【兵力じゃない!】呉と蜀が魏に勝てない本当の理由
Ойын-сауық
魏呉蜀の三国が中華統一を目指してしのぎを削った三国志の時代。しかし、三国志に詳しい方はご存知の通り、三国の国力は決して平等ではなく、6:3:1と魏が最強で呉がそれに次ぎ、蜀はもっともとぼしい国力でした。
もちろん、その差は兵力に反映され魏は動員兵力でも三国随一でしたが、実は呉と蜀が魏に勝てない理由は、ほかにもあったのです。
📝目次📝
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目次 00:00
魏呉蜀の国力と兵力差 00:42
兵力差以上に深刻な兵の質 01:36
兵戸とは? 02:48
蜀の兵制 03:57
呉の兵制 05:08
私兵の寄せ集まりの弊害 06:22
三国志ライターkawausoの独り言 07:21
💬皆さまのコメントをお待ちしています
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あなたは呉と蜀が魏に勝てない本当の理由についてどう思いますか?
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#魏 #三国志 #はじめての三国志
Пікірлер: 108
まあ人材もねえ、孔明があの徐庶も魏ではこの程度の地位なのかて嘆いていたぽいし、魏で無名だったとしても蜀にいれば名が残るくらい活躍できた優秀なやつもキラ星のごとくいただろうしな。
魏でも、諸葛誕の乱の時、諸葛誕が私兵を持って寿春城に籠りましたね。 魏からは半独立みたいな感じですが、公孫淵も私兵で遼東に割拠したので、完全な中央集中の兵制とも言えず、辺境や最前線に近い場所では私兵が認められる場合もあったかもしれません。 …新城の孟達、遼東の公孫淵、寿春の毌丘倹・文欽、同じく寿春の諸葛誕と、私兵での蜂起は全部司馬一族が潰してますな…。
呉は合肥の戦いで合肥を取れなかった事が原因ですね。 もしあそこで合肥をとっていたら、そこを拠点にして蜀と連動して魏を攻める事も出来ました。 何より国の基盤が孫策と周瑜が夭折してしまったのも響いているのかなと思いました。
勉強になりましたありがとう。
諸葛亮も蜀の軍事態勢をテコ入れしようと重臣李平を粛正して兵団を国家のものとしたとかもありますしね。兵戸制ってそんなに有効だったんですね・・・。
…と、言いながらも、反乱が一番多かったのが魏だったりするからなw その上、兵が足りずに傭兵(異民族)を招き入れて唐の時代になるまでの大乱世の種を撒いてるわけで、優れたシステムであっても実態に沿わないシステムは本体を破壊しかねないって言ういい例ですな
📝目次📝 ------------------------------------------------- 目次 00:00 魏呉蜀の国力と兵力差 00:42 兵力差以上に深刻な兵の質 01:36 兵戸とは? 02:48 蜀の兵制 03:57 呉の兵制 05:08 私兵の寄せ集まりの弊害 06:22 三国志ライターkawausoの独り言 07:21 💬皆さまのコメントをお待ちしています ---------------------------------------------- あなたは呉と蜀が魏に勝てない本当の理由についてどう思いますか? 参考になった皆様の考察・歴史感をコメント欄に固定化させていただきます。 ※あなたの考察やご意見をコメント欄までお待ちしています。
動画の目次が「呉と蜀が"蜀"に勝てない本当の理由」になってますよ
同盟組んでても呉と蜀がそもそも内輪揉めみたいになってたからな 味方でありながら探り合いけん制しあい… 一致団結して全力出しても危ういのに勝てるはずが無い 赤壁の時のノリでその先もずっといってたらわからなかったかも
いままで語られなかった論点を分かりやすく解説されていて、大変勉強になりました😁👍️
軍隊の統率力次第で、国の軍事力の優劣となることもあるんですね。分かりやすい説明をありがとうございます。
屯田兵 田んぼに屯する兵。 に加えて 兵戸制 号令一下で動かせる制度。 なんて物もあったんですね しかも青州兵を兵戸に定めたのが始まり。 とネットで見ました。 献帝の禅譲より遥か以前に起源があるのだから蜀呉では追い付けませんね 魏の制度立案力恐るべしですね。
@tikokun
3 жыл бұрын
屯田兵は曹操の時代の強さの秘訣だと思う。
蜀や呉に優秀な人材がいたとしても、伝達に時間がかかるし現場で余裕がない蜀や呉の武将は誤った判断をする可能性があるからそこ突かれて崩れる事もあるよね。赤壁の戦いは数が仇になったけど、それでも蜀や呉に戦力負けしないのは本当に凄い。
良い声ですね! 聞きやすかったです。 兵戸制は初めて知りました。軍事的には便利ですが、不満が溜まりそうですね…
なんだかんだで既存の権力基盤が使えるってのは戸籍とか国家システムが異様に整った古代中国では強いんだろうなぁ
冒頭1分のところ 「魏の兵力が呉と蜀の人口の合計より多い」 えっ
国の元は、人から成り立つ。ところが三国のパワーバランスは、人口の差以上に国の制度や文化,生活水準にあったように思える。
@user-miqurikamisiro
3 жыл бұрын
突然ですが 今回も頑張ってドラクエ変換してみました ※Ⅲ上の世界です よければ()内?へのご意見ください 巫女厨に踊らされる亜斗ちゃんの位置付け →遊び癖の抜けないロマリア王 (この位置付けの予見があれば東征はなかったか?) 晩年暴君化する孫権の位置付け →ギアナの大穴を閉じるアリアハン王 (その仕打ちの非情さが酷似か?) 人材コレクター曹操の位置付け →珍し物好きなポルトガ王 (領土的にはその他連合軍か?)
@saburiryu28go
3 жыл бұрын
あるいはロマリア王は、位を他人に渡す事を売官と捉えるならば霊帝とか。
@user-miqurikamisiro
3 жыл бұрын
成る程。でもロマリア王曰く「わしは格闘場でぐんたいがにに賭けるんじゃい」 との事なので 霊帝。売官。は一旦忘れます。 勇者の名前をソウソウにして 王位を受けたら 献帝。 って捉え方もありますね
@saburiryu28go
3 жыл бұрын
では献帝ロマリア王の治めるダーマ神殿やムオルに至るまでの広大な大陸が魏。北のスーを含むサマンオサ大陸を呉。アリアハン大陸を蜀としますか。ジパングその他が異民族。
@user-miqurikamisiro
3 жыл бұрын
@@saburiryu28go そうですね、蜀激狭ですからね。 では魔法使い馬謖はシャンパニーに登った 勇者姜維はいざないの洞窟を見張っていたが 魔王の影トウガイがレーベの旅の扉からやってきて、勇者に優しくない王様亜斗ちゃん降伏。 にして完結させますね。
あんま言われないけど職人の差もあるような気がします あとシルクロード抑えていたのも大きいかも?
勉強になりました。
天下十三州の内、九州を支配していた魏 そりゃあ、人口や生産力に差があるわ
蜀は漢中の常備軍と本国の軍という編成だったような気がします。蜀滅亡時の姜維と本国の連携の悪さは姜維が北伐にて芳しい成果を上げられない中、本国に戻れば罷免されかねない状態の中での魏の侵攻だったので連携はそっちの面で難しかったんじゃないかな。
戦力の集中をしないと勝てない
動画色々ありがとう
魏は法の制定がしっかりしてるから規律はあるし、蜀は北伐に乗り出てからただでさえ国力が貧弱で都までの山道が輸送経路な為に人員も酷使するし、先の見えない天下を思い描いてるからなぁ…計画的ではあると思うけどさ。 呉は守国に定評のある孫権に北伐による同時多方面展開を依頼しても魏に勝ち目は無いから出撃しても蜀との共同作戦が上手くいっても呉は魏の領土を大きくは削げてなかったしな。
光栄三国志でも都市は殆ど河北と中原に集中してましたから益州だけでは到底無理ですね荊州や江東を合わせても及ばない
曹操が画期的なことしてたって話し。兵戸制なんて曹操以前は誰もやってない政策なんだから、むしろ異端。
漫画やドラマなどフィクション作品において、しばしば武将が君主に対して「兵●千をお与えくだされ、さすれば敵を~~」などと懇願するシーンがあるので、てっきり兵権は君主が把握しているものだと思っていました。 魏はともかく、呉蜀では君主の配下の内で有力な者の私兵だったのですね。となると、前述のようなセリフは何なんだろ…?あくまでフィクション作品だから何となく……なのかなぁ? さて、魏には常備軍が存在したとのことですが、当然それを支えるだけの経済力も十分だったのでしょうね。 (兵戸制度によって兵士に土地を与えて自給自足させる以外にも給金などは支払われていたのでしょうか?武具の準備などは兵士個人ではなく国が請け負ったのでしょうか?) 経済力が気になったというのも、世界史的に常備軍を設立できたのは、国家単位で経済を取り仕切り兵を養うだけの経済力(給金など)を得られるようになった近代国家になってからというのが一般的だからです。 三国志の時代の頃に、よくぞ曹操は制度を整え、それを支えられるだけの経済力を得られたと感心します。本当に有能だなぁ。
織田信長も兵士として補い、その勢いで制圧していたような? でも、次第に所領を与えるにつれて自身の抱え込む兵力が少なくなったような記憶 どちらの内容がよかったのか?は、急速に怒涛を織り成して行動をする場合は、すぐに活動出来る人力は抱え込める策略は素晴らしいですね
その圧倒してるはずの魏が実際はゴタゴタしてたのが問題なんだよね。当時華北は世界的な気候の寒冷化でダメージをうけていて人心も安定してなかったと思われる、そのうえ豪族の力が強くて権力闘争も激しく内乱が頻発で支配が安定してなかった。、軍事力なども遊牧民に頼っていると同時に遊牧民の反乱も対処しないといけなかった、その頼みの軍事力で呉や蜀への遠征で負けることもあり、魏が不完全であるがゆえに三国鼎立が半世紀も続いたわけですね。うまくまとめた司馬氏はなんだかんだで優秀でしたね。
兵力もそうだけど 地理的に安定された兵站線が確保されてるのも大きな理由だろう
決定的にシステムが違うのか
魏呉蜀の面積と、元寇や秀吉の出兵時の明の兵力から推察して、当時の兵数は実質半分か~3分の1ぐらいかな~。 魏は漢を引き継ぐ正規の漢人だったと思いますが、呉は、ベトナム等南方民族や台湾からの兵力もかき集めており、蜀は西方騎馬民族や山の民(チベットか?)あたりも使う、かき集め集団だったのは間違いないと思います。 歴史書は、事実と誇張と勝者に都合の良い事が書かれているので、結構難しい。中国古代史は特に人数は眉唾。
なるほど…🤔 ならやはり、魏延の長安への奇襲はある意味唯一の勝機だったと言う話もあながち間違ってはいなかったのですね。
魏は常備軍があって反乱を起こせなかった? 高平陵の変と反司馬家の反乱は3回起きたのではありませんか? 対して蜀、呉には大規模な反乱はありませんでした
@user-vq7xz4nl6y
3 жыл бұрын
Danny Ngさん:いえ、反乱が出来ないのではなく、 魏には常備軍が大勢いるので反乱が成功しにくいのです。 例えば毌丘倹と文欽の乱では、毌丘倹と文欽は兵力を6万率いて挙兵しますが、 司馬師は迅速に十数万の兵力を動員して包囲殲滅しています。 諸葛誕の乱では、 諸葛誕は私兵と10万の兵力の派遣を「要請」し十数万の大軍でしたが 司馬昭は、自ら鍾会・王基・陳騫・州泰・石苞・胡烈ら26万の大軍の指揮を執り 寿春城に諸葛誕と文欽・全端・全懌・唐咨の軍を包囲してしまいます。 呉の朱異は、2度に渡り数万の兵力で寿春城の救援に向かいますが、 2度とも撃退されました。 これは、絶望的な兵力の差を裏付けています。 毌丘倹と文欽の反乱も諸葛誕の反乱も司馬師・司馬昭は 基本包囲するだけで勝っているのです。 こういう圧倒的な横綱相撲が出来るのは 魏が兵戸制に基づく常備の大軍を備えたからで そうでなければ十数万の兵力を短期で鎮圧できないと思います。 私は、このように考えたので、こうした動画になりました。 また高平陵の変は、曹爽一派と皇帝曹芳が洛陽を出た隙に 司馬師が主導して洛陽を制圧したクーデターで あり、 率いた兵力はあまり多くありませんので除外しました。
魏の兵制を聞いて映画『ムーラン』の兵隊集めのシーンを思い出した あれも家族から男子を一人差し出すのが義務だったね ムーランの家庭では男の子がいなかったので仕方なく女の子のムーランが男装して兵隊に加わったが 魏の軍団にもそんな兵隊がいたのかもと思った
明日世界史のテスト ちょうど三国志 助かります
呉と蜀が魏に勝てないというのも異論は無論ないのですが 逆に魏も蜀と呉を滅ぼせず終わったのが三国志ですよね 実質滅ぼしたのは晋の時代ですし
システム( ・◇・)?が根本的に違う……下地を造った曹操サンて凄いなぁ〰️と思ってしまう。
非常に勉強になりました。中央集権じゃないと長期の作戦を維持できないですね。 自己資金で事業するか借金で事業するかの差を感じますね
そんな中魏をあと一歩まで追い詰めた関羽の存在よ。誰が言ったか恐れるはただ羽のみと。 本当に関羽はただのゴロツキなのか?
魏の国民(特に男子)にとっては暮らしにくかっただろうが、兵戸制は安定した兵力の輩出に関しては優れものであり、それを編み出した曹操は軍政においても優秀であったことを思い知らされる。それにしても、国民の約10%が兵力とは、時代が時代とはいえ三国とも軍事国家と言えよう。現代の日本の自衛隊(ちなみに約0.2%)が低コストと見なすのは早計だろうか。
@kenjih1408
2 жыл бұрын
大陸国家と海洋国家では必要とされる動員兵力はまったく違いますね。 それでも自衛隊は低人口比ですが、人民解放軍も似たようなものです。 中華統一には役立った兵戸制ですが、そうやって異民族を強制移住・傭兵化したことが 結局最後には、中華を滅ぼして異民族の長期支配を招くんですけどね。
魏志倭人伝に鉄器の記述はありませんでしたか? 魏が蜀と呉を平定できたのは、青銅器が主な武器の材料だった、魏と呉と違って魏は倭国(邪馬台国)の鉄の加工技術を今の韓国から産出鉄鉱石の加工技術が魏に使わったからだと言う説があります。
魏朝の前、魏の軍都の鄴では、旧態依然の兵奴を使役する部曲を中心とした豪族軍閥が幅を利かせていました。この兵戸制は、呉・蜀と大して変わらなかったと言えます。 魏の政治経済体制に、地域別(治政官によってまちまち)に行われていた屯田制などが組み込まれたのは、曹丕の時代になってから。 屯田制の運用を担っていた地方の農政官吏達により、負担云々よりも優遇税制や免除特権などの施策が機能していて、戦禍で農民達が耕作放棄して流民になる様な事は減り、経済的にも安定し、当時としては画期的な九品官人法や都督諸軍事(兵権)制などが導入され、魏の富国強兵に繋がりました。 戦地の兵站確保を目的とする軍屯は、戦争になると耕作を放棄しなければならず無駄になったのですが、基本内地で行われる民屯は、屯田兵が戦に駆り出されると、優遇税制により屯田を受け入れた地元農民達が、肩代わりして共同耕作する決まりだったので、無駄にならず財政基盤が揺るぎませんでした。 魏の農政の中で育ち、奇しくも蜀に降った姜維は、漢中を中心に屯田を施行していますが、豪族軍閥が幅を利かせている成都との間に確執が生じる事になっています。
まあ、日本じゃ最大勢力の私兵集団vs旧宗の図式になっていましたよね。(まあ、最大勢力の私兵集団も聖地だったオタク界隈で他宗の台頭を許したりと杜撰な所が在りますけど)
曹操てホントに合理的な人材運用してたのね。
北方騎馬民族の傭兵で補充可能だから、実質乗っ取られて、この後次々と北方民族系の征服王朝が続くけどね。
@00kumakuma
3 жыл бұрын
この戦争中に帳簿上の掌握人口は10分の一になる。
兵站関係には触れないんです?
水上戦は呉が得意で赤壁の戦いで魏を大敗させましたが、戦場は基本的に陸地です。魏は騎馬隊が機動力に優れ基本歩兵の蜀を圧倒したのでしょう。これも一つの要因なのではないでしょうか?
@user-xr1jp4cm8d
2 жыл бұрын
実際の赤壁の戦いは演義で書かれているような派手なものではなく疫病発生で魏軍が退却しざるを得なくなった為に実はそこまでの戦死傷者はいなかったらしい。
蜀漢も呉も人材不足は痛すぎますね。特に国力が一番少ない蜀は魏と戦うにはどうしても短期決戦になるでしょうし
あと異民族問題もあるかなとこれは呉が一番きつかった点だろうけどね
まあ時代が悪かったでももし現代の中国なら上海香港をおさえてる呉が天下統一してたかも
そもそも、94万人の全人口から10万人の兵を出すことってできるのでしょうか?いまの日本で例えたら、例えば和歌山県(96万人)だけで自衛隊員10万人出すようなものですね。仮に厳しく徴兵したとしても、正直1万人でも厳しいと思います。ですから魏を含めて、実際に動員可能な兵数とは乖離していたかもしれません。人口が少なすぎたことが中国統一を困難にしていた最大の要因だろうとは思います。
@user-jx6kl1jh7t
3 жыл бұрын
第一次世界大戦期のドイツが6500万の人口で1300万の徴兵可能数、フランスが4000万で800万人。ただし、即応性があるのはこのうちの半数とされていて大体100万につき10万と言うところです。島国の人間には大陸の動員体制は想像がつかないレベルですね。 もちろん、通信・移動手段・教育が格段に整った近代の動員と比べても仕方がないのですが、三国の場合まず当然ながら戦時体制であること、三国とも辺境問題があり時期によっては異民族と戦いながら余力を持って各国に対峙してる状態(シュミレーションと違って「角」を持つことはむしろ不利で「殻」の中も反乱対策を考えると空には出来ない)であることを考えると、実感として10人に1人は兵隊(になれる)はおかしくはないです。日本の武士も人口の7%なので不労人口(ただし、大陸は屯田があり日本も少なからず給人地を自分で耕してます)を養うとするとこれくらいなのかな、と。
@nagoyashimin569
3 жыл бұрын
その人口94万は国家が把握している人口、実際の人口はもっと多い。 例えば国家に税金っを払っている豪族が奴隷(豪族に税金を納めている人など)を1万持っていても人口は1人になる。 魏では屯田兵は人口に組み入れられなかったし、三国とも剥離しているのは晋が統一したら人口が倍になっているのでもわかる。 晋は統治能力が低い王朝だったが三国はそれより低いレベルで国家を把握していないという事。
@kenjih1408
2 жыл бұрын
三国時代はどの国も北朝鮮みたいな軍事優先主義ですから、限界まで動員するんですよ。 概ね戸籍2戸に対して1人の兵役義務が課されていました。さらに蜀は官吏の比率も異常に高い。国がボロボロになるより目先の軍事が最優先です。 当然、軍事費がかさみ過ぎて経済も低迷しますので、この時代の貨幣は三国ともにどれも悪銭。 まぁそんなことを100年も続けてるから中国自体がボロボロになって全部滅んで、その後の異民族支配を招くんですが。 やはり動員率が異常に高かった時代、1次2次大戦期の欧州で戦争を100年も続けたようなものです。
@user-eigas
Жыл бұрын
無理です 半数が女性で残りの4割が子供と老人なので ナポレオンの時代で6万くらいがせいぜいで、20万以上運営したら瓦解してます 単純に飲料水をどうするかで考えてみると、いかに無理かが理解できると思います (1軍団が3000-4000人ですので、将軍の数や軍団数で計算してください) 中国は感情的な数を記載して信じて楽しむ文化があると覚えておくとよろしいでしょう
後漢の時人口が6000万だったが三國時には全部で800万も満たないから凄まじい人口減があったんだね
@user-hq8sc1cj6r
9 ай бұрын
別に全部死んだわけではなく、あくまで戸籍上のものらしいですよ あちこちににげてますからね
呉は後に中華を統一する明の首都になるなど中華の最重要地になる地ではあるが、この頃はまだほとんどが未開発であり、本来の国力が発揮できてない状態であるが、蜀と呉どちらかを併合して南朝を成立させて急ピッチで開発を進めれば、ワンチャン勝利できる可能性はあったかもしれないが、それほどの生産力が整うまで魏が待ってくれるとは思えないので、やはり蜀呉による統一は無理ゲーなのではないか?
@tif9590
Жыл бұрын
後々の五胡十六国時代や南北朝時代考えても南朝側が不利な感じだしな。
蜀はフェザーンレベルか‥
魏にはいぶし銀と言われる武将が多く我々が知らない人等が重要な働きをしていた。
目から鱗です
成る程兵もしっかりと管理されて脱走や違反したものは連帯責任を取らされるのか~其は厳しいな~
今使えるか相談して使えるか、違いだな。
ディズニーのムーランは兵戸制でお父さんが徴兵されたと言うことが始まり?
後の五胡十六国や北魏隋唐遼金元清、更にユーラシア規模で、遊牧民の征服王朝の活躍ぶりを見ると、魏の優位性って、馬匹や騎兵の供給力に有ったんじゃないですか? 唐宋の例で見ると、北方では内地で十数万頭規模の馬を養え、北方遊牧民からは「ほぼ無尽蔵」に馬を入手できました。それに比べると、チベットなどの産地を控えた蜀なら数万頭規模を入手できました。それに比べると、呉は数千頭規模に過ぎません。 合肥の戦は、張遼将軍の優秀さばかりでなく、配下の騎兵軍団の戦力の賜物でしょう。 面倒なので出典は省略しますw
キョウイまでそんな戦い方してたのかかわいそう過ぎる
いきなり文字間違えてますよ
単純に言えば国力の差じゃない?
@tikokun
3 жыл бұрын
都を抑えてるから国力は間違いないけど、何より曹操の代の時点で制定された法がしっかりしてるから国内が統制されてるんだよな。 呉も国内は孫権の代で法がしっかりしてて平和だったけど孫権の晩年の暗君ぶりに国が乱れたし、何より孫権自身に兄の孫策や曹操や曹丕を始めとする曹一族のような戦のセンスが無かった事、蜀の北伐に合わせての出撃の度に大きな勝利が少ないうえに優秀な臣下を失ってたりしてるからなぁ…
勝てないって。。
呉や蜀のような兵制だと各部隊がばらばらに戦うようなもの。 これでは効率も悪いし勝ち目がないのも当然。 劉備や孫権はこの欠陥に気が付かなかったのか、気付いていても魏のような兵制にするのは不可能だとわかっていたのか。
野心の違い 優柔不断の劉備と計画を実行に移してきた曹操、 父と兄を失い暴君に成り下がった孫権 劉備は諸葛亮を頼っていたけど、曹操は先までのビジョンが見えていた
@tikokun
3 жыл бұрын
孫権は守国に定評がある君主だからな。 孫権がダメになったのは晩年。 とは言え、自身の侵攻戦の下手さに勝ち目の無い魏への侵攻は無策すぎる。 結局、魏の領土を大きくは奪えなかったしな
初っぱなから「しょく」かぶってんで
え?3国合わせた人口が767万人。こんな少なかったのか
@sangokushi
3 жыл бұрын
戸籍に登録されている人数なので、 実際には戸籍漏れの人口がかなりいたと考えられます。
兵力、人材、国力、どれをとっても蜀、呉は劣る。 地の利だけは確保したが
蜀が魏に勝てなかったのは、兵力差もあるけれど、徐州経営をしっかりしなかったからだと思う。徐州を関羽に任せて、諸葛孔明は成都に籠りっぱなしというのはいくら何でも無責任すぎる。諸葛孔明は、赤壁の戦いで失敗を犯した関羽をむしろ自分の身近において、徐州を中心として、少しずつでも魏や呉の領土をモノにしていけばなんとかなったという気もする。全ては劉備玄徳の運命かもしれない。
@tamachang3701
3 жыл бұрын
徐州の場所を確認してください
賊軍は蜀と呉だよ。