法話「子どもを育てる親の覚悟とは?」真宗大谷派僧侶 高科 修 師20240524
【目次】
00:00 オープニング 「今回の小話の内容は?」
01:10 タイトルコール
01:26 「子どもを育てる親の覚悟とは?」
13:30 エンディング 恩徳讃
◉効果音:Audiostock - audiostock.jp
効果音ラボ - soundeffect-lab.info
Senses Circuit - www.senses-circuit.com/
ポケットサウンド - pocket-se.info/rules/
◉写 真:photo-AC - www.photo-ac.com
◉イラスト:かわいいフリー素材集 いらすとや - www.irasutoya.com
法話「子どもを育てる親の覚悟とは?」真宗大谷派僧侶 高科 修 師20240524
『死ね』『殺す』
この言葉は、他人にも、自分にも使ってはならない言葉です。
この使ってはならない言葉が…
使う人の覚悟によって、『死ね』『殺す 』と告げた相手を、『生かす言葉』となることがあります。
それも、ただ生かすのではありません。
それこそ、愚直に、ひたすらに、一生懸命に『生きるしかできない生かす』になることがあります。
今日の法話は、この、人を生かす、『死ね』と『殺す 』の言葉のお話です。
では、どうぞ、最後まで、ご視聴頂きたくお願い申し上げます。
聞いて良かったと思われましたら、グッドボタン・ご感想などコメントいただけますと、小話動画UPの励みになりますので、よろしくお願いいたします。
チャンネル登録も、よろしくお願いいたします!(^^)!
お坊さんの小話集(法話集)
子供のころ見たり読んだりした映画や小説を、大人になってあらためて見たり読んだりすると、まったく違った感じ方をすることが、しばしばあります。
それは…経験をつんで物事を深く見たり感じたり出来るようになっいるから…また逆に子供の頃の純真さを失っていたりするからと…その理由は様々です。
この『小話』も…繰返し読んでみてください。自分が健康なとき、病気のとき、恋をしているとき、失恋したとき、楽しいとき、怒っているとき、身近な人の死を経験したとき…さまざまなときに読んでみてください。そのたびに、書かれている文章は同じでも、感じ方・捉え方はきっと違ったものになるはずです。
釋 完修
合掌
お坊さんの小話集
www.0408.jp/s003/index.htm
お坊さんの小話サイト
www.0408.jp/index.html
浄土真宗とは
www.0408.jp/s001/index.htm
お坊さんの小話KZreadチャンネル
/ @buddhism_japan
#仏教#親の覚悟#教育#法話#浄土真宗
Пікірлер: 21
ありがとうございます。大真唯唯南無阿弥陀仏。
@buddhism_japan
2 ай бұрын
井口好一様 ご視聴、コメントありがとうございます。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修
生きる事はどの方に接しても覚悟と決意を持って生きていく事ですね🌱2回目お聴きして忘れている自分に少し悲しいです。忘れないで前向いて歩きたい🚶♂️
@buddhism_japan
Ай бұрын
みすず 木村様 ご視聴、コメントありがとうございます。 忘れていて良いのです。 忘れていたなら、今回のように思い出すことが出来ます。 「生きる事はどの方に接しても覚悟と決意を持って生きていく事ですね」 と、すでにみすず 木村様の内にあるのです。 ならば… 悲しいのは、忘れていたことではありません。 思わない!思い出さない!そのことが悲しいことなのです。 折に触れ、その都度その都度、思い出せば良いだけです。 忘れないことより、 折に触れ、その都度その都度、思い出して下さいませ。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修
高科様 いつもありがとうございます。 子どもを育てることも、自分が生きていくことも腹が座りません。 いつも言い訳を考え、自分の外側に上手くいかない原因を探します。 自分1人で生きているような横柄な態度のくせにつまづく度に自分を 正面から見ることも出来ず、生かされていることも忘れ・・・。 どーんと構えて「上手くいかんのは、すべて私のせいじゃ」と 言えるように阿彌陀様の教えを聞いていきます。 ありがとうございました。 南無阿弥陀仏 合掌
@buddhism_japan
Ай бұрын
しろくま様 ご視聴、コメントありがとうございます。 『聞法』…… 私たちには、これしかありません。 聞法し続けて、生活していく…… ただひたすら、その道を歩いていくだけであります。 その歩く姿は… 自分自身の因となります。 その歩く姿は… 他の誰かの因となります。 因は果を生み、果はまた因となる。 そうやって真宗に生きる私たちは『今!を生きる』のです。 その生き様が、我が身が死したとき…『仏=願い』となって、後の人を導くのです。 聞法の姿こそが、菩薩道であります。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修
高科師のお話を私なりに理解した上で自分なりの想像が膨らみます。 そう言えば子供の頃はやたらと樹木の上や屋根に登りたがったなあと。 「暗夜行路」だったか、主人公が子供の頃、屋根に登っていたら、下から母親が猫なで声で諫め、大人に下ろされた後で厳しく叱られたという記述があったことを思い出します。複雑な家庭環境に育った主人公が「母親だけは真から自分を愛してくれた」と感じた・・・と。 師自身「現代の世の中、ジェンダーがどうのと言いながら、母親のみの持つ(師の場合は祖母でしたが)言葉に出来ない自然な力を奪っているのではないか?」と感じているのではないか?と勝手に推測してしまいました。
@buddhism_japan
2 ай бұрын
庭カッパ様 ご視聴、コメントありがとうございます。 母性には、父性は、その足下にも及びません。 優劣ではなく、良い悪いではなく、敵わないのです。 なぜなら…我が身の分身が母と子なのですから! この母に成ることの力を備えているのが女性です。 その力が今!有る無い。 その力を今!行使する行使しない。 そんなこととは別に、女性は母に成れるという事実に、敬われ尊敬されるのです。 ハラスメントもジェンダーも、重大なことを抜きにして、うわべだけで語られていることが多い日本であります。 故に… ことあるごとに、このようにお話をさせて頂いております。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修
こんばんは 久しぶりにコメントさせていただきます ありがとうございました。 とても 身に突き刺すような お言葉でした と同時に おもいだしました 長男を産んだ時 私は この子をそだてなければ でも、私の物ではないこの子は 1人の人として生まれてきたから 1人人間としてそだてなければ成らないと 強く思ったことを思い出しました🙏 ありがとうございました🙏
@buddhism_japan
Ай бұрын
恵 船本様 ご視聴、コメントありがとうございます。 お久しぶりで御座います。 日々気温が落ちつかず、朝晩の寒暖差が体調を崩しやすくしております。 お身体など、おかわりは御座いませんでしょうか……何事もなければ、ありがたく思っております。 恵 船本様の… 『母としての覚悟』 『母・親としての覚悟』 その覚悟をお知らせ頂いたこと。 誠にありがたく、承りました。 その母の覚悟は、母の、母親の願いとなって、子の中に、少しずつ少しずつ、年月をかけて、因(種)として蒔かれて行きます。 その因(種)は、蒔かれている以上必ず果(花)を咲かせます。 その花は、紛れもなく、恵 船本様の蒔いた種(因)であります。 母の覚悟の願いの因が、 母の覚悟の願いの果を必ずもたらしてくれるかどうかは、これもまた、子が子としての覚悟があるか、無いか、にかかってまいります。 それでも… 母の覚悟は、子に伝わっているはずなのです。 伝わっていることには間違いはありません。 なぜなら… 子は、母親の願いからは、逃げられないかです。 母親とは、それほど、深い者だからです。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修
@user-xk5up5jd8r
Ай бұрын
とても 深いお話を ありがとうございました🙇🙏
背筋が伸びるお話ありがとうございました。命がけの覚悟というのでしょう。私は覚悟を持って人に接してるのか?生きているのか?と思うと、恐ろしい話でした(+_+) コメントに入れようか迷ったのですが・・・。唯脳論の影響受けて育った私は「言葉は脳に働き、声は心に働く」という考えを持っています。 相手が、覚悟(思い)を受け取った時。言葉を越えた何かが相手の心に伝わる。そんな気がします。
@buddhism_japan
2 ай бұрын
A・シキミ様 ご視聴、コメントありがとうございます。 この言葉を言われた本人は、言われた時から、ずっと背筋が伸びっぱなしです。 その「背筋が伸びっぱなし」故に… 私の心には、1つの目指す姿があります。 A・シキミ様の仰る… 「私は覚悟を持って人に接してるのか?生きているのか?と思うと、恐ろしい話でした(+_+)」にも通うづることかもしれません…… 以下がそれであります。 古代ギリシャでのお話です。 一人の男が自分の親友の家を訪ねます。 それも真夜中に…… その一人の男は、開けられたドアにたたずむ自らの親友の姿と言葉に驚愕します。 開けられたドアの内側には…… 片手に剣も持ち もう片手には金貨の入った袋を持って立っていたのです。 親友は、その出で立ちのまま言葉を発します。 「こんな真夜中に、お前が訪ねてくるとは、きっとよっぽどのことなのだろう! さぁ、どっちだ! 今!お前が必要なのは、剣か?金貨か?」と… このお話をすると、皆々、こんなことを言ってくれる友(親友)が欲しいと言います。 私は、このお話を聞いたときに、真っ先に、この親友…剣か?金貨か?と言って親友の前に立つ…こんな男に成りたいと強く感じました。 ある意味、背筋が伸びっぱなしの成せる業なのだと感じています。 『剣か?金貨か?』 私の人との接し方であります。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修
@user-cc8qs2mo6c
2 ай бұрын
@@buddhism_japan 返信ありがとうございました。 今回の話から思い出したのが、親鸞聖人と弁円(明法房)との出会い。殺す勢いの弁円は親鸞聖人の覚悟に押されたのでしょうか?いつか機会が有ったら教えて頂けると嬉しいです。
高科先生。 大変ご無沙汰しております。 こうしてお話させて頂くのは、一年振りほどでしょうか? その間も高科先生のお話、拝聴しておりました。 昨年、立て続けに義両親がお浄土へと行かれました。 3人の息子を抱え前夫と死別した私は、縁あって夫と再婚し、二十年余りの年月が過ぎました。 夫は初婚でしたが、義両親は、私と息子たちを心良く迎え入れてくれました。 そんなある日、義母に、息子との間に孫をもうけないで欲しいと言われます。 きっと血の繋がった孫が出来てしまったら、頭ではわかっていても、実の孫に贔屓してしまうこともあるだろうし連れ子である3人の孫を傷付けてしまうかもしれない、息子にも、同じことで悩ませたくない、今いる3人の孫を大切に育てて行きたいとの思いからでした。 そしてこのことは、息子には黙っていて欲しいと。 義両親共通の考えであると。 自分の両親を見れば、どれだけ孫が可愛いかわかります。 後に婦人科の病を患い、夫との間に子供はおりませんが、義両親の思いは、きっと私を娘として、息子たちを孫として受け入れる「覚悟」だったに違いありません。 義両親亡き後、私は夫に義両親の思いを伝え、改めて義両親の「覚悟」を夫と共に噛みしめました。 幼かった息子たちも大人になり、義祖母の思いに感謝し、手を合わせるのでした。 願われて生きている、義両親からの思いを今更ながらに有り難く思う次第です。 夫は、義両親の死を御縁として、帰敬式を受けました。 これは、夫のこれからの生き抜いていく「覚悟」なのであろうと確信しています。 南無阿弥陀仏。合掌。 釈尼妙和。
@buddhism_japan
Ай бұрын
ちやんぴー様 ご視聴を続けて頂いておられたことに、心より感謝いたします。 私を含め、スタッフ一同、大変喜んでおります。 ありがとうございます。 ちょうど先日… スタッフのミーティングで、ちゃんぴーさんは、どうしておられるのかね~と話題が出たところでしたので、より嬉しさが増しているしだいです。 日々気温が落ちつかず、朝晩の寒暖差が体調を崩しやすくしております。 お身体など、おかわりは御座いませんでしょうか……何事もなければ、ありがたく思っております。 あらためまして、 ご視聴、コメントありがとうございます。 覚悟を伝える者! 覚悟を受ける者! そして… その覚悟を継いでいく者! そして…その継いだ覚悟を伝えていく者! ある意味、人の世は… そうやって、過去・現在・未来と紡がれて行っております。 まさしく、正信偈・帰命無量寿如来…『無量寿』であります。 ちゃんぴー様のコメントにより、『無量寿』の世界を見させて頂きました。 私も… この無量寿の世界で、 生きて行きます。 大きな気づきを頂きました。 ちゃんぴー様… お礼を申し上げます。 ありがとうございます。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修
@user-be9ky6vp2p
Ай бұрын
@@buddhism_japan 高科先生。 お忙しい中、そして余震によるご心労も察する中、返信ありがとうございます。 昨年は、専門看護師の研修から始まり、義両親の介護と別れ、本当に数多くの出来事がありました。 また、長年お世話になったお手次寺の先生が去られ、新しい先生をお迎えすることとなり、幼き頃より慣れ親しんだお手次寺がなくなってしまったようで、心に大きな穴が空いたようでした。 しかし、浄土真宗を宗として生きる身、どんなことがあろうと、賜った伝灯は、決して消えることなく、私を励まし、勇気づけ、気付け、生きろ!と叱咤激励してくれるに違いありません。 ありがとうございました。 南無阿弥陀仏、合掌。
小学生の孫に対し嫌われてたくないあまり孫ッかわいがりして甘やかす自分を反省します。子供には親の責任を覚悟していたつもりが孫にはそれが要らない。そんな身勝手が他因自果というのな。合掌。
@buddhism_japan
Ай бұрын
秋元一良様 ご視聴、コメントありがとうございます。 月参りに、いろいろなお宅にお参りお伺いしております。 お孫さんのおられるお宅もたくさんあります。 そのお孫さんがいる方々は、ほぼ皆さん同じ言葉を発します。 「孫って可愛いもんやなぁ~。ただ可愛がってたらええんやから、余計に可愛いなぁ」 そして次に必ずこう付け加わるのです……「だって責任ないからな!」と…。 人は… 人と関わることによって影響をうけて行きます。 『朱に交われば朱くなる』の諺は、ある意味真理です。 可愛がって可愛がって可愛がって…それでもさらに可愛がって行くのは、可愛い孫ですから至極当然のことです。 ただ…… 可愛がって可愛がって可愛がって…それでもさらに可愛がって、その結果、『我が儘放題』『身勝手』な『孫』に育ったなら、それは間違いなく、 可愛がって可愛がって可愛がって…それでもさらに可愛がってた人の責任です。 人と関わることに、我が責任の無い事など、1つもありません。 合掌 高科修