葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel

葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel

奈良県御所市の葛木御歳神社より、東川宮司が神社の情報や参拝作法、古代ロマンのお話などをお伝えします。

奈良県御所市東持田269
葛木御歳神社
www.mitoshijinja.jp/
過去の神道講座なども公式HPに紹介しています。

正式参拝

正式参拝

邪馬台国の謎

邪馬台国の謎

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  • @user-gi8rs4id3m
    @user-gi8rs4id3m19 сағат бұрын

    先日、玉城神社に参拝させていただきました。帰ってからこちらの動画を拝見し、学ばせていただきました。 私は足が悪く、階段は介助がないと歩けません。 主人に手を引いてもらい、なんとかたどり着けました。とても素晴らしい御神気をいただきました。 帰り道、足がガクガクで、息を切らしていたところ、こちらの宮司様が声をかけていただき、軽トラで駐車場まで送ってくださいました。 とても優しいお顔の宮司様でした。 玉城神社の神様、宮司様に感謝いたします。 葛城御歳神社にも、いつか参拝させていただきます。

  • @user-gi8rs4id3m
    @user-gi8rs4id3m16 сағат бұрын

    玉置神社 葛木御歳神社 の間違いでした。 大変失礼いたしました。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja9 сағат бұрын

    それは良い参拝になりましたね! 宮司様とてもお優しい方ですね~♡ また葛木御歳神社へもぜひ!

  • @user-sy8gb1kh2g
    @user-sy8gb1kh2gКүн бұрын

    葛城、金剛、生駒、周辺の神社の ご神職に 各神社の由緒を 紹介して欲しい。

  • @megumi-mw1wh
    @megumi-mw1whКүн бұрын

    ありがとうございます😊❤ 無知な事でしたので教えて下さり感謝です🙏続き楽しみにしています😊

  • @user-re7qr8vp7v
    @user-re7qr8vp7vКүн бұрын

    思い浮かぶのは、背広、ミシン、珈琲など外国語の音を日本語にした時代。 さらに銀行、経済、自由など日本人が作った漢字もある。 太さん、当時は少ない情報で大変だったでしょうね

  • @mayumi3300
    @mayumi33002 күн бұрын

    真福寺本、凄いです。😍 写本で伝わって来たのは、 源氏物語などもそうですね。 印刷と違って、 書いた方の吐息のようなものも 伝わって来ますね。 古事記においては、 この小さな文字の注釈に 繊細なこだわりが 詰め込まれていると思います。 どう発音するか… 響きが変わると その影響力まで 変化するのではないかと 思います。 それが言霊の世界ではないかなと。 いにしえ人は、 音や響きによって 世界を創造するチカラがあることを、 十分理解していたのだろうと 感じます。 万葉集仮名や この古事記によるこだわりや、 漢字を崩しただけでなく、 繋げて書いた空海など、 中国語で使われていた文字を 日本語の響きと 日本語の文法で表現しようと 試行錯誤していった先人たちの努力が、 日本独自の文字を作り出し、 日本語を深く豊かにして来たのだと 思います。 次回も楽しみです。 ありがとうございます♪

  • @user-zx8ky9zz2n
    @user-zx8ky9zz2n2 күн бұрын

    いつもありがとうございます。真福寺本、写本文化があり、湿度が高い日本で良く保存して、よく現代まで残ってくれました!案外、旧家の門外不出の家宝として残ってたりしないのかなぁ。と妄想したりもしてます😆太安万侶さん、稗田阿礼さん、すごい偉人です。それにしても、ここまできちんと解説してる動画は珍しい😊次回も楽しみにしております♪

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja2 күн бұрын

    @@user-zx8ky9zz2n さん、スパチャ頂戴いたします❤️お気持ちと共にめちゃくちゃ嬉しいです。 私も真福寺本を見て、太安万侶さんの息遣いまで感じられる気がしました。日本は本当に言霊〜音を大切にしているんだなぁと。 これからもよろしくお願いいたします。

  • @user-qe3mo7lc8w
    @user-qe3mo7lc8w3 күн бұрын

    やわらかい口調で、分かりやすく説明してくれたおかげでよく理解できました。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja3 күн бұрын

    嬉しいお言葉をありがとうございます❤ 今後ともよろしくお願いいたします。

  • @setiii7248
    @setiii72483 күн бұрын

    18:23 はい。おっしゃる通りです。神話を否定する人は、日本にはなぜ神社があるのか、なぜ風土紀や伝承があるのかをまったく説明できない。文書はその場で読めば頭に入るが、物語は覚えやすく伝えやすい。これも祖先の人々が後世に残そうとした知恵だと思います。20世紀で日本を徹底的に否定し続けてきた「誤った歴史」を、今世紀の最新の考古学の発展に伴って後世に語られると思います。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja2 күн бұрын

    ありがとうございます!もっと日本人の精神性を知ってもらいたいですよね。

  • @hitachiyamto4392
    @hitachiyamto43923 күн бұрын

    ヤマト政権の建国の目的が民主主義の国を作る事だったのは、ヤマト国(多分、山人国)だったのを大和の文字とした事で明らかです。勿論『和を以て貴しと為す』に通じる、大きな和の国です。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja2 күн бұрын

    はい^^世界に例のない、平和な国作りをやった日本

  • @megumi-mw1wh
    @megumi-mw1wh4 күн бұрын

    ありがとうございます🙏 楽しみにしています😊

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja4 күн бұрын

    ありがとうございま💛

  • @yasuharuokuda2517
    @yasuharuokuda25174 күн бұрын

    ありがとうございます。主旨の多くに賛同いたします。 係長(お目見えかなわない従四位)がいきなり会長(天皇)に呼び出されて社史を編纂し勝手な言いづたえをただせと言われたら、どんな心境か・・・ 有力者への忖度はあっても、事実を書きたいと思うに違いありません。むしろ不都合まで書いてしまってお蔵入りさせられてしまったのではとさえ思います。 是非今後の解説よろしくおねがいします。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja4 күн бұрын

    めちゃわかりやすいたとえですね!! なるほど!なるほどです^^ 今後ともよろしくお願いいたします。

  • @yukomatsuda
    @yukomatsuda5 күн бұрын

    古事記のお話、興味深いです❤ ありがとうございます😊 続きも楽しみにしております。 そして「大人の学校」の太郎さんとのコラボもすっごく楽しみです!

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja4 күн бұрын

    わっ💛ありがとうございます。私もめちゃくちゃ楽しみです^^

  • @MK-em8os
    @MK-em8os5 күн бұрын

    日本は「言霊の国」 嘘はついてはいけない! 当時は日本で文字が使われだしてまだ100~200年ほど。 既に神盟探湯は行われているものの、まだまだ容易に嘘を付けるような時代ではなかったと考えています。 もちろん脚色や多少の細工などはされているのでしょうが、伝わっている事実を嘘偽りなく記しているのだろうと考えています。 古事記は自身で一字一句追いながら現代語訳を行っています。まだ1/4~1/5ほどですが。 稗田阿礼の仕業か太安万侶の仕業かは分からないですが、 脚色してるな~という部分は少しずつ見えてきます。 脚色というか、ウィットに富んだ表現というべきものですが。本当によくできた書だと思います。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja4 күн бұрын

    はい。私も学者の誠実さを信じていますし、ちゃんと語っていると思えます。 たぶん、太安万侶ですよね。すごい天才で誠実な方だったのだと思います。それは序文でも表れています。序文も好きなのですが、その解説は途中でやりたいと思っています。 「古事記は自身で一字一句追いながら現代語訳~」すごい!色々解釈が出来て楽しいですよね^^

  • @user-pb9qy1hg2y
    @user-pb9qy1hg2y5 күн бұрын

    先週クラブツーリズムのツアーに参加して宮司さんに初めてお目にかかれて楽しい旅行になりました。石上布都魂神社の奥宮に1番に行きたかったのですが、ツアーですし天候のこともあり行っていただけるか心配していましたが、念願かなって参拝できる事ができて嬉しかったです。 プレ古事記のお話も、わかりやすく、次の動画を楽しみにしています。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja4 күн бұрын

    早速ご覧いただき感謝です^^ とても濃ゆいツアーになりましたね! 今後ともよろしくお願いいたします💛

  • @MK-em8os
    @MK-em8os5 күн бұрын

    多坐弥志理都比古神社の拝殿写真、鏡作坐天照御魂神社の写真になってますよ~!

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja4 күн бұрын

    MKさん、やっちまった〜❗️ ご指摘ありがとうございます。 同じ日に参拝したので、つい間違えてしまいました。さすが〜! もう修正できないので、概要欄で訂正しますね。

  • @user-re7qr8vp7v
    @user-re7qr8vp7v5 күн бұрын

    わかりやすい表ですね。 「葛木」と「葛城」が都合で混在したりとよく言えば日本人の大らかさのようなところ、現代でも我々はあまり白黒ハッキリさせない適当なところは同じだと思うと微笑ましいです。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja4 күн бұрын

    ですよね~あいまいさが美徳である日本。段々その良さを理解できるようになってきました~(^^

  • @mayumi3300
    @mayumi33005 күн бұрын

    宮司さま ありがとうございます♪ 古事記は 本当にチグハグですよね。 それがメッセージなのです。 伝えたい想いが 凝縮し、 凄い高度な暗号となっています。 情緒溢れる文体で、 和歌を詠むように 作られています。 起こったことはダイレクトに書かず、 一言に多くの意味をかけて、 暗示として描かれています。 ダイレクトに書けなかった理由もあり、 その中でそれでも伝えたい想いが 溢れています。 いにしえからの 日本人の宇宙観・世界観・死生観 アマテラス以前が どうだったのか… 皇統とは本当は 何だったのか… ちゃんと書いてあります。 作者の 祖先に対する敬意と 子孫たちへ伝えたい想いが 文体と行間ににじみ出て来ます。 とてもとても 日本らしい文献です。 古事記があるから 古史古伝があるのです。 どれも伝えたい想いが メッセージとして綴られています。 続きもとても楽しみです。 何度読んでも飽きない古事記。 ありがとうございます♪

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja4 күн бұрын

    おっしゃる通りですね^^ 「作者の 祖先に対する敬意と 子孫たちへ伝えたい想いが 文体と行間ににじみ出て来ます。」 だから古事記は親しめるのかも?ですね。 やはり編纂者の思いが伝わりま💛

  • @user-zv9eu7hi1f
    @user-zv9eu7hi1f8 күн бұрын

    あなたとてもいいないようのお話しですね

  • @setiii7248
    @setiii724812 күн бұрын

    20世紀で「言われてきたこと」の歴史は、イデオロギーに満ちた革命・共産史観であり、古事記・日本書紀などの資料をろくに読まずに無視して、無理やり連れてきた、とか、強制されて労働された、とか、権力のために戦争ばかりにした・・などと、常に弱者がいて、被害者に焦点をあてて、権力や社会が悪いという構造を作って、まったく愚かすぎる空想を、ただただ教えられてきたんだなぁ~と思いますね。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja3 күн бұрын

    仰る通りに思います。虐げられた人たちにばかり焦点を当てると、見誤る気がしています。もっと原点に立ち返りたいと思います。

  • @setiii7248
    @setiii72483 күн бұрын

    @@mitoshijinja ご返信、誠にありがとうございます。畏れ入ります。

  • @user-sr2os4eo7s
    @user-sr2os4eo7s16 күн бұрын

    今日初めて参拝させていただきました。風と風鈴の音がとても心地良く迎えてくださいました。残念ながらカフェはクローズでした💦 また伺いたいと思います。☺️

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja3 күн бұрын

    それはごめんなさい。 ツアーガイドの仕事もしているので、留守のこともあります。 またご参拝くださいませ。 正式参拝は、ご予約頂ければ幸いです。

  • @user-lk4iy2yj2n
    @user-lk4iy2yj2n20 күн бұрын

    神武東遷の理由がご説明の通りだったとしたら、なぜ二二ギ命は最初からヤマトに天孫降臨しなかったのか?謎ですね。そこには日本書紀や古事記の編纂者が南九州発とせざるを得なかった理由なり都合があったはずです。天武天皇が編纂指示してから完成まで約40年の間、有力豪族や貴族、皇族に伝わる伝承を集めて整理統合する過程で、どうしても外せないことが・・。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja3 күн бұрын

    実際、九州に上陸したので、その通りのお話になっているのだと思っています。

  • @user-lk4iy2yj2n
    @user-lk4iy2yj2n20 күн бұрын

    いつも興味深く視聴させて頂いております。古事記や日本書紀の編纂者たちが天皇家の権威付けのためにストーリーを組み立てるのでしたら、一つの天孫降臨つまり大和への降臨だけで十分な筈です。何故わざわざ南九州の水田耕作にはあまり適さない場所に降臨させて一時的に駐屯した後、三代目に水田耕作に適してはいるが未だ後進の奈良地方を目指して集団移住したのか謎ですね。私の推察では、後発の天孫族が大陸から戦乱を逃れて集団移住しようとしたとき、既に北九州・出雲・吉備などは先発の人達の強大な勢力があって、仕方なく南九州から倭国に入り一時的に駐屯せざるを得なかったのだと思います。その後に瀬戸内海を通って奈良地方を目指すのは、大陸から大海原を超えて大移動してきた人たちにとっては慣れたもの。要するに天孫族の安住の地を目指した東部開拓史を神話化したストーリーと理解しています。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja19 күн бұрын

    コメントありがとうございます^^私も同じ見方をしています^^ 北九州は宗像氏の本拠地ですし、先住者が居たのではと思います。なので、稲作に適しない場所に住むしかなかったのではと? そのあたりのお話をほかの動画でも話しています。「なぜヤマトを目指したのか?」で~。

  • @mayumi3300
    @mayumi330020 күн бұрын

    宮司さま お話が的を突きすぎていて、 妄想がとまりません。 沢山のコメントで、 コメント欄ジャックしてしまって すいません。 《阿遅鉏高日子根神の謎》 宮司さまは 阿遅鉏高日子根神の母 《宗像の多紀理毘売命》とは 三姉妹のどなたと思われますか⁈

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja3 күн бұрын

    三姉妹については、誰が長女だったのかとか、本当に3人の女神だったのか色々言われていますよね。 一応、多紀理毘売命となってますよね。

  • @mayumi3300
    @mayumi330022 күн бұрын

    【白雲嶺と高天彦神社】について 白雲嶺の磐座 宮司さまがよくご存知と言われて、 胸が高鳴ります♪ どこにも書いてないのですが、 わたしの個人的考察で、 あそこには 初代大王【天村雲】が 葬られていると思っています。 理由は沢山あるのですが、 一番大きなものは、 高天彦神社は 白雲嶺の遙拝所であると 思っているからです。 平津先生もそうおっしゃっていて、 飛び上がりそうになりました。 神武天皇陵は 初代大王の墓とは思えません。 後世に選ばれた古墳でしょう。 あの時代は まだ古墳を造っては いなかったと思うのです。 紀元前のあの時代、 大王級の人が どのように葬られたか… 出雲の伝承では 【風葬・シナドオクリ】 だったといいます。 亡くなった遺体に 口から水銀朱を流し込み、 腐らない状態にし、 長期の殯をしたあと、 竹籠に収められ、 山の頂上付近の大木の茂みに 隠されます。 3年後に籠から出され、 洗骨されたあと、 頂上付近の磐座の脇に 埋葬されたと記されています。 高天彦神社には 蜘蛛窟がありますね。 あそこから眺める白雲嶺は 正しく遙拝所だと思うのです。 何を拝んでいたのか… 白雲嶺の磐座から 境内へ持って来たという岩は、 拝み墓ではありませんか?! 出雲では、 埋め墓の他に、 屋敷近くに拝み墓をおいています。 葛城の神社の多くは 出雲系です。 ここにポツリと 高皇産霊神が坐しているのです。 天孫系ですね。 もし、初代大王が 出雲に伝わっているように 【海村雲】であったなら、 多くの伝承や文献、 そして、神社のあり方が スルスルと繋がって 解けてくるのです。 村雲は徐福の孫であり、 【天孫】です。 【白雲嶺】という名は 【村雲】を暗示させます。 もう一つの天孫降臨と 高天原です。 そして、【蜘蛛窟】 村雲は東征しなかった 神武天皇です。 東征はその後、2回あり、 東征してきた神武天皇が戦うのは、 【磯城王朝=村雲の子孫たち】です。 天村雲(天) ⇄ 土雲(地) 【土雲】とは 天村雲の子孫たちを指します。 葛城国造の祖は【剣根命】です。 《根》がつくのは 大王級の人です。 剣=天叢雲剣 つまり、剣根命とは 初代大王【天村雲】となり、 村雲の子孫が葛城氏となります。 葛城こそが ヤマト政権の発祥地であることは 出雲の伝承にも はっきり記されています。 そして、 葛=国栖=九頭 葛城氏とは 九頭神を祀っていた縄文人と 融合していた村雲族ということでも あります。 要するに、【土雲・土蜘蛛】は 東征して来た物部勢に 攻められた先住民、 つまり、 【磯城王朝・村雲族】を指します。 その土雲たちが遥拝していた 白雲嶺に祀られているのは、 初代大王【天村雲】しか 考えられないと思うからです。 御歳大神は 【御歳皇神】とも呼ばれ、 初代大王だと思っています。 【葛木御歳神社】も 白雲嶺の村雲の埋葬地の 遙拝所として 村雲をお祀りするために 造られたと言うのが わたしの考えです。 【雨乃森神社】も 白雲嶺の遙拝所と思います。 この葛城地区を護っていったのが、 阿遅鉏高日子をお祀りする 西出雲系の鴨族です。 村雲は【大国主・八千矛王】の ひ孫にあたり、 西出雲王家の血統となります。 阿遅鉏高日子は 八千矛王の子であり、 村雲の側には この阿遅鉏高日子がピッタリと お祀りされていることが多いです。 高鴨神社と高天彦神社の関係も このひとつです。 村雲が西出雲王家の 血統であるのに対し、 東出雲王家の血統が 皇后タタラ五十鈴姫と 鴨王クシヒカタの兄妹になります。 この系統が、 国家の祭祀を請け負う 賀茂氏の家系になります。 裏の大王家ですね。 こちらのグループは、 村雲より先に ヤマト入りしていましたが、 三輪山方面に移住したと 伝承本に綴られています。 平津先生のおっしゃるように、 先ずは葛城から 三輪山に昇る太陽を拝むことから 始まったと言われています。 東出雲系が出ていった葛城を護るのは、 西出雲系の鴨族となってゆきます。 阿遅鉏高日子の子孫たちです。 一説です。 わたしが観えている景色です。 白雲嶺の磐座 是非、訪れてみたいです。

  • @mayumi3300
    @mayumi330021 күн бұрын

    村雲が初代大王である根拠として、 別の観点から観てみます。 神武天皇の 九州で娶ったと言われる妃は、 紀:吾平津媛(あいらつひめ) 記:阿比良比売(あひらひめ) と記されていますが、 天村雲の妃の一人も 【阿俾良依姬(あいらよりひめ)】 と言い、 よく似ていますね。 そして、 天村雲は阿波でもお祀りされていますが、 その村雲の妃をお祀りする神社が 【伊比良咩神社】 (いひらめじんじゃ)です。 ご祭神は 村雲の妃である 【阿比良比売(伊比良咩)】 とされています。 つまり、 古事記に記された 神武天皇の妃と同じなのです。 村雲の妃である 阿俾良依姬の御子たちは 先代旧事本紀によりますと、 尾張氏となってゆきます。 葛城地区の高尾張邑から 伊勢湾地方へ出て行った人たちが 尾張氏であると言われています。 正史では 吾平津姫は九州に留まったと されているようですが、 御所には吾平津姫が 住んだと言われる場所がありますね。 【嗛間(ほほま)神社】です。 そのすぐ側には 神武天皇社があります。 御所市【柏原】に鎮座する この神社の祭神は 「神倭伊波礼毘古命」。 初代神武天皇の即位した場所であると 言われています。 【橿原】の他に、 【柏原】があるわけです。 生駒山の近くにも【柏原】があり、 神武天皇のモデルが複数あって、 そのいくつもの背景と物語を 混ぜて作られたものが、 正史の記述であると感じています。

  • @mayumi3300
    @mayumi330021 күн бұрын

    東征軍が熊野に上陸してから、 井氷鹿という女性に出逢いますが、 この人を調べてゆくと、 丹波に伝わっている 伊加里姫であり、 珍彦の母であると記されています。 珍彦は椎根津彦。 亀の背に乗り、 神武天皇の水先案内をし、 神武天皇から 倭宿禰を賜ります。 つまり、この椎根津彦は、 海部家4代目【天御陰】であり、 籠神社にある 海部4代・倭宿禰像は、 亀の背中に乗っています。 天火明命  Ι 天香語山命(五十猛)  Ι 天村雲命  Ι 天御陰(倭宿禰) と続くのが海部家です。 つまり、 椎根津彦は村雲の御子であり、 井氷鹿は村雲の妃である 伊加里姫ということになります。 井氷鹿は【尾が生えた人】と 表現されています。 尾が有る人→【尾あり氏】 つまり、【尾張氏】を意味します。 村雲の御子たちが、 【尾張氏・海部氏・葛城氏】 となり、 当初はその違いがはっきりせず、 入り乱れていたものが、 徐々にはっきりとした系図が 作られていったと思います。 次にで出会った 【石押分之子】 (いわおしわくのこ)も 【尾有り人】(尾張氏) であり、 吉野の【国巣(くず)】の祖 と記されています。 《国巣・国栖・葛》 つまり、葛城氏です。 【贄持之子】(にえもつのこ)は、 「阿陀(あだ)の鵜養(うかい)の 祖(おや)」と記され、 五瀬命を彷彿させます。 五瀬命が葬られた 竈山神社の神職・鵜飼家は、 『古事記』において 吉野川(紀の川)で 魚を取ったと見える人物・贄持之子 (苞苴擔之子、阿陀之鵜飼の祖・ 阿太養鸕部の祖)に 始まると言われています。 剣を献上した高倉下は 出雲の伝承では 村雲の兄弟であり、 五十猛の御子となります。 出雲の伝承によると、 第一次物部東征が2世紀、 第二次東征が3世紀。 村雲の即位は 紀元前2世紀です。 この3つの背景が 一緒に描かれていると観えます。 先ず、第二次東征が 先に描かれます。 日向〜宇佐〜安芸〜吉備〜白肩津 第一次東征は 紀の川名草で交戦がありますが、 これは日本書紀のみに 記されます。 ここから第一次東征ルート 熊野〜宇陀〜磐余 となります。 東征しなかった 紀元前2世紀の村雲の親族は、 途中で出会う人たちとして 登場しています。 実際には倒された磯城王朝ですが、 協力者として描かれています。 磯城王朝は倒されても、 血統はウケヒによって ずっと繋がっています。 隠された皇族に対する配慮でしょう。 と、わたしは観ています。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja3 күн бұрын

    本居宣長によると、橿原には元々カシハラという地名はなく、そこから一里ほどのところに柏原がある。そこが神武天皇の政務地であると。 それが、御所市の柏原の神武天皇社ですね。地元の伝承では、吾平津姫様がこの近くに詫び住まいされていたと言われています。

  • @mayumi3300
    @mayumi330022 күн бұрын

    平津先生 東川宮司さま 無茶苦茶楽しいお話を ありがとうございました。 面白すぎて 二度見してしまいました。 磐座から神社への変遷 全くその通りだと思います。 人格神の登場は 正史編纂が大きく影響したと思います。 アマテラスもスサノヲも、 ここで登場し、 神さまの世界が 再編成されたと感じます。 岩や山自体が 依り代としてご神体だったものが、 徐々に鏡や劔など、 造られた物質の依り代が ご神体となってゆき、 社が建てられ、 元々の磐や山が 忘れられてゆく様子も 情景が浮かんでくるように よく分ります。 それでも 今でも奥宮をさがしてゆくと、 あっと驚く磐座や カタチの良い山に出逢いますね。 沖ノ島の斎場 詳しい変遷の様子、 ありがとうございます。 沖ノ島の祭祀は 神功皇后の三韓征伐によって、 一気にゴージャスになっていった 気がします。 半島からの貢ぎ物を運ぶ船が 忙しく往復するようになり、 その豊富な財力によって、 祭祀が派手になり、 大きな古墳が造られるように なったと理解しています。 沖ノ島は もっと古い時代、 縄文時代から 祭祀は行われていたでしょうか⁈ 勿論、もっともっと 素朴な磐座祭祀であったと 思いますが。 御歳神社の 【白猪・白馬・白鶏】のお話、 大変楽しくお聞きしました。 豚だったのですね。 年に一度、 お肉が食べれる秋祭り…♪ って、凄く納得です。 大きな神社は 肉食禁止令も 知らんがな…😆 っと、続けられたというのも ありそうありそうと思いました。 【いわくら絵本】 とても素敵です。 アマゾンとかで 購入できませんか⁈

  • @kyupytarou
    @kyupytarou22 күн бұрын

    ライブ初参加させて頂きました。 磐座信仰のお話ありがとうございます。おつかれ様でした。 お宮さんお参りして裏手に巨石があったりすると圧倒される事しばしばあります。 亀岡の宮川神社さんなんか磐座がお宮に食い込んでますよね! その宮川神社から東に出雲大神宮 愛宕山 上賀茂神社 日吉大社 磐座信仰が始まりとするお宮を結ぶとほぼ一直線。 つながる磐座信仰のレイライン。 面白いですよね!

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja3 күн бұрын

    亀岡は良いところですよね。 出雲大神宮も大好きな神社です。

  • @tomomitty
    @tomomitty22 күн бұрын

    日にち間違えてました。アーカイブ拝見します。

  • @user-eu6zg8bu2m
    @user-eu6zg8bu2mАй бұрын

    詳しい解説ありがとうございます。 近々龍穴神社に行ってみようと思っています。 参拝や見学についてマナー違反等教えてください。 天の岩戸や神木は拝んでから、そっと手を添えて触らせてもらっても良いのでしょうか。 むちですいませんがよろしくお願い致します。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinjaАй бұрын

    ご覧頂きありがとうございます。 マナーについてですが、龍穴神社には、本殿裏など、立ち入り禁止になっていますので、そちらには入らないこと、御神木は、特に囲いがなければ大丈夫だと思います。

  • @user-eu6zg8bu2m
    @user-eu6zg8bu2mАй бұрын

    @@mitoshijinja 返答ありがとうございました。 マナー良く参拝してきます。

  • @gorilla_in_IQexperiment
    @gorilla_in_IQexperimentАй бұрын

    荒神谷遺跡の銅剣の数=神社の数=一族の数... 衝撃です! 出雲口伝によるとこのタイミングで銅鐸祭祀が終了した、とのことですが... そもそも祭祀のスタイルがガラッと変わるほどの外部要因は何か?って話ですよね。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja3 күн бұрын

    ですね!銅鐸祭祀と鏡の祭祀は、ゆるやかに移行して行ったというのが、最近の説ですね。 しかしながら、荒神谷遺跡の銅剣は明らかに未完成のものが含まれていて、謎ですね。

  • @gorilla_in_IQexperiment
    @gorilla_in_IQexperimentАй бұрын

    ナガスネヒコ=大彦(意富比垝),出雲系 神話上の神武=ミマキイリヒコ=崇神〜垂仁 神話上の神武東征は物部系(崇神〜垂仁)が大和を取った話しじゃないかな。

  • @1-3-5-7
    @1-3-5-7Ай бұрын

    昔から 全部を完璧にしないで、何かかけたものをわざといれる とかあるのでは?

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja3 күн бұрын

    確かに〜興味深い考察ですね!

  • @user-bp9sj5qs2p
    @user-bp9sj5qs2pАй бұрын

    室生大野口駅⇒龍穴神社迄バス運行してます。 毎月=月例祭15日10時〜 神木は鳥居の向かいに有、神木前は立入禁止区域です。 社務所が閉まって場合に、室生寺の御朱印場合で、龍穴神社に参拝しましたと行ってください、書き置き御朱印です。 本殿の階段前で、龍笛と龍神祝詞奏上しました。(東川宮司様こんにちは!)

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinjaАй бұрын

    詳しくありがとうございます❤

  • @user-fw3lt1wf3y
    @user-fw3lt1wf3yАй бұрын

    ご利益受け取りました。ありがとうございます。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinja3 күн бұрын

    ありがとうございます❣️

  • @fujisima33
    @fujisima33Ай бұрын

    縄文人はアボリジニなんだな。

  • @1-3-5-7
    @1-3-5-7Ай бұрын

    ありがたいお話を聞かせていただき感謝いたします😊

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinjaАй бұрын

    こちらこそありがとうございます❣️

  • @1-3-5-7
    @1-3-5-7Ай бұрын

    @@mitoshijinja さま 国民の心がさわさわしている今、根本に立ち帰り教科書にない本来の歴史を聞けることを嬉しく思います 神話の中に真実があるのは世界中同じではないかと思えます 🙏

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinjaАй бұрын

    @@1-3-5-7さん、ありがとうございます❤ 本当に〜やはり、原点に立ち返ってちゃんとまっすぐ向き合うことが大切なのかも?と思っています✨

  • @bluesky-yq2xh
    @bluesky-yq2xhАй бұрын

    貫頭衣、裸足、手づかみは一般庶民つまり農民じゃないですか? 農作業は大変な重労働で風通しが良い服、すぐ脱げる服が必須😮です。頭には汗拭きの手ぬぐい布を巻くのも普通です。 また農作業では靴や草履は邪魔で裸足の方が効率的。田んぼでも畑でもその方が歩きやすいのです。 だいたい10時、3時に軽食を取り、12時に昼食を取りますが10時、3時は甘物の類、お昼は春秋は握り飯、夏は腐敗を避けて押し寿司の類で皆手づかみです。時間に余裕がある時は川魚を串焼きで食べることもありますがもちろん素手です。 以上昭和40年代の日本の農村の風景で倭人伝の描写に何の違和感もありません。 農作業は主に春から秋までで大変な肉体労働なのです。寒冷期といっても海は今よりも内進していたのでむしろ今よりも暖かかったのでは?要するに農作業の衣服として寒いはずはありません。たぶん上半身はすぐ裸になっていたのではと思う程です。 ちなみに田んぼ作業は湿地なので食事は丸太の椅子に高槻みたいな持ち歩ける軽量の食台を使用していました。これも昭和40年代の話です。

  • @aaagonta
    @aaagontaАй бұрын

    現在の認識では「稲作は朝鮮半島から伝わった」とはされておりません。 弥生時代後期の紀元前3世紀頃の米のDNA分析を行ったところ、その種の遺伝子型は朝鮮半島には存在しないもので、長江流域の種であることが判明しました。おそらく縄文時代後期以降に北部九州に伝わったものが最初と思われます。 もし、朝鮮半島から伝わったのであれば、かの地には日本よりも古い稲作の痕跡があるはずですが、日本に稲作が伝わった約3000年前より、その痕跡は朝鮮半島では見つかっていません。 朝鮮半島では水田作を行うための必需農具である「畦塗り具」の検出が、わが国の弥生時代中期に相当する新昌洞遺跡から出土した、卓球のラケット状の至って素朴なものが初出となります。 そもそも稲作の朝鮮半島伝来説は、考古学調査によって早くに南京遺跡や松菊里遺跡でコメを検出し、わが国での朝鮮半島系遺物とみられる大量のモノの検出がありながら 水田遺構の検出が遅かったところから推測として唱えられ、それがモノと農業技術の相違を認識することもなく、繰り返し述べられてきたことによって 定説となってしまったのです。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinjaАй бұрын

    何度もあちこちで話してますが、朝鮮半島経由で伝わっただけで、朝鮮半島の稲が原種ではなく、そんな話は一切してないのですが〜💦 稲は、ベトナムから長江流域の苗族がルーツですよね。 その話も何度も書いてるのですが〜。ちなみに朝鮮半島の前方後円墳も日本から伝わった技術です。この話も私は何も話してないのに毎回突っ込まれるのですが〜余程皆さん朝鮮アレルギーですかね💦

  • @aaagonta
    @aaagontaАй бұрын

    私も日本のコメの原種が朝鮮のDNAなどの話はしておりません。 まず、23:07からの動画で、「歴史的には稲作は朝鮮半島経由で伝わった」と明確に発言されています。 この点について異議を唱えているわけです。 第1に、日本に稲作が伝わった時期より前に朝鮮半島で稲作の痕跡が発見されていないことから、稲作は朝鮮が先で 日本が後ということは考えられないという点。 第2に、弥生時代後期の米は、DNA分析により長江流域の種で朝鮮半島には存在しないものであるという点。 以上のことから、稲作は朝鮮半島から伝わったのではなく、縄文後期以降に直接シナ大陸から長崎五島を経由して 北部九州に伝わったものが最初であること。逆に朝鮮の稲作は渡来人もしくはヤマト人の水平移動型交流により 日本から朝鮮半島南部に伝わったと推察されること。の2点の結論を導くことができます。 したがって長江流域種の種籾・水稲陸稲が朝鮮半島を経由して日本に伝わった、ということは考えにくいでしょう。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinjaАй бұрын

    長江から直接南へ出て船で日本に着いた説ですよね。 私は朝鮮半島から船で南下して、対馬を経て日本へ到達する海路の方がよく使われていたと思っています。 だからこそ、対馬が大切な要衝であったかと。 最近の学者の間でも、まだ結論は出てないと思います。 もちろん、直接大洋に出て流れ着いた人たちもいたでしょうし、中国から戦乱を避けて種籾を植えることなく大切に携えて朝鮮半島から日本に渡った人もいたことでしょう。 ロマンの世界かと思います。 もしよろしければぜひ、ご自身のサイトやKZreadなどで詳しく紹介されてはいかがでしょうか?

  • @user-sp8wp4zg1j
    @user-sp8wp4zg1jАй бұрын

    ひふみ祝詞

  • @malkotoisu9730
    @malkotoisu9730Ай бұрын

    各氏族の語り部の方が次々と口伝をKZreadに上げてきてますが、口伝は各神社の神主さんが伝えているのでしょうか?

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinjaАй бұрын

    さて、どうなんでしょうね。 もちろん、神社は一族の守り神ですから、それを祀ってきた宮司家には一番多く残っている可能性がありますよね。

  • @tantan-sg8cr
    @tantan-sg8crАй бұрын

    宮司さま お風邪気味ですか?お大事に❤

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinjaАй бұрын

    風邪は治ったのですが、まだ喉の違和感があって。。。 ありがとうございます💛

  • @bluesky-yq2xh
    @bluesky-yq2xhАй бұрын

    人骨から言っても古墳時代人はそれまでの弥生時代人とはだいぶ異なるとは昔から言われてきた。 たとえば身長が高く骨格がしっかりしているなどだ。 しかしその変化は栄養や社会の安定などによるのではないかと漠然と思われてきた。 ただ文化の大変化はそれては説明がつかず空白の4世紀に大陸から大量の人口流入があったという人もいた。 その人たちは亡命者あるいは難民で必ずしも征服者ではなかっただろう。もし征服者なら文字記録を残していたはずだと思うからだ。 ただちょうど大和王権成立期とも重なるので空白の4世紀に何がおこったのか興味が尽きない。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinjaАй бұрын

    私も同じ考えです。征服しに来たのではなく、きっと平和な国に住みたいと願う人たちが集まってこの国ができたのだと思っています。

  • @user-tq5kg6bo3v
    @user-tq5kg6bo3vАй бұрын

    はじめまして、京都からです、東川宮司さんは葛城一族の末裔ですか?昔からの知合いに葛城一族の末裔と言う姉妹がいるのですが・・・

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinjaАй бұрын

    コメントありがとうございます。 私は末裔ではないのですが、何かしらのご神縁に導かれたと思っています✨

  • @yolocobi5945
    @yolocobi5945Ай бұрын

    大変わかりやすい説明ありがとうございました。こちらの御祭神に大変興味があるので参考になりました。今度ぜひ参拝に上がりたいと思います。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinjaАй бұрын

    ありがとうございます😊 ぜひぜひご参拝くださいませね。 ツアー仕事などで不在のこともありますので、お越しの際は事前ご連絡頂ければ幸いです。

  • @user-pk3qs8uf3v
    @user-pk3qs8uf3vАй бұрын

    詳しい説明をありがとうございます。写真もありがとうございます。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinjaАй бұрын

    ありがとうございます。 このところ、毎月ツアー仕事で参拝していますが、いつ行っても素敵です✨

  • @ohsam4884
    @ohsam4884Ай бұрын

    いやはや素晴らしい動画に感銘致しました。 そして、川の清流の動画内動画!それも、念押し再動画!(笑) いやはや充実させて頂きました。

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinjaАй бұрын

    嬉しいコメントありがとうございます。 龍鎮神社の清流は本当に美しいです。 いつかぜひご参拝くださいませね✨

  • @user-qu1rb7dz9l
    @user-qu1rb7dz9lАй бұрын

    とても気持ちがスッキリしました♪ ありがとうございました😊🙏🙏 四季折々の風景がとてもステキですね⤴️✨✨ 遠いのでなかなか行く機会がありませんが、一度 お参りに行きたくなりました。 ありがとうございました😊

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinjaАй бұрын

    嬉しいコメントありがとうございます😊 今は毎日鳥のさえずりが心地よいです。 またぜひご参拝くださいませ。

  • @user-qu1rb7dz9l
    @user-qu1rb7dz9lАй бұрын

    ステキな配信ありがとうございました。 とても分かりやすかったです。 ありがとうございました。 葛城の方へは、一言さん。と、 笛吹神社。に行った事あります😊 とても良い所ですね〜⤴️✨✨ ありがとうございました😊🙏🙏

  • @mitoshijinja
    @mitoshijinjaАй бұрын

    ありがとうございます。ぜひ御歳神社へもご参拝くださいませね。

  • @mayumi3300
    @mayumi3300Ай бұрын

    大変分かりやすく 楽しいお話をありがとうございます♪ 全くおっしゃるとおりと 思っています。 いわゆる欠史八代と言われる 初期の天皇は ほとんど記述がないので、 創作だろうということを言われる 先生方もおられますが、 いえいえ 妃も皇子女も、宮の名も ちゃんと書いてあるじゃないですか… と、思っていたのですね。 だって、 【妃】って、 凄い情報ですよね。 天皇の母をみれば、 その時代、 誰が王権の中心にいたか、 分かると思っていますから。 一番、チカラの強い家の妃の御子が、 皇位を継承します。 その政権を支えているのは、 天皇の母の家なのです。 それを見ると、 初期の妃たちは、 天皇家を除けば、 尾張か師木ばかりなのです。 九州から来たのに、 九州勢どこいった⁈ 兄磯城・弟磯城とか シキシキシキ… シキって誰よ⁈ と思っていました。 出雲の伝承を読み、 磯城とは一体何であったか、 その構成や成り立ちが スッキリ分かって、 雲が晴れた状態です。 妻問い婚は 全くそうだと思いますが、 平安時代やヤマト内で それができていたのは、 実家が近かったからと 思います。 ヌナカワヒメは、 大国主(実際には事代主)が 越まで求婚しに訪れたあと、 美保関に迎えられたと 思います。 伝承本に詳しい様子がありますが、 その他にも その説明が納得できる理由があります。 出雲と越では しょっちゅう通える距離ではないこと。 子づくりも王家にとっては 重要な意味があったと思います。 平安京内や 奈良盆地内だったら、 通うのにも不自由ないでしょうが、 越ではそうそう 行ったり来たりはできないでしょう。 美保神社のあるあの地域に、 ヌナカワヒメの屋敷を建て、 その地域一体が 越の翡翠族の 今で言う領事館のように なっていただろうと 想像します。 出雲王国内の越であり、 越の翡翠族の出雲における 翡翠交易の拠点となっただろうと。 越にとっても 出雲にとっても Win win の関係になるでしょう。 そこに、大庭の宮殿から、 事代主が通って来るわけです。 舟で通い、 ここに来るときは必ず、 釣りをしていたという伝承が、 恵比寿さまのあの格好へと なってゆきます。 同じように、 宗像から冬衣王に嫁いだ田心姫も、 大国主に嫁いだ多岐都姫も 出雲内に屋敷は建ててもらったと 思います。 多くの妃が 実家の護衛たちと住む屋敷を 別々に建ててもらっていただろうと。 勿論、元々、近くで育った妃は 実家にそのままいただろうと 思いますが。 三姉妹の父・アタカタスは、 九州の宇佐家へ 婿入りしたのではないかと 思います。 宗像を名乗ったのは、 ずっと後の時代で、 出雲の分家であり、 宇佐の婿さんであっただろうと 想像します。 ヤマトでは、 最初は葛城地方から始まった王権も、 姫巫女である皇后の タタラ五十鈴姫ら 東出雲王家・登美家の勢力は 三輪山方面に移り、 あちらの出雲屋敷に住みますね。 葛城に残ったのは 尾張勢と西出雲王家勢ですね。 神社を見れば それを物語っています。 初代大王は 三輪山の皇后の下へ 通っていきますが、 御所には【吾平津媛】も 住んでおられましたね。 【嗛間(ホホマ)神社】が 残っています。