太平洋戦争では、国内で数少ない空襲を免れ今の古い町並みが残っている金沢。今回は明治、大正期、戦前期の古写真を集め、解説をつけてみました。参考資料:写真集 明治大正昭和 金沢 ふるさとの想い出9国書刊行会 写真集金沢編集委員会#金沢#歴史#明治大正昭和
1965年、転勤で初めて金沢へ。閉鎖的でしたが我が家は親切にして頂きました。武蔵が辻に度量衡と書かれた木製の大きな看板に戦災に遇わなかった金沢に驚きした。市民は非常に民度が高く、美的センスも高く5年在住で感動し続けられた。兼六園もタダでしたよ。
コテコテの地元、金沢生まれ、育ちのものです。懐かしい写真の提供感謝します。貴重な写真、大切にしてください。
みんなビシッと綺麗な装いで非常に意識が高い事を物語ってますね。 この時代のファッションは今でも普通に通用するのでよく参考にしてます。
石川県の 多くの商店や産業は 旧藩主前田家の資本投資や、家老格の家が起こしたものが数多くあります、 もっとも前田の殿様は華族となり東京へ行ってしまいましたが・・・ 北國銀行・北國新聞・うつのみや書店・尾小屋銅山・小松製作所(もともと銅山で使う機械を制作・整備する為の会社が始まり)・北陸鉄道(能登線・能美線ってのもあった)・浅野川鉄道・尾小屋鉄道 ・・・ などなど
このビデオを最後まで見ました。とても勉強になりました。解説文を朗読する声も、とてもきれいです。ただし、変なところで息を継いでいるので、自動朗読装置によるものだとすぐにわかります。機械によるものでも、ここまで完成度の高い自然な朗読もできるのですね。ビデオを作る人の手間もそれによって省けるので、とても便利ではあります。そして、人間が朗読した時よりも、機械に朗読させた方が視聴者にとって聞き取りやすいこともあります。 とはいえ、たとえ不完全でもいいし、不器用でもいいし、不明瞭でもいいから、やはり人間、そしてできればビデオ作成者ご自身の声で苦労して朗読してくれた方が、視聴者としてはそれを聴いていて、ビデオ制作者の心意気や情熱が伝わってきて、とても良いと思います。
橋場町ははしばちょうとよみます。 私の戸籍はこちらです。 四高はしこうと読みます。😢北国街道はほっこくかいどうとよみます。
いい話なので、町名等の読みがたくさん違っているのが残念
野々市市と旧鶴来の昔の風景の映像もみたいな
昭和38年に祖母と夜行SLで名古屋の親戚宅に行った時の金沢駅の風景を不思議と覚えてます。当時6歳でした。
粟ヶ崎遊園か内灘に住んでいた時にあとちになっていたけれどありましたなぁ
よんこうではない。しこうと言われて尊敬されている。
幕末まで100万石以上を有した家は、徳川将軍家をのぞいて前田家だけらしいね。 現代の価値に合わせると 1石27万 100万石⇒2700億 大谷翔平より多くてびっくりしました
人口が多く、 軍都(第九師団)が所在し、 学都(旧制第四高等学校:今の四番目の国立大学に相当)がある事からも日本海側の中心都市として江戸時代以降も発展していたことが判る、 遊郭も 石引、西の郭(白菊町)、東の郭(橋場町対岸)と三箇所もあった事からも需要がそれだけあったと判る、 鉄道も早くから通ったが他都市と同じく、 市内中心には反対があったのか入れず、 中心地区(片町・香林坊・金沢城域)から 3Km程も離れた場所に金沢駅は作られることになる・・・ 今でも結構不便
小立野はこだちの、ではなくて、 こだつの、 と、読んでください。
江戸までは大きな都市だったのいつから他の地方都市と同じようになったのかな?
微妙に違和感のあるのが地名などの読み間違えですね。ま、見たことの無い写真もあったので良かったかな。
2:24 -- 作事場。これも、「さくじじょう」ではなく、「さくじば」が正しいらしいですね。
加賀100万石というが、60万石は現在の富山県。
兼六園は公園ではない。
江戸(東京)は武士が治める商人&町人文化の街ですが、金沢は武士が治めた武士文化の街です。 明治維新で武士階層が無く成り、富の基礎が米から通貨に変わった事で金沢の地位が低下。 天候と土地の狭さが経済の発展に災いしたが、武士文化が街並みに残って居る。
2:28 -- 「実用に供されており」。ここは、「ともされて」ではなくて、「供(きょう)されて」が正しいです。揚げ足取りみたいで、申し訳ありません。 もしかしたら、機械によって自動的に「ともされて」と朗読されてしまったのかもしれませんね。他のあちこちのビデオも見ておりますが、人間なら間違いそうもない変なところで、機械は変に間違って朗読していますね。 なお、あなたのビデオのおかげで、大変、勉強させて頂いております。
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1965年、転勤で初めて金沢へ。閉鎖的でしたが我が家は親切にして頂きました。武蔵が辻に度量衡と書かれた木製の大きな看板に戦災に遇わなかった金沢に驚きした。市民は非常に民度が高く、美的センスも高く5年在住で感動し続けられた。兼六園もタダでしたよ。
コテコテの地元、金沢生まれ、育ちのものです。懐かしい写真の提供感謝します。貴重な写真、大切にしてください。
みんなビシッと綺麗な装いで非常に意識が高い事を物語ってますね。 この時代のファッションは今でも普通に通用するのでよく参考にしてます。
石川県の 多くの商店や産業は 旧藩主前田家の資本投資や、家老格の家が起こしたものが数多くあります、 もっとも前田の殿様は華族となり東京へ行ってしまいましたが・・・ 北國銀行・北國新聞・うつのみや書店・尾小屋銅山・小松製作所(もともと銅山で使う機械を制作・整備する為の会社が始まり)・北陸鉄道(能登線・能美線ってのもあった)・浅野川鉄道・尾小屋鉄道 ・・・ などなど
このビデオを最後まで見ました。とても勉強になりました。解説文を朗読する声も、とてもきれいです。ただし、変なところで息を継いでいるので、自動朗読装置によるものだとすぐにわかります。機械によるものでも、ここまで完成度の高い自然な朗読もできるのですね。ビデオを作る人の手間もそれによって省けるので、とても便利ではあります。そして、人間が朗読した時よりも、機械に朗読させた方が視聴者にとって聞き取りやすいこともあります。 とはいえ、たとえ不完全でもいいし、不器用でもいいし、不明瞭でもいいから、やはり人間、そしてできればビデオ作成者ご自身の声で苦労して朗読してくれた方が、視聴者としてはそれを聴いていて、ビデオ制作者の心意気や情熱が伝わってきて、とても良いと思います。
橋場町ははしばちょうとよみます。 私の戸籍はこちらです。 四高はしこうと読みます。😢北国街道はほっこくかいどうとよみます。
いい話なので、町名等の読みがたくさん違っているのが残念
野々市市と旧鶴来の昔の風景の映像もみたいな
昭和38年に祖母と夜行SLで名古屋の親戚宅に行った時の金沢駅の風景を不思議と覚えてます。当時6歳でした。
粟ヶ崎遊園か内灘に住んでいた時にあとちになっていたけれどありましたなぁ
よんこうではない。しこうと言われて尊敬されている。
幕末まで100万石以上を有した家は、徳川将軍家をのぞいて前田家だけらしいね。 現代の価値に合わせると 1石27万 100万石⇒2700億 大谷翔平より多くてびっくりしました
人口が多く、 軍都(第九師団)が所在し、 学都(旧制第四高等学校:今の四番目の国立大学に相当)がある事からも日本海側の中心都市として江戸時代以降も発展していたことが判る、 遊郭も 石引、西の郭(白菊町)、東の郭(橋場町対岸)と三箇所もあった事からも需要がそれだけあったと判る、 鉄道も早くから通ったが他都市と同じく、 市内中心には反対があったのか入れず、 中心地区(片町・香林坊・金沢城域)から 3Km程も離れた場所に金沢駅は作られることになる・・・ 今でも結構不便
小立野はこだちの、ではなくて、 こだつの、 と、読んでください。
江戸までは大きな都市だったのいつから他の地方都市と同じようになったのかな?
微妙に違和感のあるのが地名などの読み間違えですね。ま、見たことの無い写真もあったので良かったかな。
2:24 -- 作事場。これも、「さくじじょう」ではなく、「さくじば」が正しいらしいですね。
加賀100万石というが、60万石は現在の富山県。
兼六園は公園ではない。
江戸(東京)は武士が治める商人&町人文化の街ですが、金沢は武士が治めた武士文化の街です。 明治維新で武士階層が無く成り、富の基礎が米から通貨に変わった事で金沢の地位が低下。 天候と土地の狭さが経済の発展に災いしたが、武士文化が街並みに残って居る。
2:28 -- 「実用に供されており」。ここは、「ともされて」ではなくて、「供(きょう)されて」が正しいです。揚げ足取りみたいで、申し訳ありません。 もしかしたら、機械によって自動的に「ともされて」と朗読されてしまったのかもしれませんね。他のあちこちのビデオも見ておりますが、人間なら間違いそうもない変なところで、機械は変に間違って朗読していますね。 なお、あなたのビデオのおかげで、大変、勉強させて頂いております。
幕末まで100万石以上を有した家は、徳川将軍家をのぞいて前田家だけらしいね。 現代の価値に合わせると 1石27万 100万石⇒2700億 大谷翔平より多くてびっくりしました