【ゆっくり解説】古代吉備

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古代吉備のゆっくり解説動画です。
古代吉備を大発展させた原動力はなんだったのでしょうか。
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Пікірлер: 30

  • @ukyotk4889
    @ukyotk488921 күн бұрын

    4:15 字幕と音声で高梨川となっていますが正しくは高梁川(たかはしがわ)です。

  • @user-mh8bf7md5i
    @user-mh8bf7md5i21 күн бұрын

    怪人キムタカ「タンザニア説!そういうのもあるのか」

  • @TheKzit1969
    @TheKzit196921 күн бұрын

    そういえば岡山大学の構内に弥生時代の遺跡があったなー。海が近かったのかも。それとバイトで発掘してた吉備の遺跡で大きな銅鐸も出た。確かに北の方でした。

  • @user-fm1nb3ss7k

    @user-fm1nb3ss7k

    21 күн бұрын

    ちょうどそこが波打ち際と聞いたことがあります。

  • @AtomMonado
    @AtomMonado21 күн бұрын

    興味深い動画配信ありがとうございます。 1海里=1.852km、緯度差30分=30海里=約55.5km 箸墓古墳後円部径約165mは、55m×3=165m 富雄丸山古墳の径約110mは、55m×2=110m 1丁=60間、1間=1.8m 1丁=1.8m×60=108m (神社参道の単位) 関連ありそうです。

  • @宴は終わったが
    @宴は終わったが21 күн бұрын

    動画ありがとうございます。 吉備の古墳が近畿に伝わったという説であれ、吉備の古墳が独自に発展したという説であれ、共通するのは、ともすると古代が近畿を中心に成り立っているかのような近畿中心主義を相対化するということの必要性を認識させられます。 邪馬台国九州説の主張にしても、大和中心の歴史観に対する相対化という様相があり、うp主さんの古代史動画には近畿中心主義の相対化というものを感じる意味で非常に視点が面白いと思っております。

  • @ふかふかわたべ
    @ふかふかわたべ11 күн бұрын

    今調べてみましたが自分のパソコンでもタンザニアになりました。

  • @sean2540
    @sean254021 күн бұрын

    吉備津彦がある山のど真ん中あたりに前方後円墳があって、その古墳の形は纏向石塚古墳復元図によく似た形をしています。前方部が短くてバチ型になっている古墳ですね。これと楯築墳丘墓とはどういう関係なのでしょうか。国土地理院地図Web版傾斜量図ではっきり形を確認できますのでご覧ください。ちなみにこの形の古墳は鹿児島県薩摩川内市亀山にある端陵古墳とほぼ同じ形ですし、同型の古墳は宮崎県、大分県、福岡県、佐賀県にもあります。特に宮崎県の生目古墳群、持田古墳群、延岡市などに多数の類似があり畿内ヤマトの古墳は九州から瀬戸内海を通りヤマトに伝搬したようにも見受けられます。柄鏡式古墳がヤマトに伝播するのもそういう経緯かと思います。

  • @TheKzit1969
    @TheKzit196918 күн бұрын

    高梁川の中洲にも遺跡があって、泳いでいくとそこらじゅうに弥生式の土器が土から顔を出してました。どこだったかな?

  • @user-yakisoban
    @user-yakisoban21 күн бұрын

    吉備は瀬戸内海を跨いで讃岐の辺りまでが吉備の勢力圏。山陽側は芦田川、高梁川、旭川、吉井川の4本を軸に勢力を持っていた。吉備国の社稷は吉備津神社にとってかわられ、出雲国の社稷は保護されたのを見ると、まぁ何となく察する。どちらも近畿の勢力から見れば日本海側と瀬戸内海の海上ルート上にあり、中華大陸との繋がりを考えると友好的な関係が必要だった。吉備国は四国にまで勢力を持ってたから、近畿の勢力からすると大きすぎたのかなと、だから滅ぼされた。

  • @newmarimo
    @newmarimo21 күн бұрын

    タンザニアにあったのか

  • @ayamasets

    @ayamasets

    21 күн бұрын

    ちょっとタンザニアで埴輪を探してみる。

  • @user-pr1dh9ew6z

    @user-pr1dh9ew6z

    20 күн бұрын

    耶馬台国アフリカ帝国説マジ草

  • @user-lm9sy2qq6w
    @user-lm9sy2qq6w21 күн бұрын

    魏志倭人伝の「支惟」が吉備ではないかと言われています。

  • @apuro66661
    @apuro6666120 күн бұрын

    邪馬台国タンザニア説が生まれていたとは・・連日猛暑日でチルノ状態ですよ

  • @shou-sho
    @shou-sho21 күн бұрын

    集成編年の時も思ったけど、本来なら当然知っているべき1歩の長さを知らなかったというのは独学の危険なところがムチャクチャ出てて、老婆心ながら心配になります

  • @yasunori_suzuki
    @yasunori_suzuki14 күн бұрын

    数十世代にも渡って定住し続けられるような天災の少ない地域じゃないと有力なクニには育たないよね。岡山の大地は恵まれてたかな?

  • @sayanerogoo
    @sayanerogoo21 күн бұрын

    吉備津神社からみて東の方には津高・津島という地域がひろがっていて、岡山大学のあるあたりでは水田遺跡もみつかってること 上東の位置から考えて今山陽新幹線が走ってるあたりより北がだいたい陸地だったと考えると、その部分だけでも総社より倍以上は広い地域になります 総社が中心というわけではなく、吉備津神社あたりを真ん中にして東西にひろがる地域が吉備勢力圏だったんじゃないでしょうか そう考えると食料の確保も容易になるし、それに加えて交易による利益もあがったとなると、巨大な墳丘墓をつくれるだけの勢力であっても不思議ではないと思います

  • @si-vl9ju
    @si-vl9ju21 күн бұрын

    ご発信いただきましてありがとうございます。 そーいえば家康も新潟や大分などかつて大きな戦国大名の出身地をあえて規模小さな大名領としたり旗本領にして大きな勢力が出づらい地域にしましたね。吉備の分割に通じますかね。

  • @user-gx4pf7ep2e
    @user-gx4pf7ep2e16 күн бұрын

    邪馬台国タンザニア説w これには木村鷹太郎も苦笑いwww

  • @LoopyQp
    @LoopyQp21 күн бұрын

    地元でありがたい❤

  • @heygabagaba5878
    @heygabagaba587818 күн бұрын

    山間部に二万個の穴があって それ全部古代の墳墓じゃないの?って言われてる 穴の国だ! 暑さお気をつけて ほんとに命を取りかねないやつですからね🍨✨

  • @user-jf2dz9cm9h
    @user-jf2dz9cm9h21 күн бұрын

    不可解なのは吉備では楯築墳丘墓より後の墳丘墓は小さくなっていくことですよね。特殊器台もだんだん雑になっていく。

  • @socrateos

    @socrateos

    21 күн бұрын

    いやいや、吉備における墳墓はますます大きくなりましたよ。造山古墳(全国で4番目の大きさ)や作山古墳(全国で10番目に大きさ)。近畿の巨大な王墓とほぼ同じぐらいの墳墓が作られています。

  • @user-ow1ww6cf7p

    @user-ow1ww6cf7p

    20 күн бұрын

    @@socrateos コメ主は墳丘墓限定のことを言っているのだと思いますよ。 墳丘墓が小さくなっていって急に巨大な古墳ができるって流れが不思議だと言っているのだと思います。

  • @user-jf2dz9cm9h

    @user-jf2dz9cm9h

    20 күн бұрын

    @@socrateos 私がコメントしましたのは弥生後期から古墳初期にかけての話です。吉備の墳丘墓で楯築墳丘墓は最も古い時代のものと考えられています。その後は古墳時代直前にかけて少しずつ縮小しています。なお、造山古墳や作山古墳は古墳中期の話ですので100年くらいの開きがあります。もちろん関連性はあるのでしょうが、同列に語るのはいかがなものかと思います。また、古墳初期にも浦間茶臼山古墳などそれなりの規模の前方後円墳はありますが、浦間茶臼山古墳は奈良県の箸墓古墳の約2分の1です。それでも弥生時代の墳丘墓と比べたら突如として巨大化したと言ってもいいのではないかと思います。

  • @socrateos

    @socrateos

    20 күн бұрын

    @@user-jf2dz9cm9h 「楯築墳丘墓より後の墳丘墓は小さくなっていく」と書かれていたので、それは事実とは違うのではないかと思いました。

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