谷間の学校

製作:日映科学映画製作所  企画:文部省 
1956年 モノクロ 22分
【製作者の言葉】
僻地教育における先生の奮闘物語。当時すでに1万校以上の分教場があったようである。
先生は学校のみならず、地域で全てのよき相談者であり、リーダーでもあったようだ。仲人、名づけ親、医者の役割まで。

Пікірлер: 22

  • @kanb
    @kanb29 күн бұрын

    この先生は復員翌年の1948年から72年までこの学校におられ、最近までご存命だったそうです。 野栗沢は現代の農業には堪えない狭隘の大変な山の中ですが、今でも人が住んでおられる家がたくさんあるようです。 きっとどの窓にも、この先生との思い出があるのでしょうね。

  • @ShimaJiro2205

    @ShimaJiro2205

    13 күн бұрын

    様 勲章は、こういう方に。

  • @atoztoztoa
    @atoztoztoaАй бұрын

    1年で3人も辞めたりする中で、8年以上も勤める。立派すぎる先生だ。 学校が荒れていたと聞いて児童の素行が悪いのかと思ったら、物理的に学校自体が荒廃していたとは。

  • @user-xt7rn2hs4w
    @user-xt7rn2hs4wАй бұрын

    二十四の瞳の大石先生を思い出しましたあれは架空の話だけれど、これは実話だから、見ていて胸が熱くなります。いい物見せて貰って、ありがとうございます。

  • @onefuel4619
    @onefuel4619Ай бұрын

    これは尊敬出来る教"師"

  • @P.M.san.
    @P.M.san.20 күн бұрын

    以前にアップロードされた物よりも、ホワイトノイズが抑えられてより声が聴きやすくなっているのが分かります。後世により良い状態で伝えようとして下さりありがとうございます!

  • @user-tg8qc6rm6j
    @user-tg8qc6rm6jАй бұрын

    サムネホリエモンで草

  • @AiRobi
    @AiRobi25 күн бұрын

    今の日本があるのは、このような先人達のお陰と思います。 世界には未だ発展が難しい国があるけど、違いは勤勉で正直な人ということでしょうか。 貧しくとも子どもの未来を大切にして下さり、本当に有難うございます。

  • @wagashi_Z9
    @wagashi_Z9Ай бұрын

    サムネイル 子供時代のホリエモンかと思った

  • @sama-fk5fz

    @sama-fk5fz

    25 күн бұрын

    思った!

  • @do.dodo.dododo
    @do.dodo.dododoАй бұрын

    まさかの地元! 貴重な映像だ… 方言が出てきて泣けてくる うちのおじいちゃんやおばあちゃんもこんな感じで子供時代を送ってたのかな…

  • @user-rw6np2dz7v
    @user-rw6np2dz7v13 күн бұрын

    この子供たちも2024現在で70代かぁ。

  • @cg891
    @cg89124 күн бұрын

    サムネがホリエモンで草

  • @Su----
    @Su----Ай бұрын

    え。 「すりばち学校」の山田修先生ですか??

  • @silviaspecR2050
    @silviaspecR20509 күн бұрын

    サムネの子供の顔、ホリエモンだねw

  • @ryu417
    @ryu41729 күн бұрын

    こんな美談を語るほど、日本は情けの国だった...。

  • @noriokd9628
    @noriokd9628Ай бұрын

    オカッパ

  • @abcdefgwxyzz
    @abcdefgwxyzzАй бұрын

    全員親戚?

  • @yoshikurakino

    @yoshikurakino

    29 күн бұрын

    ちゃうよ。 まぁ、祖先は同じかもしれんが。 部落て今はバカが被差別部落しか連想せんみたいだが、◯◯部って古代の氏族単位で屯田して集落を開拓したんだよ。 大伴部とか泊瀬(はつせ/長谷)部とか。 大伴部は倭建(ヤマトタケル)に神格化された卑弥呼の甥、景行天皇(当時は天皇号なく大王)の皇子であり皇族将軍に与力として従った一族。 その東征で関東に根付いた小野氏=愛甲氏、知知夫国造(ちちぶくにつくりのみやつこ)の末孫が横山党等の貴族や武士。 横浜市神奈川区六角橋の地名由来は倭建を現地で大伴久応と言う有力者が歓待した際に倭建の使った箸が六角箸で神器として大切にされていたからと言う説があり、戦国時代に戦火で消滅するまで寺院化した聖地の神大寺と言うお寺も有った。 日本書紀にでる倭建と弟橘媛夫妻が房総半島に水軍で渡海する気象情報整うまで横須賀市走水に駐屯した際に、大伴黒主と言う水軍(在地豪族で平素は網元)の豪族に歓待された記録がある。 大伴部が先に関東に入植したから倭姫=卑弥呼は大伴氏を甥の倭建の与力軍団に指名したんだろうね。 つまり西暦280年頃に関東地方を開拓してたのが大伴部。 大伴氏の氏神は大阪の住吉大社だから、古墳時代以前には大阪辺りが根拠地だったようだよ。 愛甲氏の祖になる小野氏は現在の神奈川県厚木市〜多摩川西岸の東京多摩地区に土着していたのが大伴氏。 静岡の焼津で倭建を裏切り焼討しようとしたのが小野氏だね〜。 その後、大伴も小野も倭建と権力闘争をした成務天皇に付いたようで平安貴族化してるよね〜。 その小野氏の子孫には小野小町や畠山重忠を射殺した弓の名手のスナイパーの愛甲季隆公なんかがいる。 皆が勉強した班田収授の法とか墾田永年私財法とか古墳時代の後の時代に出来たのは、その古代に未開地の開拓を部民達のモチベーション上げて増やすためだよね。

  • @maskmaniaque
    @maskmaniaque27 күн бұрын

    11年前に同じの上がってますよ kzread.info/dash/bejne/m4JsssZuiqaokps.html

  • @nasidoori
    @nasidooriАй бұрын

    クマが出たりしないのでしょうか。

  • @user-qd6sv8qr6j

    @user-qd6sv8qr6j

    Ай бұрын

    この地域には生息していません

Келесі