未来に残したい授業

未来に残したい授業

普遍的な問いに対する論考をお持ちの方々にお話を伺い、一緒に考えていくチャンネルです。

「中学生からの大学講義」というコンセプトのもと、専門家ではない私が感じる素朴な疑問を、叡智をお持ちのさまざまなジャンルの専門家や実践者に伺っていきます。

知とは樹木のように根を張って、私たちを支えてくれるものです。

「知る」という行為は、純粋に楽しいのはもちろんのこと、視野を大きく広げてくれる行為だと考えています。すぐには役に立たないかもしれないけれど、長い目で見たときに人生を支えてくれると同時に、不条理に立ち向かう力を養えるのが「知」なのではないかと思います。

そうは言いながらわたし自身も「知っている」とは程遠いところにおり、なぜ学生時代にもっとちゃんと学ばなかったんだろう…と後悔する日々です。

けれど、人生100年時代。学び直すのはいつからでも遅くないとわたしは信じています。

「本物の知」や「ものの見方」「本質を見極める力」が未来に残るよう、普遍的な問いを探求している方々にご意見を伺い、わたしたちはどう生きるのか、次世代によりよい未来を残すために何ができるのか、について考えていきたいと思います。

気になることやご感想をお寄せいただき、みなさんと一緒に考え、未来につながる一歩をつくっていけたら嬉しいです。

◆企画・MC:だいまりこ(代麻理子)
ライター・編集者。11、9、7歳の3児の母です。数年前まで長年専業主婦をしており、知とは無縁の日々でしたが、この仕事について以後「知るよろこび」を体感して日々楽しく過ごしています。そのよろこびを共有したい!という思いからチャンネルを企画。みなさんと一緒に学び、感動し、希望を持てる未来をつくっていけたらと思っています。

◆デザイン:いずいず(twitter.com/iziz_1984 )

Пікірлер

  • @user-wn2mo5oz6l
    @user-wn2mo5oz6lКүн бұрын

    話・会話はしたいが、メンタルクリニックの医師からは、「とにかく睡眠をとってくれ」と言われているし。 加藤典洋の『敗戦後論』からの孫引き・引用になりますが、サリンジャーの「エズミに捧ぐー愛と汚辱のうちに」という短編があり、こう書かれているーエズミ、いいかい、本当の眠気をおぼえる人間は、あらゆる機能が元のままに戻る可能性を、必ずもっているんだ。 とあります。自分に近い人には、これらのことは言ってあります。 小説はフィクションで本当のことではないし。私の言っていることも間違いかもしれない。 でも、真摯でありたいとは思っています。 希死念慮がある。と言われると気になりますね。距離が離れているから、何かが、できるわけでもないし、近くのクリニックや役所で相談するとか、近くにいる家族や親戚や友人や知り合いに何とか、してもらって下さいという感じですけど。 なんか気になっちゃうんですよね。

  • @ひまじんいんへぶん
    @ひまじんいんへぶんКүн бұрын

    とても下品だ。なぜなら著者は何もしていないから。自分が何もできないことを、そのまま「真ん中にいること」で正当化。何もできないことを、そのまま思想っぽくして、あとはお涙頂戴で誤魔化す。引用に語らせ、真ん中で、ただ作家の活動を紹介。「中動態はよい、そして、(何もせず)真ん中にいる自分もよい」、「対話はよい、そして、(自分と似た人とだけ)対話する自分もよい」、「コミュニケーションはよい、そして、(排除的)コミュニケーションする自分もよい」、最近の学問と現代アートの問題点をそのまま暴露。何もしなければ失敗はない。 絵の不幸。何か言っているようで、無内容さをいかに誤魔化すかの研究をしてきた感じ(教員が悪意を持って教養課程レベルにいる)。読者と素人に媚びを売る方法だけは心得てる。まさに中動態業界!「中間」と言えば許される!とりあえず、具体的に、あらゆる場面での中動態を言語化して説明しろ。コミュニケーション、ネットワーク、ケア、対話、関係性…。それらの正当性を論証せずに、自分はそれを[排他的に]やっているから凄いと主張(循環論法)。起きてもいない変化を起こる「だろう(可能態)」で誤魔化す詐欺。中間思想の本性はここにある。 それぞれの状況での「中動態」を一切説明せずに、そこには中間的な何かが存在することになり、その中間的なものと関わる人は倫理的ということになる魔法の言葉。まさに、哲学を必要としない、自己啓発な今の大学と社会を象徴する概念。 とりあえず、これからは「中動態」と言う人には、「その中動態とやらを、具体的にどういうことなのか、今の状況を例にして細かく説明して下さい!」と質問する運動を開始しましょう。そうした方が、「中動態」という概念にとっても、人類にとっても良いと思う。 誰もまともに説明できないでしょうけど。 「中動態」があるのは当たり前なんです。他の哲学者や思想家は一生涯をかけて、さまざまな場面における中間的なものが、どのように機能しているのかを理論化して説明し続けました。あなたはただそれらを引用して、その上澄みの美味しいところを頂いているだけじゃないですか?「中動態」は研究のスタートラインで、ご褒美のためのゴールじゃないです。自分の頭で考えずに引用すれば、「中動態」ということで何かをやっていることになる。 この概念は何も説明しておらず、複雑で多様な関係性を「中間」の一言で片付けて、残りはすべて切り捨てる。「中動態」と言えば許されると思っているなら、あまりにも言語を舐めてる。それは、新たな思考のためではなく、他者を言葉で乗っ取り思考できなくさせて、他者を自分の都合の良いものに変えようとする暴力的な行為でしかない。 何もできないことを、そのまま思想っぽくして、あとはお涙頂戴で誤魔化す。他者を自分と同じように努力できなくて、単純な思考しかできなくさせる、あらゆる意味で反哲学的な偽物。美学者ならこのような行為が許されるのか?

  • @ひまじんいんへぶん
    @ひまじんいんへぶんКүн бұрын

    自分は何もしない、他人にやらせて、中身の無いことを言うポジションに居座るだけ。多様で、複雑で、近隣や遠接の因果もあり、重層的で、時制すらも組み合わさった、世界にある難解な関係性を「中動態」で平気で切り捨てる。 主体や意志を否定しておいて、徹底的に読者の「自己愛」をくすぐる手法はお見事!哲学を否定する自己啓発をよく理解してる。自分に都合の良いやってもいないことが、その中間によって「やった」ことになり、自分に都合の悪いやったことが、その中間によって「やらされた」ことになる。 どうせ、哲学や思想は専門ではないとか得意の言い訳するんでしょうけど。だったら、哲学や思想を使うな。そのくせ、作家として作品は作れませんよね。なにができるの?まさに、最近の大学における人文学と現代アートの問題点を凝縮したようなとんでもないお手本。何かしてる「感」を出す概念、論点先取、循環論法ですべてを誤魔化す。失敗したときの言い訳、それ自体を言説や作品にする卑劣さと姑息さ!中動態、コミュニケーション、ネットワーク、対話、ケア、関係性、政治的正しさ…これらの正当性をまず論証していただけませんか?何で始めから何の説明もなく「よい」ことにされていて、その「よさ」を前提に議論、活動、制作をするの?「よい」ことをするから「よい」の?そして、絶対に成功する方法論と化して、誰もが失敗を恐れて真似しようとする、こんな循環論法が批判されないのがもっと恐ろしい。 「中間」、「中間」を連呼するなら、コミュニケーションなど絶対にあり得なかったもの同士のコミュニケーションをその中間で作ってみせろ。そうしたら納得しますよ…永遠にあなたにはできないでしょうけどね!コミュニケーションを取れるのが当たり前のもの同士に、わざとコミュニケーションを取らせて、「コミュニケーションが生まれた!」と自慢気に大騒ぎをする(哲学も対話も無い哲学対話…)。最初から、既存の二項を前提として、その間にあるよく分からないものが何かを変える「だろう」としか言っていない。こんな何の努力も要らない、都合の良過ぎる「中間」でいいんですか?

  • @誰でも無いウーマンとマン
    @誰でも無いウーマンとマンКүн бұрын

    中動態はとにかく他人からの引用で、引用に語らせ、引用に責任を取らせる。自分の言葉や説明はない。というより、説明できない。あるいは、他の重要な思想や哲学も、自分からは絶対に説明しようとしない。責任を回避して、なにか言っている「感」を出すために。最近の学問や現代アートと同じようにすべてが「だろう」で終わってる。中動態がある「だろう」、コミュニケーションがある「だろう」、ネットワークがある「だろう」、対話がある「だろう」、ケアがある「だろう」、関係性がある「だろう」、変化をもたらす「だろう」。あたかも、何か言ってるように見せかけるけど、ぜんぶ保険をかけた「だろう」。そして、何も起こってないし、始めから成功することが分かり切っている何もしない「だろう」。 何もしない真ん中のポジションにいて、みんなが受動と能動の間だから、みんなでやったからそれでよいと。御涙頂戴と社会参加で、誰もが中動態でナルシスティックに自分を癒せる。努力は必要なし。中動態と言えば、何かを語ったことになるから。そうだね、誰もが真ん中にいると思うよ。で、どんな、「真ん中」なの?なんで、多様で、複雑で、近隣や離接の因果もあり、重層的で、時制すらも組み合わさった、世界にある関係性を「中動態」で切り捨てられるの?優しくみせかけて、ありとあらゆるものを自分の都合のために無かったことにする。 どうせ、哲学や思想は専門ではないとか得意の言い訳するんでしょうけど。だったら、哲学や思想を使うな。そのくせ、作家として作品は作れませんよね。なにができるの?まさに、最近の大学における人文学と現代アートの問題点を凝縮したようなとんでもないお手本。何かしてる「感」を出す概念、論点先取、循環論法ですべてを誤魔化す。失敗したときの言い訳、それ自体を言説や作品にする卑劣さと姑息さ!中動態、コミュニケーション、ネットワーク、対話、ケア、関係性、政治的正しさ…これらの正当性をまず論証していただけませんか?何で始めから何の説明もなく「よい」ことにされていて、その「よさ」を前提に議論、活動、制作をするの?「よい」ことをするから「よい」の?そして、絶対に成功する方法論と化して、誰もが失敗を恐れて真似しようとする、こんな循環論法が批判されないのがもっと恐ろしい。 「中間」、「中間」を連呼するなら、コミュニケーションなど絶対にあり得なかったもの同士のコミュニケーションをその中間で作ってみせろ。そうしたら納得しますよ…永遠にあなたにはできないでしょうけどね!コミュニケーションを取れるのが当たり前のもの同士に、わざとコミュニケーションを取らせて、「コミュニケーションが生まれた!」と自慢気に大騒ぎをする。最初から、既存の二項を前提として、その間にあるよく分からないものが何かを変える「だろう」としか言っていない。こんな何の努力も要らない、都合の良過ぎる「中間」でいいんですか?なんで、人類が積み重ねてきたものを簡単に無視して、あるいは、なかったことにして無内容なことを平気で言えるの?この「だろう」を必死で乗り越えてきたのが、哲学、思想、芸術ですよね?それすらも分からないわけ?たしかに、人文学は危機を迎えている…まともな努力を放棄して、何かやってる「感」を出すのが「研究」「アート」なのだから。 というわけで、自分が何もできないことの言い訳を「中間」として、そのまま思想「っぽく」するとかあり得ない。 「中動態」という非哲学的概念は、今この時も、「中動態と言えば何かをやっていることになるよ」と甘い誘惑を読者に投げかける。現代においては自分が努力するよりも、他人に努力させないように仕向けるほうが、はるかにメリットが大きいのだ。概念が他者を乗っ取り、自分の都合の良い者に変えて、努力できなくさせて、思考できなくさせるために存在している。 中動態の本性、最近の人文学とアートの問題がとてもよく分かる一冊。繰り返す、自分が何もできないことの言い訳を「中間」として、そのまま思想「っぽく」するとかあり得ない。

  • @誰でも無いウーマンとマン
    @誰でも無いウーマンとマンКүн бұрын

    「中動態」は、新たな思考のためではなく、他者を言葉で乗っ取り思考できなくさせて、他者を自分の都合の良いものに変えようとする暴力的な行為でしかない。 それを、「未来に残したい授業」と名乗るのですか? 自分は二度とまともな努力をしたくない、…ための「セミナー」では?

  • @user-pq9hp3uj8s
    @user-pq9hp3uj8s2 күн бұрын

    「対話そのものがセックス」よりも「セックスは哲学対話」の方がシックリ来るのは何故だ? 「全ての〇〇は✕✕である」構文で言い換えると解るかな? ・全ての対話はセックスである ・全てのセックスは対話である どっちも陳腐な言い回しになってしまった。(苦笑)

  • @user-ee2qi6kl3v
    @user-ee2qi6kl3v3 күн бұрын

    76歳でこの快活さ、聡明さ。尊敬しかありません。わたしの憧れです。

  • @dchiphoppiano9177
    @dchiphoppiano91773 күн бұрын

    01:04:25 芸術表現はやっていることそのものよりも、やり方が重要。それは政治と同じ。

  • @dchiphoppiano9177
    @dchiphoppiano91773 күн бұрын

    45:50 弱さと対立しない強さ

  • @dchiphoppiano9177
    @dchiphoppiano91773 күн бұрын

    44:10 腸の存在が生命の原型

  • @dchiphoppiano9177
    @dchiphoppiano91773 күн бұрын

    筋肉骨格Modelではなく、体液をゆらすという生命観

  • @dchiphoppiano9177
    @dchiphoppiano91773 күн бұрын

    体液の入った袋

  • @dchiphoppiano9177
    @dchiphoppiano91773 күн бұрын

    有袋生命論 37:00

  • @dchiphoppiano9177
    @dchiphoppiano91773 күн бұрын

    体液の入った袋 39:00

  • @Brainely
    @Brainely5 күн бұрын

    不思議に、いいねが少ない動画。めちゃくちゃ大事な情報です。人間はいつ目覚めるのだろうか。外国人としての意見になりますが、 マルクスの理論に興味のある日本人がとても少ない。ロシアやウクライナ等の国々にはもっと人気です。

  • @user-ct8gz4ir8r
    @user-ct8gz4ir8r6 күн бұрын

    人は自分を見守る自分に邂逅しなければならないのだから、担い手として神を創出する考えは人間を理解しているならば非常に合理的だと思うけどね (大きくなれば政治経済と相関してきてしまい、邪悪なものが混入してきてしまうのが常だろうけれど

  • @user-ct8gz4ir8r
    @user-ct8gz4ir8r6 күн бұрын

    「私のアプリケーション」、表現が上手い! アプリケーションが多い方が社会に適合し易い。 不足すると、適合障害に。

  • @乱歩溝川-z7m
    @乱歩溝川-z7m6 күн бұрын

    勉強不足。変態はHENTAIと言って、海外では日本発のエロアニメ全般を指しますよ。

  • @乱歩溝川-z7m
    @乱歩溝川-z7m6 күн бұрын

    快楽は人間を犯す。社会性と秩序を求める若者も人肌の温もり恋しさのあまり過ちを犯すようになる、とか文学的に述べてみました。

  • @cellf11gaming53
    @cellf11gaming538 күн бұрын

    たましい難しいですね。傷つく云々は伝統的な道徳の問題でもあるから微妙だけど、乱開発とか疎外みたいな話を心理系の話と繋げて考えると柔軟さや全体性を損なうかもって事ですかね。普段からの感じ方の話とか相対主義のいきすぎとか名言(?)の多い回でした

  • @ritalinjet
    @ritalinjet8 күн бұрын

    誰かが必ず書いていらっしゃるだろうと思ったのですが、誰もコメントされていないとは。 山田さんが例に出された鶴谷香央理氏の『メタモルフォーゼの縁側』は素晴らしい漫画です。 BLにまったく興味のないオッサンが何度も繰り返し読み、泣き、笑いました。 大きな事件など起こらない淡々とした日常を描いた漫画ですが、心に染み入るような豊かな味があります。 年齢や社会的立場が違っても強烈に好きなものによって人は繋がる、という普遍的事実に心動かされました。芦田愛菜と宮本信子がW主演の映画版も佳作です。もしまだなら代さん、是非!

  • @koujurou111sai
    @koujurou111sai9 күн бұрын

    経済学というのはそれぞれがそれぞれのプラモデルを作って論評しあっているようです。それも、独自のプラモデルではなく、そのプラモデルは、誰か偉い人、偉い人と言うのは欧米系の人のようですが、その偉い人のプラモデルと合致しているがっちしていないなどと論争しているようです。 財源は税であると言うプラモデルが基盤のようですが実際社会がそのプラモデルと合致しているかどうかチェックはしないようです。 政府は、税収が上がる前に、支払いをしないければなりませんが、その財源は、税収が上がる前ですので、国債です(国債と呼ばない国債・負債です)。国債を発行して日銀から当座預金を得ます。後日税収が上がった場合その国債を消去します。税金は国債の消去の額を調整するものです。そもそも、最初に支払い(日銀券の引き渡し、国債・負債で政府預金の創出)がなければ税として回収ができません。 従って、もう支払いは済んでいますので、税として回収することもありません。金持ちから税金を徴収することもありません。つまり、金持ちから、税金を徴収しなければ財源がないということありません。 しかし、税金を徴収します。それは、毎年毎年国債を発行して支払っていけば、民間にお金(負債に対応する資産)が有り余ってしまうからです。金持ちから多く徴収するのは財源のためではなく富を平準化するためです。 ベーシックインカムの議論で財源は金持ちがから持ってこなければならない、金持ちが納得するかと言う議論をされていますが、その議論の根本が間違っています。 プラモデルの論争から離れて、実社会における財源の現実はどうかと言う確認をすべきところです。その確認をするとき、銀行員でも、個人個人の銀行預金を又貸ししているなどと誤解していますので、本物の実務家に確認すべきです。銀行預金は債権債務の記録ですので原理的にまた貸しはできません。 ちなみに、ChatGPTは、一般に流布されている誤った又貸し論をもって回答していきました(集めた民間預金で国債を買うとか)。5年後、ChatGPTには、又貸し論は原理的実務的に間違っているとか回答してもらいたいものです。

  • @koujurou111sai
    @koujurou111sai9 күн бұрын

    税は財源ではないということを理解すると消費税は不要だということが理解されます。消費税がなくなると年間250万円で生活してる人は現状と比べれば毎月2万円のベーシックインカムを得たことになります。

  • @koujurou111sai
    @koujurou111sai9 күн бұрын

    追加型ベーシックインカムは素晴らしいアイデアだと思います。また、それを実現しようとされている「意思」、感情的「体験」、それを是とする「価値判断」どれもリスペクトするものです。 そのため、なおさら、財源は国債で国債は借金ではない、税は財源ではないという事実に目を向けてそう断言していただきたいところです。税は国債を償却するものです。 ”「現金給付」の経済学: 反緊縮で日本はよみがえる” この等式をかくのなら「歳出=租税+国債」次のように書くのが正解でしょう。 歳出=国債ー租税 税収入の前にまず支払いが先行します。国債を財源として支払いを実行します。 比ゆとはいえ、負債を借金とするのは、正しくありません。借りるというのは誰かの所有物を一時的に使用することを言います。借金と言うと誰かが所有するお金を一時的使用することが想起されます。国債は本質的にそれと異なります。 さらにまた、預金は銀行の負債ですが、負債だからそれを借金と比ゆ的に表現すると、比ゆとはいえ、銀行が誰かが持っている現金をその人から借りたかのように錯覚させます。つまり商品貨幣説に誘導する錯覚です。そのような錯覚から銀行が国債を買うと預金がなくなってしまい、しまいには国債が買えなくなるという事実から離れた理解をしてしまいます。 そのような錯覚は、民間銀行が国債を売って日銀に持つ当座預金が増えると、その当座預金が市中に流れていくような錯覚も生じさせます。国を挙げてそうした錯覚をしているわけです。 税も財源の一部だと錯覚していると(同書にもそのような錯覚があるようです)、”追加型ベーシックインカムを導入するにあたって、高額所得者の高所得者が自らの純負担を容認すれば政治的に実現しやすいし、容認しなければ実現し難い”と高所得者がベーシックインカムの一部を財源として負担するかのような錯覚を導くことになります。 財源は、国債のみですので、高所得者からの”税収”を財源とはしません。税は財源ではありません。税は、高所得者の収入の一部を消去するためのものです。どこかに回すものではありません。消えるのですから回せません。

  • @user-wn2mo5oz6l
    @user-wn2mo5oz6l10 күн бұрын

    ⑲性について。私は、高校時代、柔道部で男子どうしで、立ち技・寝技をほぼ毎日してました。 女性、好きな女性には、優しくしたいけど、テンションがあがって、感情的になり、寝技の押さえ込みみたいにならないようにしたいと思っていますが、女性が、どう思っているかは、本当のところは、分かりません。やさしいつもりだけど。 妊娠・出産・陣痛・帝王切開など男性は経験のしようが無いし。 性感染症については、大事な所、太腿の付け根あたり、そして頭部の目・鼻・口・喉を、まもる・ガードする事が大事でしょう。 耳とかは、どうかな?目・鼻・口に近いから、ガードしたほうがいいかも? 耳鼻咽喉科の医師など専門家に相談したら明確になるでしょう。 私は、臆病というか保守的なんで。たぶん。 ハッキリ言って、私は、濃厚接触した女性の数より、高校の柔道部以降に練習や試合で寝技をした男性の数のほうが多いでしょう。 ⑳相対主義について 私は◯◯主義というのは、ちょっとピンと来ない所があります。 君主主義や貴族主義より、民主主義のほうが、マシだと思うので、まあ民主主義者です。 しかし民主主義と言っても、色々で、北朝鮮の正式名称は、朝鮮民主主義人民共和国です。私としては、あれで民主主義かなぁと思ってしまいます。 ◯◯主義というものの評価も、実際に観たり、説明してもらったり。あるいは自分で調べてみないと何とも言えないですね。

  • @user-xy2mc3sc9n
    @user-xy2mc3sc9n11 күн бұрын

    運かぁ、人間万事塞翁が馬!!

  • @koujurou111sai
    @koujurou111sai12 күн бұрын

    現代メディアの記事にこのようなことが書いてありました。 ”これから、人工知能(AI)が普及してくれば、なおさら強迫観念的な勤労道徳は不要になる。それどころか害悪をまき散らすようになるだろう。” この記事に続いてこのように書き加えられることになります。 ”これから、人工知能(AI)が普及してくれば、なおさら強迫観念的な「商品貨幣思想」は不要になる。それどころか害悪をまき散らすようになるだろう。” ちなみに、同じ記事の以下の思いに全面的に賛意を示すものです。その思いを具現化するためには税は財源であるという筆者のマクロ経済学における業績をすべて捨て去ることです。勤労道徳を捨て去ること以上に難しいことかもしれません。 王様は裸だと指摘しても教養人はロココ調の服飾文化を語って止まないのです。 ”その頃になっても、強迫観念的な勤労道徳が残っていたら、失業した多くの人々が精神的に追い詰められることになる。そうならないためには、日本人の勤労道徳のシンボルになっている憲法第27条を改正しておく必要がある。” ”労働しなくてもOK!” ”役に立たなくてもOK!” ”全ての人間は生きているだけで尊い。” 存在は、負債であり、資産です。誰かによって生きていますし誰かのために生きています。商品のために生きているわけではありません。商品を作ってくれた人のために生きていますし商品を引き渡すために生きています。それはある意味贈与のために生きているとともいえます。

  • @koujurou111sai
    @koujurou111sai13 күн бұрын

    財源は 国債ですのでキーボードを叩けばいくらでもお金が生まれてきます。そこで 国民1人当たり毎月20万円を国民の銀行口座に振り込みます。AI を使えば一瞬で終わります。年間250兆円です。250兆円はどこから集めてくるものではないのですから簡単です。250兆円とキーボードを叩くだけです。次に200兆円を税で回収します。ベーシックインカムを含めた個人個人の総所得に応じて個人個人の回収税額を決定します。これも AI が自動計算し AI が個人個人の預金口座から自動引き落としをします。生活保護の審査をしないで済みます。生活保護者に対する スティグマを植え付けないで済みます。税はこのように過剰なお金を消す仕組みです。財源ではありません。

  • @koujurou111sai
    @koujurou111sai13 күн бұрын

    税は財源ではないという根本的なことを理解しないとせっかくの良いアイデアも機能しないことになります。 財源は国債です。国債がお金というものです。 借方国民預金100 /貸方政府国債100 ー税支払い100ー国民預金ゼロー政府国債ゼローベーシックインカムゼロ

  • @user-wn2mo5oz6l
    @user-wn2mo5oz6l13 күн бұрын

    「『勤労思想』からの脱却」なら・働きたい人は働けば良いし、働きたくない人は働かなくていい。それは良いとして。 これが「『勤勉思想』から脱却」に繋がるなら、小学校・中学校は行ってもらうとして。 高校に行きたい人は行けばいいし、高校に行きたくない人は行かなくていい、私立の中高一貫校に行きたい人は行けばいいし、行きたくない人は行かなくていい。 高等専門学校や専門学校に行きたい人は行けばいいし、行きたくない人は行かなくていい。大学に行きたい人は行けばいいし、行きたくない人は行かなくていい。 大学院に行きたい人は行けばいいし、行きたくない人は行かなくていい。 さて、「勤勉思想からの脱却」で、日本の教育・学校はどうなるのでしょう? 子ども・未成年者・向けのBIをキャッシュで配る案がありましたが。 民法で、親権者には、子の財産管理権があるので、親が子のBIをギャンブルに使ったり、宗教団体・政治団体に寄付したりするのは、子の財産権の侵害に、なりませんか? 私立中学に行くか、行かないか。中学卒業後の未成年者の進路も最終的には親権者が決めます。 民法818条①成年に達しない子は父母の親権に服する。 未成年者は、親権者に服従するしかないのです。私は、そう思っています。 私は、テレビ局や新聞社ですら、子ども・未成年者を大事にしてないと思うので。 長文になりました。えらそうな事を書きました。本当に、本当に、すみません。

  • @syn9ro
    @syn9ro13 күн бұрын

    ゲームとは「勝負、または勝敗を決めること」と辞書に載ってますよ。つまらなくても勝敗がつくならゲームだし、面白くても勝敗がつかなければゲームではありません。という至極シンプルな定義以上に別に必要ないのでは。

  • @Twilingal
    @Twilingal14 күн бұрын

    1:26:55 「Graeber に依拠すると」からのcommunism連呼に「!?」 他にも看過できないと思う点が多々ありましたが, 今日の国難にGraeber's anarchism が有用の認識は一致. Whitehead研究の進展にも期待してます.

  • @thomasaqinas2000
    @thomasaqinas200014 күн бұрын

    ネット上の2箇所に記した「ベーシックインカム」の原型ともいえる『新約』の理解を貼り付けます。 『マタイ福音書』20章。生産と分配。生産は「資本」か「共産」か。分配は「個の自由」か「普遍の社会」か。そのような主義のため、戦争で多くの死を招く人類。多くの難民、移民を生む人類。ベイシック・インカムの「1デナリオン」。  「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか」  天の国についての譬えの表象には、本当に「生産」しているのは「資本や共産によって人類がしている」のではなく、無からの創造の働きであることに留意せよというメッセージを受け取ることができると思います。    「分配」は従って、その働きの主の「したいように」することが望まれる。それは一日の労働対価として観る人類の観方ではなく、一日に必要な生活費用、1デナリオンを全ての人に分け与えるという「天の国」の分配でしょう。  『マタイ福音書』の続く章では、主人から葡萄園を略奪するために主人の僕や息子も殺す農夫たちの譬えが記されています。戦争、即ち土地の覇権争いで人を殺し、主人の息子まで殺してしまう愚かな人類を非難しています。 旧い契約から新しい契約へ  現在、この現代においてさえ、各地で戦争が続いている。人間共同体社会の制度をめぐる争いだが、生産を「共産か資本か」、分配を「社会か個人自由か」、何れの主義で為すがよいかで殺し合う。もっと単純に古代から続く「地上の覇権」争いを「聖戦」、神の名の下にという正当化をして「敵」を殺す。  紀元前550年以前の頃、バビロニアで捕囚の民となっていたユダヤの民が、自分達の民族アイデンティティを保持するために編集したとされる『聖書(キリスト教の成立後は旧約とされる)』には、『サムエル記』として編集された中に「ダビデ物語」がある。これは『創世記』の創世神話に続く、遊牧部族から統一ユダヤ民族形成(農耕文化から得た12という象徴数を使った12部族物語から民族統一のヤーウェ=一部族の族長神名に偏らない「在る者」とされた神名で、農耕民が耕作拡大してきたカナンの地を奪取する為、部族間契約を締結した「十戒」を掲げた物語)の記述の後に置かれている。  「ダビデ物語」のハイライトは、ペリシテ(パレスチナ)の軍隊の英雄ゴリアテを倒すシーンであるが、剣や槍、鎧を脱ぎ捨て、石を拾いゴリアテに当てて倒したと記される。そしてダビデの口から、神は武器を使わず敵を倒し、この戦いが聖なる戦いであることを示したと言わせる。  遊牧民が持っていた投石器は、当時その地域で多くいた狼やライオンを追い払うために極めて有効な強力なものであった。如何にペリシテ軍が鉄の文化圏にあったらしいとしても、飛び道具は有利であったはずである。そしてこの土地の「奪還」戦争は、農耕民族ペリシテから観れば侵略戦争である。それを「ダビデ物語」は正当化して「聖戦」とするのである。  総じて『旧約』は、こうしたユダヤ民族の歴史をヤーウェという神の下で、地上の覇権をめぐる歴史として描いている。  『新約』のメッセージは、それを乗越えようとするストラテジーの下に描かれている。恐らくイエス=ヨシュア=日本なら太郎という一般的名前で呼ばれる活動家が、紀元1世紀のローマの傀儡政権であったユダヤにおいて、様々なイドラ的バイアスで固着し、人々が困窮していた状況に、そうした地上の覇権に基く認識を捨てよ、と主張した。初期には既に福祉的活動を為していた洗礼者ヨハネと活動を共にしたが、ヨハネ共同体へ当局からの圧力がかからぬように、独立活動をした。これに当時のガリラヤにいた反体制的「熱心党」のメンバーも加わり、宣教、即ちコミュニケーション=言葉による共同体の一致を説き回った。  ともかく地上の覇権争いは止め、赦し合って和解し、平和を得よう。自分達の土地、自分達の労働による報酬という観方を捨てよう。野の百合、空の鳥を見れば分かるように、人間の所有や労働によって生活しているのではない。その下には天の父の恵がある。それに気付くべきである!明日は明日が考える(摂理)!ブドウ畑での労働対価についての話も、1日1デナリオン、皆、自分の労働によって得たものとせず、生きるに必要な恵みとして、天の父なる「主人」から受ければよいという、社会分配を説いた。  こうしたメッセージが、新しい契約として告げ知らされたと、理解できないでしょうか。

  • @user-wn2mo5oz6l
    @user-wn2mo5oz6l15 күн бұрын

    筒井康隆は、映像作品で「時をかける少女」しか知らないなあ。原田知世さん(アイドルというか女優)はおぼえています。アニメも見ました。 私は酒は呑めません。呑んだらメチャクチャになって110番や119番に電話をかけて貰わなきゃいけななけなるので、呑みませんと言います。 それで協調性が無いとか言われて、出世できない。左遷されるなら、それも構わない。 西郷隆盛は、二度島流しになってます。そこが尊敬できるところです。

  • @SEKITOBAmimick
    @SEKITOBAmimick16 күн бұрын

    こちらの本も読もうと思います!ご紹介と対談ありがとうございます

  • @user-wn2mo5oz6l
    @user-wn2mo5oz6l19 күн бұрын

    「国家」に、どうして「家」の文字があるのでしょう?「国」でよくないですか? 東大・京大はじめ国公立大学や医学部に行きたいけど、経済的事情で無理なので、防衛大学や防衛医科大学に行く人はいるでしょう。 森鴎外は東京帝国大学の医学部を出て、帝国陸軍の軍医総監になったけど、「我は石見の人、森林太郎として死せんと欲す」だからねえ。ネイションビルディングに失敗したかもね日本国は。 東京にある、国会や内閣や最高裁は勝手にヤッてる感じがする。こっちは、こっちで、勝手にやるか。 『「あらゆる国は暴力・物理的強制力に基礎づけられている」トロツキーはこう言ったが、この言葉は実際、正しい。』マックス・ウェーバー(著)『職業としての政治』より。 学生時代、ソ連に行く時、男子学生しか誘わなかったなあ。女性は誘わなかったなあ。差別だったかな。反省。

  • @koujurou111sai
    @koujurou111sai20 күн бұрын

    政府が国債を発行するとき債権債務の記録である簿記は次のように展開します。 民間銀行 日銀当座預金100兆円(資産増):日銀からの借入金100兆円(負債増) 日銀 民間銀行への貸付金100兆円(資産増):日銀当座預金100兆円(負債増) 政府 日銀当座預金100兆円(資産増):国債100兆円(負債増) 道路資産100兆円(資産増):小切手100兆円(負債増) 道路建設を発注しその完成と共にあるいは出来高に応じて100兆円の小切手を道路会社などに支払った。 道路会社 小切手100兆円(資産増):売上100兆円(売り上げ収益増) もちろん、実際の仕訳は建設仮勘定、未成工事未収入金などもっと複雑ですが、原理的に資産負債の簿記的展開をしています。 道路会社は政府小切手を民間銀行に持ち込みます。 道路会社 道路会社の銀行預金100兆円(資産増):政府小切手100兆円(資産減) 民間銀行 政府小切手100兆円(資産増):道路会社の銀行預金100兆円(負債増) 民間銀行は政府小切手を日銀に持ち込みます。 民間銀行 日銀当座預金100兆円(資産増):政府小切手100兆円(資産減) 日銀は政府小切手を政府に持ち込みます。政府はその小切手に対して日銀当座預金から支払います。その結果、政府は、国債で調達した100兆円の日銀当座預金がプラスマイナスゼロになります。 政府の帳簿上の記録は 道路という資産100兆円と国債という負債100兆円でバランスします。 道路会社は働いた結果100兆円と言う銀行預金が増えました。 民間銀行は道路会社に対して銀行預金と言う100兆円の負債が増えました。 民間銀行は100兆円の国債資産と100兆円の日銀からの借り入れと言う負債がありました。その民間銀行は道路会社の小切手を処理して道路会社に対して100兆円の銀行預金と言う負債が生じました。しかしそれに見合う100兆円の日銀当座預金と言う資産を得ました。その100兆円で日銀からの借り入れを返済しました。 民間銀行のバランスシートは、当初 国債100兆円(資産):日銀借り入れ100兆円(負債)だったものが、日銀からの借り入れは返済したので、結果的に次のようにバランスしています。 国債100兆円(資産):道路会社の銀行預金100兆円(負債) 政府が負債を引き受けたので(国債発行)国に道路が資産ができて道路会社・国民に銀行預金と言う資産ができました。国債を借金と認識して返済しなければならなと考えてしまうと道路会社から100兆円を税金として徴収しなければならないことになります。国債がゼロになれば道路会社・国民の預金資産もゼロになります。 国債は借金ではないので返済するものではないないのです。国債とは債権債務を表すお金のことです。 税金とは、財源ではなく、国債と言うお金を消す仕組みです。

  • @koujurou111sai
    @koujurou111sai20 күн бұрын

    国債とは単に政府の負債と言うことです。それ自体ニュートラルなものです。それを国の借金と言い換えると、道徳的に否定の感情を呼び起こさせることになります。 ”そうなれば、いくら政府が積極的に公共投資をしたところで、政府の借金を増やすだけで、実体経済の成長をもたらすと期待することはできないでしょう。”と借金というネガティブなイメージをもとに公共投資を否定しています。 ”(2001年12月4日閣議決定)では、・・・公共投資を大幅に削減することにより、公共投資関係費を前年度当初予算に相当する額から10%削減することが盛り込まれた。その後も・・・”(内閣府) 国債は、単に負債と言うことですので、国債を発行すると(政府が負債を増やすと)それと同額国民の資産が増えます。資産・負債の貸借はバランスするという簿記の原理です。政府が国債の発行を減らした分(負債を引き受けなかった分)借方資産側の国民の資産も伸びなかったことになります。

  • @user-wn2mo5oz6l
    @user-wn2mo5oz6l20 күн бұрын

    「顔で笑って、心で泣いて。」というのは男性だけでなく、性別に関係なく、あるんですね。

  • @philosophydoubtfuljournalcom
    @philosophydoubtfuljournalcom20 күн бұрын

    暴力反対っていうか、自分が損をするのが反対。なのである程度知能を有すると、非暴力が有効な手段となるということですよね。自衛の為であっても、日本のような環境では、非暴力を徹底した方がリスクは少ない。銃社会にするとか、帯刀文化を取り戻したら、確率的に危険度が上がり、日本人も劇的な変化をしますよね。なので、世界と感覚を共有し且つ、日本の古来から受け継ぐ武士的な遺伝子を活性化させるためにも帯刀文化の復古はとても有益なものであるはずです。しかしそうしたらある程度の緊張感は維持できますが、いままでのようにへたれが投薬で権威を持つみたいなことができなくなるので、権力内部の遺伝的な流動性の変化が起こるでしょうし、脅されて首輪をハメられているだけみたいな状態もある程度は緩和できるはずです。掬いあがってくる人間の質が責任感や本物の勇ましさを重視するように変化するはずだからです。しかしもちろんある程度の絶対値として、恐怖や強制力の下で行動を起こす人間がいなくなるというわけではないでしょうから、その点において現代の日本の薬物混入責任擦り付け卑怯者文化支配層の集めたデータなどは有効利用ができるはずです。よかたでちゅね。でも子供や身体能力や知能が劇的に格差がある相手への暴力はレイプに等しい卑しい行い。原爆のようなものだ。日本人とは思えないよね。日本人じゃないらしいけど。

  • @koujurou111sai
    @koujurou111sai20 күн бұрын

    お金と言うのは一つの商品・つまりモノという誤解に基づいているようです。お金とは債権債務の記録のことです。すくなくとも、商品貨幣説、信用貨幣説、債権債務説について考察されるべきではなかったでしょうか。贈与経済を考察するにあたって、「贈与論」、「負債論」を考察されたはずですが、「負債論」によれば、かつて、物々交換経済が存在したためしはないとされています。 贈与というのも債権債務の「記憶」のことです。その記憶を記録し流通させたものがお金というものです。と言う検証をされるべきではないでしょうか。 お金をモノと誤解していると、そのモノどこかから調達してこないといけないと考えてしまいます。民間銀行が道路会社に貸すお金は日銀から調達してこないといけないと考えてしまいます。そのために、民間銀行は、国債を売って、貸付金の元手をつくるためにと誤解して、日銀当座預金を積み上げたと誤解してしまいます。その当座預金はモノではないので民間には流れていきません。政府と銀行間同士の債権債務の決済に使用されその中で閉じています。 民間銀行は、その当座預金を現金紙幣と言うモノに替えて民間に流すことはありますが、それはわずかの額でそれを貸付金として使うことはほとんどありません。借り手は1000万円を現金紙幣で借りることはありません。その代わり債権債務の記録として銀行の帳簿に載せてもらいます。 また、政府は政府で、お金と言うモノを民間から税と形で調達してこないとお金がないと誤解していしまいます。お金とは金貨だという誤解です。金貨は、民間の鉱山会社が金塊を掘り当て民間の中で流通していたというものです。民間で金塊が流通していたというのは部分的事実でしょう。そのために、金塊は民間にしかないので政府はその金塊を税と言う形で徴収して財源とするという誤解が生じてくるようです。 お金とは例えば軍票のことです。占領軍は民間から税としてモノとしてのお金を集めるわけではありません。確かに債務があるという軍票を渡して決済します。軍が価値ある金塊を渡さないで、あたかも悪いことをしたように感じるかもしれませんが、債務証券がお金の本質です。

  • @chrisberthelsen7603
    @chrisberthelsen760320 күн бұрын

    great!

  • @user-xy2mc3sc9n
    @user-xy2mc3sc9n21 күн бұрын

    国別 自殺率トップは、韓国?南アフリカが割とダウンのほうですかね?

  • @tsumaru9768
    @tsumaru976821 күн бұрын

    資本家より百万倍ひどい共産党の搾取 😱

  • @koujurou111sai
    @koujurou111sai21 күн бұрын

    民間銀行が国債を買うとき道路会社を含め我々一般国民の銀行預金を使って買っているわけではありません。銀行預金は、我々一般国民の資産ですので、それを民間銀行が勝手に使うことができません。当然のことです。つまり、民間銀行が国債を買ったからと言って我々の預金残高が減るわけではありません。むしろ国債発行額分増えます。 これも当然のこととして、民間銀行は、自行の銀行預金資産を使って、政府から国債を買います。現在、その日銀当座預金は、500兆円あるわけですから、その当座預金で買います。100兆円の国債を買えば、100兆円の当座預金が減って、100兆円の国債が増えます。資産の形は変わりましたが資産総額は500兆円で変わりません。 それでは、100兆円を5回買えば民間銀行が日銀に預けている当座預金がなくなってしまうと懸念されるかもしれませんが、実際は、その500兆円の当座預金を使って国債を買っているわけではありません。従って、500兆円の当座預金はそのまま500兆円残っています。 民間銀行は、どのようにして、国債を買うのかと言えば、日銀から100兆円借りて買います。これは、我々が、5000万円の住宅資産を買うときと同じです。銀行は、我々の信用を基に、5000万円貸してくれます。民間銀行の信用をもとに、日銀は、国債購入資金100兆円を貸してくれます。その100兆円は、どこからか集めてくるものではありません。日銀が、自行の民間銀行口座に100兆円と書き込めば資金を貸したことになります。民間銀行は600兆円に増えた日銀当座預金で100兆円の国債を買います。当座預金500兆円と国債100兆円が民間銀行のバランスシートに残ります。 まだ日銀からの借入金100兆円が帳簿に残っています。これは日銀に返さなければなりません。不思議なことにその100兆円はすぐに日銀に返せることになります。国債を発行すると我々国民の銀行預金が同額の100兆円が増えるというところにその秘密があります。ですので、民間銀行は、また、新たに、日銀から100兆円借りて国債100兆円を買うことができます。 このように、日銀は、民間銀行にお金を貸すという形をとって、「財政ファイナンス」をしています。もとより「財政ファイナンス」と言う言葉の意味がないことになります。

  • @akaginao
    @akaginao21 күн бұрын

    16:00 啓蒙思想と聖書思想のこと? 17:00 相対主義のこと?

  • @koujurou111sai
    @koujurou111sai21 күн бұрын

    民間銀行が日銀に預けてある当座預金は、銀行間の決済あるいは政府と銀行間の決済に用いられるものです。そこに閉じられていて民間の道路会社などに流れていくお金ではありません。 民間銀行は、道路会社が自行に持つ銀行口座に10兆円と書き込めば道路会社にお金を貸したことになります。民間銀行が日銀に持つ当座預金は遣いません。 そのように、民間銀行は、10兆円でも100兆円でもいくらでも通帳に書き込むことができます。ただし、民間銀行の制約として、日銀当座預金の1000倍を貸付限度とされています。5兆円の日銀当座預金があれば民間道路会社には5000兆円まで貸し付けることができます(預金準備率0.1%として)。できるけれど、道路会社に対する返済信用の実務上5000兆円は貸さないということです。 現在、日銀の当座預金は、500兆円を超えているということですので、民間銀行は道路会社に50京円まで貸し付けることができます。しかし、50京円まで貸し付けようとはしないということです。 もともと、民間銀行には、5000兆円貸し付ける余裕があったのですから、日銀が、民間銀行の保有する国債を買い取り、民間銀行の日銀当座預金を500兆円に膨らませても(貸付限度額が50京円となるだけで)、道路会社に貸し付ける動機づけの意味は端から無かったということになります。

  • @koujurou111sai
    @koujurou111sai21 күн бұрын

    国債は国の借金という呪いの言葉にかかっているようです。その呪いの災いが転じて贈与経済という福をなしたのかどうか考え中です。道路は誰が生産して誰が贈与するのだろうか。

  • @-shiga1445
    @-shiga144525 күн бұрын

    別の方からも聞いていただけにハイデッガーについてもっと知りたくなりました。

  • @masaotobita5000
    @masaotobita500029 күн бұрын

    仏教的な感覚ならば、自愛ではなくて、自他共に愛する人間の他者への愛を実現する方法を深く語る必要があるように思えます。

  • @masaotobita5000
    @masaotobita500029 күн бұрын

    4人の登壇者の話し共、自己の生死への愛を中心とした話が多く、自分の生死の他者への誓願的な願いや祈りを通しての生死の発言が一言も聞かれなかったのが不思議である。恐らくそこには、生命を受け身的にしか最終的に受け取れないでいる意識しかないのかと思った。それが最終的に、何者かに「のまれてしまう」という意識になってしまうのだろう。‎04/‎07/‎2024-23:53

  • @masaotobita5000
    @masaotobita500029 күн бұрын

    仏教というのは「生・老・病・死」の人生の総ての断面を問題にしているもので,約して「生死」(しょうじ)と言っているが、これは。決して元気な生きた人間だけを問題にしているのではないし死の世界だけを問題にしているのでもない。人間の生命が「生・老・病・死」であってこれらが無常ではなくて常住であると見ることなのである。 ●禅宗や念仏はこれを人生ははかないものだと仏教をよじまげて解釈している。例えば有名な「諸行無常」という言葉も確かに仏教の経典の涅槃経の「諸行無常・是生滅法」(諸行は無常にして、是れ生滅の法なり)の文から出て来ているのだが、これは次に続く半偈である「生滅滅已・寂滅為楽」(しょうめつめっち・じゃくめついらく)と一対になっているわけだ。ところがこの後半部の半偈を隠し教えない学者や教師が多く、為に仏教は無常を説くとする誤魔化しの見解が昔からあるわけである。吉田兼好などと言うのもそうかもしれない。しかし、これは大変な誤りなのである。「生滅に執着する心を滅し已って、寂滅の境地に安楽がある」ということは、これは常住を教えているわけなのです。無常ではないのです。 ●釈尊が雪山童子として仏教を修行している時に、腹を透かせた人間の血肉しか食さないという鬼に出会った。「諸行無常・是生滅法」の不思議な法門を繰り返していたのを不思議に思い、何とかして後の残る半偈を聞きたいとして、鬼に願い出る。鬼は自分は腹をすかせているので話せない。条件として雪山童子の身を食べることと引き換えなら経文の残る半偈を教えようという事になる。雪山童子は近くの高い樹木に登りそこから鬼の前に飛び下りる準備ができたので鬼に残りの半偈を教るよう言った。童子は後の人々が分かるようにと、木の皮などに書きつけたのがこの経文なのです。‎04/‎07/‎2024-22:45