しゃばのどうが

しゃばのどうが

こんにちはしゃばです!

このチャンネルでは、ロマンが溢れる歴史や地理の知識、特に都市の発展に関わる話などをゆっくり解説していきます。楽しくて勉強になる動画を制作しておりますので、どうぞお楽しみください。
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Пікірлер

  • @723ch
    @723chКүн бұрын

    浅草はもともと江戸時代、郊外の遊興地。ずっとそういう位置づけで主に浅草寺にお参りする観光客が多い街で、人が集まるから仲見世など店も出来て買い物に集まる人も多く、寄席・演芸場・映画館・劇場などが立ち並び一大レジャースポットだった。江戸時代や明治大正戦前からレジャースポットとして栄えたから、新宿渋谷より繁華街としての歴史は長い。今の浅草は日本情緒を求めて主にインバウンドの観光客が押し寄せ活況を呈している。寂れたとは言えないけど、ただ1つ、演芸場や映画館や劇場が立ち並んだエンタメスポットとしては大きく地盤低下してしまったね。ほかの繁華街に負けたのでなく、娯楽の中心がテレビに移ったからだけど。浅草で修行した最後の大物芸人は萩本欽一とビートたけしだろうね。ああいった人達が今後浅草から出てくることは無いだろう。

  • @user-ts2ib6ux3x
    @user-ts2ib6ux3xКүн бұрын

    勉強になりました

  • @まだ見てる人コメは不要
    @まだ見てる人コメは不要6 күн бұрын

    大木戸で同じことを思ってしまった。

  • @user-ti8im5er9p
    @user-ti8im5er9p12 күн бұрын

    池袋は元々巣鴨村の字名だった?池袋区でなく豊島区になったのは巣鴨に住んでいた人達への配慮?

  • @rickmack422
    @rickmack42214 күн бұрын

    昔思えば苫屋の煙ちらりほらりと立てりし処――やな。

  • @whjb50bf82
    @whjb50bf8216 күн бұрын

    公私ともに数えきれないほど行った街だが、未だにこの街には親しみを全く感じない。できればあまり渋谷・池袋には行きたくないな。

  • @chandee7939
    @chandee793921 күн бұрын

    神奈川県知事の現在の月額給料は145万円。審議会の答申などに基づき条例で定めており、県によると、1995年12月から変わっていない(改定前は月136万円)。総務省の調査(都道府県独自の減額措置を加味)によると、2022、23年は47都道府県で最高額だった。埼玉県知事の142万円、千葉県知事の139万円 公式記録

  • @rc.c5773
    @rc.c577327 күн бұрын

    浅草の繁華の裏には吉原遊廓にもほぼ隣接しているのが大きいよね。 そこにロッパエノケンなど黄金時代のショーや浅草オペラ、レヴューの全盛がやって来て、映画館の林立……… でも逆にこの瞬間のちの衰退が決まったのかもしれないですけど。 常盤座って確か96年くらいまであったんでしたっけ? ラモーンズのadios amigosのツアーでどこかの代替公演が末期の常盤座だったんですよね確か

  • @user-bc8ci6by9v
    @user-bc8ci6by9v28 күн бұрын

    デビルマンがいる八百屋町の交差点も賑やかになって来てる

  • @a-re9mq
    @a-re9mqАй бұрын

    池袋付近で生まれ育ち70年になります。 とても判りやすく、いくつかご指摘にある通り、間違いはあるものの、それに対する真摯な対応、非常に好感の持てる動画です。 飛んで埼玉の映画がヒットした時、主演のガクトがTVで言っていました。『沖縄から上京して池袋に住んで、東京の女性をナンパしていたのだけれど、実はほとんどが埼玉から来ている女性だった(笑)』と。 子供の頃は、都電に乗れば池袋東口~銀座数寄屋橋まで行って天賞堂の鉄道模型を眺めていました。 またトロリーバスを乗り継げば今井橋から浦安へ(今のTDLの辺り)ハゼやカレイ釣りに行くことも出来ました。  西武デパートの屋上遊園地はモノレールもあり、親が買い物の間、何回も乗っていましたっけ・・・昔は西口の方が廃れていて西口から左前、学芸大跡へ抜ける細い商店街にはヘビ屋があり大きなガラス張りショーウィンドー?に何百匹ものマムシが蠢いていたのが気持ち悪かったものです。 赤羽線沿いには北K国系の学校があり、近くの私立校と赤羽線車内での喧嘩が絶えず、そこへ神道系学校が応援に来たりで、学校でも『女の子だけで赤羽線に乗らない様に・・・』と指導されていた程でした。(今はどちらも大人しい学校になりましたが・・・) でも池袋から練馬、杉並は武蔵野台地の中でも最も安定した地盤ロームⅠ層に位置しており、新宿、渋谷より安心して住める一帯なのです(ちなみに東京の鉄道で自然災害安全度1位は西武池袋線、2位が西武新宿線)

  • @K2161003k
    @K2161003kАй бұрын

    中華街がなんで埋め立てに斜めなったかを行ってもらえるといいですね 元町と関連してますよ

  • @unsuisumidagawa4351
    @unsuisumidagawa43512 ай бұрын

    愛田社長の姿はもう見られないにしても、売れっ子ホストの看板が林立するのが歌舞伎町だと思います。 歌舞伎役者の追っかけをするおば様を越えるパワーで、お気に入りのホストを推し活する女性が沢山居るからこそ歌舞伎町だと私は思います。

  • @user-dn5fo5bd2b
    @user-dn5fo5bd2b2 ай бұрын

    仏語版三国通覧図説を持てぃ!

  • @tekikaku8675
    @tekikaku86752 ай бұрын

    なるほどねぇ

  • @user-zg4et7wb3d
    @user-zg4et7wb3d2 ай бұрын

    駐車場…コインパーキングが物凄く高いね。歳をとったから冷房の効いた車移動が助かります。観るところが多くて歩くの辛いのだよ

  • @akiyamarenhoubou
    @akiyamarenhoubou2 ай бұрын

    諦めんなよ、いまからでもやろうぜ

  • @user-bo7oi9dy7p
    @user-bo7oi9dy7p2 ай бұрын

    実現しなくてよかった 汚染がすごそう

  • @user-zw4ub3jf7h
    @user-zw4ub3jf7h2 ай бұрын

    練馬区民です。ここにグラントハイツがあったことは知っていましたが、成増飛行場や特攻のことは一切知りませんでした。この動画を作ってくれてありがとうございます

  • @user-is2uy7tc7x
    @user-is2uy7tc7x2 ай бұрын

    自然破壊のとんでもない発想だよな馬鹿らしい😤😤😤

  • @user-yr2qb4kv4r
    @user-yr2qb4kv4r2 ай бұрын

    京王線が路面時代に新宿追分って駅があったのはこれが由来だったのか

  • @hirofumitsuda749
    @hirofumitsuda7493 ай бұрын

    つい最近、池袋西口の再開発計画が発表されました。いまの西口の雑居ビルがすべて壊され、なんでもサンシャインより高い270メートルの高層ビルが建つとか。これは新宿、渋谷のどのビルより高くなるそうです。楽しみですが、生きてるうちに見れるかどうかw

  • @user-rz7hg4ob4t
    @user-rz7hg4ob4t3 ай бұрын

    横浜の歴史を扱ってくれてありがとうございます!

  • @UDON2364
    @UDON23643 ай бұрын

    1400年前の漁師には苗字があったんですか?

  • @user-xm6kb4pz2p
    @user-xm6kb4pz2p3 ай бұрын

    そう

  • @user-gi7id8yv2i
    @user-gi7id8yv2i3 ай бұрын

    八重洲の地名は、家康の外交顧問だったオランダ人ヤン・ヨーステン(日本名の耶揚子=ヤヨウスがヤエスに転訛したもの)の江戸屋敷所在地に由来する、ってことぐらい東京の地理・歴史が好きな人には常識に属すること。「洲」だからって島由来の地名じゃないんだけどなあ。

  • @user-hi4fw3of2i
    @user-hi4fw3of2i3 ай бұрын

    終戦後の台湾人のことはなぜか語られないよな。

  • @user-hi4fw3of2i
    @user-hi4fw3of2i3 ай бұрын

    逆に渋谷や新宿みたいな繁華街にならなくてよかった。

  • @KOKI-cy3ph
    @KOKI-cy3ph3 ай бұрын

    江戸四宿では、板橋宿があったんだよね。 でも鉄道ができ、さらに分岐点になり、加えて東部・西武も乗り入れた。 だからターミナル駅として、池袋が発展しいった。 そのため品川・新宿・北千住と違った、宿場町でない所が発展した。

  • @user-mq5pu8pm9q
    @user-mq5pu8pm9q3 ай бұрын

    亡くなった父親が子供頃、成増飛行場があった事を教えてくれました。 疎開に行かなかった小学生の父は、成増飛行場に爆弾を落とされた事や、真っ赤に燃える東京を見たと言ってました。 悲しい出来事です。 成増飛行場の思い出の物を残してもらいたいです。

  • @SON99ify
    @SON99ify3 ай бұрын

    新宿の方が大きいと思うが。。。

  • @EmperorChiCheung
    @EmperorChiCheung3 ай бұрын

    池袋はビックカメラの本拠地、東は西武で西東武は池袋のビックカメラの歌です。この地に数十年間も定住し、池袋を愛する地元の豊島区民として、新宿西口のヨドバシなんかと一緒くたにされたのは甚だ遺憾です。ビックカメラのテーマ曲は歌詞もメロディもヨドバシとは違います。致命的な過ちを絶対にしないよう十分に気をつけていただきたい。

  • @user-pl2zl9bt8d
    @user-pl2zl9bt8d3 ай бұрын

    逆に円安もありインバウンド効果で外国人観光客があふれるようになりましたね。 あと1930年代ごろとかすでに電飾でギラギラしてたみたいです。

  • @user-un5nn7kl3h
    @user-un5nn7kl3h4 ай бұрын

    松本零士の作品、ハードメタルでも紹介した成増飛行場ですね。 消滅した飛行場は各地に存在します。

  • @virtualhawaii6987
    @virtualhawaii69874 ай бұрын

    内容は面白いけど、機械のナレーションがどうしても・・・

  • @user-pd6rd5yl6u
    @user-pd6rd5yl6u4 ай бұрын

    大好きな浅草解説ありがとうございました (´;ω;`) 近年はインバウンドで街の空気はさらに変わりましたね、、、 演劇などで賑わった浅草の知らないでしょうね、、 この動画で浅草の本当の姿を知って欲しってくれたらと最後まで見てました さらに深堀り動画も楽しみにしてます

  • @Razgriz-0417-mebius
    @Razgriz-0417-mebius4 ай бұрын

    お疲れ様です。 B-25爆撃機の改造って・・・ 飛ぶための物以外を取り払っただけだよ。 空母から発艦するするための揚力確保のための軽量化と、航続距離を延ばすための軽量化。

  • @ebno2110
    @ebno21104 ай бұрын

    東条は「戦勝国から戦争犯罪人と判定された」人であって 日本国からはどうだったかは別つっーか その辺がGHQに洗脳された人のまとめ動画なのかなと思いました。

  • @user-eq2se8qb4i
    @user-eq2se8qb4i4 ай бұрын

    浅草は底を脱っして今は賑わってるぞw

  • @user-fv6rw8kx6e
    @user-fv6rw8kx6e4 ай бұрын

    初めて立ち寄らせていただきました。良くまとめておいでで、楽しく視聴しました。ケンペルは小笠原をブネシマと紹介しました。彼は18世紀はじめに亡くなりましたが、ボニンアイランズの命名はそれよりも100年遅れます。都立大学『小笠原研究年報 43号』所収の論文が詳しく書いています。「みやこ鳥」ネットで読めます。

  • @user-eq1iq5bv5j
    @user-eq1iq5bv5j5 ай бұрын

    横浜村の元町の家並み、堀川の向こうが外国人居留地。左側、前田橋の手前に、不審人物の出入りを取り締まるための関所が見え、此の辺りは宿場町です。橋から伸びる本村通りの突き当たり右側の建物はカトリック教会の天主堂、建築中の鐘楼が写り、画面中央の三角屋根の建物は英国教会のクライスト・チャーチ。来日までのベアトの足どり、横浜開港資料館では、昭和62年(1987)の春に、企画展示「写真家ベアトと横浜村の幕末の日本」を開催し、それに合わせて『F・ベアト横浜村の幕末日本写真集』を刊行した。その解説編「横浜写真小史」では、ベアトをはじめ、幕末・明治期に横浜村で活躍した写真家について、判明するかぎりの事実を記載。特に外国人カメラマンについては初めて公表された新事実が沢山あった。しかし、それからもう約20年が経過した。その間に発見された新事実も沢山あります。特に外国人研究者が多くの成果を挙げます。例えば、来日までのベアトの足どりについて、前稿では旧説を紹介するにとどまったが、その後、イギリスの研究者、ジョン・クラーク、ジョン・フレーザー、コリン・オスマン3氏の共同研究*によって、旧説は大きく書き改められることになりました。(*John Clark, John Fraser, and Colin Osman, A revised chronology of Felice (Felix) Beato', Japanese Exchange in Art 1850s-1930s, by John Clark, Sydney, 2001.)ベアトの出自については、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)のイギリス総領事館の記録から、父はダヴィデ・ベアト、生年は1834年、場所はかつてヴェネツィアの植民地で当時イギリス領だったコルフ島(ギリシャの西方イオニア海に浮かぶ島)であることが判明。旧説で、生年は1825年、場所はヴェネツィアかコンスタンティノープルと考えられていたのです。旧説とは9年の差があります。ベアトはヴェネツィア系市民の血統に属するようだが、かつて言われていたような「イギリスに帰化したイタリア人」ではなく「イギリス領となった元ヴェネツィア領民」であり、生まれながらのイギリス国籍だった訳です。ファースト・ネームについても、イギリス国籍を取得した際、イタリア名のフェリーチェ(Felice)からイギリス名のフェリックス(Felix)に変えたものと考えられていたが、そうではなくて、後者はいわば通称であり、正式には一貫してフェリーチェだった。 兄アントニオとともに写真家を目指すフェリーチェにとって、姉妹のレオニルダ・マリア・マティルダと結婚し義兄弟となるイギリス人写真家ジェームズ・ロバートソ(JamesRobertson)との出会いは運命的なものであった。1853年、ロシアとイギリス・フランス連合軍との間に勃発したクリミア戦争に際して、戦争の記録のためにイギリスが派遣した報道写真家フェントン(RogerFenton)が病気になった為、ロバートソンがこれに代わり、フェリーチェがその助手を務めることになった。かくして報道写真家としてのベアトのキャリアが始まります。 1857年には、ロバートソンとベアト兄弟はアテネからパレスティナにかけて撮影旅行を行っていた。ロバートソンと別れたベアト兄弟はインドに向かう。アントニオがカルカッタ(現在のコルカタ)にスタジオを構える一方、フェリーチェはインド大反乱(所謂セポイの乱)の取材に出かけ、その惨状を記録するとともに、アグラ、シムラ、ラホールなどの都市を撮影して廻った。 1860年2月、フェリーチェは第二次アヘン戦争に揺れる中国に向かうホープ・グラント将軍の一行に合流し、カルカッタを後にした。中国に到着したベアトは、北京に向かって進軍する英仏連合軍に同行し『絵入りロンドン・ニュース』特派員契約を結んでいたイギリス人画家、チャールズ・ワーグマン(CharlesWirgman)と知り合う 。文久元年(1861)春、一足先にワーグマンが来日、2年後の文久3年春にベアトも来日し、二人は横浜の外国人居留地24番に共同のスタジオを開設した。明治2年(1869)中にはお互いに独立し、ベアトは17番に移って写真館を開設、10年にそれをスティルフリート&アンデルセンに譲渡するまで経営していた。来文久3年秋のパノラマ前回の展示以降、新たに収集したベアトの作品には、3冊のアルバムとバラの状態で購入した写真がある。後者のうち最大の成果がこの写真です。横浜村の元町の代官坂の入り口近く、右手の尾根に登る小さな階段があり、階段に続く坂を登っていくと、元町百段公園がある。関東大震災の前まで、此処には浅間神社があって、元町百段(あるいは百一段)と呼ばれる石段で登れるようになっていた。今でこそ首都高速狩場線の高架道路や高層建築に視界を遮られるが、かつては横浜村の街を一望のもとに収めることのできる絶好のビュー・ポイントだった。ここから街の全景を写真に収めた最初のカメラマンは、イギリス人のソンダース(William Saunders)という人で、1862(文久2)年9月頃のことであった。その写真を原画とする版画が『絵入りロンドン・ニュース』の1863年9月12日号に掲載され次いで、翌1863(文久3)年夏頃に撮影されたパノラマ写真。それは当館が所蔵する故P・C・ブルーム氏のコレクションに含まれるもので、8×10インチのネガ・フィルムが2枚と、それを焼き付けた縦22×横79センチという長大なプリントがあり、「この全景は、生麦村事件当時、鹿児島砲撃前の1863年、日本海上にあった英国海軍艦艇エンカウンター号に搭乗していたアレクサンダー・ダグラス・ダグラス中尉名のあるアルバムに収められていたものである」というメモが添えられています。「横浜村の写真小史」では、これをパーカー(Charles Parker)が9月12日付『ジャパン・ヘラルド』紙に出した広告で謳って「新しい横浜村(A new Panoramic view of Yokohama)」 に比定したが、それは誤りだった。イギリスの写真史研究家、セバスチャン・ドブソン氏の調査によると、ダグラス中尉のアルバム原本は、現在ロンドンのジャパン・ソサエティーに収蔵されており、1863年9月にダグラス中尉がベアトから入手したものです。紛れもないベアトの作品であった。入手した写真は3番目に当たる。写真では建築中だったクライスト・チャーチが竣工していることや、天主堂の鐘楼が竣工間近であり、1863年9月頃の撮影と思われ、写真の接合の具合は以前の写真よりも良くなっている。この時期これだけの写真を撮れるカメラマンはベアトしかいないと思われるが、これがパーカーの「新しい横浜の全景」に当たる可能性もある。そうであるならば、パーカーはベアトに匹敵する技量の持ち主だった。しかしパーカーの技量がもう一つはっきりしないので、今の段階ではベアトに軍配を挙げておきたい

  • @guruguru-inochi
    @guruguru-inochi5 ай бұрын

    10:34 利用者17万分の1とか規模がおかしい

  • @zippythehuman1
    @zippythehuman15 ай бұрын

    功を制した?

  • @windsurf6125
    @windsurf61255 ай бұрын

    元横浜市民です。 小学生?に横浜市教育委員会出版の「横浜の歴史」で吉田新田の埋め立てなどを習いました。 昨今の資料ではこの地は大地震が起こるとものすごく揺れるとされています(震度7クラス)。 もちろん数十年前に埋め立てられたMM21地区も例外ではないです。 あと12万5千年前や6000年位前は今より海面がずっと高かったです。 この時代に海だったところも比較的地震に弱いですね。 特に6000年前の縄文海進はそれほど昔ではないので、 帷子川、大岡川、鶴見川付近はかなりの軟弱地盤です。 ひとたび大地震が起きたら能登半島レベルでは済まないです。 横浜は横浜駅西口に高島屋が出来たころから大きく発展しましたが、 住んでいる皆さん気を付けてくださいね。

  • @user-em7lw6yw2b
    @user-em7lw6yw2b6 ай бұрын

    ラダック王国だったインドのラダック自治区の話だけど、彼らは印パ戦争が始まるまで飛行機を見たことがなかった。インドに併合されたが、年齢を数える習慣もなく、所有の概念も希薄で村の人たちは温厚で優しい。しかし道には「インドの兄弟よ!」とかそういう民族同和プロパガンダモニュメントなんかがインド政府の手で設置されている。平和な国家はやはりなされるがままだということか、複雑な気持ちになった。彼らは自分らをインド人とはおもっていない。動画冒頭の「ヨーロッパから始まるたかだか数百年の概念に過ぎない」という話に、多くの領土概念の無かった部族の話なんかが悲しい運命に遭ったし複雑だ。ヨーロッパよ…

  • @user-ef3dw3kq3q
    @user-ef3dw3kq3q6 ай бұрын

    横浜の歴史と言うと、百戸の漁村と紹介される事が多いけれどそれは横浜の名前の歴史であって、横浜の歴史はそれ以前から栄えていました。神奈川宿は東海道随一の繁華街でしたし、磯子金沢も有名な観光地でした。

  • @peterraccoon2160
    @peterraccoon21606 ай бұрын

    神奈川県の雨降山は、あぶりさん、と読みます

  • @elmalanmalan2175
    @elmalanmalan21757 ай бұрын

    大阪と福岡の歴史を説明するビデオを見たいです

  • @user-eq1iq5bv5j
    @user-eq1iq5bv5j8 ай бұрын

    渋沢栄一の言動が嘘だらけは、上野戦争は渋沢栄一は伝聞のみで親類の誠一郎です、慶喜が将軍職を継い で、渋沢も徳川本家の下働の手伝いをすることになったが、謀反の疑いのある浪志の屋敷に幕府の命令で新撰組を使って召し取りに行った。そのとき、謀反の疑いで召し取れと 言う幕府の令状を伝える役目を渋沢 に与えられた(剣道は出来ない)。此の下書では、新撰組副長の土方歳三 が来て、先に行かせて渋沢は屋敷に立ち入り 切り付けられたところを土方歳三 に助けられて、渋沢に土方が言葉 を交わした。 この内容は、歴史には無かった事です 。新選組として来たのは 隊長の近藤勇が出頭して、土方も 居たのが歴史の事実です。渋沢の脚色で物語がつづられていて、 近藤は今の時代は人気がなくて、 土方歳三は歴史ファンに人気なので、渋沢と土方は 人生論を交わす場面はあり得ません。これは歴史的には嘘と言って も、幕末や明治維新の歴史をひっくり 返す程の嘘ではない。下書として 渋沢の物語としての描写なら、許せ る範囲です。 渋沢の故郷、深谷の豪農に登場する 家族の会話は勿論、渋沢が書いた 嘘八百ですが、これも下書 として見て、歴史をひっくり返す ような嘘ではないのです。当時の深谷の田舎で誕生した渋沢の 家族では、有りそうな会話です。 パリの街に到着して、渋沢一行は 驚き過ぎだと文句を言う人 は、江戸に居るときから、パリの 地図を幕府は手に入れていて、予め知っていたので、然程、 驚かないはずだと言う。 これも下書として、パリに到着 して、驚いた表現でも、不自然ではない。むしろ、なぜ 驚かないかの説明に時間を要すと。 歴史資料では、歴史の流れをひっくり 返す程の嘘もありませんが多少の嘘はあります。渋沢栄一 の生涯を描く内容として、歴史に忠実に描写している内容が少なく、「殆んどが創作、江戸ではなく深谷生まれ」です。核になる事実はあっても、渋沢が登場して面白くするために組み替えしました。渋沢は何でも主人公が絡んでいるかの様に創作します。そうしないと、この戦いを避けたのか、この事件が描かれなかったとか文句を言う自称「歴史好き」がおります訳です。特に「江、姫たちの戦国」はひどかった場面です。どこにでも主人公が現れて顔を突っ込む。 歴史には、人を描くドラマと歴史の出来事を描こうとして無理を重ねます。その点でも嘘八百が更に増えます。 歴史にドラマを求めるのも、書籍に真実を求めるのも、どちらも無い物ねだりの筋違いと。 当時の殿様は、雇いたての下士の渋沢に親しく接したりしません。渋沢と慶喜の最初の頃の逸話は、嘘八百です。「論語と算盤や青天を衝け」は渋沢の人生のドラマですね。 また、大阪府での任期が終わると、くにも東京市に連れて帰り、神保町にあった自宅に妻と妾であるくにを一緒に住まわせた。この大内くにと渋沢栄一との子供が、ふみと照子。渋沢が52歳の時の子供、辰雄は、星野錫の養子となり、星野辰雄になります。そして、妾さんとの最後の子供が渋沢が68歳のときの長谷川重三郎。13番目の子どもだから「じゅう3郎」となづけられたようです。渋沢辰雄氏と長谷川重三郎氏の母親が明らかになっていませんが、以下のような人も妾として挙がってきたので、関係しているのか。深川福住町四番地の自宅には大阪より連れてきた田中久尾(28)日本橋浜町一丁目三番地の別宅には吉原仲ノ町林家小亀こと鈴木カメ(24)明治6年3月に撮られた写真には、妻と妾が一緒に映っていたものもあり、妻と要が同居することも渋沢にとっては普通の事だったのです。渋沢家家訓には、こんな一節があります。「子弟には卑猥なる文書を読ましめ、卑猥なる事物に接せしむべからず。また芸妓芸人の類に近接せしむべからず」これは自由奔放にやってきた渋沢栄一にいわれるとは、という感じですね。東京駅丸の内は外様大名の下屋敷があり、入江は断崖絶壁の場所で、日比谷公園となります。

  • @YouTuber-ii9tq
    @YouTuber-ii9tq8 ай бұрын

    菊座が建ってたらもしかしたらトー横キッズじゃなくて菊横キッズになってたのかもな

  • @tu8875
    @tu88758 ай бұрын

    フェーズ4があるならば、それまで駅の東側が栄えていたことに加えて、70年代に淀橋浄水場の跡地に日本で初めて本格的な超高層ビル街が生まれことや都庁の移転もあって、西側も急速に開発が進んだことも発展に拍車をかけたって感じでしょうか。