法話「死んだ…」じゃないんだ『生きた!!』だよ~南無阿弥陀仏~真宗大谷派僧侶 高科 修 師

法話「死んだ…」じゃないんだ『生きた!!』だよ~南無阿弥陀仏~真宗大谷派僧侶 高科 修 師
大切な人。愛する人。その人が命を落とした時。
あなたは、その大切な人・愛する人の死を、ただ亡くなった(◯◯歳で亡くなった!)と捉えますか、それとも生きた(◯◯歳生きました)と捉えますか。
享年(行年)と寿算というこの二つの言葉は、上記のように大きく意味が異なります。
そしてこの意味の異なりは、それがそのまま、娑婆に残った私たちの生き方を変えていきます。
では、どのように変えて行くのでしょうか!
どうぞ動画を御覧ください。
聞いて良かったと思われましたら、グッドボタン・ご感想などコメントいただけますと、小話動画UPの励みになりますので、よろしくお願いいたします。
チャンネル登録も、よろしくお願いいたします!(^^)!
お坊さんの小話集(法話集)
 子供のころ見たり読んだりした映画や小説を、大人になってあらためて見たり読んだりすると、まったく違った感じ方をすることが、しばしばあります。
 それは…経験をつんで物事を深く見たり感じたり出来るようになっいるから…また逆に子供の頃の純真さを失っていたりするからと…その理由は様々です。
 この『小話』も…繰返し読んでみてください。自分が健康なとき、病気のとき、恋をしているとき、失恋したとき、楽しいとき、怒っているとき、身近な人の死を経験したとき…さまざまなときに読んでみてください。そのたびに、書かれている文章は同じでも、感じ方・捉え方はきっと違ったものになるはずです。
釋 完修
合掌
www.0408.jp/s003/index.htm
お坊さんの小話サイト
www.0408.jp/index.html
浄土真宗とは
www.0408.jp/s001/index.htm
#仏教#享年#行年#寿算#生きた

Пікірлер: 47

  • @user-ym1fi6ws5y
    @user-ym1fi6ws5y2 жыл бұрын

    南無阿弥陀仏!

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    2 жыл бұрын

    輪廻転生様 ご視聴、コメントありがとうございます。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-uh2os1vl6y
    @user-uh2os1vl6y3 жыл бұрын

    有難いお言葉 ありがとございました

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    3 жыл бұрын

    森川祐子様 いかがお過ごしでしたでしょうか? 再度コメントを頂けたこと、大変嬉しくありがたく感じています。 ありがとうございます。 「くさらずに頑張ります」の森川様のお言葉に安心と同時に、無理をなさって頑張りすぎているのでは…と心配もいたしておりました。 コメントと返信のやり取りだけで、何も分からずご推察いたすしかございませんが、どうかくれぐれも、頑張りすぎず、自分自身の持つペースで暮らして行かれることを願っております。 体調管理が難しい今日この頃です。 それに加えコロナもあります。 くれぐれも、体調など、お気をつけ下さい。  合掌    高科 修

  • @user-gl1xy5vt1l
    @user-gl1xy5vt1l2 жыл бұрын

    物事を表から見るか裏から見るか、見方によって解釈や想いが全く異なるのですね。 目から鱗でした。 生ききった証、大切な記憶として持ち続けることを宝としたい。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    2 жыл бұрын

    三宅様 「生ききった証、大切な記憶として持ち続けること」 そのことが「宝」 人が人として他の生き物と決定的に違う事。 人が人として「人」となりうる証。 それは… 世代を超えた積み重ねです。幾千年、クサビを打ち続ける地道な研鑽。 私たちは、その研鑽をさらに磨き、死して次世代へと繋いでいく。 その悠久の研鑽の積み重ねこそが、人を人としているのだと思います。 三宅様が先に仰ったお言葉こそが、正に人が人たる由縁なのだと深く感じさせて頂きました。 ありがとうごさいます。 合掌   高科 修

  • @user-xk5up5jd8r
    @user-xk5up5jd8r Жыл бұрын

    今日も 心に染みるお言葉 ありがとうございました。🙏 お骨入れの事も 寿算と言う言葉も 初めて知りました。 ほんとうに… 寿算 これからは そのように 私達の為に 88歳まで生きてくれて ありがとうと言う気持ちで話したいと思います。 亡くなったのではなく 生きてくれた 今日も 深いお話し ありがとうございました。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    恵 船本様 ご視聴、コメントありがとうございます。 私は… 私たちは… 先人の生きた証しの上に立って生きています。 先人の『生きた』がなければ『今』はありません。 人は… イエ…命あるものは、 その命が無くなっても、 さの『生きた証』は、決して無くならないのです。 思いも願いも、受け継がれていきます。 南無阿彌陀仏 合掌 高科修

  • @user-gc6yy5cp3u
    @user-gc6yy5cp3u3 жыл бұрын

    いつも有り難く拝聴しています。 お手次寺の先生が、亡き父の幼馴染みというご縁を頂き、日々お話を思い返しながら暮らしております。 看護師をしておりますが、今回の「寿算」のお話、改めて命との向かい合い方を考えさせられました。 ありがとうございました。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    3 жыл бұрын

    ちゃんぴー様 動画をいつも御覧いただき、ありがとうございます。 そして、ありがたいコメントをいただき感謝いたすしかございません。 「改めて命との向かい合い方を考えさせられました」とのコメントは、この動画で、皆様方に私がお伝えしたかった全てです。 「寿算」をテーマに動画を撮影した甲斐がありました。 看護師をなさっておられるとのこと。 平常の時でも「命」に深く関り、心身ともに重責を担うお仕事。 昨年からの非常事態の毎日、そのご心労は想像を絶するものだと思います。 ただただ「ありがとうございます」と深く頭を下げることしか出来ません。本当にありがとうございます。 ちゃんぴー様には、くれぐれも体調などお気をつけ下さい。  合掌    高科修

  • @user-md2ct8qk7m
    @user-md2ct8qk7m Жыл бұрын

    高科住職様 初めまして 今日私の誕生日 76歳です この法話  有り難く心にしみます お会いできたら嬉しいです 遠い九州です 心は忘れません ありがとうございます。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    寒椿88様 はじめに、76歳のお誕生日、おめでとうございます。 生れたその日… 寒椿88様の誕生を心底喜ばれ、その人生を生き切ってくれとお父様お母様に願われた『その日』が76回巡ってこられたことに 感激いたしております。 あらためて… ご視聴、コメントありがとうございます。 ますますの精進を心がけてまいります。 合掌 高科修

  • @BEAM202.
    @BEAM202.2 жыл бұрын

    ステキな、お話しをありがとうございます。 少し個人的ですが、思った事・感じた事を、話させてください。 45年前に亡くなった実兄の命日は8/11です(寿算8歳)。 5年前に亡くした母も、命日が8月でした(寿算79歳)。 なので、生前の父は「ワシも8月に逝くからな」が口癖でした。 残してく者(=1人息子の小生)に、年忌法要が好都合だからと... 毎度「そんな巧くいくかいな」と笑って答えてました。 昨年7月、元気だった父が、転倒の脳内出血で意思疎通が不可能に。 意識不明だけど穏やかな日々が、主治医の予想を超えて1ヶ月半。 父がお浄土への旅立ちに選んだのは、  母の命日でした。寿算89歳。  まさに「生きた!」ですわ。 仲の良かった夫婦、皆が驚きと納得でした。 火葬直前、小生は悲しみではなく、思わず、笑みさえ洩れてました。 「アッパレ」と。 嬉しくはないけど、何とも心穏やかな葬儀でした。 来年の8月は、父の三回忌・母の七回忌、です。 ウチの両親は、どこまで1人息子を思ってくれたことか。 いつまでも、小生が忘れることはありません。   鈴木@長岡 50歳 P.S.  命日は8/24、少し早めだけど、お盆休みに合わさせてもらって、 550km離れた故郷に家族で帰省し、法要ですわ。ホンマに好都合。 .

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    2 жыл бұрын

    202 BEAM様 貴重なお話をありがとうごさいます。 感慨深く拝読させて頂きました。 まさしく!「アッパレ」なお父上様ですね!! 来年の8月。 お父様の三回忌。 お母様の七回忌。 命と思いと願いの繋がりを感じながらお参り下されば有り難いと、切に願っております。。 合掌 高科修

  • @BEAM202.

    @BEAM202.

    2 жыл бұрын

    はい、皆が認める、小生が尊敬さえできる、大きな人間でした。 何気ない小生の言動に、両親の友人・知人が、 「やっぱり、お父さんの子だなぁ」とおっしゃいます。 その度に、嬉しくもあり、同時に、背筋を正す思いです。 3/7回忌 だけではなく、当然、13/17や、 23/27回忌も同日。 その頃、故郷との繋がりは、菩提寺だけなんだろうな... 33/37回忌の時は、小生81歳。 小生が居なくなってたとしても、 現在 中2の息子と、小5の娘、が継いでくれることでしょう。

  • @kayokop9471
    @kayokop9471 Жыл бұрын

    長年海外在住の中、コロナで3年帰国できず、やっと昨年10月に2週間里帰りができました。その1ヶ月後、80過ぎの母が突然旅立ってしまいました。 実家は神道ですが、母は(元)仏教でしたし、悲しみの中救いを求めて、高科先生、ご住職様のサイトに辿り着きました。 全てのお話が有り難く、心の中にスッと入り、まさに南無阿弥陀仏の思いです。 キリスト教などは、毎週ミサがあり教会へ行ったり、聖書を学んだりする訳ですが、(日本では、仏教ではどうなのかわかりませんが)、海外在住でも、こうして法話、お坊さんの小話など、有難いお話を聞かせ頂けること、感謝しております。。 亡き母への思い、酷い悲しみや後悔の中から前を向くことが出来つつあるのも、通夜法話シリーズをはじめとしたご住職様のお話のお陰です。 私の住むところにも、浄土真宗大谷派のお寺がありますが、どこのお寺でも同じように南無阿弥陀仏のお導きの有難いお話をしてくださるのでしょうか? どう考えても、高科ご住職様だからこそ、お話くださること思いますし、ご住職様のお人柄、お声、話し方に惹かれますので、同じ浄土真宗のお寺があるので行ってみよう。。というものでもないと思う次第ですが。。。どうなのでしょうか。 ご住職様の動画から浄土真宗を学ばせていただきながら、南無阿弥陀仏唱を唱え、亡き母を願いの人と抱いて生きていけばよいのでしょうか。 残された父に会いに、これからは半年に一回は帰国しようと思います。実家は静岡県なので遠いのですが、いつか金沢にも伺わせて頂きたいです。 本当にありがとうございました。これからも宜しくお願い申し上げます。 南無阿弥陀仏。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    Ka P様 ご視聴、コメントありがとうございます。 はじめに… 大切で愛してる、お母様との突然のお別れ。 そのお別れに、文面でたいへん失礼と存じておりますが、一言お参りの言葉を申し上げさせて頂きます。 『たいへんお寂しいことになられました。 南無阿彌陀仏』 Ka P様… Ka P様も私・高科修も『生きて』おります。 そして『生きている』以上、どれだけ、『私の命をあげるから、この私の愛する人を死なさないで!』と願って願って、暴れて怒鳴って拳を振り上げても…それは叶うことではありません。 それこそ、血の涙を流して願ってもです。 『生きる』『生きている』ということは、ある意味、愛する人、大切な人との『死という別れ』を背負うということと同意語であります。 だからこそ、私たちは、 『気づいて』いかなければなりません。 『気づき続けて』いかなければなりません。 私が大切で愛した人、 私を大切に愛してくれた人、 その人が亡くなっても、この私を心配し願い続けていてくれることを! このことは、『事実』であり『真理』です。 なぜなら、私が先に亡くなったなら、間違いなく、遺してきた大切で愛する人を心配し続けるからです。 私が、遺して来た妻や夫、子供や、父、母、祖母や祖父等々…が心配でたまらないからです。 ならば…先に亡くなった大切で愛する人は、間違いなく心配してくれております。 『Ka Pよ… たとえ、どんなに辛く苦しく悲しい出来事にあっても、歯を食い縛り、唇を噛んで、あなたのその時が来るまで生きてくれ!』 と願っております。 私たちは、大きな深い願いの中で生きているのです。 Ka P様。 どうか、お母様の大きな深い願いを汲み取って頂き、願いの中で生きている私を自覚され、1日1日を愚直に生活されることを、切に切に願っております。 『私の住むところにも、浄土真宗大谷派のお寺がありますが、どこのお寺でも同じように南無阿弥陀仏のお導きの有難いお話をしてくださるのでしょうか? どう考えても、高科ご住職様だからこそ、お話くださること思いますし、ご住職様のお人柄、お声、話し方に惹かれますので、同じ浄土真宗のお寺があるので行ってみよう。。というものでもないと思う次第ですが。。。どうなのでしょうか。』 のお尋ねですが… 浄土真宗の説く教えのお話し。 南無阿彌陀仏のお話し。 それは、浄土真宗の僧侶でありますから聞くことは出来ます。 浄土真宗の僧侶ですから、お話しをいたすことは出来ます。 ただ… 僧侶一人ひとり、皆々個々であります。 その聞く内容が… その話す内容が… Ka P様の腑に落ちるように聞こえ… Ka P様の腑に落ちるように話されるか… それは私には、何ともお答えすることが出来かねる次第であります。 腑に落ちるとは… 膝が折れ、身体が震え、 心が叫ぶ、その場にうずくまることしか出来ない程の『頷き』…であります。 その命を削りながら私を育ててくれた明治生まれの祖母。 祖母の、その私を叱り愛してくれた『その思い』に、私は、 膝が折れ、身体が震え、 心が叫ぶ、その場にうずくまることしか出来ない程の『頷き』を感じております。 死してなお、この私を叱咤激励してくれていることに! 故に… 私は… 全身全霊を込めて… 『腑に落ちて頂く』ようなお話しに努めおります。 そうお伝えするしかございません。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @kayokop9471

    @kayokop9471

    Жыл бұрын

    ご返信ありがとうございました。 何度も何度も、繰り返し読ませて頂きました。 涙が止まりませんでした。 ご記載くださいました通り、全身全霊を込めて お話しくださっているからこそ、腑に落ちること この身を持って実感しております。 毎日、何度もお坊さんの小話、御法話 見させていただいています。 こうして高科ご住職様のチャンネルに出会えたこと 有難いお導きと感謝しています。 ご住職様の檀家の皆様は幸せですね!羨ましいです! これからもKZreadチャンネル拝見させていただきます。 本当にありがとうございました。 南無阿弥陀仏 合掌

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    Ka P様 ご返信ありがとうございます。 このお坊さんの小話KZreadチャンネルは24時間365日世界中から求める人には、法話を届けたい一身でやっております。 ですので、お時間のある時に、ゆっくり何度でもご覧ください。 その時その時で、気づくことも変わっていくと思います。 コメント欄は必ず見ております。いつでも、ご質問・ご感想・ご相談などご遠慮なくしてください。 ひょっとしたら、内容によっては動画でお答えさせていただくこともあるかもしれません。 こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。 南無阿弥陀仏 合掌 高科修

  • @user-pn6yv8wj7o
    @user-pn6yv8wj7o2 жыл бұрын

    高科坊さん、うちの住職と近い世代なんだね。意外です。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    2 жыл бұрын

    小松晃様 ご視聴、コメントありがとうございます。 60代でございます。 合掌 高科修

  • @user-uh9if9vc7u
    @user-uh9if9vc7u Жыл бұрын

    いいお話をありがとうございます。 ○回忌はまたあの日がめぐってきた日、ということが 永代供養ではなく永代教に繋がるんですね。 9月は主人の七回忌でした。 肉体はなくなったけど、いつも一緒にいます。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    Жыл бұрын

    じた様 私の話しは『きっかけ』なのです。 起因、誘因、契機、発端、手がかり、取っ掛かり、引き金、始まり、要因等々… この『きっかけ』から、そのことを腑に落ちるか… そのことから次に繋がることに気づいていけるか… それは『きっかけ』を聞いた人それぞれです。 『きっかけ』の次の『きっかけ』 そしてその次の『きっかけ』へと、僧侶は繋ぎ続けて話します。 繋げ繋げ続けて… 永遠に… そのどこかの、 そのどれかの、 『きっかけ』が、真の『きっかけ』に成ってもらいたくて。 故に… 気づかれたじた様に、敬意と尊敬を感じるのです。 敬意と尊敬を感じずにいられないのです。 じた様のその姿に、また私自身も、たくさんの『きっかけ』を頂くのですから。 じた様。 ありがとうございます。 合掌 高科修

  • @user-uh9if9vc7u

    @user-uh9if9vc7u

    Жыл бұрын

    @@buddhism_japan さま   いつもご丁寧にありがとうございます。   そのきっかけをいただけることが   とてもありがたく 穏やかに過ごしています。

  • @SaitoTomonosuke
    @SaitoTomonosuke3 жыл бұрын

    ご法話はじめて拝聴致しました。 ありがとうございました。 相続手続の仕事に携わっておりますと、ご遺族様へ「お悔やみ申し上げます」とご挨拶しております。 キリスト教の信者の方にとっては、亡くなれば天国へ召されるのであり「悔やむ」ことではないと聴いたことがあります。 今回の「寿算」のお話をお聴きしても、苦労して生を全うされた方のご遺族様に「お悔やみ」はそぐわないという気がしてまいります。 ですが、他に一般的に通用するご挨拶が思い当たらないため、「お悔やみ」を使い続けております。 何かもっと相応しいご挨拶があればと思うのですが。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    3 жыл бұрын

    たかとも様 動画のご視聴、コメントありがとうございます。 確かにお仕事の性格上、ご遺族のそれも初対面の方々とのご挨拶が多くなりますね。 その場合、やはり通例の、世間一般に使われている「御愁傷様」もしくは「お悔やみ申し上げます」がご挨拶となるのは致し方ないのが現実だろうと思います。 たかとも様の「何かもっと相応しいご挨拶があればと思うのですが」というお悩みは私もずっと考えていることです。 私ども僧侶は、基本門信徒(檀家)、つまり日常お付き合いのある方々、少なくとも月に一回の月参りにお伺いしている方の通夜葬式を執り行わせて頂いております。 私は、 「お淋しい(おさびしい)ことになりました」と最初にお声掛けしております。 これは、お付き合いをしておりますので、私自身の「淋しい」気持ち。遺族の「淋しい」気持ち。お互いに共通する気持ちをご挨拶に使わせていただいているということです。 思いますに、愛する大切な人を亡くされた方々に、どんな言葉を駆使しても、どんなに気持ちを込めて語りかけても、その悲しみや辛さを当事者でない私達が思い図ることはかなわないことだと。 だからこそ、 「お淋しいことです」 「お淋しいことになりました」 シンプルにそのままご挨拶することが、もっとも相応しいのではと考えています。 故に、お付き合いをなさっていない、初対面の方々とのご挨拶でも、 「このたびは、おさみしいことで……」と静かに頭を下げるのが一般的なご挨拶以外の別の相応しいご挨拶なのではないかと思われます。 たかもと様のご参考になるかどうかは、いささか疑問ですが、私の個人的な思いを書かせていただきました。  合掌    高科 修

  • @SaitoTomonosuke

    @SaitoTomonosuke

    3 жыл бұрын

    @@buddhism_japan 高科様 早速ご教示頂き、ありがとうございます。「お淋しいことでございます」とても自然な感じで心情に寄り添ったご挨拶で勉強になりました。 「淋しさ」というと、父が15年前に急に亡くなったとき、母と「初めてわかったね!今まではわからなかったね!」と話したことを思い出します。 親戚の葬儀に参列したときも、それなりに神妙な心持ちにはなりますがどこか他人事だったのに対して、自分の家族が亡くなってみて、初めてガツンと「淋しさ」が身にしみてわかったのでした。 仕事の上で、ご遺族様の心情に寄り添う、言葉で表す、ということはなかなか難しいことですが、せめて父が亡くなった時の心境を思い出しながらご対応しようと思っております。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    3 жыл бұрын

    たかとも様 ご返信ありがとうございます。 愛する大切な人を亡くされて、悲しく淋しい経験をされていたのですね。 なにもご推察できず申し訳ございません。 たかもと様とお母様の会話。 たかもと様の「~せめて父が亡くなった時の心境を思い出しながらご対応しょうと思っております」との気遣い。 きっと亡くなったお父様は、満面の笑みで、たかもと様とお母様をご覧になっていると思います。 「私の死はこどもと妻を悲しませ淋しい思いをさせた。けれど、こどもと妻は、人の悲しみや淋しさを、思いやったり、いたわってあげれる人間になった。私の死は無駄でなかった」 そう言って「うん、うん」と頷いてくれているはずです。 多くの人は、そんな事は信じられないと言うかもしれません。でも考えてみてください。もし、たかもと様がお父様やお母様の先だったら、たぶんお父様と同じように思うのではないでしょうか。 たかもと様には、淋しさを抱えながらもお父様の笑顔とともに生きていかれることを切に願っております。 合掌 高科 修

  • @user-ug5jn4yp8z
    @user-ug5jn4yp8z2 жыл бұрын

    私はわがいときに、ごともをおろしでいます、わろいと、おもでいます

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    2 жыл бұрын

    崎昭子様 ご視聴、コメントありがとうございます。 人には様々な理由(わけ)があります。 その人にしか知りえない理由があります。 そして… そうするしかなかった。 そうぜざるしかなかった。 そういう理由もあります。 どうか、是非! 完修の部屋 「水子供養はしたほうがよいでしょうか?」 kzread.info/dash/bejne/k3aOk8ign8TUeKg.html をご覧ください。 必ずや岬昭子様の「お心」に届くお話であろうと感じています。 どうかよろしくお願い致します。 合掌 高科修

  • @user-bp8ps9rs2v
    @user-bp8ps9rs2v2 жыл бұрын

    動画をありがたく拝聴させていただいております。 私は今年で31才になりますが、3年前に母を、2年前に父を亡くしました。 この動画を見て、私が子どもの頃に父が言っていた言葉を思い出しました。 「仏様はいつでもどこでも側に居るとよ、良いことも悪いことも全部見よらすとよ」と言っていました。子どもの時なので、なんのことかさっぱりでした。しかし、この動画でを見て、なるほど!こういうことだったのかと、すっと入ってきました。ありがとうございました。 そこで、質問なのですが。供養というのが浄土真宗では、ないということでしたが、永代供養と永代経は違うのですか?違うのならどう違うのか教えていただけるとありがたいです。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    2 жыл бұрын

    フィッシュ ドラゴン様 ご視聴、コメントありがとうごさいます。 取り急ぎご質問にお答えいたします。 ただ、少し長いお話になります。 長文になってしまいますので、途中で嫌にならず我慢して頂き最後まで読んで頂けたら有り難いと思っております。 まず… 「仏様はいつでもどこでも側に居るとよ、良いことも悪いことも全部見よらすとよ」 この言葉の真意または深意が… 「亡くなった愛した人が、自分を愛してくれた人が死んでもなおかつこの私を心配しそして、しっかりせよ!と言ってくれている」 ということだと府に落ちて頂きたく願います。 後にも先にもこの真理が府に落ちて落ちて初めてすべてのお話が繋がり納得して頂けるのですから。 「亡くなった愛した人が…」 を浄土真宗では「願い」という言葉で現します。 この願いが「仏(仏様)」です。 この「願い(仏)」は 亡くなった人(死者)から生きている私(生者)に向けられているものです。 亡くなった人(すべての命あるもの)から生きている私たちに願いがかかっている。 そういう意味です。 日本の仏教において、この「亡くなった愛した人が…」の教え(考え方・亡くなった愛する人の捉え方・死に対する捉え方)を説いているのは浄土真宗だけなのです。 他の宗派はすべて 生きている者が、死んでいる者へ何かをする!という考え方です。 つまりそれを「供養」と呼ぶのです。 今現在、一般の人が「供養」と口にするとぎ、その思いは「お参りをする」「お経を上げてもらう」「亡き人を偲ぶ」「亡くなった人に感謝する」です。 この思いは「人」として在るべき思いです。 ただ、この思いもすべて「生者から死者へ」の考え方です。 お参りもお経も偲ぶのと感謝も必要です。 というより、それは、亡くなった人を尊ぶという生きている私(人)が失くしてはならない思いです。 だからこそ!浄土真宗は先ず最初(一番始め)に、亡くなった人(死者)から「学び」「気づきを授かり」「かけられた願いの中で生きている」それらの事を自覚しましょうということを説くのです。 故に、浄土真宗には「供養」という言葉が存在しないのです。 「供養」とは、正確には、亡くなった人を仏(成仏)させるために、生きている人が、お経を上げて、お供えをして、成仏してもらわなければならない! これが他の宗派の亡くなった人への認識・考え方です。 亡くなった人に対する思いです。 浄土真宗は、亡くなったならすべて即得往生=仏(願い)です。 ならば、成仏させるための「供養」はいりませんよね。 すでに仏様なのだから! 他の宗派を悪く言うわけでは決してありませんが、他の宗派の考え方だと、私的には、こう言いたくなります。 「供養、供養っていうけど、なら、いつ仏になるの!」と。 浄土真宗において、法要・年忌・月参り・お墓参り等々で「お経」が勤まるのは… 亡くなっても、この私を心配してくれている。その願いに、はい大丈夫です。しっかり生きていきます。と、その願いに感謝し、その願いに分かりましたと答える。その「願い」に対する「感謝とハイ分かりましたという宣言(自覚・答え)」の「読経」なのです。 この一点のみで「お経を上げている」「みなさんがお参りしている」のです。 ここまで、浄土真宗の「供養」に対する考え方、「亡くなった人」に対する考え方についてお話をしてまいりました。 以上のことを踏まえて頂ければ、 浄土真宗が「供養」と言わない理由がお分かり頂けるのではないのでしょうか。 同時に浄土真宗にはなく、他の宗派だけにある「永代供養」の意味もお分かり頂けるのではないかと思います。 「永代供養」 その名のごとく、永代(お寺が続く限り永遠)に供養のためにお経を上げることを意味します。 (…ちなみに私の個人的見解ですが、これだと永遠に仏にならないことになると思うのですが…) 先にもお話をした通り、浄土真宗には「供養」という亡くなった人を成仏させなければならないという宗教的解釈(考え方・捉え方)はいたしません。 浄土真宗に「永代供養」はないのです。 では、浄土真宗で言う 「永代経」とは何なのでしょうか? それを今からお話致します。 浄土真宗「永代経」 永代経…正式名称は 「永代祠堂経」と言います。 浄土真宗の「永代祠堂経」への「志(永代祠堂経に対して門徒さんから頂くお金)」はお寺に対する「寄附」です。 ただしその「寄附」は阿弥陀如来立像の居られる本堂の維持のみに使われます。 「寄附」された人のお名前(願主と言います)と法名(通常亡くなった方・自分の父親・母親・子供・夫・妻等々)が木の板!漆塗りの板に刻まれて本堂内部の壁面に飾られます。 この木の板のことを「祠堂札」と言います。 お寺の本堂のことを「御堂(みどう)と呼びます。この御堂に祠堂札が掲げられると、掲げられた御堂のことを祠堂(しどう)と呼ぶのです。 つまりお寺の本堂か永代に維持出来ている1つの理由がこの「寄附」のお陰です。 故に、本堂に祠堂札を掲げ、毎朝のお勤めの後に、阿弥陀如来立像の居られるこの御堂を永代に維持していくお手伝いをして頂きまして「ありがとうごさいます」と「永代経」について頂いた方々に「感謝と宣言」のお経を永代に勤めさせて頂いているのです。 これが浄土真宗の「永代経」です。 いかがでしょうか? 他宗派の「永代供養」 と 浄土真宗の「永代祠堂経」 の違い。お分かり頂けましたでしょうか? どちらも永代にお経が勤まるのには変わりはありません。 しかし、この動画の「死んだじゃないよ、生きただよ」のこの2つの言葉ほどその違いは大きいものです。 ご理解頂ければ幸いです。 合掌 高科修

  • @hisakun459henro
    @hisakun459henro2 жыл бұрын

    初めてコメントをさせて頂きます。 行年?業年?を表す時に満年齢で表すのか数え年齢のどちらで表すのが良いのでしょうか?? 因みに浄土真宗西本願寺です。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    2 жыл бұрын

    牟礼のひさやんチャンネル様 ご視聴、コメントありがとうございます。 取り急ぎ、牟礼のひさやんチャンネル様のお尋ねにお答えいたします。 「年齢計算二関スル法律」1902年12月22日施行を受け、日本は満年齢を使用することとなりました。 しかし一般的には、数え年が使われ続けたことから、1950年1月1日施行の「年齢のとなえ方に関する法律」により、日本国民は、年齢を数え年によって言い表す従来のならわしを改めて、「年齢計算二関スル法律」の規定によって計算した年数によってこれを言い表すのを常とするように心がけなければならない。と、満年齢によって年齢を表すことを再度推奨しました。 このような歴史、法律からみれば… 満年齢が相応しいと言えます。 しかしながら… この動画でお話しを致しております通り、『生きた』『生ききった』のです。 ならば、産まれた年を0歳と数える満年齢より、産まれた年を1歳と数える数え年の年齢の数え方の方が私は相応しいと考えております。 故の『寿算〇〇歳』でございますが。 このことは、大切な愛する方を亡くされたご遺族の皆様方には必ずお伝えしております。 真宗大谷派の一僧侶釋完修といたしましては、行年とも業年とも書くことは御座いませんし、また満年齢で書くことも御座いません。 寿算と書き数え年で書かさせて頂いておる次第で御座います。 以上が、真宗大谷派の一僧侶釋完修としてのお答えで御座います。 ご理解頂ければ幸いです。 合掌 高科修

  • @user-pk6ex9xk2g
    @user-pk6ex9xk2g3 жыл бұрын

    初めまして 富山県の葬儀社の者です。 大変勉強になりました。 富山でも同じ素焼きの骨ガメを使ってますし法名や破地獄文を書く所などはそっくりです 当地域では俗名や没年月日、年齢をカメ本体に書かれます。 こちらで使う骨ガメより小さく見えますが金沢では部分収骨なのでしょうか?

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    3 жыл бұрын

    お山様 金沢では、お骨は 足→胴体→頭の順番で、 それぞれを少しづつ集骨 いたします。 最後に頭骨で蓋をするように納めるのが習わしです。 骨瓶に入る分だけ集骨し、集骨しきれなかったお骨は仏舎利塔などへの合葬となります。 金沢近郊は、ほぼこの習わしで集骨が執り行われます。 石川県。中能登以北では、集骨は全集骨となります。 30cm四方の薄い桐の骨箱と呼ばれものにお骨を全部集骨いたします。 中能登以北のお墓は、納骨する所が地面下、50cmほど掘られております。そこに骨箱からお骨を滑らせて納骨致すのが習わしです。 ちなみに福井県では、直径15cm程の丸い入れ物に入るだけ集骨いたします。その丸い入れ物を三つ作ります。一つはお手次寺へ、一つはお墓へ、一つは本山へ、と納めるのが習わしです。 どの集骨が正しくて、どの集骨が正しくないということではないと思います。 それぞれが、それぞれの地域で習慣も慣習も仕来たりも違います。 それは当然のことです。 海と山と川では、生活様式は当然違っているのですから。 大切なのは、どう集骨するか、どう納骨するかではなく、亡くなった方とどう向き合っていくか!だと私が執り行わさせて頂いたお葬式に、参列された方々にはお話しいたしております。 最後になりましたが、ご視聴、コメントありがとうございます。 合掌   高科 修

  • @user-pk6ex9xk2g

    @user-pk6ex9xk2g

    3 жыл бұрын

    @@buddhism_japan 様 わかりやすくご説明頂きありがとうございました。 確かに同じ宗旨でもそんなのやり方はお寺様や街に寄って多少の違いがあります。 ですので今回ご説明頂いた収骨の方式にも違いがあるのが納得でしました。

  • @user-pn6yv8wj7o
    @user-pn6yv8wj7o2 жыл бұрын

    月命日、墓に訪れるのは、どう意味があるですか。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    2 жыл бұрын

    小松晃様 ご視聴、コメントありがとうございます。 お墓に訪れるのは、 手を合わしてお参りする 気持ちがあるか、ないか それだけで、ございます。 合掌 高科修

  • @hanakofreddy9195
    @hanakofreddy91953 жыл бұрын

    しち回忌

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    3 жыл бұрын

    hanako freddy様 動画のご視聴、コメントありがとうございます。 仏教読みでは「なな」ではなく「しち」が正式でございます。 hanako freddy様のご指摘、ご教授ありがとうごさいます。 このお坊さんの小話の動画は、幅広く一般の方々、老若男女に向けて発信しております。 その性質上、出来るだけ若者にも分かってもらえる言葉遣いに気をつけてお話をさせていただいております。 動画ですので、言葉は耳で聞いていただいております。 「しちかいき」の聞こえ方より「ななかいき」の聞こえ方の方が、より聞き間違いのないように思いましたので「なな」を選ばせていただきました。 動画を配信している身といたしましては、動画の内容・趣旨がご視聴している皆様方に十分に伝わる事に最重要点を置いて撮影しております。 そのことを、ご理解いただければ、ありがたいと存じます。 最後にもう一度、ご指摘ありがとうごさいます。 これからもよろしくお願いいたします。  合掌    高科 修

  • @user-ym1fi6ws5y
    @user-ym1fi6ws5y2 жыл бұрын

    なぜ葬式で生前はというのか?

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    2 жыл бұрын

    輪廻転生様 お葬式に限らず、生前贈与、生前相続など生前という言葉が使われます。 なぜでしょうか? 確かに不思議ですね。 生前… 生まれる前と書くのですから。 生きている時という意味で使うのなら、死前(死ぬ前)と書かなければなりませんね。 でも誰もそんな表現はしていません。 「生前」 辞書には 「生きていた間(あいだ)」 とあります。 生まれる前と書くのに、なぜ生きていた間の意味になるのか? 生前を生存中という意味で使っているのになぜ生存中と言わず生前中と言うのか? これには諸説あります。 その一つ。 仏教には「往生」という言葉があります。 そして浄土真宗には 「即得往生」という言葉があります。 どちらも「浄土に往って仏と成る」 つまり「浄土に生まれる」という意味です。 ならば生前は「浄土に生まれる前」つまり仏と成る前は人間として生きている間となります。 次にもう一つ。 同じく仏教には「輪廻転生」という考え方があります。 今、生きている現世の前には前世があり、死んだあとには来世があるという考えです。 つまり、来世に生まれ変わるのですから、生まれ変わる前は今の現世。 生きている今。 故に生前。 この二つが有力です。 ここで大切なことは… 気づかなければならないことは… 無宗教、 神や仏は信じない、 宗教には興味がない、 死んだら終わりどうでもよい、 お墓はいらない 葬式なんて面倒 等々 そう豪語している人たち。 そういう人たちでも、意識しているいないにかかわらず、私が生活している全てのものが… 言葉。 習慣。 文化。 芸術。 年中行事。 等々は仏教由来であったり、仏教行事であったり、仏教の作法だったりしているという事実です。 この事実は重いことですね。 合掌 高科修

  • @user-ug5jn4yp8z
    @user-ug5jn4yp8z2 жыл бұрын

    ごめん💦

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    2 жыл бұрын

    崎昭子様 どうぞ、謝らないでください。 どうぞ、ごめんと自分を責めないでください。 確かに… 申し訳ない、ごめんという思いは消せません。 だからこそ、崎昭子様自身。 「ごめん」と語りかけるその子に… 恥ずかしくないように生きていかなければならないのではないでしょうか。 「ごめん」と語りかけるその子に… 「ありがとう」 「しっかり生きて行きます」 と誓い、自分の人生をその子の分も生きて行かねばならないのではないでしょうか。 どうか、その子に胸を張れる母であって欲しいと切に願っております。 合掌 高科修

  • @user-pn6yv8wj7o
    @user-pn6yv8wj7o2 жыл бұрын

    風俗の女のコが母親が子を殺すなんて許さないと言ってた。

  • @buddhism_japan

    @buddhism_japan

    2 жыл бұрын

    小松晃様 ご視聴、コメントありがとうございます。 誰かが何かを言っていた。 小松晃様ご自身がどう思っているのか?を 問うてみてください。 合掌 高科修

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