日本古代製鉄の謎、古代技術はなぜ失われたのか【ゆっくり解説 】

「やばい古代史」では、古代史に焦点を当てて歴史を紐解いていく番組です。
我々はどこから来たのか。その鍵を古代史から読み解きます。
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Пікірлер: 134

  • @abbtk14
    @abbtk145 ай бұрын

    日本刀でも古刀と新刀で鋼の性質が大きく異なるというし、素材や製鉄法や鍛錬法が1000年以上かけて変遷していった歴史は壮大なものですね。惜しむらくはその歴史の大半が謎に包まれ、近代に至って一度途絶えてしまった事。日本刀という軸がある限り復活は可能でしょうけど、道のりは遠いですね…。

  • @nuruosan4398

    @nuruosan4398

    Ай бұрын

    古刀から新刀に切り替わる時期にたたら製鉄の技術に何らかの確信があったわけではないから、おそらくそれまで輸入していた鉄が手に入らなくなって従来の古刀を作り続けることが出来なくなったから新刀が作られるようになったと考えるのが適当だと思う。

  • @TH-ul4gd

    @TH-ul4gd

    Ай бұрын

    @@nuruosan4398 鉧押し法の発生はこのころでは? 秀吉の治世下で大きな変化が起きたのは間違いないです。

  • @nuruosan4398

    @nuruosan4398

    Ай бұрын

    @@TH-ul4gd 鉧押し法が始まったのはこの頃だけど、この頃はまだ小規模で国内の製刀事情を変革するほどの規模じゃないでしょ。 鉧押し法による製鉄が本格化するのは江戸時代に入ってからですよ。

  • @user-zo5oi5wb3s
    @user-zo5oi5wb3sАй бұрын

    たたら製鉄は、江戸時代も盛んに行われており、技術は継承されていました。 幕末から明治になると欧米との交易が始まり、鉄鉱石の輸入と近代製鉄が始まりました。 大規模な近代製鉄が始まっても、たたら製鉄は太平洋戦争中まで国策で残りました。 戦後の一時期、たたら製鉄は途絶えましたが、玉鋼の需要から安来等で復活しました。 詳細は和鋼博物館へ。

  • @metabo850mm
    @metabo850mmАй бұрын

    古語で鉄を「スズ」と言ったそうです。能登半島の先端に珠洲市(スズシ)があります。この近くは安曇族にちなんだ地名が多くあります。製鉄と関係があるのか、又は鉄の入手ルートとの繋がりが考えられます。 出雲風土記の国引神話で「高志の都都の三崎」(越の珠洲の岬)や「志羅紀の三崎」(新羅の岬)を引っ張って来たと記されています。おそらく珠洲や朝鮮半島から製塩や製鉄の職人を連れて来て定住させたという事だろうと想像しています。製塩職人達は秋になると神無流しの集団となって海岸から山間部へ住処を変えたと思います。それが風土記の中で高志の八岐大蛇と表現されていたのだと想像します。 ちなみに、能登半島と出雲地方の製塩土器は似ているそうです。

  • @tiida000
    @tiida0005 ай бұрын

    中の人、よく調べてますね!感心しました。

  • @yasushifukai4212
    @yasushifukai42125 ай бұрын

    日本の伝統技に感動するし、江戸期の藩の中には行政機能の素晴らしい例があったのに驚きました。

  • @nuruosan4398

    @nuruosan4398

    Ай бұрын

    素晴らしいかどうか・・・ 当時は山を大規模に切り崩して土を水で洗って砂鉄を取り出してた。そのせいで川に大量の土砂が流れ込み、下流域の水田がダメになってしまうっていうんで、山奥の鉄師と下流の農家の間でかなりな争いがあったんですよ。 それを後から両者の不満を抑えるために色々調整し続けたら最終的にそうなったというだけで、「素晴らしい行政機能」があったという評価は過大だと思いますよ。

  • @user-hi4fw3of2i
    @user-hi4fw3of2i5 ай бұрын

    日本刀に関しては江戸時代にすでにロストテクノロジーになっていたらしい。

  • @atis1396
    @atis13965 ай бұрын

    某本職の刀鍛冶が日輪刀を写して打つchでたたら製鉄に興味をもってここに流れ着きました。勉強になります。古代で鉄というと軍事氏族の物部氏が製鉄に強かったと聞いたことがあります。系列(という言い方もどうかw)の祭神もフツヌシや布津御霊ですしね

  • @user-jr8do9zp1s
    @user-jr8do9zp1s2 ай бұрын

    問題なのはいつだれが山や川・浜で見られる黒い砂が鉄の原料になると気付いたのか 大陸では砂鉄を使っていた形跡が見られない。 白村江の敗戦などで大陸の側の拠点をなくした古代日本の救世主的な存在となる。

  • @恙恙
    @恙恙5 ай бұрын

    まあ古刀も神格化されちゃって居ますが現代製鉄技術は古代のそれを遥かに上回って居ますよ😁折り紙の靱やかさがどうこう云っても今やレーザー付け焼き刃が最強ですし(但し研ぐと刃が無くなるので使い捨てになります😅)

  • @nuruosan4398

    @nuruosan4398

    Ай бұрын

    それな

  • @TH-ul4gd
    @TH-ul4gdАй бұрын

    多くが港町の商人を介して出まわる輸入鉄(舶載鉄)と違い 資源や労働力を求めて渡り歩く野鑪の鉄師が造る鉄はどこから市場に流れていくのかわかりにくく記録に残りにくい うえに使われなくなった製鉄所は人為的に解体され跡地は別の用途で使われるか風雨や戦禍で風化し遺跡にもならない 製鉄遺跡がないことを理由に鎌倉から戦国時代にかけて国内製鉄が衰退していたとする説を見たが実際は 依然無視できない割合を保っていたのではないだろうか?

  • @mrrx2364
    @mrrx23644 ай бұрын

    ヒヒイロカネで天叢雲剣は作られたそうだ。

  • @nuruosan4398

    @nuruosan4398

    Ай бұрын

    ヤマタノオロチの尻尾から出て来たんですよw

  • @mrrx2364

    @mrrx2364

    Ай бұрын

    @@nuruosan4398 ヤマタノオロチは  実在しない架空生物。 叢雲剣と草薙剣は 別物。 そもそも国宝である叢雲剣を ヤマトタケルが持ち出し出来ない。 天野叢雲剣は 祭儀用の剣で実戦には全く使えない剣。

  • @nuruosan4398

    @nuruosan4398

    Ай бұрын

    @@mrrx2364 大事なので二度言いました? >叢雲剣と草薙剣 どっからそんな話が出て来た? ひょっとして壇ノ浦に沈む前と後の話をしてる? >そもそも国宝である叢雲剣 国宝制度は近代になってからできた制度で当時は「国宝」なんてものはない それにヤマトヒメノミコトが管理していた剣を授けたのであってヤマトタケルが勝手に持ち出したわけでもない >天野叢雲剣は 祭儀用の剣で実戦には全く使えない剣。 どこからそんな話が出て来た?

  • @mrrx2364

    @mrrx2364

    Ай бұрын

    @@nuruosan4398 調べては? 天野叢雲剣は天照大神が 天孫降臨するニニギの命に『私だと思って大切にそばに置きなさい』と渡した神器。 だから国宝として天皇のそばに置いた。 ヤマトタケルが持ち出せたのは国宝ではない草薙剣。

  • @nuruosan4398

    @nuruosan4398

    Ай бұрын

    @@mrrx2364それこそ調べたらどうですか? 草薙剣と呼ばれるようになったのはヤマトタケルが使った後の話ですよ 両者は一つの剣の別称にすぎません

  • @user-ep2bj2cs4w
    @user-ep2bj2cs4w5 ай бұрын

    昔の日本は、別に化学の知識があった訳でもないのに、高度な製鉄技術があったのは凄いですね ( =Φ人Φ=)づ🔨💥🗡️

  • @mannganninc
    @mannganninc5 ай бұрын

    弥生中期に大陸から多くの人が日本列島に移住しており、その人たちが持ってきたのでしょう。 人が移動しているのだから朝鮮半島を経由する必要はありません。 また弥生時代にいわゆるアイヌはいません。 ちなみに移住多々良の語源はタタール説がもっともしっくりきます。

  • @nuruosan4398
    @nuruosan4398Ай бұрын

    鍛冶師と鉄師がごっちゃになって説明されている気がする

  • @user-se5wq6cw1k
    @user-se5wq6cw1k5 ай бұрын

    三国志の魏に鉄剣を供給していた話もあるね 当時ほとんど青銅剣だったみたい どちらかというと日本から世界各地に葦船で伝搬したという説をとります。だからヒッタイトでは植林と発想が生まれず支配地で伐採しまくって砂漠化が進んでいったといわれたりもしてる

  • @user-ti5sz8tn4j
    @user-ti5sz8tn4j5 ай бұрын

    貧鉄から高品質の鉄を生産していた神宮寺部隊。隊員の中に砂鬼衆がいた。

  • @hogohogehage
    @hogohogehage5 ай бұрын

    60Coがなぁ

  • @nuruosan4398
    @nuruosan4398Ай бұрын

    たまに同じ説明を繰り返してたりしてまとまりがよくない 原稿は一度見直した方がいい

  • @nuruosan4398
    @nuruosan4398Ай бұрын

    玉鋼の品質についての評価は迷信だと思った方がいい。 玉鋼で日本刀をというこだわりが出始めたのは昭和に入って民族主義が高まり、軍刀がそれまでのサーベルから日本刀へ変更された時期に重なる・・・つまり、玉鋼で作られた日本刀というものに特別な思い入れを持ったロマンチストの迷信が背景にあるのであって、現実に玉鋼で作られた刀が最良だったわけではない。 現に昭和にはいって様々な刀の研究や開発が盛んになっているが、これは玉鋼で作られた軍刀が実戦運用するには色々と問題を抱えていたことが背景にある(満州の寒さに耐えられないとか、結構簡単に折れたり曲がったりするとか)。 実戦用の刀剣としては結局車のサスペンションに使われていた板バネから作ったものが一番良かったとかいう話もあるし、現実問題として刀剣用の材料としては、余計な不純物を拝して理想的なレアメタルを添加した洋鋼の方が優れているのは疑いようがない。 たたら製鉄が廃れたのは廃れて当然の技術だったから廃れた。純粋に技術的な点だけでいえば、たたら製鉄に現在の製鉄・製鋼技術ではできないような優れた点があるわけではない。

  • @aiueiueo
    @aiueiueo5 ай бұрын

    皆勘違いしていますが日本に青銅器時代はほとんどなく、いきなり鉄器時代に入っていて産地は朝鮮半島南部で、記紀の三韓討伐にも繋がる話だと言えます。 ところが「蘇我氏が勢力を伸ばす」のと時を同じくして、朝鮮半島南部の大和王権の勢力圏が消滅して、日本で直接たたら製鉄をして生産するようになったのです。 そしてそういう古代の経緯を隠して、日本刀などが再現できないと言う話を使う事で、ロストテクノロジーなどと言って論点をずらしているのです。 恐らく朝鮮半島南部の日本勢力圏で製鉄が行われていたはずですが、その技法も「今に伝わっていない」のが事実で、蘇我氏がシンリャクをしていた可能性が高いのです。

  • @mrrx2364

    @mrrx2364

    4 ай бұрын

    物部氏では? 勾玉が消えた時期と同じですよ。 蘇我氏を564たから、所在不明となった。 ヒヒイロカネも。

  • @aiueiueo

    @aiueiueo

    4 ай бұрын

    @@mrrx2364 物部氏はどちらかと言うと神道なので、蘇我氏が仏教を語った景教勢力で、日本の古来からの信仰を守る為に戦ったと思います。 大和朝廷は17条の憲法で仏教を大切にすると言っていますが、その仏教が蘇我氏の仏教ではないと思います。 蘇我氏がやっていた事は外交を握って軍事を掌握したシンリャク行為そのものだと思います。

  • @mrrx2364

    @mrrx2364

    4 ай бұрын

    @@aiueiueo 古事記が嘘情報を拡散させたから、全く逆に解釈しているようですね。 蘇我氏は出雲系で物部氏は渡来系ですよ。 大化の改新以後に中国から仏教の伝来が促進された。 ヒヒイロカネが消えたのもこの時代。 出雲口伝を調べることをお勧めします。 蘇我氏が亡くなってから仏教が、急に広まったのですよ。 全責任を蘇我氏に被せて564た。 その後も出雲系は56された。

  • @mrrx2364

    @mrrx2364

    4 ай бұрын

    ​@@aiueiueoシンリャクとか書くと消されるようですが、徐福が日本の王になろうと野望を持っていたが、それは孫に受け継がれて叶った・・神武天皇(群雲)。 元が秦氏と同族なのが物部氏で、大国主や事代主の子孫が蘇我氏(富家)。 古事記では国譲りから天孫降臨で猿田彦が道案内したはずなのに、出雲には降りずニニギは日向に降りたとされる。 アメノウズメは猿田彦を送り出雲に降りたが、そこで猿田彦と結婚・・その子孫が古事記編纂に関わった稗田阿礼。 蘇我氏と物部氏の抗争で皇史などが焼失した10年後に古事記が書かれたのは偶然ではないでしょう。 たたら製鉄は奥出雲でしたね。

  • @aiueiueo

    @aiueiueo

    4 ай бұрын

    @@mrrx2364 ちょっと虚実入り混じっているように思いますが蘇我氏が作った歴史書は皇室を乗っ取る為のものだったと思います。

  • @user-po8vt6wg6q
    @user-po8vt6wg6q5 ай бұрын

    日本全国の縄文遺跡を学習したら?

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