十条駅周辺を巡ってきました音源はこちらをお借りしましたKANADE by のる 様dova-s.jp/bgm/play14816.html木枯らしの帰路 by キュス 様dova-s.jp/bgm/play15702.html
「アルバムの持ち主はすでにこの世にはおりません」のくだりを聴くと、いつも胸が締め付けられる。
淋しいね、でもそれが人生(人類史)の縮図なんだよね
今回はもしかしたら…と期待してしまいます。
アルバムで見ると人の一生はあっという間ですね。建物もとり壊されなくなってしまう。けれども生命の営みは永々と続く。自分が死んでも何事もなかったかのように続いていくのだろうなー。
本当にそうですね。 このアルバムに一人の女性の人生の一部分が残されアルバムの中の人ももうこの世には居ないそして当時の街並みも変わってしまっているのに時だけが続いて行く。なんだか切なすぎる。
人生は一瞬の幻だな。
十条にお得意様ができて10数年ですが駅前はもちろん、十条銀座商店街もさま変わりしましたね☺️ アルバムの持ち主方、昭和10年ごろの出生との事、先日会ってきた伯母と同じぐらいの年齢ですがもうこの世にいらっしゃらないと聞いて悲しくなりました😢 けど、アルバムの中では素敵な笑顔がいつまでも生き続けているんだなぁって思いました😊
きっと吉沢さんも天国からこの投稿見て、懐かしく思っているでしょう。
古いアルバムの物語は人生の儚さと時代の急速な変化を感じなんとも言えない気分になります。
私も同じ感慨です。 私は今79才です。
ここまできたら吉沢さんの高校卒業以降の人生も知りたくなりました。 伊香保まで足を伸ばされたとは(驚)…お疲れ様でした!
5:30 古いものを保存して残すって、いいですよね。
いつも心温まる素敵な動画、ありがとうございます。自分は王子に住んで2年になりますが、十条は近いのでたまに行きますね。北区は20年前から学校の統合、閉校が相次ぎ私の母校はもうありません。変化の激しい時代だけど、写真として当時の風景が残っているのはいいことですね。
いつも楽しみにしています。北区出身ですので、十条中学や都立城北高校出身の友人がたくさんいました。 どちらも合併され、名称が残っていないことを今回の動画で初めて知り、感慨深く拝聴いたしました。ありがとうございました。
両親が昭和10年生まれでした亥年だと思います。「猪突猛進、戦争もあったけど、いい時代を生きられた。」と言っていた母を思い出します。
私の母も10年生まれでした… まだ女性の社会進出もあまり進んで無く内職などして育ててもらいました 大変な時代を生きて来られたのですね…
足跡を辿る手間が凄いです。素敵なお話です。
懐かしいビデオいつも見ています。
古い写真はとても興味深く、人生の儚さを感じながら拝見しております。 アルバムの持ち主がすでにこの世におられないという下りには、いつも胸を締め付けられる思いです。
お疲れ様です、時代は流れその時代時代を支える人たちによってつながっていると強く感じます。 今の時代でも関わりある回りのわずかな人を知るのみなので、遠く離れ又すでに亡くなっている人の足跡を辿ることはいろいろと周りの知る人に映しまた親や先祖に映してしまうので、チョット切なくなります。 今回の吉沢さんは私の母の2つ上だったので地域による時代背景の違いにも差があるのだなと思いました。 母ももう何年か前に亡くなりました、他人との別れは寂しさもあるのですが、父母は毎日手を合わせているせいか直ぐ近くにいるような気にもなり、いないのに話しかける又答えを想像している自分がいつもいます。 あの世というものがあれば、絶対再会して色々話したいと願ってます。
何でもない「街」「人」に詩情を感じてしまいます。
古いアルバムシリーズ何か胸にジーンと来ます。彼女の子供時代から学生時代はから社会人の初め頃は見受けられたけど自身のその後の恋愛かお見合いか結婚されて家庭持たれた頃の写真が無いのが残念ですがきっと幸せな家庭を築かれた事でしょうね😀
人生は短すぎますせめて150年ぐらい生きたいです。
元気で金があって家族、友人がいればね
最近の十条周辺の動画で、とても懐かしく拝見しました。私の父親も王子第三小でしたがきっとこの方よりも先輩になるかと思います。変わりましたね…十条駅周辺。 でも、とても嬉しかったです。 一時帰国する日が待ち遠しい思いになりました。ありがとうございました。
サムネのレンガ塀は十条中学かもしれませんが、窓や草花の様子から、同じ北区の古河庭園かもしれませんね。 十条中も富士見中も旧都立城北も知人の出身者がいるので、長い歴史と時の流れを感じて感慨深いです。
古いアルバム、、、 胸がしめつけられます。故人も喜んでいられると思います。
少し悲しくなった、なんでだろう。
吉沢さんは健在ならば今年88歳ですね。
1931年生まれだと93歳ですね
いつも有り難う御座います。何方からお譲り頂いたアルバムでしょうかしんみり致します ご家族との写真素敵ですね、また終わりが無きアルバムとのこと思いが募ります 御本人も喜んでお見えかと、ご本人御健在では無いとの事で想いが募ります。
あ~懐かしいな。娘がこの近くの女子大に通っていた頃、十条銀座に行った。自分が大学生だった頃は、全く縁がなかった地域で新鮮だった。いつまでも残っていて欲しい情景です。踏切のそばに小さなパン屋さんがあった。とにかく、路地が狭いところを女子大生が通る街だった。
戦後の日活アクション映画やグループサウンズブームの綺麗なオフィシャル映像の頃。 日常庶民のリアルを感じる貴重な記録です。
北区出身なのでとても興味深かったです。
ご存命なら米寿祝いだったでしょうか。白黒写真だと古いの一言で片付けやすいのですが、色が入ると一気に被写体の現実に近づきますよね。ご本人は人生を終えられていても、人生の記録は未来永劫残すことができる時代です。こういう写真も大切にしたいですね。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo et très bon week-end ! ✨✨🙏
吉沢さんの前髪が印象的でした!
昭和26年5月 母は臨月寸前。 その時私はまだ母のお腹の中、 ありがとうお母さん…そんな想いにひたってしまいました。
西口再開発により、39階建ての商業施設付きタワーマンションが出来、駅前にはちっちゃい広場が2つとロータリーが出来る。 駅も高架化され人の流れも変わる未来には、都内でも屈指の庶民的な十条商店街や、階段をチョット上った駅前から眺められた広い空は果たして見えるのだろうか?😐😐😐
39階はやりすぎ。日照の問題はどうなってんのか?景観をどのように考えて都市計画してんのか。結局北区なんざ、東京といったって埼玉寄りだしということで、ベッドタウン化にしようという考え方か?この写真の主人公の時代が、情趣があって良き時代だったのかも。
@@008Light 十条のみならず、かつてはおよそタワマンというイメージではなかったところ(主に東京の東半分)にもにょきにょきと高層タワマンが出現していて、それにつれて町の様相も激変しています。特に東京の北東部は、あと何年かすればここがかつてどこの町だったか分からなくなるのではないかという気さえします。
赤羽在住の者です。 十条富士見中学の周りの画面に、息子が住んでいるマンションが写っていました。 また、亡き兄は城北高校の卒業生です。(アルバム主さんの7年後輩) もしかすると赤羽あたりですれ違っていたかもしれません。 ご冥福を祈らずにはいられません。。。。
吉沢さんは他界した父と同い歳ですね偶然です。戦後、大変だったのでしょうね父の弟(叔父)から聞いた話で戦死した祖父の代わり家計の足しにと兄と弟でタバコ畑を手伝って御駄賃を貰い、ついでにタバコの味も覚えたそうです戦後の混乱期です(-。-;
人一人の一生なんてあっという間ですよね‼️自分の出た小学校は廃校だし、高校は名前が変わってしまうし‼️時代の流れは早いし人生も早い‼️70年が過ぎようとしている現在、残りの人生はあと何年だろうか?考えたら 切ない気持ちになります😞😓😥🎌🎌‼️
いつも楽しみにしております… 今回の主人公は亡くなられた事をどうやって確認されたんですか? 取材の中で分かったですかね?
親類からお借りしたアルバムなので……
この時代のほうが、今より幸せな時代の様に思いました。私より13歳歳上。ご健勝でおられる事をお祈り致します。
ジャンパースカートにリボンの制服だから、私の母校の東京家政かと思いました。城北?男子校?と私も思ってしまいました。 すごく身綺麗なので、いいおうちのお嬢さんなんでしょうね。
高校時代隠れて煙草を吸っていた友人肺がんで早世してしまいました。
僕は十条で育ちました。中年オヤジですが父も十条ですので、「こんなだったのか」と興味深く拝見いたしました。
懐かしの母校城北、いま改築中の建物は彼女が卒業してから10年後に竣工のもので、私が卒業までの僅か1ヶ月強(実質授業で使ったことはありませんでした。) 、彼女が在校時は11分頃の背景にある木造の校舎でした。
私も1つだけ思い出の場所があるんですが、思い出せないんですね。40年以上前、7歳ぐらいだったと思うのですが、母親と行った駅のなかのお好み屋さん。本当に美味しかった。もうなくなっていると思いますが・・・・。私語り申し訳ないです。
今の西が丘競技場あたりにもレンガの塀が古い感じで残っていた記憶があります。母親がゾウヘイショウがそこにあってそこで働いたとか言ってましたが、わたしは大人になってからそこが造兵廠のことだと知りました。もっと後ですが、王子付近に自衛隊の機械関係の施設があって、学校から実習をさせてもらいに行ったこともあります。戦前は父も伯父も板橋で機械製作所で働いていたのでもしかしたら軍関係の仕事をしていたのかもしれないです。レンガからいろんなことを思い出しました。
十条って昔住んでましたね。強烈に覚えているのが朝鮮学校。その裏道を歩くと朝鮮語のポスターが貼ってあって、昼にはスピーカーで朝鮮語でなんか言ってましたね。ありゃ、まだあるのでしょうか?私は日本人なんだけど、東京都は朝鮮学校には補助金は出さないってのは「ケツの穴が小さい」と思いましたね。が、近くのニンニクがたっぷり入った「からし焼き」は超美味かったですね。それから帝京大学の野球部と駅の近くにあった米軍の医療施設。
朝鮮学校に東京都が補助金を出さないのはケツノ穴が小さい?。意味不明! あなた、本当に日本人ですか?。多くの同胞の拉致やミサイルをバンバン日本本土に向かって撃ち込んでくる北朝鮮の学校だよ!。普通の日本人なら加害と侵略北朝鮮の肩を持つとは考えられない。雰囲気から日本人を騙る北朝鮮人にしか見えない。もちろん朝鮮学校に通う子供たちは親を選べないので罪はないし気の毒に思っている。
去年亡くなった大家さんと同世代
昭和5年〜7年辺りに生まれた親戚数名が元気なので、古い写真をカラー化して見せてあげたら皆喜んでいます❤
家の父親もこの頃鶴見工業高校を卒業してるからこの子も今88歳くらいかな。
72年前のアバンギャルディ
みんな跡形も無くなるんですね。 そして私も。
ただただ諸行無常。
😅
十条も発展しているのですね。十条と言えば汚ならしく危険な町のイメージしか有りませんでした。 階段の撮影の為に伊香保まで行くのは、やり過ぎでしょうw 伊香保で藤原とうふ店の痕跡とか探していたりして。
まだ皆さんご存命なんでしょうか?うちの親父と同い年です。 写真って本当に素晴らしいものです。 その時代の空気感まで出ている。
Пікірлер: 64
「アルバムの持ち主はすでにこの世にはおりません」のくだりを聴くと、いつも胸が締め付けられる。
@ceycomaz
Жыл бұрын
淋しいね、でもそれが人生(人類史)の縮図なんだよね
@00000KAZUSHI
4 ай бұрын
今回はもしかしたら…と期待してしまいます。
アルバムで見ると人の一生はあっという間ですね。建物もとり壊されなくなってしまう。けれども生命の営みは永々と続く。自分が死んでも何事もなかったかのように続いていくのだろうなー。
@user-gd6ej8eo4i
Жыл бұрын
本当にそうですね。 このアルバムに一人の女性の人生の一部分が残されアルバムの中の人ももうこの世には居ないそして当時の街並みも変わってしまっているのに時だけが続いて行く。なんだか切なすぎる。
@makotonezumi277
Жыл бұрын
人生は一瞬の幻だな。
十条にお得意様ができて10数年ですが駅前はもちろん、十条銀座商店街もさま変わりしましたね☺️ アルバムの持ち主方、昭和10年ごろの出生との事、先日会ってきた伯母と同じぐらいの年齢ですがもうこの世にいらっしゃらないと聞いて悲しくなりました😢 けど、アルバムの中では素敵な笑顔がいつまでも生き続けているんだなぁって思いました😊
きっと吉沢さんも天国からこの投稿見て、懐かしく思っているでしょう。
古いアルバムの物語は人生の儚さと時代の急速な変化を感じなんとも言えない気分になります。
@user-od7ts6ws9n
Жыл бұрын
私も同じ感慨です。 私は今79才です。
ここまできたら吉沢さんの高校卒業以降の人生も知りたくなりました。 伊香保まで足を伸ばされたとは(驚)…お疲れ様でした!
5:30 古いものを保存して残すって、いいですよね。
いつも心温まる素敵な動画、ありがとうございます。自分は王子に住んで2年になりますが、十条は近いのでたまに行きますね。北区は20年前から学校の統合、閉校が相次ぎ私の母校はもうありません。変化の激しい時代だけど、写真として当時の風景が残っているのはいいことですね。
いつも楽しみにしています。北区出身ですので、十条中学や都立城北高校出身の友人がたくさんいました。 どちらも合併され、名称が残っていないことを今回の動画で初めて知り、感慨深く拝聴いたしました。ありがとうございました。
両親が昭和10年生まれでした亥年だと思います。「猪突猛進、戦争もあったけど、いい時代を生きられた。」と言っていた母を思い出します。
@user-lx1gc4vm3i
2 ай бұрын
私の母も10年生まれでした… まだ女性の社会進出もあまり進んで無く内職などして育ててもらいました 大変な時代を生きて来られたのですね…
足跡を辿る手間が凄いです。素敵なお話です。
懐かしいビデオいつも見ています。
古い写真はとても興味深く、人生の儚さを感じながら拝見しております。 アルバムの持ち主がすでにこの世におられないという下りには、いつも胸を締め付けられる思いです。
お疲れ様です、時代は流れその時代時代を支える人たちによってつながっていると強く感じます。 今の時代でも関わりある回りのわずかな人を知るのみなので、遠く離れ又すでに亡くなっている人の足跡を辿ることはいろいろと周りの知る人に映しまた親や先祖に映してしまうので、チョット切なくなります。 今回の吉沢さんは私の母の2つ上だったので地域による時代背景の違いにも差があるのだなと思いました。 母ももう何年か前に亡くなりました、他人との別れは寂しさもあるのですが、父母は毎日手を合わせているせいか直ぐ近くにいるような気にもなり、いないのに話しかける又答えを想像している自分がいつもいます。 あの世というものがあれば、絶対再会して色々話したいと願ってます。
何でもない「街」「人」に詩情を感じてしまいます。
古いアルバムシリーズ何か胸にジーンと来ます。彼女の子供時代から学生時代はから社会人の初め頃は見受けられたけど自身のその後の恋愛かお見合いか結婚されて家庭持たれた頃の写真が無いのが残念ですがきっと幸せな家庭を築かれた事でしょうね😀
人生は短すぎますせめて150年ぐらい生きたいです。
@user-cg3rr5mu4t
Жыл бұрын
元気で金があって家族、友人がいればね
最近の十条周辺の動画で、とても懐かしく拝見しました。私の父親も王子第三小でしたがきっとこの方よりも先輩になるかと思います。変わりましたね…十条駅周辺。 でも、とても嬉しかったです。 一時帰国する日が待ち遠しい思いになりました。ありがとうございました。
サムネのレンガ塀は十条中学かもしれませんが、窓や草花の様子から、同じ北区の古河庭園かもしれませんね。 十条中も富士見中も旧都立城北も知人の出身者がいるので、長い歴史と時の流れを感じて感慨深いです。
古いアルバム、、、 胸がしめつけられます。故人も喜んでいられると思います。
少し悲しくなった、なんでだろう。
吉沢さんは健在ならば今年88歳ですね。
@00000KAZUSHI
4 ай бұрын
1931年生まれだと93歳ですね
いつも有り難う御座います。何方からお譲り頂いたアルバムでしょうかしんみり致します ご家族との写真素敵ですね、また終わりが無きアルバムとのこと思いが募ります 御本人も喜んでお見えかと、ご本人御健在では無いとの事で想いが募ります。
あ~懐かしいな。娘がこの近くの女子大に通っていた頃、十条銀座に行った。自分が大学生だった頃は、全く縁がなかった地域で新鮮だった。いつまでも残っていて欲しい情景です。踏切のそばに小さなパン屋さんがあった。とにかく、路地が狭いところを女子大生が通る街だった。
戦後の日活アクション映画やグループサウンズブームの綺麗なオフィシャル映像の頃。 日常庶民のリアルを感じる貴重な記録です。
北区出身なのでとても興味深かったです。
ご存命なら米寿祝いだったでしょうか。白黒写真だと古いの一言で片付けやすいのですが、色が入ると一気に被写体の現実に近づきますよね。ご本人は人生を終えられていても、人生の記録は未来永劫残すことができる時代です。こういう写真も大切にしたいですね。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo et très bon week-end ! ✨✨🙏
吉沢さんの前髪が印象的でした!
昭和26年5月 母は臨月寸前。 その時私はまだ母のお腹の中、 ありがとうお母さん…そんな想いにひたってしまいました。
西口再開発により、39階建ての商業施設付きタワーマンションが出来、駅前にはちっちゃい広場が2つとロータリーが出来る。 駅も高架化され人の流れも変わる未来には、都内でも屈指の庶民的な十条商店街や、階段をチョット上った駅前から眺められた広い空は果たして見えるのだろうか?😐😐😐
@008Light
Жыл бұрын
39階はやりすぎ。日照の問題はどうなってんのか?景観をどのように考えて都市計画してんのか。結局北区なんざ、東京といったって埼玉寄りだしということで、ベッドタウン化にしようという考え方か?この写真の主人公の時代が、情趣があって良き時代だったのかも。
@hiroakikon
10 ай бұрын
@@008Light 十条のみならず、かつてはおよそタワマンというイメージではなかったところ(主に東京の東半分)にもにょきにょきと高層タワマンが出現していて、それにつれて町の様相も激変しています。特に東京の北東部は、あと何年かすればここがかつてどこの町だったか分からなくなるのではないかという気さえします。
赤羽在住の者です。 十条富士見中学の周りの画面に、息子が住んでいるマンションが写っていました。 また、亡き兄は城北高校の卒業生です。(アルバム主さんの7年後輩) もしかすると赤羽あたりですれ違っていたかもしれません。 ご冥福を祈らずにはいられません。。。。
吉沢さんは他界した父と同い歳ですね偶然です。戦後、大変だったのでしょうね父の弟(叔父)から聞いた話で戦死した祖父の代わり家計の足しにと兄と弟でタバコ畑を手伝って御駄賃を貰い、ついでにタバコの味も覚えたそうです戦後の混乱期です(-。-;
人一人の一生なんてあっという間ですよね‼️自分の出た小学校は廃校だし、高校は名前が変わってしまうし‼️時代の流れは早いし人生も早い‼️70年が過ぎようとしている現在、残りの人生はあと何年だろうか?考えたら 切ない気持ちになります😞😓😥🎌🎌‼️
いつも楽しみにしております… 今回の主人公は亡くなられた事をどうやって確認されたんですか? 取材の中で分かったですかね?
@time3276
Жыл бұрын
親類からお借りしたアルバムなので……
この時代のほうが、今より幸せな時代の様に思いました。私より13歳歳上。ご健勝でおられる事をお祈り致します。
ジャンパースカートにリボンの制服だから、私の母校の東京家政かと思いました。城北?男子校?と私も思ってしまいました。 すごく身綺麗なので、いいおうちのお嬢さんなんでしょうね。
高校時代隠れて煙草を吸っていた友人肺がんで早世してしまいました。
僕は十条で育ちました。中年オヤジですが父も十条ですので、「こんなだったのか」と興味深く拝見いたしました。
懐かしの母校城北、いま改築中の建物は彼女が卒業してから10年後に竣工のもので、私が卒業までの僅か1ヶ月強(実質授業で使ったことはありませんでした。) 、彼女が在校時は11分頃の背景にある木造の校舎でした。
私も1つだけ思い出の場所があるんですが、思い出せないんですね。40年以上前、7歳ぐらいだったと思うのですが、母親と行った駅のなかのお好み屋さん。本当に美味しかった。もうなくなっていると思いますが・・・・。私語り申し訳ないです。
今の西が丘競技場あたりにもレンガの塀が古い感じで残っていた記憶があります。母親がゾウヘイショウがそこにあってそこで働いたとか言ってましたが、わたしは大人になってからそこが造兵廠のことだと知りました。もっと後ですが、王子付近に自衛隊の機械関係の施設があって、学校から実習をさせてもらいに行ったこともあります。戦前は父も伯父も板橋で機械製作所で働いていたのでもしかしたら軍関係の仕事をしていたのかもしれないです。レンガからいろんなことを思い出しました。
十条って昔住んでましたね。強烈に覚えているのが朝鮮学校。その裏道を歩くと朝鮮語のポスターが貼ってあって、昼にはスピーカーで朝鮮語でなんか言ってましたね。ありゃ、まだあるのでしょうか?私は日本人なんだけど、東京都は朝鮮学校には補助金は出さないってのは「ケツの穴が小さい」と思いましたね。が、近くのニンニクがたっぷり入った「からし焼き」は超美味かったですね。それから帝京大学の野球部と駅の近くにあった米軍の医療施設。
@user-bh6ks5dy9j
6 күн бұрын
朝鮮学校に東京都が補助金を出さないのはケツノ穴が小さい?。意味不明! あなた、本当に日本人ですか?。多くの同胞の拉致やミサイルをバンバン日本本土に向かって撃ち込んでくる北朝鮮の学校だよ!。普通の日本人なら加害と侵略北朝鮮の肩を持つとは考えられない。雰囲気から日本人を騙る北朝鮮人にしか見えない。もちろん朝鮮学校に通う子供たちは親を選べないので罪はないし気の毒に思っている。
去年亡くなった大家さんと同世代
昭和5年〜7年辺りに生まれた親戚数名が元気なので、古い写真をカラー化して見せてあげたら皆喜んでいます❤
家の父親もこの頃鶴見工業高校を卒業してるからこの子も今88歳くらいかな。
72年前のアバンギャルディ
みんな跡形も無くなるんですね。 そして私も。
ただただ諸行無常。
😅
十条も発展しているのですね。十条と言えば汚ならしく危険な町のイメージしか有りませんでした。 階段の撮影の為に伊香保まで行くのは、やり過ぎでしょうw 伊香保で藤原とうふ店の痕跡とか探していたりして。
まだ皆さんご存命なんでしょうか?うちの親父と同い年です。 写真って本当に素晴らしいものです。 その時代の空気感まで出ている。