【ゆっくり解説】方位と距離から見た邪馬台国、ジャワ説など

Ойын-сауық

方位から見た邪馬台国を解説します。
方角は太陽や星の動きで判断するだけではなくコンパスと使った説もあり、海の上は香時計を使って判断したとする説もあります。
意外にもジャワ島まで行ってしまったりもします。
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Пікірлер: 50

  • @kappanouen
    @kappanouen6 ай бұрын

    古代中国だと地図はそれなりに貴重なものだったので 例えば荊軻の始皇帝暗殺の時のように地図を献上することで”領土の割譲”の証になったりしたんですよね

  • @FREEDOM-vv3wu

    @FREEDOM-vv3wu

    6 ай бұрын

    または地図を手にする=土地、国を手にするですからね。

  • @shou-sho
    @shou-sho6 ай бұрын

    動画では馬鈞の方が上みたいになってましたが、三国時代における最新形の地図は魏の裴秀に求められます。 (三国志ファンにとっては裴松之のご先祖として有名ですが、裴氏自体が『新唐書』宰相世系の筆頭に挙げられている超がつく名門です) 中国地図学の祖とされる人物で、日本でいえば伊能忠敬ですね。 陳寿が見ていた地図も間違いなく裴秀が作ったものです。 裴秀が作った地図は現存しませんが、どういう地図であったかはわかっています。 彼は地図に【縮尺・方位・距離・標高・傾斜・川と道路】の6つの要素を入れることを「発明」します。 逆に言えば、この6つは入っているわけです。 例えば共通の縮尺と方位の地図を集めれば全国の地図を1枚で作れますし、距離と傾斜がわかれば移動に必要なおおよその時間がわかります。

  • @gc8zacc3
    @gc8zacc36 ай бұрын

    ジャワに行くのに朝鮮半島やら九州を経由しないと思いますけど

  • @masakiu4666

    @masakiu4666

    6 ай бұрын

    語尾がれーし風でワロタ

  • @user-tk1kn4em6e

    @user-tk1kn4em6e

    4 ай бұрын

    魏から出発するのであればあり得るでしょう。

  • @hiron114

    @hiron114

    20 күн бұрын

    ​@@user-tk1kn4em6e となると、 朝鮮半島〜九州西岸〜沖縄〜台湾〜ルソン島〜ブルネイ〜ジャカルタという航路になるか。 この航路は魏どころか、呉でも無理だと思う。

  • @yamasiyama
    @yamasiyama6 ай бұрын

    一万二千里って、起点が帯方郡からなのか? 都から帯方郡まで五千里というなら、都から帯方郡経由で邪馬台国までの総距離一万二千里とかの可能性もあるのでは

  • @YO-high
    @YO-high6 ай бұрын

    古代中国では、地表が「平面」だと考えられてましたが、「球面」であるとわかったのかといえば、1500年代からだそうです。 その前に、宇宙が「球形」であるという認識は、前漢代紀元前1世紀ごろ「渾天儀」が作られたあたりかららしい。 「天」が球でも、「地」が球だとは、考えなかったんだよね。大陸国家だから仕方がない。 で、球面での長距離の計測はほぼほぼ無理であり、ましてや海上ではさらに難しいって話です。 一寸千里法を使えば、近距離では、緯度の方角では計測できるけれど、経度の方角では無理ですからね。 この一寸千里法も、「もし地面が球面」であると「知ってたら」、1里=75mになるっていう計算をした人がいます。 もしかしたら、東夷伝の中のにしか存在しない「単里:75m」ってのは、「球面」であることを知ってた「海洋民族」の倭人から聞いたのでは無いかと妄想しております。(海で暮らしていれば、海上では球であることを自覚しやすいからね。) ワイ的には、「地図」というよりは、「□□まで南に○○里」みたいな書き方の方が便利なので、記載はそのように行われたと考えております。実際「地理志」はそう書かれてますしね。 面白かったです。

  • @user-rs6dn7zl3l
    @user-rs6dn7zl3l4 ай бұрын

    陰影で直線距離908キロ薩摩仙台が有力です伊万里はコジェ島からの線上にあり楽浪郡から9840里になります残り距離で考えないです会稽東治の東です上海の真東です薩摩と大隅合わせ7万戸になります気象変動で当時は米作適地だったと思います

  • @user-rs6dn7zl3l

    @user-rs6dn7zl3l

    4 ай бұрын

    徐福の関連で薩摩市来がありコンパスを使って来日したかもしれない 気候変動の間違いです 伊都国吉野ヶ里から南に水行10日帰路陸行1月で日田ふみ国になります 長里100里43.4キロで奴国久留米に筑紫川を下れます種子島から伊都国まで4000里です303キロ

  • @user-tk1kn4em6e
    @user-tk1kn4em6e4 ай бұрын

    倭人の海のネットワークは凄いものだと思う事が大切。

  • @hiron114

    @hiron114

    20 күн бұрын

    陸地が山や谷ばっかりで、陸地の開発が難しいですからね。 進出するなら、基本的に海洋になっていくと思います。

  • @user-rq3oc9mi6u
    @user-rq3oc9mi6u6 ай бұрын

    生きてる間に謎が判明するといいなー

  • @user-rs6dn7zl3l
    @user-rs6dn7zl3l23 күн бұрын

    会稽東治の東は薩摩川内であり北緯31.8度であり楽浪郡とは7.2度離れており5倍すると地球の大きさ4万キロになります陳寿が驚いたわけです

  • @hu4263
    @hu42636 ай бұрын

    指南魚を持っていた。磁鉄鉱の特性を知っていた。

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s6 ай бұрын

    海上の距離は測れなかったとあるから、万二千余里は、帯方から邪馬台国までの直線距離では無いね。此処は道里の総和が順当。 で、不彌国からは1300里(又は1400里、約100㎞)で決定だから、陸行日数は多くても15~20日止まり。 依って、不彌国の南至邪馬台国女王之所都の「水行10日陸行1月」は、不彌国→女王之所都のことではないと確定する。 やはり帯方郡からの総所要日数と考えるのが妥当。

  • @AKIHIKO-uz7wf
    @AKIHIKO-uz7wf2 ай бұрын

    3X+Y=Z。これは、ご存知のとうり、新説チャンネルさんの提案される公式です。さて、Zの値は、1300なのか?それとも、1400なのか?わずか100の違いなのだが、これは大違い❗つまり、分岐点が何処だ⁉️という大問題なのです🎵😊

  • @user-xf9ln1st2v
    @user-xf9ln1st2v5 ай бұрын

    これの約千年後に書かれた東方見聞録の ジパングの記述でもデタラメだから。

  • @chartreux8673
    @chartreux86736 ай бұрын

    東南アジア方面説を取るとなると、朝鮮半島まではほぼ正確と思われる記述との整合性が取れなくなるような そこからいきなり東南方面に転身して、かつ(大陸沿岸であれば既知であり認知と記載は容易いので)沿岸以外の部分を当時の航海技術で渡ったことを想定しなくてはならない

  • @user-qu5rq9gs6s
    @user-qu5rq9gs6s6 ай бұрын

    ここでも東南陸行到る伊都国の件は、鬼門と見たのかな? しかし風水の真の鬼門は、くだんの北東(の糸島)になるのだがね・・w、

  • @tsushima0527
    @tsushima05276 ай бұрын

    インドネシアのジャワ島が邪馬台国?急にハウスのジャワカレー食べたくなった!

  • @greendolphin7085
    @greendolphin7085Ай бұрын

    万二千里が実際の距離だと考えてることが笑える 万二千里は当時中国人の概念上の距離ですよ 邪馬台国までの距離が里数で分かっているのなら、不彌国から投馬国や邪馬台国までの距離が里数で書かれているはずですね

  • @user-qx5ww1sj9u
    @user-qx5ww1sj9u6 ай бұрын

    精度云々は別としてもそんな昔から地図ってもんが存在してたって事自体ビックリですわ🙄 しかしガリレオよりも遥か前にこんな天才が居たとか張衡とか馬鈞ってすげえなあ✨

  • @kooota7455
    @kooota74556 ай бұрын

    そもそも、邪馬台国がどこだったかって小さな問題と思うんです。 当時の中国でも支配国が色々と変わってますし、当時の日本でも色々と変わっているのが当然だと思います。 何が言いたいかといえば、ヤマトという地名は現在でもあちこちにあり、当時の邪馬台国がどこの地方のヤマトかは・・・はたして現在まで残っているのか???

  • @FREEDOM-vv3wu

    @FREEDOM-vv3wu

    6 ай бұрын

    それでも、海外で言うならローマ滅亡原因くらい議論価値があるんですよ。

  • @kooota7455

    @kooota7455

    6 ай бұрын

    興味を持つことは否定しませんし、自分も興味あるから考えてるわけです。 例えば邪馬台国が台湾だったとしたら、日本人のプライドがそがれる程度の問題でしかない・・・のかな・・・むりか?? 私にとってはクイズの答えを求める程度なだけです。

  • @FREEDOM-vv3wu

    @FREEDOM-vv3wu

    6 ай бұрын

    私自身、卑弥呼の墓や邪馬台国の場所、本能寺(の変や信長、光秀の死)には熱心ではありません。むしろ義経ジンギスカン説の方が大好きなので。

  • @nekono_mimikon

    @nekono_mimikon

    6 ай бұрын

    逆に考えるべきでしょう。 邪馬台国は広大な領域を持っていたので、現在でも邪馬台国由来のヤマトの地名があちこちに残っているのだと。 倭国大乱により小国を10国20国と併合していった結果で7万戸という勢力にまで成長したとして、当然ながらその領域は10国20国分になる筈です。

  • @kooota7455

    @kooota7455

    6 ай бұрын

    山戸や山門と書かれることから、地形的な名称が元である事が多い印象です。 謎が解けることはないでしょうけどね・・・。

  • @KOHBO1
    @KOHBO16 ай бұрын

    こちらに当時の測量技術についての話が出てますよ kzread.info/dash/bejne/Z6qo0MeteKvPhrw.html

  • @user-mh8bf7md5i
    @user-mh8bf7md5i6 ай бұрын

    やっぱりれーしさんが紹介した動画のように、倭国の接待等で日数がかかった説、ある場所を起点とした放射説がしっくりくると思います。

  • @user-in2jy7ov6n
    @user-in2jy7ov6n6 ай бұрын

    帯方郡から女王国までが12000里(960km) 帯方郡から邪馬台国までが水行20日、水行10日と陸行1日 同じ行程を距離と時間で説明してるだけのこと。

  • @user-qx5fv4uj9f

    @user-qx5fv4uj9f

    6 ай бұрын

    余りに誤字脱稿がひどく、見てられない。

  • @pupupu6438
    @pupupu64386 ай бұрын

    直線距離は正確な地図がないと無理。普通に考えれば解るよ。当時に倭国の正確な地図があるはず無い。

  • @show_kazitani
    @show_kazitani6 ай бұрын

    ジャワ大国やったか!! そりゃあ見つからんて!

  • @wajin5695
    @wajin56956 ай бұрын

    魏志倭人伝の里数は、77m短里とするとデジタルマップに何故か符合する。観念的解釈や陰陽五行説などとすると、現在地図に符合するは不自然である。当時は短里など制定されていなかったので、必然的に77mとなる方法を使ったと考えるしかない。  ただ、海峡を跨ぐので歩測では不可能、よって天文観測であろう。ただ、東西は時計が無いと測れないので、時計を使わない方法だろう。  さらに、2点間の距離を測るのは無理なので、治所ではなく、別の目的で距離を測ったと考える必要もある。240118

  • @KOHBO1

    @KOHBO1

    6 ай бұрын

    砂時計を水を使って行う水時計というものがありましたよ 当時の天文学を使えば、2地点間の距離は 南北は正午の影の長さ 東西は月食の起こる時刻か月の方角で分かります 当時の教科書である九章算術・周髀算経・海島算経を用いれば十分に可能な測量らしいですよ

  • @wajin5695

    @wajin5695

    6 ай бұрын

    @@KOHBO1 様 南北は一寸千里法でなら77m短里で距離が必然的に測れます。しかし、東西距離を短里で測れますかね。  また2つの水時計を並べて精度を確認し、粘度・気圧の違う場所でも同精度かを確認する必要があるほか、地球の大きさも短里が必要。短里のメジャーはどうやって作るか、など疑問。  月食の始まりか、終わりかを合図に時計をスタートさせる案もありますが、月食はダラダラとしているので、時差は30分ほどだが誤差が多い、無線通信がないと測量に成功したが確認が取れない、夏至と月食が同日ってあるか、など懸念あり。  ほかの方法も模索すべきと、考えたことがあります。

  • @KOHBO1

    @KOHBO1

    6 ай бұрын

    @@wajin5695 水時計の起点または終点は正午だと考えます。 影が真北に、最も短くなるので、毎日の正午がわかります。 水時計でどれくらいの精度が必要かを考察しますと 赤道の周長が40,075kmで、北緯35度くらいですともう少し短く(精度がよく)なりますが概算としてこれを用います。 これを一日で回りますので、40,075km/24時間/60分=27.8km/分となり、1分の誤差であれば問題なさそうな距離の27.8kmとなります。 吉野川は東西に70~100kmほどです。(注:阿波説の動画のノリで書いてしまいましたが、まぁそんな感じの距離とイメージしてください) 月食の始まりと終わりに関しては、どちらか決め事にしてもよいですし、基準となる中国側は両方を測量するなどの方法もあります。 欠ける大きさが違うでしょうから、始まりと終わりの両方を測って真ん中の時刻であわせるのがベストだと思いますが。 平安時代に陰陽寮があったように、月食の起こるときは必ず時刻や方位を測量すると決め事にしておけば、〇〇年△月×日の月食を邪馬台国で測量したと報告すれば、無線がなくてもよいことになります。官僚は暦を作るでしょうし中国本土の測量でも使いますので、十分にあり得る話だと思います。 といった感じで、本気を出せば十分に測量できる学問レベルではあったと考えていますが 一番ネックなのは、遠いのでめんどくさがってそこまでちゃんと測量していないというのがあります・・・w

  • @wajin5695

    @wajin5695

    6 ай бұрын

    ​@@KOHBO1 様 月食の起きる日は、予想できたとして、測定箇所は何箇所もありますよ、500里もありますよ。曇や雨はどうするですか。勝手な想像ですが、魏の測量班が難升米の帰国に同行して、女王国への行軍距離を測量したと思います。測量時間は2年以内ほど、時間が無いので禁断の一寸千里法を使ったのでしょう。  一寸千里法は、435m里と異なり、実用的ではありません、それを承知で77m短里で測ったと思います。会稽の東、つまり会稽は女王国の西ということで、実の距離感つまり行軍距離を得たと、勝手想像です。

  • @KOHBO1

    @KOHBO1

    6 ай бұрын

    @@wajin5695 帯方郡から阿波へは、南に500km(6500里)、東に800km(10000里)、最短距離で940km(12000里)です。 東西に50kmずれたとしても900~980km、500里ずれたとしても11500~12350里程度には収まります。 月食の日が曇りなどもあるでしょうし、そもそも測量誤差が気になりますので、複数回の測量をおこなったのではと思います。 ちなみに435m里は測量方法が異なるのでしょうか? 測量は相似図形を用いることに変わりないですので、一寸千里法か、一寸77/435千里法の違いにしかならない気もします。

  • @kenn8438
    @kenn84386 ай бұрын

    大陸の地図があったとしても半島や倭国の地図はなかった。 あったら「計其道里..」なんて書くはずがない。

  • @Eilanya1945
    @Eilanya19456 ай бұрын

    邪馬台国、ムー大陸説を唱えたい。

  • @user-uz3iz6db8f
    @user-uz3iz6db8f6 ай бұрын

    総合的に考えて、畿内以外考えられないんだよな。

  • @trinitydisconnect
    @trinitydisconnect6 ай бұрын

    東夷伝を考察する場合。経度は帯方郡に合わせましょう。合わさないと方位理解できませんよね。 会稽を考察するなら。経度を会稽に合わせましょう。合わさないと方位理解できませんよね。 倭人伝を考察するなら東夷伝を熟読しましょう。天子爲其絕域委以海外之事。委は捨て去る。陳寿は海外の記述はしなかったのかも? なら、倭人伝の記述は、裴松之の百納。萬2000里で半島南部に到達してるので陳寿はここまで?いつから12000里と思い込んだのか? 水行も陸行も倭人伝以外の正史三国志には、使用されませんので、裴松之の用語かも? 異面人は日の出の方向にいると東夷伝には記述あるのが気になる気。

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