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Пікірлер: 60
古代中華王朝、朝鮮王朝でも「丞相」が君主より実力は上だったりする。古代は摂政・関白、中世は執権、管領、家宰という「建前は上がいる」「実力は自分が一番上」って立場が反感もかわせて良かったのかもしれませんね。
@user-md7zg8ye8f
Ай бұрын
ヨーロッパでもビスマルクみたいに国王よりも実力のある宰相はときどきあらわれますよね 国民は有能な政治家を肩書にとらわれずに選んでいるんだろうね
@aegialina
Ай бұрын
現代で言えば官房長官や韓国の国務総理みたいな人だけど、実権がある場合が多いみたいな
@MikuHatsune-np4dj
Ай бұрын
@@aegialina 二階に住んでる人ですね
なぜ将軍にならなかったのか 家柄的に朝廷から認可されないの一択
なぜ将軍にならなかったのかって、将軍ておかざりでしかないからでしょ。それよりもナンバー2とかさらに言えば、それすらもおかざりになって、ナンバー3とか肩書きが下っ端の方が陰の実力者みたいな。北条氏自体だって執権も形骸化して、得宗家が実力持ってて、さらにはその得宗ですら形骸化して平とか長崎みたいなのが実力者になるわけで。
@user-tn4zb9ne5h
Ай бұрын
執権が将軍にならなかったのは、将軍が天皇にならなかったのと同じ理由だよ
キングよりもキングメーカーのほうが力を持っているというのは今の政治状況と同じですね 首相は派閥や党内実力者に気を遣っていて、その派閥の長ですら実質的にはお飾りという 違うのは今のキングメーカーは賢くない笑
@user-np3dp2cf3c
Ай бұрын
自民の最大派閥は公明党か
@MikuHatsune-np4dj
Ай бұрын
@@user-np3dp2cf3c そうか
戦を勝ち上がってトップになると正統性がつくけど、政治闘争で勝っても正統性がつかない。 北条家は実質政治闘争でトップに立ったから仮に将軍になったら1、2代で終わったと思う。
征夷大将軍というのは元々東北とか九州で反乱とかあった時に任命される職で「臨時職」で「天皇の代理として全権が与えられる」という特徴があります。その点を逆手に取ったというか関東というド田舎で天皇の代理者として大権を振るったのが鎌倉以降の将軍です。室町の足利は南北朝という特殊な時代だからこそ都に誕生した特殊な将軍です。大事なのは「天皇クラスの権力者」になる事なので、肩書きは重要ではなかったのは平安時代の摂関政治と同じだと思います。
将軍に一時的にはなれるけど家柄が良くないので妬まれるのでならなかった。つまりは長続きしないと分かってたからならなかった、それってほとんど将軍になれなかった派の主張と中身同じ気がしますが。
日本における理想的な統治方法、これを編み出した最初期が蘇我氏、これを藤原氏が制度として確立して平氏が日本初の武家政権を確立。東では北条氏がこの統治方法を関東で実施すると本格的な武家政権時代が始まる。神輿に担ぐには権力は軽いほうが良いが、権威は大きいほうが良い。この統治システムを決定的に形付けて利用しまくったのが秀吉だろうな。この耕した畑で実った果実を収穫したのが家康。現代日本の統治方法もこれと非常に似ている。日本政府の紋章がいい例(五七の桐)。
権威と権力は分けると上手く行く。現代でもカタチの上では同じ事。
昔から武士は朝廷にお金を贈り官位を得ますが、北条家は正五位下・相模守が限界でした。 将軍になるには少なくとも源頼朝のように右近衛大将(従三位相当)になる必要が有りました。北条家にはそれだけのお金がないし、そのお金を得る手段もありませんでした。
織田信長が太政大臣にならなかった話に繋げるのかな?と思ったから秀吉の話が意外な展開と感じました
なろうと思えばなれた、それはそうでしょう。しかしあえてそうしなかった。それは執権職でいる方が将軍をかつぐことで全責任を将軍に負わせて自分はその影で自由に幕府をコントロールできるから。つまりそっちの方がメリットがあることがわかっていたからでしょう。 そもそもですが、代々の鎌倉将軍をもっとも間近で見てきて将軍になりたいなんて思わなかったでしょうしね😅
藤原氏の将軍が無視されている😅
秀吉は将軍になろうといろいろと工作をしたが果たせなかったので関白を目指した
藤原氏と同じ性質の一族
@toysrice
Ай бұрын
確かに
天皇お飾り 将軍お飾り 執権お飾り 得宗お飾り 内執権が政治を行うシステム
@umakara55
Ай бұрын
内管領ですな
源平藤橘は将軍になれる家柄で北条は平氏だからなれたんやない?徳川が源氏って言っててなってるくらいだし
@user-gk7jx5lq7b
29 күн бұрын
実際平氏か怪しい 公家にバカにされまくってのが日記に残ってる
平将門、平清盛という失敗した前例があるし鎌倉将軍も実質頼朝一代で権力から滑り落ちた訳で轍を踏もうとは思わないでしょうね。 家康の場合は完全な他所者だったので関東を纏める為のアイコンとして将軍と言う肩書が必要だったのでは。
なろうと思ったらなれたんじゃないかな。 源氏じゃないからなれないってのは後年に作られた話らしい。 ただ鎌倉幕府自体がそれほど力がなかったから、なったところで北条氏の大義名分ではさらに弱体化するよねって分かってたからならなかったというとこかなと。
将軍が武家の棟梁で偉いというのは現代の考えで時代の近い江戸時代の徳川の将軍のイメージが強いからそう思うだけで鎌倉時代はそういう考えがまだなかったと思われるのでは。執権として政権の実権は掌握していたのだから無理に将軍になる必要はなかった。その執権も鎌倉末期には内管領の長崎氏に実権は奪われている。
木曽義仲は頼朝より先に将軍に 任命されてたよね。 旭将軍って言われてた。 まあ、武家の棟梁ではなく平家 追討の将軍という意味だけど。
短命に終わった横綱より、通算勝利歴代2位優勝回数5回した最強の大関・魁皇のような存在が北条。
・頼朝と政子は貴賤結婚であり、政子の実家程度の家柄の家に当時の朝廷が将軍宣下するとは思えない。 ・「将軍はお飾り」といった定義を北条氏自らが定めてしまった。 だから北条氏は将軍になれないし、ならないかな🤔
先生の寝癖が気になって頭に入らない💦
なろうと思えばなれた?ホンマかいな。なろうとしたけどなれなかった、或いは最初からなろうとすら思わなかった、が正しいんじゃないの?戦国の下克上時代を経ないと身分や家格の壁は乗り越えられなかったんでしょう。力だけで何にでもなれるわけではないということ。
@silversurfer512
Ай бұрын
仰る意味は分かります。ただ北条氏は承久の乱で朝廷軍の錦の御旗を破っていますから(日本史上初)そのタイミングであれば、力ずくで朝廷に征夷大将軍の称号を授与させることは可能ではあったかもですね。 でもそれを無理やりやったら、やはり北条氏自らの身を滅ぼしていたかもしれません。だからやらなかった。ということではないでしょうか? ちなみに承久の乱の後、後鳥羽上皇は隠岐の島に配流、順徳天皇は佐渡ヶ島に配流となっていますよね。 つまり北条氏と鎌倉幕府はその時、上皇や現職の天皇を流刑にするぐらいの権力を握っていた。(つまり事実上、朝廷に対して何でもやらせることが出来る力があった) それでも北条氏自らが征夷大将軍になろうとはしなかったのは、やはり大江広元がとても冷静で頭が良くて教養もあって、 鎌倉幕府と北条氏の参謀として、北条氏が征夷大将軍になるのは悪手だと進言した可能性がありますよね。
@umakara55
Ай бұрын
戦国時代の下克上を生み出したのも(源氏の後継である)足利将軍自身なんですよ。将軍が本来守護になれないような家にも安易に守護職を配ったことで、家格による秩序が乱れて実力主義になったんです。「下からの突き上げでなく、上が自ら秩序を破壊した」ことの意味は重要です。つまり下からその秩序を崩した事例って日本ではほぼないんですよ。やはり儒教の国だったので。
@うにいくら
Ай бұрын
@@umakara55 義政が朝倉氏に与えたのを皮切りに義輝の乱発でとどめをさしましたね
北条氏は、自らが将軍になろうとしなかっただけでなく、源氏や京の貴族などの名家との閨閥もほとんど作ろうとしませんでしたよね。 北条氏も閨閥は作ったけど、あくまでも鎌倉の御家人同士の結束を強めて、御家人の中での中心でい続ける為の閨閥で、 天皇や藤原氏のような、京都の本当の名家との繋がりを持とうとはしなかった。 北条氏はあくまでも、根っからの坂東武者で、京都の権威なんて興味なかったのかもしれませんね。
足利氏は何ちゃって源氏を名乗れたし名乗る他無かったが北条氏は開府時源氏の姻戚で権力を固めた筋を崩したく無かったのでしょう😊
高田なみさん、😮
北条氏が平氏って通説も実は確定ではないんだよね 関東豪族の中ですら家格がそんなに高くなかったし 運よく源氏浪人の外戚になれたから政権中枢に居られただけで 主筋の源氏と同格の地位に就ける筈がない 戦国期ですら下剋上後、代わりの当主を立てる大名も多かった
北条氏は将軍を代々殺して滅亡させた犯人では
藤原氏が皇族にならなかったのと同じだと思う
断定し過ぎでは
平家 源氏の長者じゃない
@user-ey2wo4oj4b
Ай бұрын
関係ない
征夷大将軍は、源氏じゃないと、ダメなのでは、ないか?🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉
身分ってモノを軽く認識し過ぎですな
熟女のツケマが堪らない😅
宗教を無視するから、口先だけの論法になる。 説得力がありません。
「征夷大将軍は源氏の家職だから」という一言で済む話ですな。これは江戸幕府の終焉まで強固な前例となって生き続けました。「摂家将軍は?→頼朝の血筋に連なる人物です」「宮将軍は?→源氏よりも上位の皇族です」「足利将軍は?→足利は源氏の血筋です」「徳川将軍は?→家系図を捏造して幕末まで源氏を名乗っています」という感じですべて(少なくとも表向きは)源氏なんですよ。でも「なら北条氏も家系図を捏造したら?」というのは無理なんです。北条が伊豆の土豪の出であり、頼朝の部下であったことは広く知られていたので、いまさら「実は俺たち源氏でした」とか言っても笑われるだけです。
@kohei01199
28 күн бұрын
織田信長は朝廷から関白、太政大臣、征夷大将軍の地位を提示されている
@user-io8cq7ny6k
25 күн бұрын
北条の話をしてるのにそれより後の時代の話を持ち出すのは歴史を語る上でナンセンスでしょう 現代人は足利や得川の存在を知ってるから逆算して語ってしまうけど北条の時には当然その事実は無かったわけで「頑強な前例」はまだ形成されてないんですよね
賢いんじゃなくてミスした、間違えたんだよ。承久の乱の後か元寇での戦功のいずれかで、公卿、将軍になっておくべきだった。その証拠に鎌倉北条氏の後の武家政権は、北条氏の失敗に学んで、皆、高い位や官職を受けるようになった。成功例とされる江戸幕府の徳川氏、成り上がりの豊臣氏を滅ぼした徳川氏も、そこはブレなかった。三代将軍・家光は、家康や秀忠は諸大名と同僚だったけど、自分は生まれながらの将軍だと言った。あ、一つ例外がありました。三好政権です。しかし三好政権を成功例と見なす人は居ないでしょう。