上野駅周辺を巡ってきました音源はこちらをお借りしました透き通る風の中で by ゆうきわたる 様dova-s.jp/bgm/play18082.html
上野と言えばいつも井沢八郎の”ああ上野駅”と言う歌を思い出します。”上野はおいらの心の駅だ🎵”いい歌でしたね。
同意見。歌謡曲の特集でよく見ますしいい曲ですよね。後、上野駅の16番線及び17番線の発車メロディーにも採用されて流れてますね。
本当に良い趣ですね❗いつもありがとうございます❗
今はもう居ない赤帽が居た頃よく上野に行きました。集団就職で上野と言えば、三丁目の夕日を想ひ出します。懐かしいなぁ
昭和の名残と現在の新しい狭間で、現在も上野駅を利用しています。新入社員の頃、いまのパン屋さんとスタバの間の階段のところに焼きそばやさんのようなちょーと小腹を満たすお店があって、よく食べてから電車に乗って帰りましたし、地下鉄銀座線から地上に向かう通路の所にも居酒屋さんというか食事処があってよく利用しました。いまの上野駅は商業主義というかただ綺麗なだけで何の味も匂いもしない駅になったなぁという感じです。寂しく感じ、またそれが昔を思い出すきっかけにもなってます。
しばらく行かない間に大分変りましたね。そしてきれいになりましたね。
ああ上野駅のこの場所、昔は公衆電話が沢山並んでいました、フォーク並びして「帰るよ」と毎日コールしました。平成はじめ。
齢77 以前、上野駅構内に「あやとり」をする女の子の銅像があったのだが、いつしか無くなってしまった。とても好きだったので残念。更に昭和が遠のいた感。
お疲れ様です。地元から私鉄線で(京成)で3つ目なので、また母親の実家に 行くために上野にはよく行きました、まだ蒸気機関車が現役でした。(60年以上前)
60年前の話し。蒸気機関車に乗るのが憂うつでした。東京→熊本の「急行阿蘇」。夏季はトンネルに入る前に車内で窓を閉めて下さいのアナウンス。閉め忘れると煙が充満。窓を閉めても身体中煤だらけ鼻のも真っ黒、顔を洗うとほっとしたのを覚えている。ディーゼル車に切り替わるとホッとしたものです。蒸気機関車は観るもので、乗るモノではない。
中央改札の上には発車時刻を書いた列車ごとの案内札がたくさん掛っていましたね 正面玄関を入ったところには古めかしい両替所があって、 お札をくずすだけで手数料を取るシステムが理解できませんでした 40年位前の話です
今は東北方面からの電車も東京以西まで直通運転するようになってすっかり変わってしまいましたが、かつては上野駅と言うと東北の玄関口という雰囲気が凄かったです。昭和60年頃、年末御用納めの日の夜行列車乗車待ち大行列は忘れられません。正月に家へ戻る出稼ぎ者達の行列でした。
東北、上信越方面への在来線優等列車がほぼなくなり、新幹線が 東京発着となり、上野駅はかつてほどの賑わいがなくなりましたね。 年末に見られたテント村も懐かしいです。
昭和47年大学進学で秋田から急行津軽2号で上京しましたが(後で知りました)同じ3月前後して同じ津軽2号で亡くなってしまった二代目後の若の花,隆の里が上京しました。浅草口には傷夷軍人が居ました。銀座線に向かう通路など当時も戦争の傷跡が感じられた上野駅でした。昭和は遠く成りにけり
はじめまして、そうですね、似顔絵描きの階段下、バス停の所に傷痍軍人の方々がアコーディオンを弾いて居られました、(当方、小学生)京成から銀座線への地下道、あの頃を知っておられる方がおられるとは〜因みに昭和三十年代
都内でも原宿や澁谷など多くの駅が立て替えられ近代的駅ビルに変化する中、いつまでもほぼ原形を留め昔と変わらないと言う駅がこの上野駅で数々のドラマを生んで来た。 だから、この駅に愛着のある人は多い。 歌に有るように「心の駅」と言う思いが強く、これから先、何時までも変わらない思い出の駅として残して欲しい。
漫画家の赤塚不二夫も集団就職で東京に来たんですよね。
55年程前、常磐線 佐貫駅(現 竜ヶ崎市駅)に仕事で二年間、何度も往復しました。 一番端っこのホームは侘びしい場末感、レールを曲げた行き止まり 始発点を見て 誰も乗っていない客車に、、。上野駅は東京の修羅場を抜け出す、いい雰囲気でした。
1970年代は毎日通勤で通いました。 まだあの頃は背中に大きな荷物を背負ったおばさんたちが電車に乗ってきていました。 今もたまに友達との待ち合わせ場所に使うことがあります。 広小路口や中央改札付近はずいぶん変わりました。 東北訛りの駅員さんの放送が懐かしいです。
かつて上野駅が夜行列車の始発駅だった頃,正月田舎で過ごす為に帰って行く出稼ぎの人が捨てた履き古した靴で上野駅のゴミ箱は一杯になったそうです。分かるような気がするな。多少なりとも身なりは「錦を飾りたい」気持ちが
北海道周遊券で北海道に急行十和田で行きましたね。
上野駅で売ってる東京銘菓ひよこ、おみやげに持っていったら福岡の銘菓だと言われました。
集団就職ではありませんけど、私も上京してから33年間、東京で働いていました。当時まだ上越新幹線が開通前で、北陸からは特急で6時間急行で8時間かけて上野に着きました。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo et très bon dimanche ! ✨✨👍
いつも有難う御座います。35年程前、大きなパンダの前で神田外語学院の仲間7~8人と写真を撮りました。 あれから皆さん、それぞれの道を進んだんですね。上野は人生をスタートする駅なんだなぁ。
「上野」駅は、ずっと北の玄関口であって欲しかった。 新幹線を含め北への長距離電車のスタートは、やっぱ上野じゃなきゃダメなんだよ☺☺☺
そうですね。キザな言い方をすると上野駅は故郷から希望を抱いた人の玄関口,そして都会の夢破れて故郷に帰る人の改札口。演歌の歌詞には上野駅の夜行列車が似合います
記憶によると 現広小路口入りすぐ左側のドアに赤帽があったような気がします。赤帽看板と赤い丸い電灯がありました。 そのとなりには菓子店となってますが、当時は壁となっていて小さな窓口があり、 両替店の沓掛がありました。 記憶が曖昧ですので、ご存じの方は ご指摘おねがいします。
小学生の時に鉄分の多い友達に連れられて上野駅に行きました。時刻表を持って電車見てムファーとしている友達を見ながらL特急列車に備え付けられていた紙コップで冷水を飲んでいました。 まあまあの量の紙コップを持って帰っていたのですが今は一枚も見当たりません。出て来たら価値が有るのかな?
公園口前の横断歩道も何時の間にか無く成ってる^^;
上野駅も死語になりそうやないか!残りそうなのは、上野恩賜公園の西郷さんと愛犬の像やろな!
ゴジラが来る5年前か…
東海道線を常磐線や高崎線とつなげないでほしかったんだよね 北関東以北のターミナルは上野にすべき
買い出しによく行ったもんだべさ。関西人やけど、御徒町に。すまん
小話21年といえば前後すぐじゃん
昭和と戦後に訂正
自分は西日本出身だからそれほど思い入れもない駅…。 駅舎の内部をAIでカラー化して、それが照明がなく、(朝の?)太陽の光を取り入れていたことがやっと分かってなにか心の奥に突っかかっていたものが取れたような思い。 ただ、その当時の改札を抜けた先の景色は、いまだ未知の世界…。
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上野と言えばいつも井沢八郎の”ああ上野駅”と言う歌を思い出します。”上野はおいらの心の駅だ🎵”いい歌でしたね。
@user-bq8uy4ws9w
8 ай бұрын
同意見。歌謡曲の特集でよく見ますしいい曲ですよね。後、上野駅の16番線及び17番線の発車メロディーにも採用されて流れてますね。
本当に良い趣ですね❗いつもありがとうございます❗
今はもう居ない赤帽が居た頃よく上野に行きました。集団就職で上野と言えば、三丁目の夕日を想ひ出します。懐かしいなぁ
昭和の名残と現在の新しい狭間で、現在も上野駅を利用しています。新入社員の頃、いまのパン屋さんとスタバの間の階段のところに焼きそばやさんのようなちょーと小腹を満たすお店があって、よく食べてから電車に乗って帰りましたし、地下鉄銀座線から地上に向かう通路の所にも居酒屋さんというか食事処があってよく利用しました。いまの上野駅は商業主義というかただ綺麗なだけで何の味も匂いもしない駅になったなぁという感じです。寂しく感じ、またそれが昔を思い出すきっかけにもなってます。
しばらく行かない間に大分変りましたね。そしてきれいになりましたね。
ああ上野駅のこの場所、昔は公衆電話が沢山並んでいました、フォーク並びして「帰るよ」と毎日コールしました。平成はじめ。
齢77 以前、上野駅構内に「あやとり」をする女の子の銅像があったのだが、いつしか無くなってしまった。とても好きだったので残念。更に昭和が遠のいた感。
お疲れ様です。地元から私鉄線で(京成)で3つ目なので、また母親の実家に 行くために上野にはよく行きました、まだ蒸気機関車が現役でした。(60年以上前)
@user-bh6ks5dy9j
8 ай бұрын
60年前の話し。蒸気機関車に乗るのが憂うつでした。東京→熊本の「急行阿蘇」。夏季はトンネルに入る前に車内で窓を閉めて下さいのアナウンス。閉め忘れると煙が充満。窓を閉めても身体中煤だらけ鼻のも真っ黒、顔を洗うとほっとしたのを覚えている。ディーゼル車に切り替わるとホッとしたものです。蒸気機関車は観るもので、乗るモノではない。
中央改札の上には発車時刻を書いた列車ごとの案内札がたくさん掛っていましたね 正面玄関を入ったところには古めかしい両替所があって、 お札をくずすだけで手数料を取るシステムが理解できませんでした 40年位前の話です
今は東北方面からの電車も東京以西まで直通運転するようになってすっかり変わってしまいましたが、かつては上野駅と言うと東北の玄関口という雰囲気が凄かったです。昭和60年頃、年末御用納めの日の夜行列車乗車待ち大行列は忘れられません。正月に家へ戻る出稼ぎ者達の行列でした。
東北、上信越方面への在来線優等列車がほぼなくなり、新幹線が 東京発着となり、上野駅はかつてほどの賑わいがなくなりましたね。 年末に見られたテント村も懐かしいです。
昭和47年大学進学で秋田から急行津軽2号で上京しましたが(後で知りました)同じ3月前後して同じ津軽2号で亡くなってしまった二代目後の若の花,隆の里が上京しました。浅草口には傷夷軍人が居ました。銀座線に向かう通路など当時も戦争の傷跡が感じられた上野駅でした。昭和は遠く成りにけり
@jiroasano8407
8 ай бұрын
はじめまして、そうですね、似顔絵描きの階段下、バス停の所に傷痍軍人の方々がアコーディオンを弾いて居られました、(当方、小学生)京成から銀座線への地下道、あの頃を知っておられる方がおられるとは〜因みに昭和三十年代
都内でも原宿や澁谷など多くの駅が立て替えられ近代的駅ビルに変化する中、いつまでもほぼ原形を留め昔と変わらないと言う駅がこの上野駅で数々のドラマを生んで来た。 だから、この駅に愛着のある人は多い。 歌に有るように「心の駅」と言う思いが強く、これから先、何時までも変わらない思い出の駅として残して欲しい。
漫画家の赤塚不二夫も集団就職で東京に来たんですよね。
55年程前、常磐線 佐貫駅(現 竜ヶ崎市駅)に仕事で二年間、何度も往復しました。 一番端っこのホームは侘びしい場末感、レールを曲げた行き止まり 始発点を見て 誰も乗っていない客車に、、。上野駅は東京の修羅場を抜け出す、いい雰囲気でした。
1970年代は毎日通勤で通いました。 まだあの頃は背中に大きな荷物を背負ったおばさんたちが電車に乗ってきていました。 今もたまに友達との待ち合わせ場所に使うことがあります。 広小路口や中央改札付近はずいぶん変わりました。 東北訛りの駅員さんの放送が懐かしいです。
かつて上野駅が夜行列車の始発駅だった頃,正月田舎で過ごす為に帰って行く出稼ぎの人が捨てた履き古した靴で上野駅のゴミ箱は一杯になったそうです。分かるような気がするな。多少なりとも身なりは「錦を飾りたい」気持ちが
北海道周遊券で北海道に急行十和田で行きましたね。
上野駅で売ってる東京銘菓ひよこ、おみやげに持っていったら福岡の銘菓だと言われました。
集団就職ではありませんけど、私も上京してから33年間、東京で働いていました。当時まだ上越新幹線が開通前で、北陸からは特急で6時間急行で8時間かけて上野に着きました。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo et très bon dimanche ! ✨✨👍
いつも有難う御座います。35年程前、大きなパンダの前で神田外語学院の仲間7~8人と写真を撮りました。 あれから皆さん、それぞれの道を進んだんですね。上野は人生をスタートする駅なんだなぁ。
「上野」駅は、ずっと北の玄関口であって欲しかった。 新幹線を含め北への長距離電車のスタートは、やっぱ上野じゃなきゃダメなんだよ☺☺☺
@akita1934
8 ай бұрын
そうですね。キザな言い方をすると上野駅は故郷から希望を抱いた人の玄関口,そして都会の夢破れて故郷に帰る人の改札口。演歌の歌詞には上野駅の夜行列車が似合います
記憶によると 現広小路口入りすぐ左側のドアに赤帽があったような気がします。赤帽看板と赤い丸い電灯がありました。 そのとなりには菓子店となってますが、当時は壁となっていて小さな窓口があり、 両替店の沓掛がありました。 記憶が曖昧ですので、ご存じの方は ご指摘おねがいします。
小学生の時に鉄分の多い友達に連れられて上野駅に行きました。時刻表を持って電車見てムファーとしている友達を見ながらL特急列車に備え付けられていた紙コップで冷水を飲んでいました。 まあまあの量の紙コップを持って帰っていたのですが今は一枚も見当たりません。出て来たら価値が有るのかな?
公園口前の横断歩道も何時の間にか無く成ってる^^;
上野駅も死語になりそうやないか!残りそうなのは、上野恩賜公園の西郷さんと愛犬の像やろな!
ゴジラが来る5年前か…
東海道線を常磐線や高崎線とつなげないでほしかったんだよね 北関東以北のターミナルは上野にすべき
買い出しによく行ったもんだべさ。関西人やけど、御徒町に。すまん
小話21年といえば前後すぐじゃん
@mimayu8772
8 ай бұрын
昭和と戦後に訂正
自分は西日本出身だからそれほど思い入れもない駅…。 駅舎の内部をAIでカラー化して、それが照明がなく、(朝の?)太陽の光を取り入れていたことがやっと分かってなにか心の奥に突っかかっていたものが取れたような思い。 ただ、その当時の改札を抜けた先の景色は、いまだ未知の世界…。