бұрын

    弥生晩期の鉄鏃や石鏃が熊本北部から豊後を結んだラインにかけて大量に出土しているから、そういうことでしょ これは狗奴国との戦闘の痕跡でしょう😮 東九州を日向から北上して、豊国を平らげた神武連隊の功績が一番大きかったのかも知れませんね😊

  • @shou-sho
    @shou-sho9 ай бұрын

    たぶん狗奴国は呉と結んでいました。 邪馬台国が魏に朝貢した後の赤烏七年(244)の呉鏡が見つかっています。 見つかったのは兵庫県、それも4世紀の古墳ですがまあ鏡は移動するのでね。

  • @kikuaki-fy3og
    @kikuaki-fy3og9 ай бұрын

    狗奴国王キクチヒコ、きっと俺たちのご先祖さんなんだろうな、邪馬台国卑弥呼のライバルなんてかっこいい。

  • @user-ql4ri8nx5x
    @user-ql4ri8nx5x9 ай бұрын

    ただ、狗奴国が邪馬台国の南にあると言うのは間違いです。魏志倭人伝の該当部分は「其の」としか書いておらず、この「其の」はそこまで書かれていた奴国を指すとも考えられ、その場合は狗奴国は奴国の南にあると読めて、女王国が狗奴国の南に在るとは読めません。これは後漢書の読み方の誤りが全ての発端で、学者が後漢書の記述を「(奴国が)倭国の極南界にある」と間違えて読んだせいです。これはひどい誤りなのに通説になっています。後漢書の「倭国の」と言う主語と「極南界也」と言う述語の間に、「使人」と言う主語と「自ら大夫と言う」と言う述語が入っていて変な構文になっています。通常ならば主語と述語の間に別な主語と述語が入ることはありえませんが、学者先生達はそれを無理やり通しているのです。恐らく本当はそう読むのではなく、「使人は自ら大夫と言い、南界を極めたと言い」それをもって(確かにお前は倭国の王だと認めて)金印を授けたと読むのだと思います。その場合、その記録が中国に残っており、それを元に陳寿は魏志倭人伝を書いたので、帯方郡から不彌國までの記述(これは中国の使者の実際の行動を書いた)と投馬國及び邪馬台国への行程(これは後漢書に書かれた倭人の朝貢の記録)が(基づく書類が違うせいで)全く書き方が違うのです。それ故に帯方郡から不彌國までは北から南へ書かれているのに、女王国から奴国(及び狗奴国)は(金印をもらった証拠に女王国に至る征服の記録を元にしているので)南から北へ書かれているのです。そして、後漢書に書かれた倭人の朝貢の時代までは狗奴国は邪馬台国の一部で、倭国大乱の際に分かれたとすれば、(倭国大乱前の資料を基にしたのであれば)女王国に従う奴国までの国と同様に(元は邪馬台国の一部だったので)従わない狗奴国も女王国の北側の国の一つと読めて、冒頭に書いた「其の」は奴国のことを指していると読んでもおかしくはないと思います。

  • @iriyaanko8149
    @iriyaanko81499 ай бұрын

    魏志倭人伝の元になった魏略には呉についても記載があります。 越に負けた呉の難民は熊本(菊池川流域)当たりに住みつきました。後に狗奴国となったようです。 実は神武天皇は狗奴国(の日向村)出身です。そのためある意味狗奴国東遷は正しく、ただし以下の順になります。 狗奴国より神武は北部九州(倭奴国)を攻め、九州を統一しヤマト王権を確立、のちに畿内方面に東遷 邪馬台はヤマトと読むのがただしいようです。考えてみれば台与の台をトとよみ、邪馬台はタイと読むのは変ですね。 福永先生の説です。 歴史書、地域伝承、考古学的な証拠を元に学問として正しく手続きを踏んおり、現在知る限りもっとも正しい説に思います。 kzread.info/dash/bejne/lXyOyqOAZ9Obn8o.html kzread.info/dash/bejne/fnqb2qakYKjbirg.html kzread.info/dash/bejne/louildl-c6jIdbQ.html kzread.info/dash/bejne/iZ-CvJhtZ662otI.html 真実は小説より奇なり、衝撃的な説ですが 現在の考古学、歴史学は、戦後の悪しき教義の下、都合の悪い史書や考古学的資料は、誤りと決めつけるか無視します。 自分の頭でよく考えるのが大切と思います。 kzread.info/dash/bejne/ZGiT2JeMpJrfYqw.html 神武亡き後、跡目争いで狗奴国勢力と物部氏など豊国勢力で抗争が続いたようです。(決死八代、卑弥呼の死につながる。)

  • @nekono_mimikon
    @nekono_mimikon9 ай бұрын

    いわゆる魏志倭人伝の記述の国を西から並べていった感じからすると、狗奴国は諏訪から関東辺りにあったんじゃないんですかね。 邪馬台国が瀬戸内から畿内にかけての諸国を併合して大勢力化した国だとして、それに対抗できる存在は建御名方神と洩矢神の伝承がある東国に割拠していた勢力だったのかなと。 東遷があったとしたら大陸式の水田技術により縄文時代から弥生時代へと九州北部から青森まで塗り替わった際の話になるでしょう。 弥生時代中期、紀元前の青森では既に大規模な水田が営まれていますし、倭国大乱の跡も残っていますから、九州北部の狭い範囲だけで弥生末を語るのは流石に無理があるのでは。

  • @jdotsystem
    @jdotsystem8 ай бұрын

    That's fantasy not real

  • @user-ql4ri8nx5x
    @user-ql4ri8nx5x9 ай бұрын

    この説は基本的に正しいと思います。物的証拠が有るからです。天皇家一族の古墳のいくつかからは熊本の馬門石(ピンク石とも言う)でできた石棺が発掘されています。もっとも天皇陵は宮内庁管理なので天皇陵以外ですが。継体天皇陵である今城塚古墳からは熊本の馬門石と岡山の石と大阪の二上山の石が出ています。推古天皇陵だとされる植山古墳からも馬門石が出土しています。継体天皇陵から3種の石が出たことから分かるように、大阪の石でもどこの石でも良いはずなのに何故熊本の石にこだわったのでしょう?石棺の石を熊本の馬門石にこだわる理由は一つしか考えられません。つまりこの3つの石棺が有ったと言うことは熊本から攻め上がった人達が一時期は吉備に住んで、その後近畿の大和王権になったと言うことです。初期の大和王権が吉備の勢力と関係が深いのは考古学(史学ではなく)上の事実です。欽明天皇陵傍の吉備姫陵の主は孝徳天皇と斉明天皇のお母さんです。神話ではありますが神功皇后は吉備の力を借りて麛坂皇子、忍熊皇子に勝っています。熊襲を熊本の勢力だと考えると無理がありますが、南九州の勢力だとすると景行天皇は熊本に有った狗奴国に関係が深く、それ故に熊襲を攻めたと考えられ神話は歴史につながります。熊本県宇土市は馬門石が熊本から近畿まで運ばれたことを実証する航海を2004年から2005年にかけて行いました。宇土市のHPに載っています。またそれは「大王のひつぎ海を渡る」と言う本にもなっています。ただ、応神天皇以前の天皇達は出身地が違うようです。この辺に色々な秘密が有るような気がします。

  • @tatinomifan
    @tatinomifan9 ай бұрын

    狗奴国の男王卑弥弓呼(一般的には「ひみここ、ひみくこ」と読む)がおり、官を狗古智卑狗(一般的には「くこちひこ、ここちひこ」と読むが「くくちひこ」(菊池彦))と言った。邪馬台国の女王卑弥呼と卑弥弓呼は「素より和せず」と戦闘状態にあったが、この戦いの最中に卑弥呼が死去したという。この対立は、兄弟・親戚の喧嘩ではないのか。簡単には、王にはなれない。親戚同士の殺し合いはしない。卑弥呼は、自殺では、ないか。また、どちらが、勝っても血統は同じ。九州東遷説は、事実です。近畿奈良の各所の地名が、意図的に邪馬台国の地名と同じにしている。

  • @seiji5431

    @seiji5431

    9 ай бұрын

    阿波徳島県では地名が九州や畿内奈良や島根や宮崎の地名がたくさんあり阿波から全部移ってますよ。

  • @user-zp4yq4nr5y

    @user-zp4yq4nr5y

    9 ай бұрын

    卑弥呼が死亡したのが80歳を超える年齢なので、老衰だと考えます。 また、邪馬台国王、狗奴国王は血族で後継者争いだったという説に私も賛成します。卑弥呼は元は伊都国の生まれという事がわかっていますので、国(クニ)=王国では無く市町村みたいなものであったと考えます。

  • @seiji5431

    @seiji5431

    9 ай бұрын

    @@user-zp4yq4nr5y ちなみに伊都国は糸島ではありませんしまつら国は松浦半島距離が身近過ぎるのではありません。壱岐から500里しかありません。また、まつら国から南東500里にいつ国(伊都国)なのに方角が違う北東糸島はおかしいです。壱岐から千里円描くと宗像の松浦潟に着きます。そこから南東500里いつ国(伊都国)はみやこ郡になります。いつ国(伊都国)はみやこ郡は日本書紀と豊前風土記に記載されてて神京があったと書いてあります。

  • @user-zp4yq4nr5y

    @user-zp4yq4nr5y

    9 ай бұрын

    @@seiji5431 距離は魏志倭人伝の引用でしょうか?『行』は歩くという意味です。陸行は陸路を歩く、水行は川沿いや海岸線を歩く、『渡』や『度』は船で水上を移動する。これを基本に読み解けば邪馬台国の位置は、おのずとわかります。遠賀川上流の田川市周辺でしょう。この読み方だと伊都国は糸島、まつら国は松浦半島でも一致します。

  • @seiji5431

    @seiji5431

    9 ай бұрын

    @@user-zp4yq4nr5y そういう勝手解釈だから田川とかになるのですね。じゃあ田川に朱が出るんですね。その山に丹ありつまり邪馬台国首都に丹ですよ。ベンガラでは無いですよ。丹砂です。すだちもたくさん取れるのですか?卑弥呼の居住所跡は?古代の格式高い官庁が認めた延喜式神社たくさんありますか?倭京ありますか?倭の大国魂の神社ありますか?Googleマップで調べて下さい。邪人伝記載されてる帯方郡から南東12000里(76,5×12000=)918kmに田川に着きますか?着かないはずです。また、田川の環境に合わないですが。日本書紀や豊前風土記には伊都国の記載がある通り古代対馬壱岐宗像(まつろ)みやこ町(伊都)豊前(奴)中津(不祢)この一帯は豪族胸形氏と宗像三女神(副官のヒナモリ)の勢力範囲で田川とか日田とか筑紫、肥国は古代豪族磐井氏の勢力です。菊地郡から南の熊本は土蜘蛛勢力で狗奴国です。尚、当時の舟は荷物乗せて川を上陸に向けて登るような舟は無いはずです。岸から岸ぐらいしかいけないはずです。

  • @shou-sho
    @shou-sho9 ай бұрын

    邪馬台国に興味持つなら、考古学のニュースにも気をとめて欲しいなあ。 先日発表された「桜井茶臼山古墳」の発掘調査で、奈良盆地の突出度がわかったんですよね。 1.箸墓古墳が卑弥呼と同時代であること 2.その勢力が西殿塚~桜井茶臼山~メスリ山~行燈山古墳と続くこと これはもう動かしようのない事実で、東遷説はありえないです。

  • @user-gc4lu1ur2p

    @user-gc4lu1ur2p

    9 ай бұрын

    卑弥呼の時代に権力者が一人しかいないわけないので本人である確証が無ければなんの証明にもならないと思う

  • @user-ow1ww6cf7p

    @user-ow1ww6cf7p

    9 ай бұрын

    どう考えても東遷説はありえないですよね。 結局邪馬台国と大和朝廷は別物だと思いますよ。 最近自分は大和朝廷に心理的なプレッシャーをかけるために、邪馬台国は魏に使い送ったのではないかと思ってます。

  • @user-gc4lu1ur2p

    @user-gc4lu1ur2p

    9 ай бұрын

    @@user-ow1ww6cf7p 自分は東遷自体はあったしたと思ってますけどね 卑弥呼から100年位後にヤマトタケルかなーと なので神武自体は卑弥呼より100年ほど前?に狗奴国の強大化で東に移動した「倭種」じゃないかと思ってます そこで水稲に関わる土木技術を用いて発展したのかな?と 諏訪大社の建御名方の出雲から諏訪に逃げた逸話も古代に西から東に移動した部族がいた事象の一つだと思います 邪馬台国=大和朝廷は単純に八王の乱以降時間が空いて、外交窓口開けるときに「(今は無いけど)前と同じトコから来たんで(訂正すんのも手間だから)名前はそのままでええです」くらいな感じだと思ってます 現代でも日本はJapanで中華人民共和国はChinaで通りますから、昔も対して変わらなかったんじゃないかなーと

  • @shou-sho

    @shou-sho

    9 ай бұрын

    東遷がありえないというだけで邪馬台国や狗奴国の場所なんて何も言ってないのにな。 もう一度読み直して欲しいなあ。

  • @majesty164

    @majesty164

    8 ай бұрын

    @@shou-sho 纒向周辺の遺構や古墳の年代や規模そしてそこから巨大古墳築造につながる連続性などが、 3世紀以降の他地域から畿内への東遷、東征がありえない事を示していると思います。 まあ、一部の方は纒向の始期や箸墓古墳などの築造年代を4世紀以降として、 現在の年代比定を畿内説に寄せるためのでっち上げとまで主張されるので、 正直議論になりません。

  • @user-er2pr7wj2y
    @user-er2pr7wj2y9 ай бұрын

    邪馬台国は阿波(徳島)にあったと考えるのが一番、整合性が取れますね。 畿内説九州説では、魏志倭人伝の距離方角の記述に何か所も恣意的な訂正を加えてむりやりに整合性を取っています。 しかし阿波説(徳島)では【投馬国】の記述の一カ所だけを変えるだけですべてに整合性が取れます。 距離方角をイジる必要が一切ない。 投馬国の記述にせよ魏志倭人伝の元ネタとなった「大平御覧」を参考にして【又南至投馬国】を【又南至(於)投馬国】に変えるだけ。 阿波説は(於)を加えるだけですべてに整合性が取れるのです。 ★あと水行とは陸地に沿って舟でいくということです。河に限りません。それは魏志倭人伝の最初の部分「帯方郡から倭に到達するには海岸に従って水行」という表現で理解できます。 ★またこの頃の中国では渾天儀、周髀算経の一寸千里法といった測量技術がすごく発達していてピタゴラスの定理も編み出されており、地球上の一点から一点の直線距離をほぼ誤差なく計測できていました。 それは帯方郡から釜山や対馬、壱岐、邪馬台国の正確な距離計測を見ても明らか。 畿内説九州説派は、この計測の正確さを曖昧にして、距離方角の記述を何か所も恣意的に改ざんしているので話になりません。

  • @user-fw5jy1zf7y
    @user-fw5jy1zf7y9 ай бұрын

    出雲の元王家伝承 (我が国四千年の歴史を語る) によれば、 徐福が渡来して出雲の王女、高光媛命と成した長男、 五十猛。後に、 海(あま)香語山命の子孫、 大和王国海(あま)王朝 に 徐福が北九州(佐賀の吉野ヶ里)に 再び渡来して 北九州を支配下に置く出雲王国の分家、 胸肩(宗像)王家の 市杵島媛命と成した 次男、 彦ホホデミの子孫、 物部王家が 東征。侵攻した。 この際の有り様を 神武東征の概ね前半部分や 崇神の行に記述された。 (スサノオ(徐福と子孫勢力の暗号)が泣きわめき(戦争の比喩)、、、) 物部は約百年を隔だてて都合、二度 大和侵攻した。 (これをひとからげに神武東征とした) その初回、 大和王国ではいわゆる孝霊の代に 物部王、彦渚武王の 三人の御子らが語り合い、謀略を巡らせて大和侵攻した。 孝霊、海(あま)フトニ大王ら 大和大王家軍は 物部にまんまと踊らされて 播磨に進駐していた。 主力軍が播磨に出て手薄な大和王国(奈良盆地)の留守番をしていたのが 大彦(皇太子、大兄に同じ。) 古事記等は彼を ナガスネ彦とした。 紆余曲折の末、大和入りして磐余にたむろした物部軍は 大和王国海王朝の王家王族、豪族らを奈良盆地から一掃。 さらに各個に執拗な追撃を加えた。 大彦らも大和から逐われて 東近江~伊賀に盤踞して 琵琶湖東岸の野洲に都して 海大王家は渡来系ながら女系が出雲神族だった事から 早々に出雲化して 信仰も出雲王国の国教、 『幸の神信仰』を深く信奉していて 野洲の三上山を大和の三輪山の形代に祭祀を復活。 この際、サナグ(いわゆる銅鐸)も復活させましたが 従来の姫巫女が打ち鳴らすモノからいきなり巨大化。 国や王権の象徴の見せるサナグ(銅鐸)に変容した。 また、幸の神信仰の主神、 クナト大神に肖り、 国名を 久那斗国(王国)と号して 物部と対峙した。 大彦さまは無類の物部嫌いで知られていた。 しかし、物部の 『撃ちてしやまん』の猛攻に 頑強に抵抗してきた 久那斗王国は 瓦解を余儀なくされて 大彦は北陸方面に 御子のヌナカワワケ命らは 太平洋沿岸方面 の二手に分かれて退去。 物部軍はそれらを執拗に延々と追撃を加え続けた。 元の大和王国海王朝、大彦らの子孫勢力は東北地方で再び合流(多分、会津かと) 態勢を立て直して 強力な日本国(日ノ本の国)を建国して 関東北陸以南の 大倭王国と対峙した。 3、4世紀頃~大倭王国の鎌倉時代迄は 北の日本国と 関東以南の大倭王国に 列島が二分されていた。 もとい。 大彦が建国した 久那斗王国を 中国人は 『中華思想のマニュアル』に従い、 狗奴国。 と表記した。

  • @seiji5431
    @seiji54319 ай бұрын

    神武天皇は宮崎ではありません。神倭伊波礼日子は名前に阿波が入ってる通り阿波(倭)から大倭(奈良)に阿波鳴門の珍彦(宇志比古)を連れて東遷してます。倭は阿波で大倭は奈良です。伊は四国東部の意味でアとも呼びます。アワレひこつまり阿波です。

  • @nekono_mimikon

    @nekono_mimikon

    9 ай бұрын

    律令時代で名称が変わるまで徳島は粟で、阿波は千葉の南部の事ですよね。

  • @seiji5431

    @seiji5431

    9 ай бұрын

    @@nekono_mimikon 千葉の安房は阿波忌部が開拓した土地です。安房の安房神社社伝に記されてます。それと安房神社ウィキペディアでも書かれてますよ。また、律令前は粟国と長国です。

  • @user-gz2ty9ob6j

    @user-gz2ty9ob6j

    9 ай бұрын

    北九州にあった邪馬台国は南九州の狗奴国に負けて、北九州から畿内に移動し崇神天皇が即位しヤマト王朝が纏向にできたのではないでしょうか。一方南九州の狗奴国は熊本の火の君の初代タケオ組が大王であり、大王タケオ組が九州を平定し佐賀のあたりに都をつくり、九州王朝の貴国ができて、大王タケオ組の子が武内宿禰ではないでしょうか。つまり武内宿禰は九州王朝の大王と言う事になります。だから当時は畿内にヤマト王朝、九州に九州王朝と二つの王朝が並立したのではないでしょうか。そして景行や成務とはヤマト王朝でなく九州王朝の大王であり、景行とは大王タケオ組であり成務とは武内宿禰ではないでしょうか。だから景行天皇の熊襲征伐とは実際は狗奴国大王タケオ組が九州平定した事ではないでしょうか。

  • @seiji5431

    @seiji5431

    9 ай бұрын

    ちなみに阿波鳴門の珍彦(宇志比古)は鳴門に宇志比古神社(延喜式式内社、祭神珍彦)があります。ここから神武天皇は珍彦を連れて東遷してます。

  • @seiji5431

    @seiji5431

    8 ай бұрын

    @@Desla.T 瀬戸内海の西~東へは8世紀まで運航不可能と地政学的に証明されてます。また、須佐の男は阿波からと、にぎはやひは丹波からの移動になります。

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