法話 高科修が語る「歎異抄」真宗大谷派僧侶 高科 修 師20230714

【目次】
00:00 オープニング 「今回の小話の内容は?」
01:56 タイトルコール
02:08 本編 高科修が語る「歎異抄」
02:09 「歎異抄」が伝えたかったことは?の話
04:58 誰が歎く(なげく)のか?の話
21:56 他人事? 我が事?「自己とは何ぞや これ真宗」の話
23:16 広島市超覚寺さま掲示板の言葉
23:51 エンディング 恩徳讃
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法話 高科修が語る「歎異抄」真宗大谷派僧侶 高科 修 師20230714
『なくなくふでをそめて
これをしるす
なずけて『歎異抄』というべし』
この言葉が、歎異抄に接したその時より、62歳になる今まで、そして今も、ずっと私の中で『軸(じく)』となっている。
『なくなくふでもそめて』…の『なくなく』がである。
『なくなく』の言葉を目にした時…
その衝撃は凄まじかった。
私自身が問われていると感じた。
『それで…お前は…どうなのか!』と。
以来『なくなく』は、私の『軸』と成った。
62歳に成った今。
この『なくなく』が浄土真宗の『軸=宗』であると私は確信している。
この『なくなく』があればこそ、
南無気づけ阿弥陀仏気づきましたの南無阿彌陀仏を気づかせてくれるのだと確信している。
今日の動画は、
この『なくなく』とは、どういうことなのか…
この『なくなく』が、
何故…南無気づけ阿弥陀仏気づきましたの南無阿彌陀仏なのか…
そのことについて、お話しをしております。
どうか、最後まで、ご視聴頂きたく、切にお願い申し上げます。
聞いて良かったと思われましたら、グッドボタン・ご感想などコメントいただけますと、小話動画UPの励みになりますので、よろしくお願いいたします。
チャンネル登録も、よろしくお願いいたします!(^^)!
お坊さんの小話集(法話集)
 子供のころ見たり読んだりした映画や小説を、大人になってあらためて見たり読んだりすると、まったく違った感じ方をすることが、しばしばあります。
 それは…経験をつんで物事を深く見たり感じたり出来るようになっいるから…また逆に子供の頃の純真さを失っていたりするからと…その理由は様々です。
 この『小話』も…繰返し読んでみてください。自分が健康なとき、病気のとき、恋をしているとき、失恋したとき、楽しいとき、怒っているとき、身近な人の死を経験したとき…さまざまなときに読んでみてください。そのたびに、書かれている文章は同じでも、感じ方・捉え方はきっと違ったものになるはずです。
釋 完修
合掌
お坊さんの小話集
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#仏教#歎異抄#浄土真宗

Пікірлер: 67

  • @session_usagi
    @session_usagiАй бұрын

    ありがとうございました。🙏

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Ай бұрын

    羊うさぎ様 ご視聴、コメントありがとうございます。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-dx2uq3bb7m
    @user-dx2uq3bb7mАй бұрын

    時々聞かせていただいています。年を取って得度させていただいた者です。心動かされます。自覚することがいかに難しいことか、私もそう思います。今日もまた思ったことです。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Ай бұрын

    福島猛様 ご視聴、コメントありがとうございます。 「自覚することがいかに難しいことか」 …それは結論ではありません。 それでも、それを自覚せよ!とのお話しを致しております。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-mj3ob2kr5y
    @user-mj3ob2kr5y11 ай бұрын

    何時もお話ありがとうございます、 なるほどと気づきます。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    10 ай бұрын

    光裕 嶋 様 ご視聴、コメントありがとうございます。 「なるほど」 「気づきました」 でありましたなら…… どうか、 その「なるほど」 その「気づきました」を…… 光裕 嶋 様ご自身の『生きる』に生かされていかれることを、切に願っております。 南無阿彌陀仏 合掌 高科修

  • @user-or4lx3nh7m
    @user-or4lx3nh7m5 ай бұрын

    いろんな昔やってきたことが思い浮かびます。忘れていました。ありがとうございますます。大真唯唯南無阿弥陀仏。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    5 ай бұрын

    井口好一様 ご視聴、コメントありがとうございます。 思い浮かぶすべてが井口好一様の、今も歩み続けている人生であります。 嬉しい事も 楽しい事も 素敵な事も 悔しい事も 懺悔する事も 辛い事も 悲しい事も 寂しい事も 等々すべてが… 井口好一様が、誰も代わる者の居ない井口好一様の尊い人生歩みであります。 自分の生きる人生に、成功も失敗もありません。 そこに『あるの』は、 ただただ尊い大切て大事な自分の歩んだ道の積み重ねのみです。 その方だけの生きる積み重ねなのです。 だかならこそ、浄土真宗は、他の方の人生を敬い尊ぶのです。 井口好一様の歩まれている人生に、私は、ただただ合掌を致すのみであります。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-wd1qc4sh6f
    @user-wd1qc4sh6f5 ай бұрын

    ありがとうございました。自分に引き当てるといつもどこかでよそ事として最もらしい言葉を口にしていました。逃げずに生きていけるか自問自答しています

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    5 ай бұрын

    石井陽子様 他人事です。 他人事で良いのです。 だって…自分が合っていないことなのですから… 大事で大切で重要なのは…『他人事だと思ってしまう我が性根に心底気づくこと』です。 これに気づいたなら、必ず『痛み』が生まれます。 我が心に痛みが生まれます。 その痛みこそが、他人事を他人事と見ずに、我が事として引き当て、相手を慮る心遣いを生みます。 浄土真宗は、『…つもり』と『…ふり』をいたしません。 わかったつもり。 わかったふり。 知ってるつもり。 知ってるふり。 それは、『ええかっこしい』をしないということです。 『最もらしい言葉を口にしていました』の石井陽子様のお言葉。 そのお言葉こそが、『我が心に痛みが生まれ、その痛みが、他人事を他人事と見ずに、我が事として引き当て、相手を慮る心遣いを生む』最初の一歩であります。 あらゆることにおいて、この最初の一歩を踏み出したなら、そこに浄土真宗の宗の生き方が見えてまいります。 最初の一歩を踏み出す姿を見せて頂き、ありがとうございます。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-or4lx3nh7m
    @user-or4lx3nh7m5 ай бұрын

    ありがとうございます。大真唯唯南無阿弥陀仏。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    5 ай бұрын

    井口好一様 ご視聴、コメントありがとうございます。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-fz9iz6xz7g
    @user-fz9iz6xz7g Жыл бұрын

    高科様 いつもありがとうございます。 私の隠しきれない心の狡さ、自己中心的な心のあり様はどうにもなりません。 雪国に住んでいると良くわかります。 自分の家の前はビシっときれいに除雪して、お向かいさんの家の横に雪を押し付ける。 どこからか飛んできた落ち葉が自分の家の前に溜まると無性に腹が立つ。 外から縁によって内なる因が呼びおこされ、自分の都合のいいように状況を変えようとします。 因を持つ自分の心に「心を責めよ」との声に気づくのは、いつも「やっちまった」数日後のことです。 南無阿弥陀仏 合掌

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    しろくま様 ご視聴、コメントありがとうございます。 天においては比翼の鳥の如く 地においては連理の枝の如くあらん 中国唐の詩人白居易(ハクキョイ)が長編の漢詩「長恨歌(チョウゴンカ)」の中で詠んだ詩です。 「比翼」とは… 雌雄それぞれ目と翼が一つずつで、常に一体となって飛ぶという想像上の鳥のことです。 「連理」とは… 根元は別々の二本の木で、幹や枝が途中でくっついて、あたかも一本の木に見える様のことです。 どちらも、男女の離れがたい仲むつまじいことのたとえです。 「比翼連理」は、男女のそれほどまでに深い、それこそ一人では生きて行けないほどの情愛を詠った漢詩です。 この比翼連理を、浄土真宗の坊主が語ると… 男女の仲の情愛だけでなく、世の中全ての繋がりと見ます。 自分の家の前だけ落ち葉を掃いても… 一風吹けば、隣からも、その隣からも、またその隣からも落ち葉は自分の家の前に来ます。 自分の家の前だけ雪かきしても… 一雪降れば元の木阿弥、 だいたい、自分の家の前だけ雪かきしても、車の出入りが困難なのは変わりません。 比翼連理は、お互いがお互いに、お互いの命をあづかっている。 お互いがお互いに、『我がこと』として居なけれ『我が』が生きて行けない。 そういう詩であると詠みます。 自分の家の前に飛んで来た落ち葉なら… 今度はそれが他の家に飛んでいなかいために掃きましょう。 自分の家の前を綺麗にするためだけでなく… 雪かきも、押しつければ、知らない間に押しつけ返されます。 自分の所に積みましょう。(金沢も雪国です。雪国事情は十二分にわかります) 比翼連理… 私も誰かの『命』を支えているのです。 比翼 と 連理 なのですから…… 歎異抄の歎とは、この自覚であります。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-dp6ie6si7z
    @user-dp6ie6si7z Жыл бұрын

    お説教ありがとうございました。本当にそうだと思います 何かにつけて身勝手なことばかり 私たちの町内も色々考えさせることばかり 77才の婆です

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    こ しげ様 ご視聴、コメントありがとうございます。 生きている限り、自分自身も含めて、私自身も身勝手な人間であります。 だからこそ、身勝手である私を、おのおのが自覚する必要があるのです。 身勝手との自覚が、身勝手を駆逐します。 真宗の凡夫の自覚とは、己の身勝手の自覚に他なりません。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-ck6ki5ov5i
    @user-ck6ki5ov5i Жыл бұрын

    和尚の説法うれしく思います。 静岡市 利之

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    利之様 ご視聴、コメントありがとうございます。 かなり厳しい法話です。 かなり耳が痛い法話です。 聞く方も… 話す方も … あらゆることを、 『我が身と出来るか!』 『自分の歎きと出来るか!』 そのことに帰結するのですから。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-ck6ki5ov5i

    @user-ck6ki5ov5i

    Жыл бұрын

    @@buddhism_japan 「お父チャンハ、戦争ニ行ク。┉妙子ハお父チャンヲシラナクトモ、お父チャンハ妙子ヲシッテイル、妙子ハ、お父チャンが抱イテヤルト、ヨク笑ッタ。┉」 「硫黄島に眠る戦没者」見捨てられた兵士たちの戦後史 栗原俊雄  静岡市 増田利之 昭和33生 説法ありがとうございました。

  • @user-ck6ki5ov5i

    @user-ck6ki5ov5i

    Жыл бұрын

    塹壕で読む妹を売る手紙

  • @user-em1qw2ro4n
    @user-em1qw2ro4n Жыл бұрын

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 他の方への高科様のご返事ですが、失礼して読ませていただきました ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ >比翼連理は、お互いがお互いに、お互いの命をあづかっている。 お互いがお互いに、『我がこと』として居なけれ『我が』が生きて行けない。 そういう詩であると詠みます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ また一つ、朧げであった思いが、より鮮明に浮き出てきました、有難うございました いい言葉です・・・そういう関係は「幸せ感」と言えるものの一つだと思います 昔の歌を思い出しました、大津美子さんの歌で「ここに幸あり」 嵐も吹けば 雨も降る 女の道よ なぜ険し 君を頼りに 私は生きる ここに幸あり 青い空 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ いままでは、ちょっと古臭い考え方だななどと思っていたこともありましたが この歌が不朽の名作と言われる理由も解ってきました

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    武井健二様 ご視聴、コメントありがとうございます。 売る人がいて 買う人がいる 買う人がいて 売る人がいる この文章を真宗の僧侶ならこう言葉を付け加えて話します。 売る人がいて くれるからこそ 買う私が居ることができる 買う人がいて くれるからこそ 売ることが出来る私が居れる 『○○だからこそ私が在る』…真宗であります。 男女の中は…… それこそ… 『○○だからこそ私が在る』の極みであります。 そしてそれこそ… 当事者の男女にしか感じ得ない『○○だからこそ私が在る』であります。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @yoshiko7333
    @yoshiko73334 ай бұрын

    高科先生の法話で、私は助けて頂いています。 79歳。両親とも15年前に他界により離れ、今年弟が急死で別れ、この先どう生きるか?考えながら頑張って生きています。 最後まで自力で生活をしていくことが今のところ自分の目標にしています。 介護状態になるかは、分かりません。そうしたら又そこで再考したいと思っています。「出来ないかも知れませんが」 歎異抄・・国を司る方たちに読んでほしい本です。 そう思っています。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    4 ай бұрын

    yoshikoよつこ様 ご視聴、コメントありがとうございます。 yoshikoよつこ様のコメントより、yoshikoよつこ様の…自身の人生を、懸命に生き切ろうとするお姿が目に浮かびます。 そのお姿に、ただただ合掌を向けずにはおられません。 yoshikoよつこ様のお姿に 南無気づけ阿弥陀仏気づきましたの南無阿弥陀仏を見せていただきました。 ありがとうございます。 人の痛みを… 誰よりも知る人が… 本来『政(まつりごと)=政治』を司らなければなりません。 古来よりの政治を司る者の、それこそ業であります。 私たちは、そのような人を、選挙で選ばなければなりませんね。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-xo3di1nv6b
    @user-xo3di1nv6b11 ай бұрын

    本当ですね!韓国の政治家の人は、身を示してました。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    11 ай бұрын

    誠一郎 冨田様 ご視聴、コメントありがとうございます。 そういうお話しではございません。 あしからず 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @mytien4692
    @mytien46925 ай бұрын

    自身に問うてみたんですけど… やっぱりあの戦争(先の大戦)は、 家族の為、愛する人のため、お国のためと、致し方なかったですよね〜😭 考えさせられますね…… 南無阿弥陀仏

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    5 ай бұрын

    村上祥様 ご視聴、コメントありがとうございます。 村上祥様が御自身で仰っている「自身に問う」は、自身に問うているのではありません。 一ミリも自身に問うはおりません。 村上祥様の、自身に問うてみたんですけど…は、 『自分で考えてみたんですけど…』であります。 コメントの最後の一文。 「考えさせられますね」 が、自身に問うていない証しです。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-hf7bk2qi8n
    @user-hf7bk2qi8n Жыл бұрын

    高科様、今の世の中 少し病んでいる様ですね。 南無阿弥陀仏 合掌🙏

  • @user-em1qw2ro4n

    @user-em1qw2ro4n

    Жыл бұрын

    横レス失礼 >少し病んでいる様ですね。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 少しじゃなく、大変・・・です

  • @user-hf7bk2qi8n

    @user-hf7bk2qi8n

    Жыл бұрын

    @@user-em1qw2ro4n 本当に少しといいましたが、怖いくらい病んでいる様に感じます!

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    マツタカエクコ様 ご視聴、コメントありがとうございます。 それ故の法話動画配信でございます。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-em1qw2ro4n
    @user-em1qw2ro4n Жыл бұрын

    我が事として考える・・・・・・・・・ 毎日自分の身の回りにも実際にいろいろな事が有ります・・・で、 そんな出来事について、総じて、つくずく思う事 現世で起きた出来事はすべて誰も自分に関係が有ります、 必ず幾分かの一端の責任(関係性)があります、これは真理です・・しかし皆 面倒くさい事、都合の悪い事は関係したくありません・・・ 実際は全く無関係ではない 日々の自分たちの身の回りの事でも、 面倒くさい事、都合の悪い事は、ほとんどの人が「他人事」のように 「誰かが何とかするんでしょう」‥と言う、 決して「私が何とかする」・・は言わない もしくは、それを思う事をよけて、目を背けて考えることを止め、無かった事にする そのくせ筋違いの事でも、 自分にとって都合のいい事は「自分の事」として、関係者として加わりたがります その方が楽だからです、・・・ 自分の間違いを正当化する為、他人の間違いも認めて 互いに口を拭って、それでシャンシャン手を打って・・済ます 間違っているが、その方が楽できる、楽だからみんな不満も出ない、 不満が無い、それが平和だと言う、そして自分は平和を愛する「善人」だと思い込む そこに腐った平和と、善人と言う名の偽善者が出来上がる そしてそのことが常態化してしまった、俗物主体の世の中になる 或る向きでは、・・・・ 世間の事・・・知らない、 知ろうともしない、何にもしない、しようともしない でも今自分が思った通り行動する事、大好き 恰好が良いものは好き、汚いものは見る事ですらも嫌い 楽しむ事、無条件で好き、苦しい事嫌い 自分を喜ばせてくれるものは大好き、自分を妨げるもの大嫌い 美味しいもの好き、不味いもの嫌い、 自分は今、「どうあるべきか」では無く、「どうしたいか」、だけで行動する 深く考える事、目の前の問題に対し「何故か」を納得いくまで考える事、嫌い 苦労する事、大嫌い・・・ そんなことを、楽だから「幸せ」・・・などと言ったりする それは本当の「幸せ」などではなく、 只、「欲望」を満たし「怠惰な悦楽」を愛してるだけです そんな人を「自分に素直な純粋な人」とか「心の奇麗な人」、と言う向きがある、 その人に・・・周囲に対する配慮について、注意すると、 「私が何をしたと言うの、どこが悪いの」・・・と逆ねじを食らわし 何も考えてない「奇麗な心」を傷つけられたと言う・・・ 言わば、今の自分の思い「奇麗な心」通りの行動してどこが悪いの、 と言う事です・・・ 人には皆それぞれの置かれた「立場」と言うものがあります 子、親、妻、夫、嫁、舅、姑、祖父母・・・ 他、実社会においての人間関係での立場・・・などなど それぞれに、拠って立つ心得(保持しておるべき心構え)が有ります それは他への配慮と自分のなすべきことを正しく認識しておくと言う事です そこを基軸に行動する事によって、人間社会が円滑安全に保たれるのです そのことを深く考えるべきです 今、何も考えないで行動する事を 「ありのままの自分を素直に表現する」・・などとわけの解らん言葉で 単なる無配慮、我儘を美化し悦に入ってる風潮が有ります、 果ては放置されてる、処理しなければならない事を、問題提起すると 和を乱す、面倒くさいやから扱いにする、 これは善人でしょうか、心が奇麗な人なのでしょうか そして放置された、間違った事柄は、間違った現象となって、 いずれ、皆の身の上にかぶさってきます 自分の立場で心得ておらなければならない事を放り出し、欲望と悦楽に奔走する・・・ 世の中の悪災はすべてその要因が原因で起こる

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    武井健二様 ご視聴、コメントありがとうございます。 私には… 『盃を交わした…義兄弟』 そう表現するしことしか出来ない『友』がいます。 その友が、今から20数年ほど前に、私に詰め寄った話しがあります。 なぜ… こんな世の中になったんだ…(武井健次様のコメントそのままの内容です) そのことを、それこそ、頭が痛くなるほど… 夜も眠れないほど… あらゆる角度から熟考した! 毎日… 数ヶ月… 数年… そして、ある結論に行き着いた。 これしか無い! そういう結論に! それを今から高科さんに言う! しっかりと聞いてくれ! あんたたちは、 真宗の坊主が、 自分の寺の門徒に、 しっかりと真宗の教えを腑に落ちるように話し(法話)をしていたなら、こんな世の中にはなっていないんだ! 『仏法』が… 『道理に箇ったならば、これを真宗という』が… 『自己とはなんぞや、これ真宗』が… 『我がこととして引き受ける歎』が… 僧侶からその門徒へ 門徒は、我が子へ我が孫へ、その子や孫が、またその子や孫へ………… 真宗の伝灯が 真宗の伝灯として伝え灯っていたなら… 確かに、今の世の中には成っていない。 原因は、 この世の中を 毎日毎日、 昨日、今日、明日… 明日は明日に成れば今日であり、明後日は明日に成り、昨日は一昨日に成る。 そうやって1日1日を積み重ねて来た『私自身にあった』 その日から… 二人三脚… イヤ… 同じ志を持つ、それこそ、友と共としての人達の力と共に、三人四脚、四人五脚、五人六脚……………………………………………………………と、令和の今日(こんにち)に至っています。 そして、これからも、変わらず、私の『その時』が来るまで続いて行きます。 私の『その時』が来ても、志を持つ友であり共である仲間は、その志を引き継いでいくのです。 現実の世の中で引き継いで行く者… またKZreadの中で、デジタルとして喋り続けている私もいます。 法は受け継がれて行きます。 法は受け継がれて行かねばなりませんら。 たとえ、少数派となっても! 浄土真宗の門徒としての『自覚』こそが、ある意味、今の世の中を壊して行ける教えです。 武井健次様… 叫び続けて下さい。 吠え続けて下さい。 抗い続けて下さい。 その姿が、 私と武井健次様を、 友とし、 共と致します。 そしてその姿は、必ずや『願い』となり、誰かの生きる糧と成っている、成って行く、その両方であります。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @mytien4692
    @mytien469211 ай бұрын

    我が事として見る 見た結果が地獄でした…😭 もうなす術無し…😵💨 めっちゃ考えても迷宮入りです‼️😱 人生の大渋滞が邪魔くさいです なんとか成りますかね…😭

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    11 ай бұрын

    村上祥様 その地獄を、歯をくいしばって、唇噛んで一生懸命に、その時がくるまで生ききるのが浄土真宗の生き方でございます。 『邪魔くさい』と思ったなら、そこから何に気づき何を学び何をどうするのか、 あきらめず、なげださず、くさらずに一生をかけて自問自答してください。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @tonchiki55
    @tonchiki55 Жыл бұрын

    その言葉は、隣国にお伝えください。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    tonchiki55様 ご視聴、コメントありがとうございます。 この動画を見聞きして… tonchiki55様御自身から発っせられる『コメント』こそが… 『我がこととしていない、他人ごととしている』 というコメントでございます。 今回の法話はtonchiki55様のように思う人がいるからこその法話でございます。 tonchiki55様のコメントのような他人事の嘆きと 親鸞聖人の歎きは違うという法話でございます。 どうぞ、tonchiki55様の他人事のコメントと 他の方のコメントを読み比べていただき、 何が違うのか、なぜ違うのかをtonchiki55様ご自身で自問自答してください。 どうぞ、何回も動画を視聴していただいて分かったつもりになっているtonchiki55様ご自身を歎いてください。 追伸 『隣国にお伝えください。』ならば、tonchiki55様ご自身でお伝えください。 どうぞ、心底そう思ったのであれば、自分の事として、ご自身でどうできるのかを考えてください。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-or4lx3nh7m
    @user-or4lx3nh7m5 ай бұрын

    悪人正機、私はわからないでいました。正機の゙機なんで機械の機なのか、仏法の話をきいていて、心は自分の゙ものではないと言っていました。たしかに心は自分ではどうしょうもない。機械みたいものだと思いました。なおいそう阿弥陀如来の゙本願他力を信じなければならないと思いました。ありがとうございます、大真唯唯南無阿弥陀仏。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    5 ай бұрын

    井口好一様 ご視聴、コメントありがとうございます。 井口好一様…… 機械の機ではありません。 機械はキカイでも 機会(キカイ)の機であります。 いわゆる…悪人という自覚が、正(怠慢でない人生を過ごす)ための、始めの一歩(機)に成るという意味です。 自分ではどうしようもない心も、それも間違いなく自分のものです。 『自分ではどうしようもない心』 …これが悪人の自覚です。 親鸞聖人は、 浄土真宗は、 『そのどうしようもなち我が心』を自覚して『正』を生きていく生き方を 生きて行くことを宗とする宗教宗派であります。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-xk5up5jd8r
    @user-xk5up5jd8r Жыл бұрын

    今日も ありがたいお話し ありがとうございましたm(_ _)m 先日 読んだブログの中に 自分の時間は 果たして自分だけのものであろうか? その 時間を(一人で過ごそうが、他人と過ごそうが)くれたのは あなたと関わりのある人々 また その大事な時間を他人と過ごしたならば その人にとっても 一死の中の大切な時間 取り替えるも 返す事も出来ない貴重な時間を相手に費やさせことを考えたならば 相手を傷つけたり悲しませたり苦しませたりする事など出来ないはず まず 今の時間が他人にとって優しい時間か幸せな時間かを我が事として 考えて人と関わっていけろように と  まさに 和尚さんの言われた 嘆き を我が事として思う 人として生きていく上で 一番 大切な事だとおもいます 私も 同じ様な お話を続けて教えて頂いたのは このことを よくよく考えなさいと言われ導き頂いたように思います。 いつもいつも 大切な導きを ありがとうございました🙏

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    恵 船本様 ご視聴、コメントありがとうございます。 天においては比翼の鳥の如く 地においては連理の枝の如くあらん 中国唐の詩人白居易(ハクキョイ)が長編の漢詩「長恨歌(チョウゴンカ)」の中で詠んだ詩です。 「比翼」とは… 雌雄それぞれ目と翼が一つずつで、常に一体となって飛ぶという想像上の鳥のことです。 「連理」とは… 根元は別々の二本の木で、幹や枝が途中でくっついて、あたかも一本の木に見える様のことです。 どちらも、男女の離れがたい仲むつまじいことのたとえです。 「比翼連理」は、男女のそれほどまでに深い、それこそ一人では生きて行けないほどの情愛を詠った漢詩です。 この比翼連理を、浄土真宗の坊主が語ると… 男女の仲の情愛だけでなく、世の中全ての繋がりと見ます。 例えば…… 自分の家の前だけ落ち葉を掃いても… 一風吹けば、隣からも、その隣からも、またその隣からも落ち葉は自分の家の前に来ます。 どれだけ腹を立てても、 どれだけ落ち葉掃除をしても、落ち葉飛んできます。 町中に落ち葉が落ちているのですから。 落ち葉掃除をしない人もいます。 落ち葉を掃除する人もいます。 故に…一風吹けば家の前には落ち葉が来ます。 比翼連理は、お互いがお互いに、お互いの命をあづかっている。 お互いがお互いに、『我がこと』として居なけれ『我が』が生きて行けない。 そういう詩であると詠みます。 自分の家の前に飛んで来た落ち葉なら… 今度はそれが他の家に飛んでいなかいために掃きましょう。 自分の家の前を綺麗にするためだけでなく… 比翼連理… 私も誰かの『命』を支えているのです。 比翼 と 連理 なのですから…… 歎異抄の『歎』とは、この自覚であります。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @Araitoshikazu89
    @Araitoshikazu89 Жыл бұрын

    モヤモヤしていることを、よくはっきりと言ってくださいました。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    Toshikazu Arai様 どうぞToshikazu Arai様も浄土真宗の僧侶として… モヤモヤとしておいでましたのなら… はっきりとご自身の了解された法話を致していただきたく思います。 私たちは僧侶です。 法衣を纏っている責任があります。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-kw2rg9dt1s
    @user-kw2rg9dt1s Жыл бұрын

    宗教の話は?😮

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    大坪守夫様 ご視聴、コメントありがとうございます。 始めから終わりまで 浄土真宗大谷派の宗教宗派のお話し『ど真ん中』でございます。 浄土真宗の『宗』に当たる、重要な宗の教え、まさしく宗教=浄土真宗のお話しを致しております。 他の方のコメントをご覧ください。 大坪守夫様と何が違い、なぜ違うのか、どうぞ、ご自身で自問自答して動画を何回も見直してみてください。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @BEAM202.
    @BEAM202. Жыл бұрын

    実は読んだ経験が皆無でした。 手持ちの高田意訳章典に記載されてた 「第二章:親鸞におきては、ただ念佛して・・・」 を読んでみました。が、漠然としか分からず。 学ぶ、が目的じゃないので、いいんですが。 「なげく」の漢字を初認識でした(滝汗) 差異に歎く、下記を書かずにおれません。 ・いつの日かの私(障害者と健常者) ・市役所の入口、市バス、駐車場の話、 ・ALSの友人と、消せない修羅の心 ・バラバラで一緒、視線は左手首に ・災害報道の度に、備えを確認する自分 (他人に寄り添う)≠(我が事として捉える) 初めて教えて頂いたのは、2021/05/21動画。 膝が崩れた衝撃を、今でも覚えています。 それでも直ぐに忘れて、身勝手になる私。 (波打ち際に書かれた文字でしたね) こっち側(真宗思考)で、生きてきますね。 ALPS処理水、私は学術的に把握しているので、 飲めますよ。海水希釈前なら塩分除去済だし。 放射線は、全人類が毎分浴びてると言うのに、 報道での煽り、安全と安心の混同、ばかり。 現在、小中学校での放射線教育が拡充され、 文科省の要請もあり、微力ながら協力中です。  鈴木@新潟 51歳 P.S. 広島の超覚寺さま、いつもFBで見てます。 以前、気になり調べたのですが、HPに因ると、 覚の読みは、GakuではなくKaku、とのこと。 .

  • @user-hz1dn7ho8t

    @user-hz1dn7ho8t

    Жыл бұрын

    てっきり塩辛いままだと思っておりました。

  • @BEAM202.

    @BEAM202.

    Жыл бұрын

    ■だんご会長 様 私の記述で、認識が深まったなら何よりです。 放射線や原子力は、理解が難しいですが、 是非に、正しく恐れて下さい。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    BEAM202様 ご視聴、コメント、SuperTankus(懇志=お布施として)BEAM202様のお気持ち、確かに受け取らせて頂きました。 ありがとうごさいます。 始めに… ALPS処理水の学術的ご指摘。『飲めますよ』… ご指摘、痛み入ります。 わざわざお手を煩わして仕舞いまして…大変恐縮しております。 ありがとうございます。 『てっきり塩辛いままだと思っておりました』とコメントもありましたね。 ただ、飲める、飲めないのお話しをでは無いですけどね(笑)(笑) 『歎』がないと… 『我がこと』にしていないと… または、自分は傍観者であるとの意識』だと… こうなるのだと気づかせて頂きました。 それは、やはり、『歎の自覚』の大切さ、重要さ、生きる『軸』たるものであるとの、改めての自覚でありました。 そういう意味では『ありがとうございます』なのですが……… あきらめず なげださず くさらず 自身の自覚も、布教も、 であります。 南無阿彌陀仏 合掌 高科修

  • @BEAM202.

    @BEAM202.

    Жыл бұрын

    返信、ありがとうございます。 >飲める、飲めないのお話しをでは無いですけど なのですが、私には、多くの気づきでした。 正確には、放射線量的に「飲めますよ」です。 ALPS処理水を飲むと言う行為は、実は、 ひじょ〜〜に奥の深い、非現実的な話です。 原子力は国際的に多くの問題を抱えています。 私は「原子力村の隣村」の住民ですが、 当事者としての「歎き」でもありました。 >僧侶→門徒→我が子→我が孫→またその子や孫へ >そしてその姿は、必ずや『願い』となり、 >誰かの生きる糧と成っている、成って行く、 高科様の、他の方へのコメントを読んでいて、 まるで脳震盪の様な、強烈な衝撃でした。 比翼連理も伝灯も、言葉は知ってたはずなのに。 >比翼連理と伝灯 我が家では、井戸水の散布で雪を融かします。 (金沢も同じだと、出身学生に聞きました) 自宅前を融かし終わっても、止めずに垂れ流し。 側溝の雪も完全に融けます。ご近所の側溝も。 幸い、我が家はご近所で1番の上流位置。 少しばかり電気代ですが、皆のHappyが何より。 嫁さんに「下々を潤す、お殿様」と表現したら 怒られました。ですが、そんな嫁さんも、 融雪用電力の請求額に(だけ)は寛大です。 この心、必ず子供達にも、と思います。  鈴木@新潟 51歳 .

  • @BEAM202.

    @BEAM202.

    Жыл бұрын

    1点、言及し忘れてました。 >自分は傍観者であるとの意識 この「傍観者」との言葉。 「自分が居ない」「歎きがない」の 正反対・真逆では無いかもですが、 圧倒的に、理解しやすいと思いました。 今後も、是非に! 私自身、何事にも傍観者に成らぬよう、です。 P.S. 「傍観者」に反応して「当事者」を使ってました。 .

  • @user-xy5pk3rl9n
    @user-xy5pk3rl9n Жыл бұрын

    都民ファーストならば地方セカンドってことですね。 ふざけてますね。 許せん。

  • @user-em1qw2ro4n

    @user-em1qw2ro4n

    Жыл бұрын

    みんな自分ファーストですね

  • @user-mb7wu7cx4x

    @user-mb7wu7cx4x

    Жыл бұрын

    とても良いお話ありがとうございます。自分自身に良く置き換えて、これからの人生生きていきたいです。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    齋藤十郎兵衛様 ご視聴、コメントありがとうございます。 この動画を見聞きして… 齋藤十郎兵衛様御自身から発っせられる『コメント』こそが… 『我がこととしていない、他人ごととしている』 というコメントでございます。 今回の法話は齋藤十郎兵衛様のように思う人がいるからこその法話でございます。 齋藤十郎兵衛様のコメントのような他人事の嘆きと 親鸞聖人の歎きは違うという法話でございます。 どうぞ、齋藤十郎兵衛様の他人事のコメントと 他の方のコメントを読み比べていただき、 何が違うのか、なぜ違うのかを齋藤十郎兵衛様ご自身で自問自答してください。 どうぞ、何回も動画を視聴していただいて分かったつもりになっている齋藤十郎兵衛様ご自身を歎いてください。 追伸 『都民ファーストならば地方セカンドってことですね。』の法話をしているのではありません。 あしからず。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-xy5pk3rl9n

    @user-xy5pk3rl9n

    Жыл бұрын

    @@buddhism_japan 顔も知らん自分のコメントを読んで返信していただき、ありがとうございます! 動画を繰り返し見て、他の方のコメントを読み、自問自答を繰り返してみます。 高科さんのお寺にも時間作ってお参りしに行きます。

  • @tarishihiko
    @tarishihiko6 ай бұрын

    門徒です。私は嘆きます。現代で、宗教に政治を持ち込むのはどうなんでしょうか…。「日本の政治家は福島の水を飲め」動画で言われている事は中国の言っている事と同じです。 大橋巨泉氏は、「日本は平和が一番。アメリカの51番目の州になれば安泰、英語を公用語に」と言ってた人ですよ。言わんとしている事は分かりますが、例が良くない気がします。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    6 ай бұрын

    北狐 多利思様 ご視聴、コメントありがとうございます。 北狐 多利思様の『嘆き』は、なに対しての嘆きなのでしょうか…… 僧侶が政治の話しをすることに対してでしょうか? 私がお話をしていることが、中国の言っていることと同じだと北狐 多利思様が思ったことに対してでしょうか? 大橋巨泉さんの言われた言葉をご紹介致したことに対してしょうか? 御門徒であられますので、真宗の僧侶として申し上げます。 北狐 多利思様のその『嘆き』は、歎異抄の『歎き』とは違います。 北狐 多利思様の嘆きは嘆きではなく『嫌悪(けんお)』と申します。 北狐 多利思様… 「言わんとしている事はわかります 」ならば、「が」の後に続くであろう上記の文章。 「が」の後に続いている言葉。 その両方は必要ありません。 南無阿彌陀仏 合掌 高科修

  • @tarishihiko

    @tarishihiko

    6 ай бұрын

    高科様   きちんと私の意見を聞いていただき、有難うございます。 ・私の嘆きは、『処理水は安全とは言えないー これが真宗大谷派の公式見解なのか?』という嘆きです。 宗教が微妙な政治問題に関わるのは、如何なものか…。 お東さんには、中世のような反権力思想に戻ってほしくないのです。 高科様の「安全と言うなら東京へ流せ」は、不適切な例えです。福島から東京湾にパイプラインを引いて流すというのは、膨大なコストと景観破壊が出るんですよ。専門の科学者が処理水は大丈夫と言っているのですから、今は信用するしかないでしょう。 ・故大橋巨泉氏は個人的に好きなタレントでしたが、時々政治的な発言をしました。氏のこの発言も、変ですね。現代の戦争は、老若男女皆亡くなります。老人子供ほど死亡率が高いでしょう。 ・最後の私の「言わんとしている事はわかります 」は真宗を深く研究しておられる高科様へのリスペクトです。 「が、…」以下は、でも例として政治的なものを挙げるのは如何なものか、という私の意見です。 ・あと、高科様の他のご講話は、深く納得するものばかりです。今回については意見させて頂きました。 多利思北狐

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    6 ай бұрын

    北狐 多利思様… ご返信ありがとうございます。 私は真宗を研究などしておりません。 真宗で生きているだけであります。 またリスペクトも必要ありません。 北狐 多利思様…… 北狐 多利思様は、 『政教分離』の意味を誤解しております。 政教分離とは、信教・信仰の自由を保証した憲法であります。 政教分離とは、政治が宗教を弾圧しないために設けられた規定であって、宗教者が政治に、物申しイケないという規定ではありません。 政教分離の規定は、 明治憲法下の国家神道のもとで、さまざまな宗教が圧迫、排除されてきたという事実から、それを防止することで、『信教の自由』を制度的に保証しようとしたものです。 北狐 多利思様の政教分離のご理解ですと、『真宗門徒である北狐 多利思様ご自身』も政治には一言も、それこそ市の行政にも一言の意見も言ってはイケないことになるのです。 宗教とは宗の教えであり、物事の中心を教えるモノが宗教です。 その物事の中心・軸は、自身の人生を生きる軸となります。 ある意味、宗教心をもって積極的に政治を語らねばならないのが宗教者の勤めなのです。 それは、真宗門徒である北狐 多利思様も同様であります。 ご認知頂きたく存じます。 追伸 石橋湛山…僧籍を持ちながら総理大臣を務める。 綿貫民輔…神主でありつつ衆議院議長を務める。 大平正芳…敬虔なクリスチャンとして周知されつつ総理大臣を務める。 北狐 多利思様のご理解している政教分離であるならば、彼らはアウトと言うことになります。 南無阿彌陀仏 合掌 高科修

  • @tarishihiko

    @tarishihiko

    6 ай бұрын

    高科様  ご返信有難うございます。法律を仕事としておりますので、もちろん仰ることは理解しています。 微妙な政治問題は、法衣を脱いで語るのは良いと思います。 ただ法話を聴いている人の中には福島の方や漁業関係者もおられるのです。 その人達の気持ちにも寄り添っていただきたいのです。いえ当然、高科様は寄り添われておられるのですが、発言の場が違う、と申し上げた次第です。 多利思北狐

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    6 ай бұрын

    北狐 多利思様 真宗門徒ということなので、真宗大谷僧侶として、今回のコメントのやり取りで私が気づいた事をお話しさせて頂きます。 今回のご返信最初は 『高科様 法律を仕事としておりますので、もちろん仰ることは理解しています。 微妙な政治問題は、法衣を脱いで語るのは良いと思います。 ただ法話を聴いている人の中には福島の方や漁業関係者もいるのです。 その人達の気持ちにも寄り添っていただきたいのです。 そ れだけです。 多利思北狐』 と、書かれておりました。それが、 『高科様 ご返信有難うございます。法律を仕事としておりますので、もちろん仰ることは理解しています。 微妙な政治問題は、法衣を脱いで語るのは良いと思います。 ただ法話を聴いている人の中には福島の方や漁業関係者もおられるのです。 その人達の気持ちにも寄り添っていただきたいのです。いえ当然、高科様は寄り添われておられるのですが、発言の場が違う、と申し上げた次第です。多利思北狐』 と、なぜ書き換えたのでしょうか? 私には不可思議でなりません。 本当に不可思議なのです。 なぜなら… 書き換える前、書き換えた後、共に『法律を仕事としておりますので、もちろん仰ることは理解しています』とご自身で書かれてあるからです。 理解しているのであれば… 北狐 多利思様からの最初のコメントの内容には、なるはずがないからであります。 政教分離の意味を理解しているのであれば 『私は嘆きます。現代で、宗教に政治を持ち込むのはどうなんでしょうか…。』 この最初のコメントはあり得ません。 さらに…法律を仕事としておりますと、わざわざ私にはお知らせを頂いたことも不可思議でなりません。 なぜ、法律を仕事としておりますとわざわざコメントに書かれましたか? その意図は何なのでしょうか? 私はコメントされた内容に対して、浄土真宗大谷派の僧侶として返信させて頂いております。 政教分離を誤解しておりますと返信致しましたが、だから、わざわざ法律を仕事としておりますとお知らせいただだいたのでしょうか? 北狐 多利思様が法律のお仕事をしていようが無かろうが今回の返信内容は変わりません。 さらに不可思議なことに 『その人達の気持ちにも寄り添っていただきたいのです。 それだけです。』 から 『その人達の気持ちにも寄り添っていただきたいのです。いえ当然、高科様は寄り添われておられるのですが、発言の場が違う、と申し上げた次第です。』 と、『寄り添っていただきたい』から、『寄り添っておられる』と180度ご意見が変わっております。 さらにさらに不可思議なことに 最初のコメントに 『言わんとしている事は分かりますが、例が良くない気がします。』 と書かれていますが、 今回のコメントでは 『発言の場が違う』 と仰っております。 なぜ『例が良くない』から『場が違う』とコメントの主張を変えられましたか? 故に…私は摩訶不思議でなりません。 法律の仕事をしている北狐 多利思様のコメントに整合性が成り立たないのが摩訶不思議でなりません。 北狐 多利思様…… ご自身の返信コメントを、書き換えずにはおれなかった、また私に自分は法律の仕事をしている人間であると伝えずにはいられなかった、北狐 多利思様の心根、気持ち、感情、思い、心情は、一体 何なのでしょうか? そのことを、お話し致した上で、北狐 多利思様に申し上げます。 法衣を脱いで語る必要はございません。 真宗の教えを軸に今を生きておりますので法衣を着て語るべきです。 福島の方に寄り添っておられると仰りながら、発言の場が違うと仰います。なぜ、最初から場が違うと仰らなかったのでしょうか… 『例が良くない』から『場が違う』と、なぜ最初のコメントから主張を変えられましたのでしょうか… 北狐 多利思様の心根、気持ち、感情、思い、心情の何がそうさせたのでしょうか… どうぞ、北狐 多利思様ご自身の書いたコメントのやりとりから、北狐 多利思様ご自身を見つめ返し、自問自答してください。 真宗門徒とおっしやる北狐 多利思様なら、このことが、何を言わんとしているかは即座にご理解頂けると思っております。 なぜなら真宗門徒だからです。 そう…自身の内なる自身の正体を自問自答せよ!とのこです。 そう…真宗門徒の基本中の基本…『自身に問う』であります。 私の話は、そのきっかけにすぎません。 北狐 多利思様の南無=気づけ、阿弥陀仏=気づきましたになることを 切に切に願っております。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

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