【ゆっくり解説】白虎隊唯一の生き残り 飯沼貞吉のその後
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
このチャンネルを通して学び、役立てられる人が1人でも多くなるようにチャンネル運営を頑張っていきます。応援してもらえると嬉しいです。
ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
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飯沼貞吉は長州藩士に引き取られて、長州藩で生活しています。ある日タヒのうとしている貞吉をその藩士が「お前はタヒにきれなかったんじゃない!生かされたんだ!ならば故郷の為、祖国の為に力を尽くせ」的な事を諭したと伝わっています。
@user-px9xz6bv5k
7 ай бұрын
少し前になりますが、飯沼貞吉さんのお孫さんである飯沼一元さんが「白虎隊士飯沼貞吉の回生」という本をお書きになっておりますので、是非ご一読を。飯沼貞吉は長州で養育され、当時の最新技術であった電信技術を学ばれ、山口県を皮切りに電子技師として活躍され、正五位勲四等を受章まで受けておられいます。 ただ、残念なのは「生き返るような切腹の仕方は会津武士らしくない」との非難を受けたという事情もあり、会津に帰れず、白虎隊の墓近くに遺髪などの一部が埋葬されたのは死後、四半世紀経った昭和32年だったというのが悲しすぎます。
伝え聞きですけど、友達の友達のお家が飯沼を助けた農民の子孫でいわく「倒れていた白虎隊の中で飯沼の若様が生きてる!と運んで助けた」とのことでした
@user-px9xz6bv5k
6 ай бұрын
動画でも描かれていますが、蘇生した貞吉を発見して喜多方まで避難させたのは会津藩足軽印出新蔵の妻であるハツということになっているが、実は飯沼は飯盛山ではないところ(八ヶ森)というで発見されていた。自刃隊士たちの持ち物を狙った盗人によって八ヶ森という別の場所に置き去りにされていたのではないかとも言われているのですが、このあたり、上士が農民に助けられたというのは恥だった時代です。 慶山村の渡部佐平という者が発見し、その長男の嫁である「おむめ」と佐平のところに避難しに来ていた印出ハツとが2人で救助したという記録も残っています。ことに「おむめ」は袋山の岩屋で三日三晩ほとんど寝ずに介抱したらしい。その後、隠れ家が城下から近いこともあって、佐平に託されたハツによって塩川を経て三本住庵という町医者を呼んで来て貞吉の傷口を縫ってもらい、薬をつけてやった。しかし戦禍はここにもおよんでいて隠れ通すことは困難となり、橋爪勇記という者の案内で二人は喜多方の北方入田付村に落ち、その山中の不動堂に隠れ住んだ。ここに隠れたのははつとはつの叔父と貞吉の三人であった。こうして蘇生した貞吉はその後藩に戻り、他の藩士と共に謹慎に服した。印出はつの、その後の消息は不明である。 このように、一人だけ蘇生し、農民に助けられ、会津の降伏まで逃げ回ったことを恥じ、また、周囲が冷ややかで、貞吉は長州に行ったのだと思います。さらに、その長州に匿われたことが重なると、益々、会津に帰ることができなかったんではないかと推測します。 ただ、長州に助けられたのは、飯沼貞吉だけではなく、奥平に支援してもらった山川健次郎、小河亮、薩長が応援した山本覚馬(八重の兄)、井上馨ほかに助けられた池上四郎、日下義雄は長州藩士だと言ったことがあるらしいですが、そ、、こんな話はもっとありますが、、特に、元会津藩主・松平容保の三男で、軍事参議官副官(乃木希典陸軍大将附)となり、山田梅子(日本大学の学祖でもある藩士藩士の山田顕義の長女)を妻とし、長州の山田伯爵家を継いだ山田英夫と言うご仁までおられる。
親の出身地なので白虎隊の凄惨な戦いについて様々な資料を目にしましたが、時代小説や劇画作品などでも通説定説に沿ったものばかり。こうした新たに判明していながら知られていない顛末をきちんと紹介してくれた内容はとても貴重です。
@user-px9xz6bv5k
6 ай бұрын
この動画では、飯沼によって白虎隊の悲劇が伝わったと説明がありますが、少し補足させて頂きます。 元々会津の観光史学では、会津の上士の子供たちはみな優秀なのに「お城が燃えていると勘違いした」ということで、テキトーな話をつくり、飯盛山には鶴ヶ城の方を見ている白虎隊の像を建てられました。因みに白虎隊の像が見ている先に白い十字の棒が立っていて、鶴ヶ城の位置を示されています。しかし、この勘違い説だけど、若いとは言え、教育水準が極めて高かった白虎隊士なら、風向きにもよるが、本当に城が燃えて見えたのかな?斥候を出して確認しなかったのかなとか不思議に思うでしょう。飯沼貞吉の証言は、その疑問に答えるものだったのです。 ついでに、白虎隊の悲劇は戦前からも知られていました。発端は会津からではないものの、白虎隊の話がイタリアに伝わり、その忠義に感動したムッソリーの命により,1928年(昭和3年)ローマ市民の名のもとにいわゆる「イ夕リア記念碑」が会津若松市に贈られる。その後イタリアでは1932年イタリアで青少隼講練のため会津白虎隊を範とした「白虎隊」が組織されます。 さらに、ヒトラー政権下の1935年にはドイツ人外交官ハッソウ・フォン・エッツドノシフが「ドイツ記念碑」を会津若松に贈る。1938年には前年の会津中学生による親善使節への返礼の意殊もこめてヒトラー・ユーゲントが若松市を訪れています。 現在ではファシズムの権化からの贈り物に、都合が悪かったと思ったのか、会津若松市のホームページでは「昭和3年ローマから記念碑が送られ、昭和10年には駐日ドイツ大使館付武官によって石碑が建てられた」とHPに記載しているが、この記念碑は悪名高きムッソリーニやナチス政権から送られたという不都合な事実を隠蔽しているように思えるが、現時点の会津若松市の職員も観光史学の悪影響を受けている犠牲者かもしれません。 さらに飯沼の証言で疑惑が高まった人物がいます。白虎隊中二番隊中隊長、日向内記です。そもそも、戸ノ口原の決戦前夜に、指揮官自ら戦場離脱、事実上、白虎隊を置き去りに、白虎隊の悲劇の根本原因をつくった男です。その後、鶴ヶ城へ入り、籠城戦へ参加、白虎士中一番・二番隊士を一つにまとめ、白虎士中合同隊として西出丸の守備につき、 明治18年まで生きています。 会津観光史学では隊長の戦線離脱の理由を隊士の為に近くの友軍との打ち合わせと食糧調達が理由の一つで、お城に辿り着くのも大変だったみたいなことが言っていますが、食料を探すのなら、兵糧米が必要なお城ではなく、隊士に付近で探せと命令すれば良いし、友軍の打ち合わせ程度なら、すぐに隊士たちのもとに帰れば良いのであり、怪しいロジックです。飯沼貞吉の残した資料には、食料はあったと書かれているのです。
@user-px9xz6bv5k
6 ай бұрын
戦前に白虎隊が知られていたことは、与謝野晶子が歌を残しているところからもわかります。 「白虎隊 屠腹の山の悲しみは ロオマの塔も なぐさめぬかな 」 日露戦争の旅順攻囲戦に召集され戦地に向かった弟に対してストレートに無事を祈った「君死にたまふことなかれ」と歌った与謝野晶子は反戦だったと歴史の教科書では”切り取り報道”していますが、ここでは、ムッソリーニの塔が白虎隊を慰めるだろうよと書いているのです。 白虎隊の悲劇は神風特攻隊などとともに単なる悲劇で終わらせてはいけないと思います。
仙台の生まれでしかも会津が祖母の出身地と聞いてた為尚更興味を持って白虎隊から貞吉に辿り着いた。親父に小さい頃に良く聞いたことあるが、まさか仙台に墓があったの知らなかったな。
中学、高校位の少年たちが、本当に命をかけていた時代。美化されているけども、本当に恐ろしい時代です。‥と、今を生きる私たちは、この白虎隊として散った少年兵士達に「頭から足まで腑抜けた大人」と、あきれられるでしょうね。輪廻転生というものがあるなら、私もこの時代に生きていたかもしれません。人の命程重いものは無い、と言う価値観の世界で生きられる幸せ‥。彼らも生まれ変わり、現世を生きていてくれると良いなと思う。
むかし山下智久くん、田中聖くん、藤ヶ谷太輔くんが出演したスペシャルドラマで白虎隊を知りました。 現代のシーンがあり山下くんのお婆様を演じていた野際さんのセリフの中に「ならぬものはならぬのです」と強く言われる所があるのですが、いまだに私の中では印象深く忘れる事が出来ません。
会津藩士と領民が乖離してたことがよくわかります。
ならぬものはならぬもの。 とても大事にさせてもらっています。
昔の日本って死地から戻った人に対して厳しい意見が多いですよね。 かのタイタニック号の沈没事故から生還を果たした方も「なんで帰ってきた」とか、「日本男子ならば潔く死ね」などと言われたそうです。 そう言えばこのチャンネルで日本人目線から見たタイタニック号の事故についての動画ってまだ無いですよね。リクエスト希望します!
@user-ce2hc7tl7f
Жыл бұрын
特攻兵士も失敗して帰還したら博多の女子校に監禁されてたって話が新聞に載ってましたね!
飯沼貞吉がいなければ白虎隊の隊士のナマエハ歴史の表舞台に出てこなかったかもしれない…
酒井峰治の話をしている時の写真は山川健次郎だと思うんだが。
えぇー昔時代劇で見た飯沼の坊っちゃん助けてた農民のオリジナルって・・・ がっかりした盗人だったなんてなぁ。 史実どうり作ってたら凄味が増した分更に救いのない扱いになってたかな。
白虎隊、さらに二本松少年隊については大河ドラマ「八重の桜」の視聴をお勧めします
酒井峰治氏の写真、間違っていますよ。会津で言う所の「先生」、山川健次郎先生の写真ですね。
コロネル柴こと柴五郎の兄も白虎隊の生き残りらしいですね 飯盛山で自決したグループとは別行動だったそうですが
こういう激戦を生き延びた方って自分が殉死出来なかった事を強く後悔なさるけど、せっかく拾った命なのだから生を恥じることなく弔い&仲間の雄姿を後世に語り継ぐために余生を全うして欲しい
@sunami808
Жыл бұрын
敗戦時の大人世代以上はそうは考えないのです。特攻崩れの叔父もそうでしたし、なまじ士族だったら「命惜しむな名こそ惜しめ」が当然だと思ってます。自分も叔父の影響で自衛官なり定年までいましたが、その考えは理解できます
東北の諸藩で山形の庄内藩は 強すぎて一度も新政府軍に 負ける事なく降伏した。
@user-px9xz6bv5k
6 ай бұрын
会津は財政改革に失敗し、カネはなく、領民に苛斂誅求したから領民は藩に非協力的、さらに、何から何まで家柄・門地優先の会津藩は組織が硬直していた。下級武士の西郷隆盛の薩摩や医者上がりの大村益次郎に軍事を任せた長州と違って、実践経験のない筆頭家老の西郷頼母を最高指揮官にし、白河の指揮をとらせたが、案の定、少数の敵に対し壊滅的な敗北を喫した。 翻って、庄内藩では全軍の半数近くにおよぶ約2,000人の農民・町民(農兵2,031名、鶴岡商兵184名)が兵に志願し、戦闘で300人以上の死傷者を出しながらも最後まで勇戦した。これは庄内藩が財政改革を豪商の本間光丘に任せたことが大きく、また、戦闘を若き酒井玄蕃に指揮を委ねたことも凄いが鬼玄蕃の手腕も戊辰戦争随一。
昭和一桁産まれの父が、20代の頃に医師として喜多方市で働きました。 その時に、日向なおきを匿った蔵が残ってて、日向はイケメンだから匿った家の女性とデキてしまった。 と聞いて実際蔵を見せてもらってます。 私も10年くらい前に、その蔵ではないか?と言う蔵を外から見ました。 これは地元でしか聞けない話だと思います。 日向なおきは白虎隊を見捨てたから匿っていた、と父は聞いています。
年末時代劇「白虎隊」は涙なしには視聴できなかった・・・・
@user-eh6vs6tl6x
29 күн бұрын
あれから二度と観ていません 💧
幼稚園の頃白虎隊に関する劇やったら孫を見にきてた年配の方達が皆泣いてたの思い出した
@user-px9xz6bv5k
4 ай бұрын
会津藩の実態は、涙するしかないが、令和のニッポンにとって学ぶことが多い。 会津藩は寛大な処置をすると言うのを自ら蹴り、謝罪も恭順もせず、上野や北関東に兵を送った。二本松藩他に武力介入・威嚇をし、二本松少年隊の悲劇の原因をつくったり、長岡藩と新政府の会談に対しても佐川官兵衛が邪魔をした。さらに、世良修蔵の偽手紙をつくって仙台藩を引っ張り出すなど、東北諸藩を戦争に引きずり込んだ。養子で張り過ぎたところもあろうが、松平容保は孝明帝に幕府の立場を理解させる立場にありながら、逆に取り込まれ、鳥羽伏見以降、恭順する徳川慶喜の意向と会津藩藩祖、保科正之の遺訓を無視した頑迷な殿様だったことが悲劇の根源。 京都守護職や鳥羽伏見を戦い、カネがないので、新潟や二本松で数々の略奪・暴行(規模は戊辰戦争では圧倒的)を繰り返し、江戸時代では例をみない贋金をつくり、挙句の果て、ビスマルクに北海道を売ろうとした(未遂)。勿論、領民に重税をかけたので、会津戦争では大規模なヤーヤー一揆が起こり、領民は新政府軍の手引きまでした。戦後、政府は猪苗代の領地を安堵しようとしたのに、苛政がたたって、下北半島の斗南に移住するしかなかった。 実際の戦争では、家格がモノ(容保のせいばかりではないが)を言い、緒戦の白河(先に攻めたのは会津)では実践経験のない西郷頼母を総大将にして惨敗、さらに斥候を怠り、母成峠を1日で抜かれ、そして肝心の城下防衛の大事な戦いを指揮官の佐川官兵衛が深酒で遅刻する醜態をさらすなど、全く良いところはなかった。そもそも、ならぬものはならぬという、上には逆らえない伝統もあり、薩長のような下級武士の活躍はなかったのである。しかも、戦国時代や太平洋戦争でも聞いたことのないが、女子による薙刀の部隊を銃弾飛び交う戦場に送り出した。動画にあるように、白虎隊の隊長が若者を見捨て、城にこもって生き長らえた日向内記の馬鹿さ加減とその後、会津に戻れなかった彼の辛さに同情する。 動画にあるように飯盛山で蘇生した飯沼は不忠のそしりを受け、長州藩に匿われた。山川健次郎や小川亮と言った若者も長州が支援したが、特に前原一誠と彼に近い長州藩士は敗軍の会津を配慮を行っているし、会津を攻めた薩土の板垣退助や桐野利秋も極めて会津の名誉を汚さぬように気を使い、多くの会津の若者を明治政府は厚遇したの。明治になって日本初の司法大臣を就任した長州出身の山田顕義は松平容保の三男を養子にし、伯爵家を相続させている。恩義のある薩長土が会津で凄惨な残虐行為を行ったというのは、ほぼほぼ虚偽。会津の蛮行に比べ無視できるレベルでしかない。藩士の埋葬禁止も大ウソだったことが判明している。 会津の捏造の歴史は詳しく触れないが、最後に、「八重の桜」の主人公である新島八重とその兄山本覚馬、夫の新島襄について。鳥羽伏見以降、目を患って動けない山本覚馬を庇護したのは薩摩藩だった。さらに、米国に密航した新島襄と米国で出会った長州の木戸孝允(岩倉使節団に参加)は新島襄に資金を手配し、さらに、長州の槇村正直京都府知事を紹介した。山本覚馬が京都で活躍できたのも、新島襄が同志社を設立できたのも、ついでに八重が新島と結婚(紹介)したのもこの槇村のおかげなのに、そこは、天下のNHK、「報道しない自由」を行使した。
@user-ko2ib1hg7s
Ай бұрын
つい数十年前野、ご先祖様方の、粋様ですから其の方々の、命ヲ、受け継いて居る幼兒、先祖の最後の、生き様を、演じて居るのですから、泣けると思います❤
白虎隊の隊員の多くは生き残っているので、「白虎隊唯一の生き残り」は違うんじゃないですか? 集団自決の生き残りではありますが。
@user-ol6xp6kt2j
Жыл бұрын
知人に先祖が白虎隊の生き残りって人がいます。Wikipediaにも記事に載ってる人。
歴史を語る時には、勝者に都合の良いように書き換えられてしまっていて、幕末の動乱を「日本の夜明け」と言われてきたのですが、実際は未成年者や女性までもが実戦に参加し犠牲となったおぞましい内戦だった事を忘れてはいけないと思いました。
@rocoa6732
Жыл бұрын
余談ですが、飯盛山は現在は遠足などのコースになっているのですが、私の知り合いの友人のクラスの人達が、そこで記念写真を撮った時に、和服姿の見知らぬ人がクラスメイトに混ざっで一緒に写り込んでしまっていたのだそうです。怖いお話しではあるのですが、亡くなってしまってからも集合がかかるとサッと整列に混ざろうとしているのが、なんだか悲しい気持ちになりました。
@user-ib2vl4rq4m
11 ай бұрын
勝者にとって都合の良い歴史と言われてはいますけど、会津藩側の資料に、新政府軍からの今からでも謝罪すれば寛大処置を用意するといった通達に対して拒否した返事をしたという証拠があります。しかも20日程も返事を無視した上での返事。 つまりここで何がはっきりするかというと、会津藩は新政府軍に対して謝罪も恭順もしなかったという事実です。 なんでもかんでも勝者の歴史だから・・・というのは違うと思います。 会津側の言い分では埋葬も半年禁じられていたと言われていましたけど、2016年に福島県の歴史家が埋葬された証拠を 会津若松市内で資料整理で見つけています。その資料によると新政府軍の命により10日後に埋葬されたようです。 しかも具体的にどこに埋葬したかなど詳しく書かれていたそうです。
@user-px9xz6bv5k
7 ай бұрын
會津の場合は「会津観光史観」という世紀の捏造を行っており、勝者の都合の歴史というより、敗者の側で歴史を書き換え、日本人の判官びいきや心優しき同情に付け込んだ貧困ビジネスにしたことである。 ついでに、この動画では飯沼貞吉が白虎隊唯一の生き残りだったことが禍いしたのか、故郷では蔑まれたことで、長州に匿われ、山口県で電信技士の仕事をスタートしたことを貞吉のお孫さんが著作で書いておられる内容を含んでいる 不忠だとされた飯沼は、会津に帰ることができなかった。そして、最終、仙台で死去、歯かも仙台にある。この動画で紹介されている通り、彼の飯盛山の墓は彼の死後40年も経過した後、遺髪と歯のみが、他の白虎隊の墓とは離れたところに、しかも会津ではなく、彼の務めた仙台の職場の後輩(財団法人前島会仙台支部)の方々によって建立されたその経緯も悲しい。
@user-px9xz6bv5k
4 ай бұрын
会津の場合は隣国の慰安婦問題と似た、怨恨ビジネス(会津観光)が歴史を改ざんした例でしょう。 戦前でも、白虎隊を会津観光の資源にしようと言う動きはあり、ムッソリーニとナチスドイツが飛びつき、記念碑が遅れたり、ヒトラーユーゲントとの交流が生まれましたが、大規模な歴史の改ざんまで行ったのは戦後のことです。「会津観光史学」という日本最大級の歴史捏造。特に会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八氏や白虎隊記念館長 早川喜代治氏、さらに、早乙女貢・星亮一などの小説家による著作、エッセイやそれを読んだ高齢者の薩長土が凄惨な非道を行ったという証言というのは根拠はないようです。寧ろ、事実は会津藩が新潟や福島中通りで行った夥しい略奪暴行や北海道を売ろうとした事実が際立つくらいです。 もっとも根拠のない怨念ビジネスも、宮崎は自身で「私の立場は観光史学であること」と自らのその立場を明らかにし、堂々と「真実の歴史でないこと」を明言したものですから、或る意味立派。歴史捏造以外にも例えば「会津の三泣き」も宮崎がつくった言葉のようで、実にきめ細かい。或る意味、産業振興の観点からは、良い仕事をされたのでしょう。
この感覚は、後世の特攻崩れに似ていると思います。伏龍隊だった父の余生に似ています。 「死に損なった」の言葉は凄く重いです。
重箱の隅なのだけど 06:24 のところ、福島城の写真が鶴ヶ城(会津若松城)になってる。。福島城は市役所になっていて現在は土塁くらいしか遺構がない…
武士気合い入りすぎでしょ 10代の少年達が誇りのために自害できるって 環境で人間ってこんなにも変われるものなのかね
この時代の読み方では、この和歌の「武士」は、特に詩歌では、 「ぶし」とは読まず、多くの場合「もののふ」という読み方をする。 だから、こ飯沼貞吉の母の和歌も、 「もののふ」と読んだ方がいいのではないかな。 ちなみに、私も会津の出身で、父方の先祖は、会津藩の武士だった。 とは言うものの、会津藩の本城である「鶴ヶ城 詰め」の侍ではなく、 山深い田舎とはいうものの、会津から群馬県の方に抜ける、裏街道筋(?)にある、 「支城」のひとつを守る侍だったそうだ。 父の実家に行くと、その頃からの遺品が、大事に保存されていて、 父の母、私から言えば、祖母が、子供の私たちに、口伝で伝えられた、 色々な話を聞かせてくれたのだが、その、ほとんどを忘れてしまった。 何せ、小学生から中学生の頃だったので、歴史的な資料として、価値があるかも知れない、 なんてことには、全く考えが及ばなかったのが、今から思えば、とても残念なことをしてしまった。 大学生くらいになって、聞いた話を全部まとめて、文章に残しておけば良かったと、 とても後悔したこと、今思い出した。 もう、その少し前の頃に、祖母は他界してしまって、話を聞き直すことは出来なかった。 実家の子供たちは、祖母の話にはほとんど興味がなかったそうで、 祖母の言うことは適当に聞き流していたらしく、記憶しているのはごく断片的で、 話のつじつまの合わないようなものばかりで、私が記憶していた話よりも、頼りなかった。 戊辰戦争の時も、こちらの支城では、官軍が攻めてこず、何の戦闘も起こらなかったようだ。 もっとも、こちらの支城詰めの侍たちも、会津若松の本城の方に招集されていたようなので、 官軍が来たところで、戦闘にはならなかっただろう。
今年3月に家族で旅行へ行きました。 改めて白虎隊の歴史を触れてきました。
山中で他の藩へ伝令の為に向かっていた古参の侍と遭遇 「お前らくれぐれも軽挙妄動は慎め」と注意された 浮足立っているのが一目でわかったからだと思われるが 的確なアドバイスだったのにダメだったな
白虎隊、飯沼貞吉をやるなら娘子隊や二本松少年隊を取り上げてほしいな。
一部の私利私欲のために、このような悲劇が… と個人的には思っています。
梓弓向かう矢先は繁くともひきなかえしそもののふのみち と詠みます
ちなみに、白虎隊隊長の日向内記は、2度と会津に戻らず別な場所で…一生を終わらせたそうです。
@user-ej1li4kq4g
7 ай бұрын
喜多方です。
白虎隊の少年生きのりノ方方が私か中学の゙ころに仙台の半子マチ、テご存命でした😂
保科松平は正之が名君の仁の人ですが以後、プライド高すぎて武士階級が威張り散らして東北の飢饉はいつもあるのに年貢を容赦なく取り立てて農民の反感を買って、戊辰戦争では武士の戦いになった。負けて米も収穫できない斗南藩に移され、それだけみると気の毒な話だが、米沢の人がズーと 鷹山や初代の沖縄県知事の治茂を慕ってるのとは違います。今は、慶喜の末裔でなくこの保科系統が 徳川宗家で当主は先祖が支配階級にいたのに立憲民主党から立候補したときいて、悲しくなりました。
墓が少し離れたところに置かれているところに会津の陰湿さが出ている。
結局明治政府にはアメリカイギリス、幕府にはフランス。そういう戦争だったんでしょう。武器をうるために利用されて。会津の家老の西郷さんはあの西郷隆盛さんと繋がっているんですが。私の母方もその西郷隆盛と関係しているらしく。私が新選組や会津に興味を持ったのも血がそうさせたんじゃないかと思っております。しかしその母全然その事を知らないので。本当に何も知らない方が幸せかと思います。死ぬまでにもう一度会津に行ってその方々のお墓参りが出来たらいいなあと思っております。とにかく会津はとても不思議な気持ちさせられる場所でした。何だかとても懐かしい感じにさせられる場所です。
会津戦争後、長州藩士に預けて養育されたのは、山川健次郎(酒井峰治として写真が出てますが……)や小川亮もいるので、それほど珍しいことじゃなかったのかもしれないですね。
@AtsushiMizobe
Жыл бұрын
賊軍会津は憎いけど、少年たちにまでその罪を背負わせる事はない、という事でしょうか。
@sei-un
Жыл бұрын
@@AtsushiMizobe 会津では無いですけど二本松少年隊という部隊がおり その部隊と戦った長州藩士が戦闘後に養子としようとしたという例もありますね 結局は救命できずに為せなかったそうですが…
@user-ib2vl4rq4m
11 ай бұрын
@@AtsushiMizobe 長州藩はどっちかといえば会津藩を良く思ってないだけで憎むというほどではないですよ。確かに長州藩の中には、京都守護職の事で会津藩をよくおもってない輩は少なからずいたでしょうが。会津戦争が始まったのも、 他の藩はみんな朝敵にされたら恭順して許しを得ようとしているのに、会津藩だけは一切謝罪しない、武装解除もせずに出頭命令拒否。問題のある行動をとっていました。会津討伐が決定した後も新政府軍は会津藩に対して今から恭順すれば寛大な処置はあるよと通達しましたが、会津藩は20日間も無視した後に「謝罪はしない」という返事をしています。その後に新政府軍の占領地の白河に奇襲して占領地を奪っています。これで会津戦争がはじまりましたが、長州藩の司令官は会津藩よりも仙台藩を叩くべきだと進言して他の藩の司令官に断られています。
@user-px9xz6bv5k
6 ай бұрын
蛤御門の変では、長州が会津に助けられたことがあります。会津出身の僧、河井善順(会津の真龍寺)は修学のために一時、京都の西本願寺にいましたが、その時、本願寺は敗走した長州藩士を匿ったために京都守護職松平容保によって攻撃されそうになったのです。善順は知己の会津藩士らに懇願して攻撃を中止させたたのです。 さらに続きがあります。善順は、今度は会津戦争で敗れた会津藩のために奔走し、長州藩出身の新政府高官に懇願して、会津藩の特使である小出鉄之助と新政府の会談を実現させた。また、会津藩の山川健次郎・小川亮が長州藩の奥平謙輔に預けられる際に仲介までしたのです。
二本松少年隊のことも知りたい。
白虎隊の生き残りは、飯沼貞吉だけではないですよ~酒井峰次や(名前が違ったらごめんなさい)白虎隊記念館の入り口に犬を連れている銅像がそうです。後名前は、知られていませんが数名いますよ!
@user-px9xz6bv5k
7 ай бұрын
酒井峰次さんはこの動画の後半にしっかり取り上げてありますよ。
@user-vv3oq6pn1u
7 ай бұрын
最後までみずに、失礼しました。
母校の先輩郡長正(萱野権兵衛の子)の仕えた会津。一度行きたいものだ。
そういえば白虎隊の 異世界転生は無いなぁ〜
@diorion15
9 ай бұрын
異世界転生して報われるならいいですが、大抵そうはならなそうで・・・リスペクトを持った作家さんが執筆するなら是非書いて欲しいものです
昔、やってた山Pの白虎隊のドラマで野際さんが。田中聖に「篠田のバカ息子」って言ってたけど・・・ よくよく考えてみれば痛烈な嫌みやん😅
政府って言葉好きになれない
年齢をサバ読んだのは伊東悌次郎ですね
@user-gs9oo8lc5c
10 ай бұрын
そして3名の死者が出たという内の1人が伊東悌次郎
会津人の俺がこんなこと言ったらあれですけど城が燃えてると思い込んで切腹したのは馬鹿だな。間抜けだなと思ってしまいました…
あれ、飯沼貞吉はその後に長州藩士に引き取られて養われたはずですけど。これ結構有名ですけど。そして飯沼貞吉は白虎隊の唯一の生き残りと言われてはいましたが、白虎隊の生き残りは飯沼貞吉だけではありませんよ。
@user-gs9oo8lc5c
10 ай бұрын
自刃した中での生き残りが飯沼だけですよね。自刃したのも士中二番隊の1部だけですからね、、
敵の長州藩に連れて行かれた説があるよね。貞吉と連れて帰った武士の楢崎の子孫同士が会ってたよね。
@user-cy5wy8gc2h
Жыл бұрын
身の置き所が無いところに声をかけたという方が実像に近いんじゃ。
飯沼貞吉は白虎隊士中2番隊の集団自決した中の生き残りであって士中2番隊自体では酒井峰治、坂井峰治、伊藤又八、庄田保鉄、藤沢啓次、城取豊太郎、佐藤駒之進などの方がいます
@asa5204
11 ай бұрын
ちなみに白虎隊は士中1番隊、士中2番隊、寄合1番隊、寄合2番隊、足軽隊で構成されたていたと言われています
現在でも会津の方は長洲出身の者は嫌ってるんかな?。やはり学校では会津の歴史は教えてるだろうし……
@user-jx6kl1jh7t
Жыл бұрын
白虎隊隊士の死体を剥ぎ、逃げた藩士を竹やりで追い散らした農民の子孫が薩長許すまじって言うのが笑えるんですよね…。
@user-vh3xj9oo9h
Жыл бұрын
@@user-jx6kl1jh7t地元の方ですか? ワタシは山本八重さんの友人が作った学校を卒業し、飯盛山の麓の学校に通った者です。士族ではないので詳しい資料もありません。明治生まれの曾祖母は、「薩長の人間を信用するな。口に出来ない程の惨い事をされた。」と言うばかりで具体的には知らされませんでした。ただ娘子隊とか他の隊も通ったであろう街道筋なので、親世代が見聞きした事を聞いたのでしょう。 武士同士の戦いであれば、地元の農民に金品で埋葬を依頼する。でも、新政府軍は士族だけではなかったので、埋葬も許されず野犬などに荒らされたと聞きました。感情論も入ってたと思います。 子供の頃は飯盛山はバス遠足の定番。全国の人がなんで会津の人の墓参りに来るのか疑問でしかありませんでした。観光の方、ありがとうございました。いつもお線香で霞んでました。鶴ヶ城も観光客でいっぱい。𝐖𝐞𝐥𝐜𝐨𝐦𝐞!昭和に再建されたものですが、地元民にとっては大切な場所。頑固なジジババはめんどくさいですが、癒される風景も温泉も沢山ありますヨ。
新島八重の弟も白虎隊で亡くなってる
@user-dg1br4up8s
Жыл бұрын
新島八重の弟は、鳥羽・伏見の戦いで亡くなってる
戊辰戦争自体が外国勢力による日本弱体化政策だったのはあまり知られていない
歷史不能忘記,但可以原諒
定説にせよ顛末記にせよ、またあるいは新資料にしてもどこまで事実に辿り着けるか、とは思います。 参考説を掲げますが、 ・白虎隊の定説は明治以来から色々とあったものを、大正時代の秩父宮成婚の際に旧会津藩士向けにまとめられたものが「公式資料」扱いされているからのようです。 ・当時の農民は、士分格などの会津藩に協力したのは少数で、作物をされ収用田畑を焼かれた多くのほうは現在に至るまで反会津家中を公言。 などです。
@user-vh3xj9oo9h
Жыл бұрын
え〜?ウチは士族じゃないけど、容保公の悪口なんて聞かなかったなぁ。「いい殿様だったけど、京都守護職なんて引き受けるから・・・。でも、保科正之がなあ、しょうがなかったのか。」なんて。 庶民なんて、隠れてやり過ごすしか出来ないですもんね。薩長?確かに歴史のある造り酒屋では長州出身の嫁は、「お得意様に会わせる顔がないのでゆるさん。」と破談になったとかの話は聞いた。今では皆UNIQLOにお世話になってますよ。m(_ _)m
白虎隊と神風特攻隊と自衛隊と大谷翔平が受け継いだ血を流さない戦いに🇯🇵日本をWBC世界一に導いた‼️
西郷隆盛ファンには悪いけど掃討戦に拘る彼が城山で自刃したのは因果応報、今わの際に悟ったろう。
@user-ij9wd5py8s
Жыл бұрын
仙台に住んでいたとき飯沼貞吉さん終焉の住居跡が近所にありました。運命に翻弄された生き様に感慨深かった。
@user-ij9wd5py8s
Жыл бұрын
仇敵新政府に尽くし日本の発展に貢献した飯沼貞吉や榎本武揚には敬意を表する。
貞吉さん。うちの親戚です。おじいちゃんが貞吉さんはええ人やったって言ってました
@user-px9xz6bv5k
6 ай бұрын
長州の楢崎から、貞吉の母に、飯沼貞吉の生存を伝えてはいるようですが、一人生き残った不忠を憚られ、飯沼貞吉は会津に帰らなかったとされていますが、どこかで、親や親せきにお会いになっているのでしょうか(^▽^)/
白虎隊って美化されてるけど、結果無駄死に感がする。
@sett-5273
Жыл бұрын
いや、集団自決した小グループが有名なだけで、実際は隊員の8割は生き残ってる。
@user-fg2bs9ey4f
Жыл бұрын
集団自決は士中二番隊なので身分の高い藩士のご子息達
飯盛山に隊士の墓が在るが、生き残った奴は一緒に葬ってほしいと遺言。画像は隊士の墓の十倍以上の墓を建立した。普通なら同じ墓石で建立するだろ? それを見た時虫唾が走ったわ。
富士川の平家並みに間抜けな話じゃないん? 落城したと思って切腹しちゃったってww w
@user-fy3xc7tt4y
Жыл бұрын
間抜けって言い方はちょっと酷いと思うぞ。もうちょっと言葉選べないのかい?
@user-px9xz6bv5k
6 ай бұрын
この動画をちゃんと見ました?元々、全員命を落としたことで、集団自決の真相が、誰にも分らず、観光の売り物にした輩が「少年兵だから、城が燃えていると勘違いした」と失礼な喧伝のされ方が間違っていて、 25:15に紹介されてますが、飯沼貞吉が、「隊士たちで議論を重ね、鶴ケ城に入ることはできようが、城中ではお役目を果たすこと(兵糧を消費することもあり?)は難しく、もし敵に捕まると、容保公や先祖に対して申し開きができない(意訳)」と自決を決意したと証言しているのですよ。
薩長は錦の御旗の名の下に獣と変わらぬ蛮行で欧米の操り人形として代理戦争し会津を地獄に追いやりこんな勝ち方して嬉しいのかね?
@user-ib2vl4rq4m
11 ай бұрын
あのー新政府軍に謝罪もせずに抵抗したり不審な行動をとっていたのは会津藩ですよ。 会津戦争が始まったのは会津藩が新政府軍の占領地である白河口に奇襲したのがはじまりです。
@user-cg4bu4wh2y
2 ай бұрын
新政府にはイギリス、幕府にはフランスが武器提供、まかり間違えば代理戦争に成り、焼け野原でした。この程度で終えて良かった戊辰戦争です。
名ばかり同盟乙です!