新・大阪学事始「巨大古墳の謎」その2「百舌鳥・古市古墳群の造営―なぜ河内・和泉に集中ー」レジメつき

新・大阪学事始「なにわ古代史2」
「巨大古墳の謎ー百舌鳥・古市古墳群」その2
「百舌鳥・古市古墳群の造営―なぜ河内・和泉に集中ー」
講師は安村俊史・柏原市立歴史資料館館長
2019年9月12日@大阪自由大学
レジメつき
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Пікірлер: 5

  • @sean2540
    @sean25402 күн бұрын

    初代神武天皇のモデルになった人が眠る大阪府柏原市玉手山が望める古市にヤマトタケルを埋葬した。能褒野陵とよく似て規模も同じ野中宮山古墳がヤマトタケル陵だと思います。また能褒野陵は行燈山古墳に形状が似ており、しかも行燈山古墳の東には櫛山古墳がありますが、この古墳は吉備の楯築墳丘墓と同じ双方中円墳であり、行燈山古墳被葬者が櫛山古墳被葬者の関係者だとすれば、吉備津彦の娘を妃にした景行天皇こそが行燈山古墳の被葬者だと考えられ、幕末に伝承があった行燈山=景行陵は正しいと言うことになります。ヤマトタケルは大王だったと常陸の国風土記逸文に見られますが、父景行天皇の死後、天皇に即位する意思を持ってヤマトに向かいますが、先に即位した成務に近江で阻まれ、熱田で過ごされた後、能褒野に葬られましたが、親族によって行燈山の近くに陵墓造営を意図したが、これも阻まれ、やむを得ず皇孫神が眠る浪速の玉手山が望める古市の地に陵墓を造営したのだと思います。古市の地には子の仲哀天皇陵墓、孫の応神天皇陵墓がありますがヤマトタケルは子と孫に囲まれて古市の地に眠っているわけです。これが古市に巨大前方後円墳が現れた理由だと思います。また後代に成務天皇と呼ばれる人には妻も子もいないように古事記は伝えますが、日本書紀では別伝を伝え皇后も子もいたことになっており、成務後に仲哀と成務の子孫による皇統の分裂があり、成務子孫側が破れたと思われます。佐紀近辺の大王の伝承がない大型古墳群はこの成務朝の大王墓と思われ、攻め上ってくる神功皇后の軍に対抗すべく兵庫に軍勢を向かわせて敗死した二人の皇族にされてしまった人は成務朝の大王だったと思います。

  • @user-dc1zk1hm2d
    @user-dc1zk1hm2d Жыл бұрын

    田園改築で余った砂を古墳した、

  • @moto1269
    @moto1269 Жыл бұрын

    古墳時代の人々は大王の墳墓づくりに動員されて何を思ったのだろうか。 大きな古墳づくりに新しい時代の脈動を感じたのか。本意でなくとも国家の動員力に従わざるを得なかったのか。 埴輪や石室石棺は専門の人たちが手掛けたのだろうが、一般民衆の気持ちはどうだったのだろう。 みんなでやっているから自分たちも従わざるを得ないという、日本人特有の長いものには巻かれろ、的な性格はその頃からだろうか。

  • @user-gk3ng1yk9o
    @user-gk3ng1yk9o3 жыл бұрын

    まさ

  • @user-cf9kk3jx2w
    @user-cf9kk3jx2w2 жыл бұрын

    馬に麻酔をしていたとか。

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