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【明治維新の闇】本物の武道が日本から消えた理由│北辰一刀流七代目宗家・椎名市衛✕小名木善行

【目次】
00:55 失われた日本文化
05:05 変わり果てた日本武道
11:25 武道とスポーツのあるべき姿
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Пікірлер: 133

  • @robinJPN
    @robinJPN Жыл бұрын

    非常に興味深い、楽しい、元気を頂くお話しでした。 戦後77年が過ぎて、多くの日本人が大東亜戦争が無かったことにされて行く事に危機感を覚えます。 太平洋戦争に名前を変えられて、東京裁判による敗戦自虐史観が闊歩しています。 日本人にとって大事な近代史を殆ど学校教育で学んでいない事にこの原因があると思っています。 『•••耐え難きを耐え、忍び難きを忍び』切り取られた玉音放送を繰り返し聴き、内容をよく理解していないのです。一体、先人達は何に耐え、何を忍んだのか?過去に訪ねて行かないと分からないものですね。 私の父は学徒出陣した経緯がありますが、生前の父を偲べば決して父は敗戦国の人間らしくはなかったです。むしろ表に出れば堂々と胸を張り、肩で風を斬るように歩き、何事においても豪快な人物でした。 父の中で、あの大東亜戦争は負けたわけでは無かったのだと思います。私などが想像が出来ない程に、悔しく思い出したくもない程に悲惨な経験をしたには違いありませんが、敗北感は微塵も感じず、外資系企業に多くを勤めました。恐らく父の闘いは戦後もずっと、そのバックグランドでは続いていたのだと思います。 ただ、当時の日本には情報が無かったと父は言いました。今思えば敵を知るべく、敵陣の懐中に入り仕事をしていたのでしょう。 勝っても勝たずに、負けても負けない。 勝ち誇らずに、負け腐らない。 残心と共に在る、父の生涯を今おもいます。 良いお話を有難う御座います。

  • @jiropushkin3563

    @jiropushkin3563

    Жыл бұрын

    大東亜戦争は東条内閣が使った用語ですね。

  • @central162

    @central162

    Жыл бұрын

    @@jiropushkin3563  そうです。戦争をおっぱじめた東条内閣が命名しました。戦後戦争を反省するという見地からこの呼称は止めています。現代であえて「大東亜戦争」なんぞと口にしたら余程の右翼か変人と思われるのオチです。逆にいえば、この語を多用する人は右翼と思っていい便利な言葉になる訳ですね。

  • @user-io3cg8vc8g

    @user-io3cg8vc8g

    Жыл бұрын

    勝っても勝たずに、負けても負けない。 勝ち誇らずに、負け腐らない。 お父様の戦後は、敵にも敬意をもって、謙虚に学ぶ道を選ばれたということでしょうか。ただただ頭が下がります。 ひるがえって現代の日本人は「敵も知らず、己も知らない」有り様。なんとかしなければと痛感します。

  • @mitsuru2176
    @mitsuru2176 Жыл бұрын

    戦後・現在の剣道は只のスポーツ!で本当の武道では無い!とずっと思っていたが、 この動画で共感出来て良かった!!

  • @user-do1xs7cm6q
    @user-do1xs7cm6q Жыл бұрын

    すごく共感しましたので、大先生におこがましいながら、コメントさせて頂きます。 私は父親が熱狂的な剣吉でして、九州出身の大先生にし相当鍛えられ、出身の都道府県では有名だったようです。父とは幼い頃から、親子より師弟関係で育ち、剣道も自動的にやることになりました。 師弟関係は社会に出て役立っていることもあり、父に感謝しているところもあります。 そこで先生のお話しで強く共感しましたのは、私は剣道の試合で敵対心や勝ち負けに執着するのがどうしても好きになれず、でも試合では自分の一本に旗が上がる素振りや練習をしながら、勝ち負けに執着したくない事を仲間に打ち明けると、剣道向いていないなど散々いわれまして落ち込みながら、けれど打ち負かすことは、うれしいは思えませんでした。 最後に行き着いたのは、 やはり、いい一本!納得いく一本。そして体が自然に動く一本でした。 玉竜旗など、なかには軽くさわって一本の印象あることもありましだが、礼に始まり礼に終わる、感情剥き出しの試合や試合中の礼儀をわきまえない拍手などは恥ずかしい、日本人として重んじる武道だから、そんな武道は甘い世界では無いように年齢重ねるごとに、勝ち負け敵対心など疑問符がついていきました。 ご飯は食べれずとも唯一剣道はオリンピッ○には入らず守られていると受け取っています。 小手先の単なるスポーツではなく、本来の武道の心の在り方や姿勢を学べる、これは日本人としての心を呼び覚ます大切なメッセージだと伝わってきました。 喧嘩や犯罪を犯すエネルギーがあるなら剣道をやるのが、精神肉体的、共に鍛えられて、よほどいいと日々感じます。 日本人から、まげや刀や袴を奪う、または手放すことは、結果的に日本の不幸や犠牲を生んできたことも多くあると感じます。 寂しく感じます。 明治を祭りあげるばかりで、時代の変化だよりだけでは、頼りなさを感じます。 このような純粋な日本の伝統を継承され続けてほしいと思います。 長々失礼致しました。 ありがとうございます。

  • @user-bc4bo7il2h

    @user-bc4bo7il2h

    Жыл бұрын

    江戸時代のように月代を剃った髷は、鎌倉時代の頃の武士はしていませんでしたよ。 月代を日常的に剃り始めたのは、戦が頻繁になった戦国の頃からのようです。 月代を剃るのは、甲をかぶると蒸れるからです。

  • @user-ls7hp7ye7d
    @user-ls7hp7ye7d Жыл бұрын

    いつも本当にありがとうございます🤗🤗武道のお話し、今回が初めてだったのですが、とても興味深くて大変勉強になりました🤗🤗🤗

  • @user-or9pg7bf4h
    @user-or9pg7bf4h Жыл бұрын

    有り難うございます。 スポーツはしませんが、勝ち負けばかり考えて生きてきた事を考えされられました。 道を極めた方のの言葉は深くて重い。

  • @user-yy6qs8jd5y
    @user-yy6qs8jd5y Жыл бұрын

    椎名先生、本来の武道の意味は精神修行。本当の強さ。とても良い話です。ありがとうございました・

  • @kuniakitonosaki1214
    @kuniakitonosaki1214 Жыл бұрын

    とても良いお話を聞き入り、感じいりました。 弘前城の末席家老を祖先とする末裔の一人として、これからも、恥じない生き方に心掛けようと思います。 ありがとうございました。

  • @Izumi-fe1x
    @Izumi-fe1x Жыл бұрын

    奥の深いお話でした。これからの人類の行く道のヒントがたくさんある気がします。

  • @user-qo1pb1yq7k
    @user-qo1pb1yq7k Жыл бұрын

    今の日本の教育は間違えなく外国人が沢山入り込んでやっていると思う。日本人の教育は精神性を教える剣道や柔道があったのに、危険性を煽って柔道教育からダンスを推奨した。もともとダンス業界や芸能マスメディア業界に偏った人がいたが、それが儲かる世の中へ。精神性をどう教えるか?大切だと思う

  • @user-vu6sy2pg4q
    @user-vu6sy2pg4q Жыл бұрын

    こんばんは。 いつも見させていただいております。 北辰一刀流第七代宗家・椎名市衛先生のお話を拝聴し、我が国が失ったものの大きさを改めて感じました。 椎名先生が余りに熱く語られるので、小名木先生が圧倒されていた感があります。 椎名先生が熱弁を振るっていかれるにつれて、茨城訛りも出てきて親しみも感じました。 けれども、語っておられた内容は極めて重いです。 お話を拝聴し、今も消えないいじめの問題がここにある、とも感じました。 明治になって経済の時代になり、正直者がバカを見る、とは正にそうです。 今もそうですけど、今まで経済を軸にあらゆるものが動いてきました。 儲ける者がいれば損をする者がいる、正にそれで、勝ちさえすれば良いとの風潮が蔓延してきました。 とりわけ、私自身剣道をやっていた事もあり、すこぶる興味深く拝聴させていただきました。 しかし、昭和40年の時点で既に危機を迎えていたとは驚きでした。 中学の時、一時剣道部に在籍していた事もあり、その時剣道雑誌を買っていて、ちょうど35年前ですけど、雑誌の中で剣道は武道かスポーツか問われていたのを覚えています。 私自身武道と思っていたのですが、椎名先生のお話からしますと、そういう問いが出てきていたというのは、既に剣道が武道ではなくなっていた、と言えます。 因みにその頃から高校まで、良く苛められていました。 いじめ問題が深刻化していた時期です。 そのいじめが正に蔓延った背景として、お金儲けの勝ちさえすれば良く正直者がバカを見る風潮があるように思います。 昨今の、勝ち組vs負け組、草食系vs肉食系の風潮には嫌気が差します。 マスコミとかも煽っています。 剣道も含めて、他のいわゆるスポーツがみんなそうですね。 お金儲けのショーになっており、「良い」学校に入る為の手段にもなっています。 また剣道つながりの話ですが、最近ふとした事である高校のパンフらしい画像を目にしたのですけど、そこに載っていた女子剣道部員が竹刀を構える勇ましい姿があり、その顔を見た瞬間に、 これは覇道だな。 と感じました。 椎名先生が正に仰っていた事で、子供の時分から勝ち負けを仕込んでいれば素直にそうすると、そうして高校になって相手を倒そう倒そうの覇道の顔になっているのだ、と感じました。 これで優秀な結果を出せば上の学校に行くのに有利になる塩梅。 ショーの勝ち負けや勉強の成績が「良い」学校に行く、「良い」会社に入る手段になってしまい、それがいじめが蔓延る温床となり、正直者がバカを見る風潮になったと見ます。 椎名先生が正に仰る通りです。 仰る通り、そこに本当の武道は無いですね。 今やっている人は知らないでしょう。 答えは、椎名先生が仰るように、過去にあると思います。 この動画でも椎名先生名前仰っていましたが、私、山岡鉄舟尊敬しています。 道のりは遠いですけど、本当の武道が復活する事を願って止みませんし、必ず復活すると信じています。 長くなりまして申し訳ございません。 いつも動画を楽しみにしております。 ありがとうございます。

  • @user-fs4fe9py1d
    @user-fs4fe9py1d Жыл бұрын

    これだけズバリ言ってくれる人って本当に貴重だと思う

  • @Kukita_
    @Kukita_ Жыл бұрын

    中学、高校と部活で剣道をしていましたが、勝ち負けのためにやってる感じに馴染めない感じはありました。外面の強さは持てても内面の強さは得られない感じ。最近もますます外で遊べない子供が増えて、エネルギーが余ってる男の子も多いので、過剰なエネルギーを発散して内面の強さに還元できるような武道の場が増えるといいですね。

  • @user-dx7hf2lt4d
    @user-dx7hf2lt4d Жыл бұрын

    子供の頃、弟とバドミントンのラリーをするのが好きで、何回ラリーできるかを数えて遊んでいました。 勝ち負けではなく、一緒にやる方がめちゃくちゃ楽しかったのを思い出しました。 わたしも今過去の偉人の心に触れたいと思い、またどうしてそのように生きられたのかを本や資料などを通して学んでいる最中です。 椎名先生、小名木先生、ありがとうございます。

  • @holakm7250
    @holakm7250 Жыл бұрын

    なるほどー。奥が深いです。 私は、高校時代に相手と競い勝ち負けを決めると言うのが性に合わず、剣道や柔道に面白みを感じませんでした。 ですから、すぐに弓道部に入りました。 毎日毎日自分と向き合い、黙想と精神統一し身体を鍛えて理想の射を追いかけていました。 当時ビデオ等無かったので、部員は部員同士で射法八節の理想型になる様に見あって居ました。 もちろん大会にも出場させて貰い何度も優勝しましたが、相手を叩き伏せると言った武道では無いので、例え優勝しても一矢一矢の反省と課題があり、日々練習して居ました。 やはり、相手と競い闘い勝ち負けを付ける武道は好きになりませんね。

  • @triplegood369
    @triplegood369 Жыл бұрын

    素晴らしいお話です! 相打ち、5対5、自立と自立。 楽しく自らを鍛えていきたいですね!🙏

  • @asa01053
    @asa01053 Жыл бұрын

    スポーツも指導者が勝ち負けにこだわりすぎで生徒を怒鳴ってばかりですよ。高校野球もそう、卒業したら挨拶もできない人材だらけです。全く育ってません。

  • @BB-jf4km
    @BB-jf4km Жыл бұрын

    お二人の対談はシリーズ化して欲しいです!インターネットで全国の小・中学校で授業をしていただきたいです。

  • @user-yx1hv9sf3o
    @user-yx1hv9sf3o Жыл бұрын

    椎名先生飾らない人で熱い心を持った人だなぁ。素敵です。

  • @user-ns8fn3ej2w
    @user-ns8fn3ej2w Жыл бұрын

    私は小学生の頃(90年代)に70過ぎの先生に剣道を教えてもらえていました。 大変厳しい方で、末期癌であったのに最後まで指導してくれました。 「剣道は生涯できるもの」「勝つと言うことは相手を殺したと喜ぶもの」「剣を通して相手を見ることで、自分自身を見つめるている」と 常々教えてくださいました。 また「練習」は試合に勝つためのもので、「稽古」は己の鍛錬。 練習ではなく、稽古をしなさいと言われていて、当時は難しいと感じていましたが、 ようやく理解できつつある気がしています。

  • @mcoco5314

    @mcoco5314

    Жыл бұрын

    大変素晴しい先生と出会われたのですね。「剣を通して相手を見ることで、自分自身を見つめている」。素晴しいお言葉をシェアして頂き感謝いたします。

  • @hikohiko2009jp
    @hikohiko2009jp Жыл бұрын

    とても良いお話を伺いました。有り難うございました。

  • @ky-do8hm
    @ky-do8hm Жыл бұрын

    武道の前に武術。椎名宗家が行われる他流との相打ちが見たいです。

  • @tututututu130
    @tututututu130 Жыл бұрын

    どうして、明治政府は武士を無くそうとしたのか不思議でたまりませんでした。 強い最新と技術を持っているので 軍隊を作れば鬼に金棒なのに 素人で軍隊作ってなんでって思っていました。 確かに伊藤俊文も農民でしたね。 納得しました。

  • @upsidedown2620
    @upsidedown2620 Жыл бұрын

    お香もそのとおり合成香はいけませんやね。。天然由来のものかそれに近いものほどリフレッシュしてインスパイアーされもしリラックスもする。たおやかな時の流れに身を置くことができる。たまに少量で良いからね。。瞬時の禊になる事もある。日本の素敵な世界の一つです。👍☆彡☆彡👍☆彡☆彡

  • @user-dv3gl6xh9z
    @user-dv3gl6xh9z Жыл бұрын

    本来の武道は充分に祖父や父より薫陶を受けましたので椎名先生のお考えは素晴らしいと思います。しかし、稼ぐ訳ではないですが芸術表現の術としても居合術をして生きたいと思います。

  • @user-ln8zw3jt9oMM
    @user-ln8zw3jt9oMM Жыл бұрын

    お話の内容が素晴らしいのはもちろんですが、宗家 椎名先生の懐の深く温かく、奥に秘めた切れ味をも感じさせるお人柄が魅力的でいつまでも聴いていたくなります。

  • @user-zx3kj5rv1v
    @user-zx3kj5rv1v Жыл бұрын

    日本少林寺憲法連盟まだ少しは武道の面影残していると思いますよ。 私自身子供の頃触れ、息子にも通わせましたが、本当の強さとは自分自身に打ち勝つこと、弱い人を守れることと習った気がします。

  • @user-Mathahito
    @user-Mathahito Жыл бұрын

    今回も貴重な動画ありがとうございます。 剣道は武士の表芸です。 守破離を全うできる様充実した生き方をしたいものだと思いました。

  • @user-bc4bo7il2h

    @user-bc4bo7il2h

    Жыл бұрын

    表芸は、剣道じゃなくて剣術ですね。 剣道は、明治以降にできたものです。 武士が居た時代は、剣道というものはなく、剣術という各流派の流祖が作った個性的なものです。 現在の剣道のように画一化されたものではありません。

  • @user-Mathahito

    @user-Mathahito

    Жыл бұрын

    @@user-bc4bo7il2hさんメッセージありがとうございます。「剣道は武士の表芸」と言う先人の言葉があってコメントさせていただきました。細かく言うと小鳥丸さんのおしゃる通りかも分かりませんが先人の心がそのような言葉を言わせたのかもしれませんね。

  • @user-bc4bo7il2h

    @user-bc4bo7il2h

    Жыл бұрын

    @@user-Mathahito そもそも、剣道という言葉も存在しませんでした。

  • @user-Mathahito

    @user-Mathahito

    Жыл бұрын

    @@user-bc4bo7il2h 言葉のロジック思考のロジックも分かりますが時空を超えたところにできた言葉もあるんじゃないでしょうか?物事の視野を広めることをお勧めします。

  • @user-bc4bo7il2h

    @user-bc4bo7il2h

    Жыл бұрын

    @@user-Mathahito 言葉が存在しないのに、ロジックもクソもありません。 そもそも、合戦では太刀をほんとんど使いません。 合戦で使われる武器は、まず飛び道具、そして槍や薙刀など長柄の武器。それから太刀、打刀の順番です。 太刀や打刀が、合戦でメインに使われたのは、幕末の戦争くらいです。

  • @user-lp8nx2rz9p
    @user-lp8nx2rz9p Жыл бұрын

    大学時代は 北辰一刀流の清野先生に師事した。美しかったなあ。。。

  • @user-hg9hc4cc1s
    @user-hg9hc4cc1s Жыл бұрын

    私は残念ながら武道もスポーツにもあまり縁のない人間ですが、 共感できる部分は多々ありました。 素晴らしいお話でした。ありがとうございました。

  • @user-rl1dn9fd1s
    @user-rl1dn9fd1s28 күн бұрын

    天才が努力する時代ですよ。そう云う環境の中に身を置くことに依り、分限を知る。 そのことに価値があるのです。 したがって、やればやるほど、見れば見るほど、心やわらかく、おだやかに、 限度、分限 限界を知る。 西行さん 何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる

  • @hikarusegami276
    @hikarusegami276 Жыл бұрын

    とても深くて、思いもしなかったお話でした。勉強になります。

  • @gash-tohchan
    @gash-tohchan Жыл бұрын

    椎名先生のお話分かりやすく武道・スポーツ・ショーの違い、私も常々考えていた武道・武術のあり方大変感銘を受けました、ありがとうございます。

  • @user-uf7pn4tj1e
    @user-uf7pn4tj1e Жыл бұрын

    武術をしております。 考えさせられました。 ありがとうございました。

  • @user-cq1ok6on1j
    @user-cq1ok6on1j Жыл бұрын

    面白いね

  • @hidekiyoshizawa1255
    @hidekiyoshizawa1255 Жыл бұрын

    私はかつて「習家」を体感した覚えがあります。小学3年生から独学で始めた「バク転」を小学6年の時に、弟に教えていて弟がすぐに出来てしまったことをきっかけにして、ふっと私自身も出来てしまいました。まさに覚ったときですね。

  • @k0524asa
    @k0524asa Жыл бұрын

    昨今のオリンピックで色々と出てくる醜聞が まさに言われている事が如実に表れていますね 本来は「参加することに意義がある」ものだったはず

  • @momoko8182
    @momoko8182 Жыл бұрын

    学生時代剣道をしていました。 柔道の世界大会の強者を子供の頃からとても違和感を感じていました。 なんというかジャイアン的な感じで、「この人達は神棚や目上の方に尊敬や畏怖の念を持っているのだろうか」と疑問に思っていました。 武道は目に見えないところに本質があると思っています。 今回空手がオリンピック競技になりましたが、今回限りにして日本の武道を守って欲しいです。 そして、剣道はずっと日本の宝として守っていきたいです。

  • @user-wx3rr9fg1v
    @user-wx3rr9fg1v Жыл бұрын

    武道に一番必要ないのは組み手かもしれない。 澤井健一。私も組手に試合は必要ないと思う。 もう一つ武道に必要なのは哲学だ。

  • @philosophydoubtfuljournalcom
    @philosophydoubtfuljournalcom Жыл бұрын

    そして日本は負けた。続く方が楽しい時間が長いけれど、強い方は楽しくないので、同じくらいの実力の人と真剣勝負するのが最も楽しくて、その最高峰を決める為に、競争させる原理として、資本、つまり価値の定量化をお金に投影する仕組みが確立しているのが資本主義ですので、日本流が正しいのかどうかという基準の良し悪しの基準が、何によるのかを明確に定義する必要があり、その定義が、持続可能な人間社会の構築にあると考えた場合、日本が善だとするならば、負けてたんじゃ話にならないということになる。持続可能でないことが証明されたからだ。しかしもしも世界が武力を捨てた時、日本流こそが救いとなるのではないかと私は考えているのだが、その日本流の担い手が、それなりの高い精神性を体得していないとした場合には、自然淘汰されることになるだろう。

  • @amoreluzepacienciaeusou1316
    @amoreluzepacienciaeusou1316 Жыл бұрын

    目から鱗が落ちるお話し、ありがとうございますm(_ _)m とりあえずお香の本を注文します(^_^)b

  • @user-rk3ei3pm7i
    @user-rk3ei3pm7i Жыл бұрын

    【スポーツと武道の違い】 明確に違っているのは「”道(みち)”にある」と思っている。 果てしなく続く道を歩む事を目指す意味が含まれ、 とどのつまり、剣禅一如を悟る意味がある。 西洋社会と日本社会の明確な違いが、そこにある。

  • @33you3
    @33you3 Жыл бұрын

    感動しました。 かつて日本人は世界一崇高な民族だったと思っていますが、今は全てが欧米化され文化も民度も外国と変わりなくなってしまい悲しく思っています。 この先、古き良き日本文化は完全に無くなってしまうのでしょう。 本当に悲しいです。 欧米を受け入れ資本主義に邁進して経済は発展し金銭的に裕福にはなりましたが、本当にそれで日本人が幸せになったのでしょうか。 日本を含む世界の富が欧米の財閥に吸い上げられる仕組みが作られ、世界の人民は財閥の富のために働いているようなものです。 いわゆる「(財閥による)全人類家畜化計画」はほぼ達成されているといいます。 明治維新は日本を自陣に引き込むためにアメリカが仕掛けた罠だったと思います。

  • @GoldenSuperKamichu
    @GoldenSuperKamichu Жыл бұрын

    私も失われつつある技術の一部を教えてもらった身だから、現代の武道を批判したくなる気持ちはわかるけど、比較する必要はないと思う。以前、剣道道場に誘われて行った時に、態度の大きい八段の高段者がやたらと指導してきたが、実際にその人と立ち会えば、最近の剣道の技術では止めるのが難しい知らない技術があることに気づいてもらえたらしく、試合後はこちらに対する態度が変わったことがあった。私のほうも技を連続して出したり動き続ける練習を普段しないので良い機会になった。嫌わずにお互いに歩みより、違いを認めることも、良い修行になると思う。

  • @user-fb2wg2yf1r
    @user-fb2wg2yf1r Жыл бұрын

    日本人の精神が、ボヤけてしまって、真剣に考えなくなっていましたが、頭のなかが、スッキリした気がします。

  • @user-br5hs4hz9i
    @user-br5hs4hz9i Жыл бұрын

    道で生きられるような社会を取戻したいとは思ったけれど、今の経済社会は戻せそうもないので、 だったら、どう融和させるかが考えるポイントだとは思ったけれど、どうすればいいかは思いつきませんでした。

  • @user-cruise11
    @user-cruise11 Жыл бұрын

    やっぱり立派な人は、言葉の重みが違いますね

  • @tks6501
    @tks6501 Жыл бұрын

    経済においてもまさに先生が仰る通りが理想でしょうね。ラリーが続く限りお互いがウィンウィンですね。日本が世界をリードしていたらときっと素敵な世界になるかもしれませんね。…

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c Жыл бұрын

    大日本武徳会ー1 (だいにっぽんぶとくかい)は、戦前の日本において、武道の振興、教育、顕彰を目的として活動していた財団法人。1895年(明治28年)4月17日、京都に公的組織としてに結成された。初代総裁に小松宮彰仁親王(皇族、陸軍大将)、会長に渡辺千秋(京都府知事)、副会長に壬生基修(平安神宮宮司)が就任した。同年に第1回の武徳祭と武術大会が行われ、1942年(昭和17年)太平洋戦争のため中止されるまで、恒例の行事として行われた。第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)からは、武道関係組織を統制する政府の外郭団体となった。終戦後の1946年(昭和21年)11月9日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の指令により強制解散処分を受け、1300余名の同会関係者が公職追放された。別表記大日本武德會。 目的・理念 大日本武徳会は、対外戦争の勝利や平安遷都1100年記念によって日本武術奨励の気運が高まり、武徳の涵養と武道の奨励、武徳の育成、教育、顕彰、国民の士気を振興することを目的としていた。「武徳」とは、国民の士気を向上させることであり、武徳を養成する手段として、戦国時代の『武芸四門』を範に剣道・柔道・馬術・弓道・銃剣道・射撃道の六技道を中心に、槍術、砲術、薙刀、合気道、空手、捕手術、居合・杖術・棒術・手裏剣・鎖鎌・槍術などの古武道を中心にした実践的な武道が奨励され部会が設けられた。 全国の武道家に配布された『武徳会勧誘書』には、「武徳会は会員あい戒めあい励みて国民の武徳を養成する団体なり」、「平生といえども人と交わるに信義を以ってし、弱きを扶け強きを挫き、善良なる国民として人の尊敬を受くるにはみな武徳を養うより出でざるはなし」、「国民は武徳を以って心とし何事も信義を重んじて信用を得ずんば、通商上の利益も得難かるべし」などと書かれていた[1]。武徳会は、剣術、柔術、弓術など各部門で構成され、各部門には諸流派・人物がそれぞれの流派を超越して参加することになる。 事業 京都旧武徳殿 1909年(明治42年)、武徳会が財団法人化した際にまとめられた事業は以下の通りである。 平安神宮境内への武徳殿の造営とその維持 武徳祭大演武会の開催 武術教育機関・教育施設の建設 武術に秀でた者の表彰 古武器の蒐集 伝統武術の保存 武徳、伝統武術、古武器に関する史料の編纂、紀要の発行 歴史 武徳会で剣道を練習する渡辺昇子爵 大日本武徳会員之章[2] 1895年(明治28年)、京都において丹羽圭介、佐々熊太郎、鳥海弘毅、渡辺昇を中心として、武術教育による精神鍛錬とそれを支える団体の組織化が目指され、同年4月には大日本武徳会の発起人総会が開かれた。 設立当初は、明治天皇の行幸に合わせて、天皇が観覧する試合、すなわち天覧試合を開催することを目的としていたが、行幸が中止となったため、全国組織として展開することに方針が転換した。そこで、時の参謀総長であった小松宮彰仁親王を総裁に迎え、警察を中心として、内務省の地方組織を活用する形で組織の展開がはかられた。 武徳会は、会員から会費(義金)を募ることでその運営を行い、会員数が目標に達した地域から順次支部を建設していった。府県支部長は府県知事、郡支部長は郡長、市町村支部長は市町村長がその地位に就いた。明治期にあって同様の組織形態をとった団体には、日本赤十字社、帝国水難救済会、日本海員掖済会、帝国海事協会、愛国婦人会[注釈 1]などがあった。他団体の募金活動は、府県庁、郡役所、市役所、町村役場の一般職員が担当したのに対して、武徳会の募金活動は主に警察官が担当した。 1909年(明治42年)には財団法人化し、組織の強化がはかられた。同年の段階で、会員数151万人、資金量181万円の一大団体となっていた。 1938年(昭和13年)、武道審議会の設置が帝国議会で承認され、それを受けて、翌1939年(昭和14年)12月23日、厚生大臣の諮問機関「武道振興委員会[注釈 2]」が設置され、同委員会は武道を総合統制する団体の組織化や政府内部に武道関連部署の設置等を政府側に答申している。 1941年(昭和16年)5月には厚生省体力局武道課が新設された。同年12月22日、太平洋戦争が開戦し、同年12月、同じく厚生大臣諮問機関の「国民体力審議会[注釈 3]」は、新設する武道団体は政府の外郭団体として厚生省、文部省、陸軍省、海軍省、内務省の5省共管によるものとし、既存の武徳会を包含する形で新たな武道団体に改組・帰一させる旨を答申した。 これを受けて1942年(昭和17年)3月21日、既存の武徳会は改組され、会長に内閣総理大臣東條英機、副会長に厚生大臣小泉親彦、文部大臣橋田邦彦、陸軍大臣東條英機(会長兼任)、海軍大臣嶋田繁太郎、内務大臣湯沢三千男の各大臣と学識経験者1名をそれぞれ招き、理事長に民間人、各支部長には各地の知事をあて、本部は京都の武徳殿から東京の厚生省内に移転した。こうして政府5省が共管する新たな大日本武徳会が発足し、戦争翼賛団体の性格を強めた。同年度末には、全国に支部を建設し、会員数224万人、資金量559万円という膨大な会員と莫大な資金を持つ巨大組織となっていた。 政府の外郭団体となった武徳会は、大日本学徒体育振興会、講道館、日本古武道振興会(初代会長小山松吉)、大日本剣道会(菱刈隆陸軍大将を会長)、皇武会などを包摂組織とし、統制を行った。また、剣道、柔道、空手、銃剣道、射撃道などの各部会を設け、各武道の振興にも寄与した。

  • @tamakifujiwara5242
    @tamakifujiwara5242 Жыл бұрын

    自称宗家が7つもあり、ドイツ人の若造を広告等にしているところもあれば、賤金朱子学を武士道と勘違いしているものもあるということですね

  • @user-ir5xo2qc2o
    @user-ir5xo2qc2o Жыл бұрын

    香道ー3 組香 (くみこう)とは、ある一定のルールに即した香りの楽しみ方の一つである。文学的要素から一般教養等、多種多様の分野に取材したルールに則って香りの異同を当てるもので、非常にゲーム性に富む。ただし、その本質は香りを聞き、日頃の雑踏の外に身を置いて、静寂の中でその趣向を味わうことにあり、答えの成否、優劣を競うものではないとされる。 季節感のある組香は、その季節に行われる。 客の回答は執筆とよばれる記録係によって記録紙に書筆、記録され、最高得点を取った人(複数いた場合は正客に近い順に)はその記録紙をもらうことができる。記録紙には、組香名、香銘、回答、成績、日付等が書き込まれる。 以下に組香の例を紹介する。 夏の組香 志野流組香 外組の十番「菖蒲香」 菖蒲香 菖蒲香(あやめこう)は、夏に行われる組香の一つである。 証歌は「五月雨に池のまこもの水ましていつれあやめと引きそわつらふ」である。『源平盛衰記』陀巻第十六に取材している。その内容は、以下の通りである。 鳥羽院の女房に菖蒲前という美人がおり、頼政は一目惚れをしてしまう。頼政は菖蒲前に手紙をしばしば送るが、返事はもらえなかった。そうこうしているうちに3年が経過し、このことが鳥羽院に知られてしまう。鳥羽院は菖蒲前に事情を聞くが、顔を赤らめるだけではっきりとした返事は得られない。そこで、頼政を召し、菖蒲前が大変美しいというだけで慕っているのではないか、本当に思いを寄せているのかを試したいと発願する。 そこで、菖蒲前と年恰好、容貌がよく似ている女二人に同じ着物を着せ、頼政に菖蒲前を見分けて二人で退出するように申し付けた。頼政は、どうして院の御寵愛の女を申し出ることができようか、ちょっと顔を見ただけなのに見分ける自信がない。もし間違えれば、おかしなことになり、当座の恥どころか末代まで笑いものになってしまうと困って躊躇していると、院から再び仰せがあったので、「五月雨に沼の石垣水こえて何かあやめ引きぞわづらふ」という歌を院に奉る。 院はこれに感心し、菖蒲前を頼政に引き渡す。 手順は以下の通り。 5種の香を用意する。 「四」を焚き出し、香りを覚える。「四」だけに試みがある理由は頼政がよそながら菖蒲を見たことがあるからである。 一から五を全て打ち交ぜ、焚き出す。「四」のみを探すため、自分が一、二、三、五であると思った香は聞き捨てる。一、二、三、五は、菖蒲前とともに頼政の前に並んだ女房たちをあらわしている。 客は記紙に、聞き捨てた順に一、二、三、五とかくが、聞き当てる四の香を出たところに織り込み、右肩に「アヤメ」と記し、菖蒲の存在を明示する。 秋の組香 菊合香(きくあわせこう)は、秋に行われる組香の一つである。 証歌は「秋風のふき上げに立てる白菊は花かあらぬか波のよするか」(『古今和歌集』所載、菅原道真)であり、秋風の吹く吹上の浜に立っている白菊は、花なのか、それとも波が寄せているのか見間違えるほどだという歌の意味を組香のルールに取り込むことで、組香に情景を取り込んでいる。 2種類の香(秋風4包内1包試、白菊3包無試)を用意する。 秋風を焚き出し、香りを覚える。 秋風3包、白菊3包を打ち交ぜて、2包を抜き、残りの4包を焚き出す。こうすると、残る香が秋風1包と白菊3包、秋風2包と白菊2包、秋風3包と白菊1包という出方がありえるが、これは、歌にあるように「花なのか、風によって作られる波なのかを見間違える」という点に取材し、客が、花と波のどちらであるかを判断するかを楽しむまた、情趣を感じられるように和歌を取り込んでいることがよくわかる。 客は、秋風、白菊の出を、記紙に記して提出する。 執筆は客の回答にのっとり、記録紙の客の回答の下に、客の回答が菊多ければ「菊」、同数なら「花」、風多ければ「波」と記す。これも、花が多ければ菊と見た、風が多ければ波と見たというように歌に重ねている。 雑の部 源氏香の図 源氏香(げんじこう)は、香道の楽しみ方の一つである。源氏香の成立は享保の頃と考えられ、『源氏物語』を利用した組香である。 「源氏香」では、5種の香木を各5包ずつ(計25包)用意する。 香元はこの25包を切り交ぜ、中から任意の5包をとってひとつを焚き、客に香炉を順にまわし、香を聞く。これを5回繰り返す。 香炉が5回まわり、すべての香が終了したあと、客は5つの香りの異同を紙に記す。この書き方こそが源氏香の特徴である。まず5本の縦線を書き、右から、同じ香りであったと思うものを横線でつないでいく(たとえば、右図の2段目右から3番目の「澪標」は、1、2、4番目に聞いた香が同じ香りで、3番目、5番目に聞いた香はそれぞれ独立した香りであるという意味)。この5本の線を組み合わせてできる型は52通りあり、この52通りの図を『源氏物語』五十四帖のうち「桐壷」「夢浮橋」を除いた五十二帖にあてはめる[1]。この対応関係を記したものが「源氏香の図」である。客はこの「源氏香の図」を見ながら自分の書いた図と照合し、源氏物語の該当する巻名を書いて答とする。 完全に正解すると、記録紙に「玉(ぎょく)」と書かれる。 競馬香(くらべうまこう)は、よりゲーム性の強い香道の楽しみ方の一つ。 まず、客は2つのチームに別れる。 4種の香木を4包ずつ(合計16包)用意し、4種を1包ずつ焚いて香りを覚える。 次に残った12包から2包をとって10包とし、これを順不同に焚いて、試香の何番目と同じだったかを当てる。客の正解数を足したものがチームの得点となる。専用の盤上には、2頭のウマと騎手のコマが置かれ、騎手が乗馬するのに1点、あとは1点ごとに4マスを進める。チームが0点であれば落馬とし、馬同士が5マス以上開くと、遅れているほうを落馬とする。落馬から再度乗馬するのに1点が必要とする。 先に勝負木(ゴール)を超えたほうが勝ちとする。 香道の古典 『香道秘伝書』建部隆勝 『香道規範』志野流4世家元 蜂谷宗悟 『香道箇條目録』志野流9世家元 蜂谷宗先

  • @user-th7qu1lr1r
    @user-th7qu1lr1r Жыл бұрын

    剣道の理念の 「人間形成の道である。」がありますが 小学生の時は意味が分かりませんでした。 武道とスポーツをごっちゃにしていたからだと思います。 武道競技でオリンピックに出るのやめましょうか笑笑

  • @WRC80Evolution-R
    @WRC80Evolution-R Жыл бұрын

    武道の大切さをもっと広めなければなりませんね。(^_-)☆

  • @user-ir5xo2qc2o
    @user-ir5xo2qc2o Жыл бұрын

    香道ー2 六十一種名香 志野流初代志野宗信が、足利義政の命により、足利将軍家所持(佐々木道誉蒐集)の180種の名香を分類するとともに、三条西実隆公所持の66種をさらに精選、追加、入れ替え等を行い、「六十一種名香」を定めた。彼は、その選定過程で、すべての香木を「六国五味」で判別、鑑賞することを極めていく。志野流の香木の極めは、現家元まで変わらずこれを基準とし、現在も香木の極め(鑑定)をつけている。 六十一種名香 香名 六国 五味 香名 六国 五味 香名 六国 五味 香名 六国 五味 香名 六国 五味 法隆寺 佐 酸苦甘 東大寺 伽 甘苦辛酸鹹 逍遥 伽 酸苦甘鹹 紅塵 伽 苦甘辛 眞芳野 伽 辛苦酸甘 枯木 国 苦甘辛 中川 蛮 苦酸甘鹹 法華經 伽 甘鹹苦 廬橘 賀 苦酸甘 八橋 国 辛苦 園城寺 伽 辛苦 似 伽 苦甘鹹 冨士烟 新伽 甘酸苦辛 菖蒲 国 苦辛 般若 伽 苦辛甘 鷓鴣斑 伽 甘苦鹹 青梅 伽 苦酸 楊貴妃 伽 甘苦鹹辛 飛梅 伽 苦辛酸甘 種ヶ嶋 伽 苦辛 澪標 伽 苦甘 月 伽 苦甘辛 龍田 伽 辛苦 紅葉賀 伽 苦甘 斜月 伽 苦酸 白梅 蛮 辛酸 千鳥 伽 苦酸 臘梅 寸 酸甘辛 八重垣 伽 苦鹹 花宴 賀 辛酸 花雪 賀 苦酸 明月 伽 辛酸 賀 賀 甘苦辛 法華 伽 甘苦 蘭子 蛮 辛苦鹹 卓 伽 苦辛 橘 賀 苦酸 花散里 伽 苦酸 丹霞 伽 苦酸 花筐 新伽 甘苦辛 上薫 伽 酸苦 須磨 蛮 酸苦 明石 蛮 酸鹹苦 十五夜 伽 苦鹹辛 隣家 伽 苦辛 手枕 伽 苦辛 夕時雨 蛮 苦鹹 有明 賀 苦甘 雲井 蛮 苦甘 紅 伽 甘辛 初瀬 新伽 酸辛苦 寒梅 蛮 甘辛苦 二葉 羅 苦甘 早梅 蛮 辛甘 霜夜 伽 甘酸 七夕 蛮 甘辛 寝覚 伽 甘酸 篠目 伽 苦辛鹹 薄紅 伽 甘辛 薄雲 伽 苦辛 上馬 伽 辛甘苦 伽=伽羅、国=羅国、賀=真那賀、蛮=真南蛮、寸=寸門陀羅、佐=佐曽羅、新伽=新伽羅。 香十徳 香道に関する十の徳。北宋の詩人の黄庭堅が香に関する訓や効用を記したもので、日本へは一休宗純が紹介した。香りは量ではなく、質が重要としている。 感格鬼神 感は鬼神に格(いた)る - 感覚が鬼や神のように研ぎ澄まされる 清浄心身 心身を清浄にす - 心身を清く浄化する 能除汚穢 よく汚穢(おわい)を除く - 穢(けが)れをとりのぞく 能覚睡眠 よく睡眠を覚ます - 眠気を覚ます 静中成友 静中に友と成る - 孤独感を拭う 塵裏偸閑 塵裏に閑(ひま)をぬすむ - 忙しいときも和ませる 多而不厭 多くして厭(いと)わず - 多くあっても邪魔にならない 寡而為足 少なくて足れりと為す - 少なくても十分香りを放つ 久蔵不朽 久しく蔵(たくわ)えて朽ちず - 長い間保存しても朽ちない 常用無障 常に用いて障(さわり)無し - 常用しても無害 香道具 香炉 聞香炉(もんこうろ、ききこうろ)- 香を聞くために用いる香炉で、特に志野流で使用する香炉を「志野香炉」とも言う。また、一対での香炉使用の始めは、志野流流祖志野宗信が足利義政より拝領した青磁一対の「雪・雨の香炉」と言われている。 火取り香炉(ひどりこうろ)- 手前をするときに、炭団を入れて持ち運ぶために利用する。 火道具 香を焚きだすために使われる道具。御家流と志野流では使う道具の形状が異なる。 銀葉挟(ぎんようばさみ)- 銀葉を扱うときに利用する、特殊な形をしたピンセットのようなもの。香炉にのせるときに、銀葉を抑えるのにも利用するため、手に持ったときに下側になる挟の先の部分が平らになっている。 香筯(きょうじ)- 香木を扱うときに利用する。 香匙(こうさじ)- 香木を銀葉の上にのせるときに利用する。 鶯(うぐいす)- 組香において、香元が香木を香炉に乗せたあとに、本香包みをまとめるのに利用する。 羽箒(はぼうき)- 香炉の灰を切るときに、香炉の縁についてしまった灰を掃除するのに利用する。 火筯(こじ)- 灰を切ったり、炭団を扱ったりするときに利用する。 灰押(はいおし)- 香炉の灰を山形に整えるのに利用する。 きょうじ、こじの「じ」は竹冠に助であるが、一部の日本語環境では表示できないかもしれない。 盆・箱、関連 点前の必需品を納めたり、さまざまな雑用に利用される道具。 乱箱(みだればこ) 四方盆(しほうぼん) 志野袋(しのぶくろ)- 志野流四方盆手前時などに使用する香木・銀葉を入れておく総包の一種であり、金襴緞子や錦などの布で作る底付昨日丸巾着。元来、香会に参会するときにお香数種を入れて各々が持ち寄るものであった。紐の結びは、基本表十二か月の花結びに、裏十二か月も存在し、長緒、三つ輪、雄雌蜻蛉、封印結びなどが伝わる。入門後、口伝により志野流家元から結び方を伝授してもらう。 長盆(ながぼん) 重香合(じゅうこうごう) 総包(そうづつみ)- 志野流では特に「志野折」(しのおり)と言い、ふく包という風流な往古の折形を初代志野宗信が香包に用いたのが最初と言われている。折形が難しいので宗匠にお願いして折ってもらって用いたというところから「志野殿折」と呼ばれ、やがて殿の字を抜いて「志野折」というようになった。 その他 地敷き(じしき)- 地敷紙ともいい、聞香道具を並べ置く厚紙。御家流と志野流では描かれている模様が違う。志野流の地敷は後西院帝勅作。 香盤(こうばん) 香札(こうふだ)- 十種香札ともいう。札聞きと呼ばれる方法によって回答がなされるときに、答えを投票する板。表は植物の絵、裏に一から三の文字が3つ(月、星が縁に書かれているものと無地のもの各一つずつ)、客が3枚の計12枚が1セット。 銀葉(ぎんよう) 名乗紙(なのりがみ)- 回答を出すときに、書筆する紙。 香包(こうづつみ)- 香木を焚き出す前に包んでおく紙。 六国五味 香道では香木の香質を味覚にたとえて、辛(シン)、甘(カン)、酸(サン)、鹹(カン)、苦(ク)の5種類に分類する。これを「五味」という。 また、その含有樹脂の質と量の違いから以下の6種類に分類し、六国(りっこく)と称する。 木所 読み方 伽羅 きゃら 羅国 らこく 真那賀 まなか 真南蛮 まなばん 寸門陀羅 すもんだら 佐曽羅 さそら これらを総じて六国五味という。 また、現代ではさらに新伽羅(しんきゃら)が分類されることもあるが、これは古い資料には見られない。 聞香 香を一定の作法に則って香を聞くことを「聞香」(もんこう)という。 作法の例として、香炉の扱い方を取り上げる。志野流香道では、左手の上に聞香炉を置き、親指を縁にかけ、香炉を反時計回りに回して灰の上に記される「聞き筋」(灰の上には形作るときに一本太い筋が作られるが、これを「聞き筋」といい、この方向が香炉の正面に一致する)を自分とは反対の側へ向け、右手を筒のようにして香炉の上に覆い、その間に鼻を近づけて香を聞くとする。

  • @NHK-Scramble
    @NHK-Scramble Жыл бұрын

    うーん。お香は炊いたことがないけど、お線香は毎日あげています。 嗅ぎなれて居るのでお線香の香りを嗅ぐと気が落ち着きます。

  • @user-le1gp4ld2z
    @user-le1gp4ld2z Жыл бұрын

    遊びの運動も戦力が拮抗するように人員を都度入れ替える子供の世界は実は凄いのかも

  • @user-pn3yi8ti2w
    @user-pn3yi8ti2w Жыл бұрын

    合成香は非常に有害ですが、テレビや雑誌のCMで騙されている人たちが多くお困っています。

  • @MatsubaAgeha
    @MatsubaAgeha Жыл бұрын

    漫画「花の慶次-雲のかなたに-」の(戦国時代が終わって) 「これからは金で動く世の中になる」という台詞が思い出される。

  • @user-os8ct4vo3z
    @user-os8ct4vo3z Жыл бұрын

    難しい

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c Жыл бұрын

    武の神 ・建御雷神 (たけみかづち、タケミカヅチノオ)は、日本神話に登場する神。 概要 「地震のおかげで普請が増え、大工が儲けて大喜びしている」という、地震よけの歌にかこつけた風刺画(安政2年10月の瓦版)。ナマズを抑えるのは鹿島神ことタケミカヅチ[1] 『古事記』では建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)、建御雷神(たけみかづちのかみ)、別名に建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)と記され、『日本書紀』では武甕槌や武甕雷男神などと表記される。単に「建雷命」と書かれることもある[2]。また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる[3]。 雷神、かつ剣の神とされる[2]。後述するように建御名方神と並んで相撲の元祖ともされる神である。また鯰絵では、要石に住まう日本に地震を引き起こす大鯰を御するはずの存在として多くの例で描かれている。 古事記・日本書紀における記述 神産み 神産みにおいて伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)が火神火之夜芸速男神(カグツチ)の首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張」(アメノオハバリ)の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱である[4]。剣のまたの名は伊都尾羽張(イツノオハバリ)という[5]。『日本書紀』では、このとき甕速日神(ミカハヤヒノカミ)という建御雷の租が生まれたという伝承と、建御雷も生まれたという伝承を併記している[6]。 ・経津主神 (ふつぬしのかみ、正字:經津主神)は日本神話に登場する神である。『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。別名はイワイヌシ(イハヒヌシ)で、斎主神または伊波比主神と表記される。『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』では布都怒志命(ふつぬしのみこと、布都努志命とも)として登場する。『常陸国風土記』に出てくる普都大神(ふつのおおかみ)とも同視される。 香取神宮(千葉県香取市)の祭神であることから、香取神、香取大明神、香取さま等とも呼ばれる。経津主神は、香取神宮を総本社とする日本各地の香取神社で祀られている。 系譜 『日本書紀』巻第一(神代上)の第五段(神産みの段)の第六の一書では、伊弉諾尊(イザナギ)が火の神・軻遇突智(カグツチ)を斬ったとき、十握剣の刃から滴る血が固まって天の安河のほとりにある岩群・五百箇磐石(イオツイワムラ)となり、これが経津主神の祖であるとしている[1]。第七の一書では、軻遇突智の血が五百箇磐石を染めたために磐裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神が経津主神を生んだとしている[2]。巻第二(神代下)の第九段の本文も経津主神を「磐裂・根裂神の子、磐筒男・磐筒女が生(あ)れませる子」としている[3]。『古語拾遺』にも「経津主神、是れ磐筒女神の子、今下総国の香取神是れなり」とある[4]。 『先代旧事本紀』巻第一(陰陽本紀)によると、伊弉諾尊の剣の先から飛び散った血が湯津石村(ユツイワムラ、『書記』の五百箇磐石)に走り就くと磐裂・根裂神が出てきて、その子の磐筒男・磐筒女が経津主神を生んだ[5]。 神話 葦原中国平定 稲佐の浜 『日本書紀』巻第二の第九段本文によると、葦原中国へ派遣された天稚彦(アメノワカヒコ)の死後、高皇産霊尊(タカミムスビ)が諸神を集めて次に遣わすべき神を決めようとした時、選ばれたのは経津主神であった。すると、熯速日神(ヒハヤヒ、甕速日神の子)の息子武甕槌神(タケミカヅチ)が進み出て、「経津主神だけが大夫(ますらお、雄々しく立派な男の事)で、私は大夫ではないというのか」と抗議した。こうして経津主神に武甕槌神を副えて葦原中国を平定させることにした。 ・八幡神 (やはたのかみ、はちまんしん)は、日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた[1]。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され[2]、神社内に神宮寺が作られた。 武家の守護神 清和源氏、桓武平氏を始めとする武家に広く信仰された。 『吾妻鏡』「文治五年の条」には、源頼朝が9月21日に胆沢の鎮守府にある鎮守府八幡宮への参詣の様子が記されており、この八幡宮が坂上田村麻呂によって蝦夷征討の際に勧進され、弓箭や鞭などが納められ今も宝蔵にあるなど由来を記している[16]。八幡神を崇敬していた鎌倉方が、平安京の南西に石清水八幡宮が勧進されるより以前に、田村麻呂によって陸奥に八幡神が勧進されていたことに驚いて『吾妻鏡』に記述した[17]。 清和源氏は八幡神を氏神として崇敬し、日本全国各地に勧請した[6]。源頼義は、河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)に勧請して壺井八幡宮を河内源氏の氏神とした。また、その子の源義家は石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」を名乗った[6]。 平将門は『将門記』では天慶2年(939年)に上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩によって「新皇」の地位を保証されたとされている。このように八幡神は武家を王朝的秩序から解放し、天照大神とは異なる世界を創る大きな役割があったとされ、そのことが、武家が守護神として八幡神を奉ずる理由であった[18]。 ・源 義家 (みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。伊予守・源頼義の長男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。父源頼義の異母弟で信濃源氏の祖である源頼季の甥に当たる人物で、頼季の子で安芸井上氏の祖となった井上頼資とは従兄弟同士の関係になる。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は逼塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な臆測がされてきた。生前の極位は正四位下。 後三年の役が私戦とされて恩賞が出なかったため、義家は河内石川荘の自分の私財を投じて部下の将士に報奨を与え、武家の棟梁としての信望を高めたといわれる。ただし平安時代末期の『奥州後三年記』にはその記述はない。後世では、東国における武門の習いは義家が整備したといわれ、その名声は武門の棟梁としての血脈としての評価を一層高めることとなったというのは、主に南北朝時代の末に、義家の子孫である足利幕府の正統性をうたう為に書かれた『源威集』にある「諸家輩、源家将軍ヲ代々仁王ト奉仰ハ此故也」からの派生。 ・源 義光 (みなもと の よしみつ)は、平安時代後期の武将。河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。甲斐源氏初代当主。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(賀茂次郎)がいる。近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。左兵衛尉、刑部丞、常陸介、甲斐守、刑部少輔を歴任。また父の源頼義の弟で信濃源氏の祖でもある源頼季や信濃村上氏の祖源頼清は彼の叔父にあたる。 義光は弓馬の術にたけ、音律をよくしたという伝説がある。古武道の大東流合気柔術では、義光を開祖としている。また、流鏑馬に代表される弓馬軍礼故実である弓術、馬術、礼法の流派である小笠原流や武田流などは、古の武家の心と形をいまに伝えている。そして武田氏の嫡流に伝わった盾無鎧や、南部氏が今に伝えた菊一文字の鎧などにもそれは見られる。

  • @user-ti4ku2dp2l
    @user-ti4ku2dp2l Жыл бұрын

    武の現場は何でもありの秩序のない環境で、その中の必死の努力が、生き残るための武術やこうやって死ぬんだと腹を決める武道の発生に繋がったのかなと思いました。 お話を伺って、信仰や秩序や文化に繋がる要素は武道にあるんだなと思いました。

  • @TOkk-ul3mr
    @TOkk-ul3mr Жыл бұрын

    ありがとうございますm(_ _)m 観たかったのは、こういう事です!! 自分には武道の心得は無いですが、あるべき生き方を教えて頂ける師を欲する気持ちが強くなりました。

  • @user-uj8wq8hj2x
    @user-uj8wq8hj2x Жыл бұрын

    フェンシングも本来のフェンシングと全然違くなってしまってる。 本来のフェンシングは日本の剣術並みに高度だしすごく戦闘的な技もたくさんあるしねー。 ほんとねー。。

  • @k1n1z1w1
    @k1n1z1w1 Жыл бұрын

    そういえば、武士の時代?腕試し(試合)は生死をかけたものだったのでしょうか。御前試合とか聞きますが、あれも木刀を持って再起不能になるほどだったとか。門下生は何を目指していたのでしょう。ある意味、自分の命を懸ける場面のために生きているのが武士なのかもしれません。覚悟が違う(そんな場面が想像すらできない)現代人は、まずこの心を学ぶべきなのかもしれませんね。

  • @itoyu2003
    @itoyu2003 Жыл бұрын

    武士道精神とかで自分を鍛えるのは勝手だが、その精神を他人に押し付けてくるには、非常に迷惑です。

  • @user-bc4bo7il2h
    @user-bc4bo7il2h Жыл бұрын

    江戸時代以前は、武道とは言わなかった。 武道とは、明治以降の言葉。 剣道という言い方も存在しなかった。そもそも、剣道というものすらなかった。剣道とは、明治以降にそれまでの各流派の剣術をまとめたようなもの。

  • @user-ir5xo2qc2o
    @user-ir5xo2qc2o Жыл бұрын

    香道ー1 (こうどう)とは、主に東南アジアで産出される沈水香木など各種香木の香りを鑑賞する[1]、日本の芸道である。香道は禅の精神を大事にし、礼儀作法・立居振舞など約束事の多い世界であり、上達するにつれ古典文学や書道の素養も求められる。しかし、香道の原点は何よりも、香りそのものを楽しむことにある。伝統的な香道の作法にとらわれず香を楽しむ人や、そうした用途に販売されている香製品も多い[1]。 香道においては香を「聞く」と表現し[1]、「嗅ぐ」という表現は不粋とされる。香木の香りを聞き、鑑賞する聞香(もんこう)と、香りを聞き分ける遊びである組香(くみこう)の二つが主な要素である[1]。香木は生き物、その一つ一つに魂が宿ると考え、この稀少な天然香木を敬い大切に扱う。「聞く」という言葉を使う意味は、現代においては、香木の香りを通じて自然や地球の声を聞き、自然と一体化し、同時に自身と向き合うことと説明される[1]。 歴史 『日本書紀』によると、香木は推古天皇3年(595年)に淡路島に漂着したといわれる[2]。日本の香文化の源流は古代インドから中国を経て、仏教とともに入り、香木が焚かれるようになることに始まる。平安時代になると、宗教儀礼を離れて、香りを聞いて鑑賞するようになり、薫物合せ(たきものあわせ)などの宮廷遊戯が行われた[3]。この宗教の香・貴族の香に鎌倉時代以降の武士の香、そして禅の教えが加わり、茶道や華道、能などとともに室町時代に誕生、婆沙羅大名はじめ一部上流階級の贅を極めた芸道として発展する。なかでも香道は、それら中世芸道のエッセンスを凝縮した文化として洗練度を高め、当時としては非常に稀少な東南アジア産の天然香木を研ぎ澄まされた感性で判別するという、独自の世界を構築するに至る。このころ、それぞれに異なる香りを有する香木の分類法である「六国五味」(りっこくごみ、後述)なども体系化された。 慶長11年(1606年)ごろから徳川家康による朱印船貿易が行われるようになるが、主目的は極上とされた伽羅の買い付けに絞っており、香道の用材として必要としていたからである[4]。 炷き方 香道においては、線香等のように直接点火する香は用いない。聞香炉に灰と、おこした炭団を入れ、灰を形作り、その上に銀葉という雲母の板をのせ、数ミリメートル角に薄く切った香木を熱し、香りを発散させる方式がとられる。銀葉を灰の上で押すことにより、銀葉と炭団の位置を調節する。これにより伝わる熱を調節し、香りの発散の度合いを決める。香道具の種類、形状および作法は流派によって異なる。 香道の流派 御家流と志野流が二大流派である[1]。 御家流(おいえりゅう) 三条西実隆を流祖とし[1]、室町時代以来大臣家である三条西家によって継承されたが、のちに亜流は地下(武士・町人)にも流れる。第二次世界大戦後、一般市民(民間)の香道家・一色梨郷や山本霞月などにより、堂上御家流香道を継承していた三条西尭山が正式に近代御家流宗家として推戴され、三条西家の当主が御家流家元を継承している。なお、御家流の香人は自身の流派を「当流」と称する。現宗家は三条西尭水。 なお、一般には御家流とは各芸道ごとに、特定の流派を指す言葉である。 志野流(しのりゅう) 東山文化のリーダーであった室町幕府第八代将軍足利義政の近臣だった志野宗信[1](1443-1523年)を流祖とし、3代省巴( -1571年)が隠棲する際、流儀の一切を高弟であった4代宗悟(-1584年)に譲り、初代宗信からの志野流の精神を一度も途切れることなく現家元の幽光斎宗玄まで継承してきている。葵祭前儀である上賀茂神社での献香祭も担う[1]。途中、幕末の戦乱に巻き込まれ、特に禁門の変では家屋を消失してしまい家元存続の危機があったが、尾張徳川家を中心に、尾張地方の名士たちがパトロンとなり流儀は守られる。現在、志野流家元は、愛知県尾張(名古屋城近く)に居を構えている。なお、志野流における「入門」は、その伝統・道程を守るため一子相伝の制度をとっており、家元とともに志野流香道の精神と伝統を生涯にわたり守り続けることを誓約した者(古くは血判の誓約書を家元に提出)のみが許される。したがって、志野流香道で学んだ伝統、秘伝、および作法等に関する知識、技能は他言してはならず、志野流香道で学んだ知識などをもとに、自ら流派、組織を立ち上げることは当然許されていない。正規の国内教場は約200か所、海外教場は10か所と近年さらに拡大している。入門者は約2,000人[1]。 米川流(よねかわりゅう) 東福門院に指南したことで知られる米川常伯を祖と仰ぐ、志野流が正式に認めた分流。大名家に広く支持されたが明治維新後の廃藩により絶えている。 後代の新流派(団体)  上記より時代が新しい流派(団体)。また、活動は確認できるが系譜未確認の流派。「家元制度」は、いわゆる素人弟子たちが家元から入門を許されたあと、その流儀に伝わる秘伝書や技能を学び習得していくのであるが、西山松之助著『家元ものがたり』に、「それは決して公開してはならない。そういう血判の誓約書を本来は弟子から家元に提出することになっている」とあるように、家元制度の観点からして独立、分派というものは存在し得ない。なお、相伝には一子相伝(志野流)と完全相伝(御家流)とがあり、完全相伝については、この限りではない。 風早流 風早実種が創設した御家流の一派。江戸時代前期の公卿風早実種を祖とする御家流の分流であるが、2017年時点は勢力が小さい。 古心流(柳原家) 泉山御流(家元・泉涌寺長老) 泉涌寺長老を御家元と仰ぐ香道の流派。 香道翠風流(こうどうすいふうりゅう) 福岡県の旧柳川藩に伝わる香道を、大正年間に流祖江頭環翠(かんすい)が再興し、翠風流を創流。 香雅流 香道御家流 霽月会 前・家元山本霞月の流れを汲む流派。山本霞月は途絶えかけていた御家流を復興するために志野流を離れた。 香道直心流 関東の流派。家元は松崎雨香。会長は浅草寺第24世貫首、清水谷恭順大僧正。「香木」だけでなく平安時代の「薫物」の文化も後世に伝えようと、志野流から独立。浅草寺大僧正とともに香道の存続に奔走し、カルチャーセンターに香道を持ち込む。 香道御家流桂雪会 1963年(昭和38年)発足。香道を自由に探求し、楽しみ、それを通じて日本文化への理解を深めようという趣旨で出来たグループである。 平安朝香道 2005年(平成17年)発足。

  • @user-bc4bo7il2h
    @user-bc4bo7il2h Жыл бұрын

    北辰一刀流の開祖も元々武士ではなかったけどなぁ。

  • @nodatetsu8726
    @nodatetsu8726 Жыл бұрын

    自分の知識では幕末、北辰一刀流は道場剣術と揶揄されていたと思う。

  • @shinoharanatuki
    @shinoharanatuki Жыл бұрын

    8:42 北辰一刀流の宗家が七つも在る、ことと外国人までもが宗家を名乗っている話を初めて伺い、驚いて検索をかけてみたら・・・ ドイツ人の「イケメン宗家」なる画像が出るわでるわ・・・ もはやコレほどまでになってしまっているとは。 僕の従兄が剣道の七段を取ったのが60歳にも近くなった頃で、そのくらいの年齢に達しないと、そう簡単には受からせてもらえないのだと言っていた。 その息子も30近くで五段、そうゆうものなのらしい。 それくらい、最上位とされている八段を持った域に達したひとともなれば、もう構えただけでオーラが見えるそうだ。 それほどの武道の世界が・・・そんな事になってしまったとは。 外国人が20歳代で宗家を名乗るなどと・・・。 ・・・どうなってしまうんだろう日本は。

  • @user-zh3vy8hy9q
    @user-zh3vy8hy9q Жыл бұрын

    凄くわかります 最近言われてる能力制度に、争いの始まりと日本精神の崩壊の危険性を感じています

  • @user-ke7cv8lo7p
    @user-ke7cv8lo7p11 ай бұрын

    果た試合を辞書で調べました。 『はたし‐あい〔‐あひ〕【果(た)し合い】 の解説 争いの決着をつけるため、命をかけて戦うこと。決闘。「―に臨む」』 先生の話とは、だいぶ違うように思いました。 武道の試合とは、互いの生死をかけて、真剣勝負すること。 鎌倉武士の勝負も、 歴史を見る限りは、生死をかけての、一生懸命だと思う。 私は、先生の解釈には、違和感を感じます。

  • @user-hz9xn9dh4s
    @user-hz9xn9dh4s Жыл бұрын

    真実を視つけた人は強いなあ でもそれは日本刀に関わってきたから?でしょうね すばらしい

  • @user-rm6qq8ur1t
    @user-rm6qq8ur1t Жыл бұрын

    明治になり経済のことを考えずに生きていける身分がなくなった。 たとえショーであっても、残してあったから出会うことができたのでは?

  • @user-kj1iz6bv1h
    @user-kj1iz6bv1h Жыл бұрын

    立派に生きたいか!大金持ちになりたいか!君はどちらだね?はい、正直者にバカをみさせて大金持ちになりたいです

  • @punyaki1116
    @punyaki1116 Жыл бұрын

    中学3年間剣道やりましたが、勝っても負けても顧問から罵倒を浴びせられ時には竹刀で張り倒されたりしました。 どうかしてますよね。

  • @user-mz5gd7uh6q
    @user-mz5gd7uh6q Жыл бұрын

    仰る事もわかりますが、スポーツの事をいいすぎな気がします。勝負ごとに結びついてしまいますが、卓球やスポーツを一生懸命やっている方々に失礼です。言い方があるのではないでしょうか?罵倒するように聞こえます。それは「武道」でしょうか? あと、こんな時代だからこそ、武道を剣道を少しでも絶やさないよう工夫して努力し行動している先生方に失礼です。時代の流れは簡単に変えられません。それでも武道の大切さを理解している先生も沢山います。小川先生も「剣道」でも最後まで頑張ってかたのではないでしょうか。自信満々でよく勉強されていて、沢山稽古されていたと思います。しかし、頭でっかちになってないですか?山岡鉄舟、小川先生の教えって直接うけた事はもちろんありませんが、そういうことですかね?残念です。

  • @user-pb2vo2mh9m
    @user-pb2vo2mh9m Жыл бұрын

    ん‼️🧐・・・ごもっとも🤗晴れ🌈

  • @user-jy7bq3hq6l
    @user-jy7bq3hq6l Жыл бұрын

    負けない手相打ちというか、死なない生き延びる手、ですよね。

  • @user-kj1iz6bv1h
    @user-kj1iz6bv1h Жыл бұрын

    まあ今はカワイイで全部済ます時代ですからね

  • @hogohogehage
    @hogohogehage Жыл бұрын

    バレーボールの金儲けのためのルール改悪は残念に思いましたねぇ

  • @user-ir5xo2qc2o
    @user-ir5xo2qc2o Жыл бұрын

    『闘戦経』ー1 (鬪戰經 とうせんきょう)は、平安時代末期に成立したとみられる日本の兵法書(後述)。現存する国内独自の兵法書としては、最古の兵法書である。防衛学研究者の一般的見解では武士道・武士道精神の始まりとされ、鎌倉幕府の御家人・文官御家人の愛読書だったとされる。起源については大江家の家宝を起源とする説が有力であるとされる。 著者・成立 当書を著し、代々伝えてきたのは、古代から朝廷の書物を管理してきた大江家であり、鎌倉幕府の時代では源頼朝から実朝の三代にわたって、兵法師範として伝授してきた一族である。 当書によれば、「永い歳月を経て、虫や鼠にかわりがわり噛まれ、その伝えを失い、何人の作述か(具体的には)知られておらず、大祖宰(大江)維時卿の作とも、大宰帥匡房卿の書なりともされる」とあり、説として、維時か匡房としている。日本兵法研究会会長家村和幸は、時代的に見て匡房の作としている[1]。従って、11世紀末か12世紀初め頃とみられる。当書には、一切、「武士」や「侍」といった語が用いられておらず、「兵」や「軍」としか記されていない。また、内容から権威主義的であり[2]、戦国期(15世紀末から16世紀)における下剋上といった合理・実力主義的な思考[3](中国的戦争観)が全く見られない[4]ことから、まだ武家が権威に対して従順だった時代の頃(鎌倉期以前)の作とわかる(戦国期では通じない精神的な面、「兵の本分とは」といった理念も見られる)。 また、『闘戦経』は度重なる戦乱を経て一部のみ伝わったものとされる。 作述理由 著された理由として、中国兵法書『孫子』における「兵は詭道なり(謀略などの騙し合いが要)」とした思想が日本の国風に合致せず[5](『闘戦経』の内容からも、知略ばかりに頼れば、裏目に出るとした考え方がうかがえる)、いずれこのままでは中国のような春秋戦国時代が訪れた際、国が危うくなるといった危惧から、精神面を説く必要が生じた為、『孫子』の補助的兵書として成立した旨が、『闘戦経』を納めた函(はこ)の金文に書かれている。金文を一部引用すると、「闘戦経は孫子と表裏す」とあり、『孫子』(戦略・戦術)を学ぶ将は『闘戦経』(兵としての精神・理念)も学ぶことが重要であるとした大江家の思想がうかがえる。 名の由来 『闘戦経』の序文において、「闘戦全ての経なるものにして、本朝兵家のうん秘、我家の古書なり」(闘戦全経者、本朝兵家之蘊奥、我家之古書也。)とあり、国内の兵法書において、「経」を冠した兵書がないことからも、経といえる兵法書は当書が初めてであり、これが名の由来とみられる。なお、序文は室町時代に記述されたものとされ、この序を記した大江某とは、応仁の乱以前の大江家当主とみられる[6]。 伝来・由緒 作述されてからは、大江家38代大江広元が、鎌倉幕府・源氏三代に仕えたが、北条家の治世となってからは遠ざけられ、結果として理解しやすい『孫子』・『呉子』が武家社会の間で普及し、『闘戦経』を学ぶ者は一部の武家に限られ、伝えられた[7]。 のちに、41代大江時親は金剛山麓に館を構え、当地周辺の豪族に兵法を伝授するようになる。その中には、鎌倉幕府を倒し、足利家に立ち向かった名将楠木正成もいたとされる[8](当将は最期まで権威に従い、裏切らなかった)。建武中興(1334年)後、時親は安芸国へ行き、毛利家の始祖となる。 戦国期に至り、大江家52代毛利元就の弟である大江元綱は、この書を出羽守の秦武元に授け、さらに彼から伝授された眞人正豊(橘正豊)は、自らを「江家(ごうけ)兵学の正統」と称し、元就の孫(吉川元春の子)たる大江元氏に「源家古法」と共に伝えた[9](この「源家古法」の表現は、当書内にも見られる)。 その後は、江戸期に至り、18世紀中頃の宝暦年間に伊予松山藩の兵法師範木村勝政に伝えられ、藩内において数代にわたって伝え続けられてきた。この他にも、何らかの形を経て、黒羽藩にも伝わっている[10]。 最終的に『闘戦経』は大正15年(1926年)に海軍兵学校に全て寄贈され、戦前の海軍大学校でも、『闘戦経』を講義に用いた[11]。現在9冊の写本が残り、それぞれ、本文だけのもの、注釈つきのもの、釈義のみのものがあり、現在に至るまで、古来の日本兵法思想とは何かといった研究に欠かせない資料となっている。

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c Жыл бұрын

    格闘技、格闘術というのは、力で技を潰すことができるが、武道や武術が一朝一夕に身に付かない理由は思考する以前に、反射で反応するようにならなければ、体得するには及んでいないからであろう。思考と哲学では追いつかないから有事に役に立つものである。あるいは雰囲気、殺気といった氣感と純粋な体感的感性の要素を含むと思われる。どうも北辰一刀流の達人、森虎尾の話を思い出す。 ・森 寅雄 (もり とらお、1914年(大正3年)6月11日 - 1969年(昭和44年)1月8日)は、日本人の剣道家、フェンシング選手。剣道の段位は八段(範士追贈)。米国フェンシング界では「タイガー・モリ」の異名をとった名選手である。昭和初期の日本剣道界、米国フェンシング界でトップクラスの実力を持ちながら、さまざまな事情で優勝を逃した「悲運の剣士」としても知られる。 経歴 生い立ち 群馬県桐生市に野間寅雄として生まれる。曽祖父は幕末の北辰一刀流玄武館四天王の一人である森要蔵。母方の伯父は講談社創業者で野間道場を開設した野間清治。従兄(清治の長男)は後の講談社2代目社長野間恒。寅雄は8歳で野間清治に引き取られ、東京で育つ。 天覧試合予選 1934年(昭和9年)、天覧試合の東京予選に出場し、決勝(5人総当りのリーグ戦)まで勝ち進んだ。その相手の中に野間恒がおり、2人の試合は「事実上の決勝戦」と言われた[1]。この試合において、寅雄は蹲踞から立ち上がるなり、いきなり逆胴を決められ敗北した。この試合は、寅雄がわざと負けて勝ちを譲ったのではないかとの疑惑が生まれ、野間清治から恒のために負けるように詰め寄られたとの噂まで広まった。実際には「(寅雄と恒は)これまで何回か対戦したが、勝ったことがなく、従兄には、どうしても勝てないという先入観があった」というのが原因だったようだが、この結果野間清治と寅雄との関係が悪化し始める[1]。 同年5月、東京代表として天覧試合に出場した恒は優勝を果たし、「昭和の大剣士」と謳われた。 フェンシング 1937年、新天地を求めアメリカ合衆国へ渡る。その地でフェンシングに出会い、フェンシングを習い始めた。翌1938年、南カリフォルニアフェンシング選手権に出場し優勝。さらに南カリフォルニア代表として出場した全米フェンシング選手権では準優勝した。決勝戦は、排日的な審判員の人種差別によって敗れたとされ、実際は寅雄が勝っていたといわれる。わずか6か月の練習で実質的な全米チャンピオンになったことはフェンシング界を驚愕させ、その強さと名前から「タイガー・モリ」と呼ばれた。 ・前田 光世 (まえだ みつよ、男性、1878年12月18日 - 1941年11月28日)は、講道館黎明期の柔道家(7段)である。ブラジル帰化後の本名はオタービオ・ミツヨ・マエダ。1908年にスペインで得た通り名コンデ・コマ(Conde Koma)の名でも知られていた。グレイシー柔術の祖。イベリア半島に滞在している際、前田はコンデ・コマのリングネームを用いるようになった。その由来については諸説ある。コンデはスペイン語で伯爵を意味する。前田自身がヨーロッパの新聞にコンデという称号を持つ自らのリングネームについて次のように語っている。「スペインのある有力者が私の勝利、物腰や態度に感銘を受けてこの称号を授けてくれたんです。すぐにこちらの方が本名よりも有名になってしまいました」。 親日家であったルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウスにて試合を行うも、団長を務めていた講道館四天王の1人富田常次郎が、体重約160 kgの巨漢選手に敗れてしまう(これに関して前田は、「ルールの違いによって敗れた」「富田は苦戦の末引き分けた」など、資料によって記述の詳細が異なるため正確なところは判然としないが、いずれにせよ結果が芳しくないものであったことは確かなようである)。日本柔道の威厳を示すべく雪辱を誓った前田はアメリカに残り、1000ドルという賞金を餌に再びアメリカ全土を周り、挑戦してくるボクサーなどを片っ端から退ける。アトランタでは世界一の力持ちと恐れられたブッチャー・ボーイさえも破っている。その後はメキシコやヨーロッパなど世界各地で異種格闘技戦を行い、ブラジルに辿り着く。この間2000勝以上し、柔道衣着用の試合では終に無敗であった。なお興行試合に出たことで講道館を破門されたとの説が流布している[1]。増田俊也は自著で「三年間の出入り差し止め」が本当のところでブラジルに入る前に破門が解け5段に昇段してる、としている[2]。 補記 ・オイゲン・ヘリゲル (Eugen Herrigel、1884年3月20日 - 1955年4月18日)は、ドイツの哲学者。海外では日本文化の紹介者として知られている。特に弓道を通して禅をひろく海外へ紹介した[1]。 日本文化との関わり 1920年代のドイツはスーパーインフレ下にあり、為替による経済的恩恵に浴した日本人留学生は地元の大学の教員を家庭教師に雇うなどしており、ヘリゲルも大峽秀栄、天野貞祐、石原謙、 北聆吉、 三木清ら哲学系の日本人留学生と交流があった[1]。とくに大峽と北とは読書会を開く仲であり、学生時代から研究していたドイツ神秘主義をより深く理解する鍵として、二人から禅についての知識を得ていた[1]。大峽(1883年生)は東京帝国大学哲学科卒の教師で、文部省派遣の留学生であり、円覚寺の釈宗演の弟子釈宗活から印可を得た禅宗の在家信者でもあった[1]。ドイツ神秘主義のマイスター・エックハルトに惹かれていたヘリゲルは、その思想の根底にある自己から離脱(Abgeschiedenheit)する経験に至る方途がなく、その研究を断念していたが、大峡から禅仏教の存在を聞き、日本ではまさに自己からの離脱を眼目とする修行法の伝統が現代まで受け継がれていることに驚いたという[3]。 ヘリゲルは1924年(大正13年)、東北帝国大学に招かれて哲学を教えるべく来日、1929年(昭和4年)まで講師を務める。この間、阿波研造を師として弓の修行に励み、ドイツに帰国する頃には阿波から五段の免状を受けた。二人の通訳には小町谷操三があたった[4]。 ・阿波研造 (あわ けんぞう、1880年 - 1939年)は、日本の弓術家。弓聖と称えられる。 経歴 宮城県河北町(現在の石巻市)に、麹屋を営む佐藤家の長男として生まれる[1]。小学校卒業後、18歳で漢学の私塾を開き、20歳で石巻の麹屋・阿波家の入り婿となり、家督を継ぐ[1]。21歳で石巻の旧藩士で堂射系の日置流雪荷派の木村辰五郎時隆に師事して弓術を始める[1]。2年ほどで木村に免許皆伝を受け、23歳で自宅近くに自身の道場を開設、30歳のとき、仙台に出て道場を開く[1]。1910年、木村時隆に代わり、第二高等学校の弓道師範を勤める。このころは的中を重視した弓を指導していた[1]。 1913年、東大弓術部師範の本多利實に師事し、日置流尾州竹林派弓術を伝授される(竹林派の流祖は僧侶であったことから、この派の教えには仏教の影響が色濃い)[1]。1917年には大日本武徳会演武大会で、近的二射、遠的五射、金的、以上全皆中で特選一等、日本一の栄誉を得、翌1918年には武徳会から弓道教士の称号を授与される[2]。 徐々にそれまでの自分の弓に疑問を持ち始め、「人間学を修める行としての弓」を追求し始め、嘉納治五郎の「柔術から柔道へ」をヒントに「弓術から射道へ」を提唱し始める[1]。41歳のとき、天啓のような神秘的な一射を体験し、「一射絶命」「射裡見性」を唱え始める[1]。 1926年に同じ本多門下の大平善蔵も「射禅見性」を唱えて「大日本射覚院」を設立し、阿波も参加を求められたが断り、1927年に自ら「大日本射道教(大射道教)」を開く[2]。同年、大日本武徳会から弓道範士を授与される。1939年病没。

  • @user-uj8wq8hj2x
    @user-uj8wq8hj2x Жыл бұрын

    剣道はほんとおかしい!! 「え?これ実戦だったら死んでる攻撃なのに、得点に有効にならない??」ってやる気なくなったもん。

  • @suzuki3600
    @suzuki3600 Жыл бұрын

    お香、いい香りなのに

  • @Sadamori
    @Sadamori23 күн бұрын

    明治維新のせいで消えたのか?まじか

  • @yasuyukihirose7939
    @yasuyukihirose7939 Жыл бұрын

    下士あるいは郷士を蔑み過ぎでは?

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c Жыл бұрын

    武士がそうであったように、克己を体現する武道家、武術家の方々は、環境によってそうせざるを得なかった面があるととして、現代で普及や伝授をするのはやはり困難かというと、千葉家に認められて道統をついだということは、本物志向の方々しか入門してこないだろうから、やはりスポーツや、ショービジネスについてのご指摘は適切なのだろう。実用性が「武」ではなく「月謝」「金を生み出す知名度」になれば、やはり術技も落ちるだろう。外国人伝承者のお話を伺って、極真アメリカ支部では、門下生が雑巾がけで掃除するまでに一手間かかったという話を少し思い出した。 ・柳川 昌弘 (やながわ まさひろ、1939年12月9日 - )は、日本の空手家。東京都出身。和道流空手道八段。全日本空手道連盟和道会柳川道場支部長。日本伝・二聖二天流柔術憲法創始者。 人物・エピソード 彼の人生の苦難は、柳川家のお手伝いさんが2-3歳だった柳川を玄関前の石段に頭から叩きつけたことから始まる。この出来事により彼は顔がつぶれ、歯を失い、耳が狂い、視神経が痙攣するようになる。小学校に入学した柳川は猛烈ないじめに逢う。発熱、嘔吐、下痢を繰り返し、栄養失調の骸骨のような子供時代の彼にとっては、黒板の字を消すという作業すら命がけの労働に匹敵した。 激しい劣等感に悩まされた柳川は、それをバネにして猛烈な修行を積むようになる。中学時代にその修行は本格化し、高校時代には気狂いじみた激しい苦行を行うようになった。自転車を足で挟みながらの懸垂は日課であった。空手と出会ってからは中毒のように巻き藁を突きまくった。食事すら忘れ、出血など眼中になく、朝から晩まで突き続けたこともあったという。 体力のピーク時には体重50kg未満にもかかわらず、500kgほどある鉄道線路を持ち上げることができ、子供四人を肩につるして懸垂も行ったという。1tクラスの乗用車なら前からパンパーを持って、持ち上げることもできた。小型貨物自動車なら前から押さえ、エンジンをかけてもらっても、タイヤを舗装道路でスリップ回転させることができた。 柳川は独特の鍛錬方法をいくつも考案している。その中の一つに、棒立ちになったまま壁に倒れ、額を壁にぶつけて身体を止めるものがある。ビートたけし司会のテレビ番組「スーパージョッキー」でこれが披露された時は、その真剣な姿が逆に笑いの対象になっていた。 柳川は防衛庁に勤めていたが、連日の猛練習のせいで虚脱状態になり、在勤中の4年間一度も始業に間に合ったことがない。 武術研究家の甲野善紀や高岡英夫と交流があった。 施術家の高橋龍三に空手を教えていたことがある。 ・・郭 雲深 (かく うんしん・Guo Yunshen、推定1820年 - 1901年ごろ)は、中国の武術家。形意拳の達人。諱は峪生、字を雲深。 河北省深県馬荘の人。一説によれば、貧しい鋳物鍛冶の子として生まれたといい、若年から好んで拳術を学んだが、数年学んだものの、何ら得るところが無かったという。後に李能然に遭遇し、語り合ったところ、形意拳は形式が極めて簡素ながら、その道の奥深いことを知り、郭雲深は形意拳に憧れを抱くようになったという。こうして李能然は郭雲深に真誠の心があると見て、その門下に収め、自ら親しく教授することとなる。 郭雲深は李能然の教えを受けても自ら悟ることがあり、いよいよ練功に励みて、数十年の間、朝夕欠かさず修練を続けたという。 李能然が郭雲深に教えた手法とは、たとえば2人で対練した時など、一瞬の間に二丈の外に投げ飛ばされてしまう、だが、そこには苦痛は無く、あたかも手を軽々と一振りするだけかのようであるのに、身体が浮かされてしまうのである。その後郭雲深は何を学んでもその極意に達しないものは無かったといわれ、南北各地の同道の士と交流すること広く、体験することも多かったという。郭雲深の練った道理とは、つまるところ腹は実を極め、心は虚を極めることにあったと知られ、また兵書を好んで熟読し、奇門遁甲にすぐれていた。 郭雲深の生涯は波瀾と数多くの伝説に彩られ、敵に半歩進んで五行拳の崩拳の一打を発すると敵は皆倒れた為、人々は「半歩崩拳、あまねく天下を打つ」と賞賛を惜しまなかったという。 また彼の最も有名な俗説に、試合で相手を誤って打ち殺した故に、殺人の罪により監獄に収監され、そこで手枷足枷を付けられたまま虎形拳を練り、虎撲子の一手を編み出したという逸話があるが、これは門内の人間からは全くの誤りであると指摘されている。郭雲深は確かに人を殺め、3年間を獄で過ごしてはいるが、これは義憤に駆られた郭雲深が、ある土地で民衆を苦しめる匪賊の首領の館に害意をもって招かれ、彼にピストルで襲われた際に、愛用の月牙剣(鹿角刀)をもってこれを殺傷して、人々の賞賛を浴びたからであり、また獄での郭雲深は、彼に同情的な官警の者たちの配慮と、彼の義挙に感銘を受けた人々からの多額な献金により、獄での3年間を何不自由なく過ごしたという。 郭雲深は超絶の技法を誇る奇才であったが、時運には恵れず彼の多くの子弟たちとは異なり、世俗での立身出世は叶わず、北方数省で多数の門弟を教授したのみだったという。後に故郷に隠棲し81歳でその生涯を終えた。 ・王向斉 (おうこうさい、王薌齋、1886年 - 1963年7月12日)は、中国の武術家。意拳の創始者。 人物 河北省深県魏林村に生まれる。 幼名を政和、字は宇僧、別字は尼賓、号は薌齋。実戦でのずば抜けた強さから当時、国を代表する拳法の達人「國手」であると人々から賞賛された。 少年時代に形意拳の代表的な達人であった郭雲深の閉門弟子(最後の弟子)となり、形意拳及びその核心である站樁、踐鑚裹の老三拳と龍虎の二法を学び、また、師伯にあたる張樹徳より古傳の大槍を学ぶ。 1913年頃北京陸軍武術傳習所にて五行拳・十二形・雑式錘等を教授し、1918年頃、河南、湖南、湖北、福建省をめぐって数々の中国武術を研究した。 河南省では嵩山少林寺の衝林和尚より心意把を、湖南、湖北、福建省にて解鐵夫、金紹峰、方洽中より白鶴拳を学ぶ。 そのエッセンスを抽出して創意工夫の末に意拳(大成拳)を創始する。 比武(試合)においては、王がただ相手に軽く手を触れたように見える何気ない攻撃を繰出しただけで、相手はまるで落雷に遭ったかのような衝撃を受けて倒れてしまったという。また対戦相手は王の動きを目で捉えることができず、まるで顔が七つあるかのようにも見えたという。 王と関係のあった武術家には、程廷華、劉鳳春、任致誠、肖海波(以上八卦掌)や李瑞東、楊少候、楊澄甫(以上太極拳)、或いは呉翼輝(以上六合八法拳)等がいた。 王の著名な弟子には趙道新、韓星橋、韓星垣、姚宗勲、王玉芳、日本人では澤井健一。 エピソード(武勇談) 16歳の時、武器を持った数十人の土棍(山賊)に襲われたが、王はこれを単身素手で立ち向かって撃退した。後に王は「数が多い敵でも数人を倒せば、後は恐れをなして逃げる。」と述べている。 参考文献 竇世明著『意拳・大成拳創始人王【コウ】斎伝』 ベースボール・マガジン社

  • @user-ir5xo2qc2o
    @user-ir5xo2qc2o Жыл бұрын

    ・商(しょう、あきな-う) 商業 商い(あきない)、商売のこと。またそれを行う者。商業、商人も参照。取り扱う商品や営業形態などを頭に付けて「〇〇商」と称する。 ・精選版 日本国語大辞典「エコノミー」の解説 ① (形動) 節約。 倹約。 また、経済的であるさま。 ② 経済。 ・經世濟民 (けいせいさいみん、経世済民)は、中国の古典に登場する語で、文字通りには、「世よを經をさめ、民たみを濟すくふ」の意。「経国済民」(けいこくさいみん)もほぼ同義である。略して「經濟」(けいざい / 経済)とも言うが、主として英語の「Economy」の訳語として使われている今日の「経済」とは異なり、本来はより広く政治・統治・行政全般を指す語であった。以下「經世濟民」および「經濟」の本来の用法と、その変遷について扱う。 ・武芸 (ぶげい)とは、日本の古代から中世、近世初期までにおいて、軍の兵卒や武官、武士などが当時の戦場で戦うために訓練した技芸のこと。 武芸総論 日本で鉄器の武器が導入されたのは弥生時代に入ってからである。 『後漢書』倭人伝では「其兵有矛楯木弓竹矢 或以骨為鏃」と記されているが、『魏志倭人伝』では「兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鉄鏃或骨鏃」とあり、西暦200年代頃の倭において矛、盾、木弓と鉄或いは骨の鏃が用いられていて、木弓は下が短く上が長い弓との記述がある。 大和朝廷の成立した時代には、大伴氏や物部氏などが軍事を担った氏族として存在した。日本最古の史書といえる『日本書紀』の綏靖天皇の条に「武芸」の語が見え、また『日本書紀』や『古事記』に矛、剣、刀、弓、捔力(相撲)などの記述が見られる。 ・武道 (ぶどう)は、広義には古武道を含むが、狭義には「日本において独自に展開した武術文化(古武道)を基にして、近代になって、西欧的なスポーツに学びながらそれに対抗して、近代的に再編して成立した運動文化」[1]である。古武道と明確に区別する場合、現代武道と呼ぶ。「人を殺傷・制圧する技術に、その技を磨く稽古を通じて人格の完成をめざす「道」の理念が加わったもの[注釈 1][注釈 2]」とされる。 ・「道の学問・心の学問」第七回(令和2年7月3日) 中江藤樹に学ぶ④ 武なき文は真実の文にあらず、文なき武は真実の武にあらず。                              (『翁問答』上巻之本)  元和元年(1615)に大坂夏の陣が終わり戦乱に終止符が打たれた事を「元和偃武」と呼ぶ。その翌年、九歳の藤樹は祖父の養子となって米子藩に赴き、学問を始めた。当時の武士は未だに戦国尚武の気風が旺盛で、書物を読む事は軽んじられる風潮だった。  しかし藤樹は、十七歳の時に聞いた『論語』講義を契機として、『四書大全』を買い求めて独学で真実の生き方を求め続けた。勿論、藤樹は武士であり武の鍛錬も怠る事は無かった。その様な求道の中で、藤樹は「文武」を共に修める意義を明確に言葉に表したのである。  「元来文と武は一つの徳であって、別々の事ではない。(略)武を欠いた文は真実の文ではなく、文の無い武も真実の武ではない。(略)文の道を実践する為に武道はあるのであり、武道の根っこは文である。武道の威力を用いて国を治めるのが文道であるから文道の根っこは武にある。(略)文は「仁道」の事を意味し、武は「義道」の事を言うのである。(略)仁に背く様な文は、名は文と言っても本当は文では無い。義に背く様な武は、名は武と言っても実は本当の武ではない。(略)文武にはそれぞれに「徳」と「芸」との本末がある。仁は文の徳にして文芸の根本である。文学や礼法、書法や算術等は芸であり、文徳の枝葉に他ならない。義は武の徳であって武術の根本である。軍法や弓術、馬術、剣術等は芸であって、武徳の枝葉に過ぎない。」  「文」と「武」の本質を其々「仁道(仁の道、人々を幸せに導く愛深き道)」、「義道(義の道、正義を貫く道)」と明記することによって、文と武がサムライに取って欠くべからざる素養である事を明らかにしたのである。更に、「徳」と「芸」を分ける事で、本質的に備えるべき「徳」と、技術的な「芸」とを区別した。要は、その人物の精神性が問題なのである。文芸が幾ら得意でも仁愛の心が欠如している者や、武術が如何に優れていても正義の観念が欠落している者は、本物の武士では無いと断言いた。  現代では「文武両道」と言ってスポーツと勉強を共に頑張っている者を称賛したりするが、それはあくまでも「芸」の事であり、「芸」の奥に厳然として培われたれた「仁」と「義」との揺らがぬ徳の持ち主しか「文武兼備」の士とは呼ばないのである。

  • @tyobittotama3841
    @tyobittotama3841 Жыл бұрын

    北辰一刀流と言えば、坂本龍馬ですね。

  • @user-zt1ye6nu9z
    @user-zt1ye6nu9z4 күн бұрын

    ボクデンの時代でも?

  • @imachaso
    @imachaso Жыл бұрын

    経済はゼロサムゲームではありません。まずはそこの認識から改めないと話の筋が納得できませんね。

  • @user-gd7fc1xi7u

    @user-gd7fc1xi7u

    Жыл бұрын

    ゼロサムかどうかではなく、搾取が行われているかどうかのお話ではないでしょうか?

  • @MatsubaAgeha
    @MatsubaAgeha Жыл бұрын

    悪名高きGHQの「3S政策」の三つのSの一つが「スポーツ」である理由がこれでわかった。

  • @nobutomisawa7001
    @nobutomisawa7001 Жыл бұрын

    ちょっと違うな?スルー

  • @user-sb4gg3ff7p
    @user-sb4gg3ff7p Жыл бұрын

    正 下級武士 誤 家中武士

  • @shodosbizarreexploration2613
    @shodosbizarreexploration2613 Жыл бұрын

    まさに合気道、植芝盛平の境地ですね。講談社あたりマスコミがすすめる拝金朝鮮主義とは決して相いれない道。

  • @SHIBUYA4188
    @SHIBUYA4188 Жыл бұрын

    この御仁の態度全体に気が抜けていて剣術家らしくなく、しゃべりすぎだ☹☹☹。

  • @ko-1397
    @ko-1397 Жыл бұрын

    結局胡散臭い

  • @恙恙
    @恙恙 Жыл бұрын

    うーん 平安王政の時代:自分が貴いから正しい 武家政治の時代:正義に仕えるから正しい 明治王政の時代:自分が強いから正しい でたまたま武家政治の時代の職業倫理規範がキリスト教徒の聖隷観念と親和性が高かったのでどうにかこうにか脱亜入欧政策が可能だったのでは無いでしょうか?🤔

  • @user-bc4bo7il2h

    @user-bc4bo7il2h

    Жыл бұрын

    王政?日本に帝はいても、王は居ないが?

  • @恙恙

    @恙恙

    Жыл бұрын

    @@user-bc4bo7il2h いえいえ元々遍在する小邦群の内の有力な王(キミ)達が姻戚関係を結ぶ等して居る内に大王(オオキミ)リーグが形成されて居た処に隋被れの百済人が自分の主人の亭主の嫡流しか大王になれない様にする為に唐から帝の概念を引っ張って来ただけの話ですししかも後年唐物にへつらって王政の概念を正式に用いて居ます。

  • @恙恙

    @恙恙

    Жыл бұрын

    @@user-bc4bo7il2h そうそう今でも親王内親王王女王の位は現存していますよ😊

  • @user-bc4bo7il2h

    @user-bc4bo7il2h

    Жыл бұрын

    @@恙恙 親王がいても王政ではないが?

  • @恙恙

    @恙恙

    Жыл бұрын

    @@user-bc4bo7il2h 日本史には「王政復古」の術語が頻出していますね🤔舶来物で箔を付けたい百済人が持ち込んだ概念ですが。

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