29年 平塚市 三嶋神社 例大祭「須賀のまつり」二基本社神輿連合渡御。

世界中で キューバ人です。《日本のお祭り、神輿 伝統と文化》です。(キューバとジャパン文化交流です)。
担ぎ手の皆さん 大変暑いの中で お疲れ様でした。
本社特大神輿
【現大神輿の大きさ特微】一トン重さ(四百五十kg)、(胴は七十センチ)、
台輪は四尺一寸(百二十センチ)、 (大鳥迄の高さ二メーター 五十センチ)。
  特微
 屋根は四方唐破風梨(シホウカラハフウナシ)子地塗り四段造り。
   胴回りは龍頭四段造りで、普通の神輿より枡形が三段増と成っている。
   十二支彫刻を始め、五枚重ねの金箔塗り。
   大鳥は前大神輿の大鳥を、そのまま拡大した特注文の物で。
   前かがみの特微が有り羽を広げると、二メーター以上有ります。
浜降祭に付いて
  
 本祭りの日、朝九時に宮出し、六町氏子渡御を行い午後四時、各六町の
 中神輿六基を供として、国道百二十九号より国道百三十四号線を渡って
 浜に降りる。 海では、氏子漁業開係者の大型釣り船十艘が、日の丸、
 大漁旗で飾り付け、円運動等の連動を行い、 大神輿の浜降りを迎える。
 此の時の熱狂さと盛大さは、  見事な物で、浜海岸一帯は黒山の人出で
 大変な賑いを見せる。
 大神輿は、海岸へ降りると定められた奥道を通り十メーター以上で作られた
 竹の門を通り、海中に入って 【禊】を行う。 よって浜降祭の祭典を行い
  其の後 御還り祭 神社へ向かう 宮入りに向かう。
  
   御祭神
  大山祇命   (オオヤマヅミのミコト)
  事代主の大神 (コトシロヌシのオオカミ)
三嶋神社御創作の年代は、この須賀の地に始めて我々の祖元が足を踏み入れ、
漁業を中心する生活基盤を開拓された時代と大差ないと思われる。
平安時代の始め文徳天皇(八百五十一~八百五十八)の頃始めて須賀のから浜
と言う言葉が見えると言う。
そして其の少し前仏仁間(八百十~八百二十三)には当神社の別当で有った
長楽寺の創建の所以が有ったと言われている。
長楽寺文書の中に【薬師、三嶋明神の本地仏なり、長一尺五寸、弘法の作と伝】と有る。
即ち平安の始めに二はこの地に人々が住居し、集落の形成が有ったと思われる。
当神社御創建の由来もこの頃の時代と推察される。 
そして四国伊予大三島大山祇神社より、  大山祇命を勧請し三嶋大明神と称し、
又、明治の始め伊豆三嶋大社から言代主大神を勧請し相殿に合祀るして二柱の大神を
主祭神として祀った。
 
江戸時代、須賀は漁業、海運魚業、商業の要所として急速に発展し大変な賑いを見せた。
そして土地の賑いと共に夏祭りが誠に盛り大に、氏子町内奉げて執行され、その威勢と
盛大さに他地域の人々は【須賀の祭り】と称する様に成った、時には祭が調子にのる
と七日~十二日間も続く事から【須賀の入梅祭り】又【須賀のダラダラ祭り】とも
言われる程、盛んな土地で有った。
その祭の中心は勿論大神輿で有るが、惜しくも戦災で焼失してしまった。
氏子五町内の五基の山車は、総欅造りで彫刻で飾され、県下にない、誠に立派な物で
有った。
このような山車を一町内一基ずつ造った町内の経済力と【須賀の祭り】に対する氏子
の熱意がよくうかがわれる。
現代神輿に付いて  現代神輿は昭和五十三~四年に掛けて、氏子全体が一丸と成り、
全力を注いで新調された物です。
当時の金額で二、五百万円、全てが特注で有る、これ以上の神輿は出来無いと、
神輿製作者言った程で御座います。 其れ迄の大神輿は社宝として神輿庫に飾って
有ります。
日本と言えば、神輿です!! CUBA & JAPON.。【Copyright License & ALL Rights Reserved】 by Picua de la Puntilla From Ciudad de la Habana Cuba.平成29年7月16日 日曜日です、日本有りのまま!! 編集無し 其のまま RAw video (生) Sony Full AVCHD (HD) by picua。

Пікірлер: 1

  • @user-it2fv3wb7p
    @user-it2fv3wb7p4 жыл бұрын

    素晴らしすべてがんばれー南町内会

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