豪農の館

豪農の館

■このチャンネルは、全国の豪農を紹介します。
#豪農の館

Пікірлер

  • @user-us1qj2ds6i
    @user-us1qj2ds6i14 күн бұрын

    去年 奥原晴湖の画室で個展やらせていただきました、

  • @Love-hs5fy
    @Love-hs5fy13 күн бұрын

    @@user-us1qj2ds6i さん、となりのね😀 見てみたいな

  • @user-hq7ts9qt8y
    @user-hq7ts9qt8y16 күн бұрын

    工事中を見せられてもなぁ┅。

  • @Love-hs5fy
    @Love-hs5fy15 күн бұрын

    @@user-hq7ts9qt8y だってしょうがないでしょ! 群馬県から出張ってるんだから。

  • @numa9086
    @numa908617 күн бұрын

    九度山ですか? どこかわかんない。椎出かな?

  • @Love-hs5fy
    @Love-hs5fy17 күн бұрын

    @@numa9086 さん、そうです。椎出です😅🙏

  • @user-dt5he9ub4e
    @user-dt5he9ub4eАй бұрын

    茂倉集落私が生まれた集落です45年位前には1件だけ雑貨屋さんがありました、見渡す限り山西森囲まれていて時間も止まって居るよにゆっくり流れています、何も有りませんが都会の生活に疲れたたら行って見るのもいいかもしれません本当に何も有りませんが。

  • @Love-hs5fy
    @Love-hs5fy23 күн бұрын

    @@user-dt5he9ub4e さん、コメントありがとうございます。ここは鉱山基地だったそうですね。

  • @wwaf1
    @wwaf1Ай бұрын

    最初のナレーションで「江戸時代へタイムスリップ」と在りましたが、江戸時代に「窓ガラス」は 無かった様に思うのですが・・。昭和初期から昭和中期の家屋の様に思います。

  • @Love-hs5fy
    @Love-hs5fy23 күн бұрын

    @@wwaf1 さん、江戸時代の区割りが、そのまま残っているのです。窓ガラスは住んでいた方が、当然直すでしょ。アホなこと言わんといて

  • @wwaf1
    @wwaf123 күн бұрын

    @@Love-hs5fy アホとは失礼ですね。家自体も江戸時代の物とは思えない作りだったから、その様に 思っただけです。

  • @Love-hs5fy
    @Love-hs5fy23 күн бұрын

    @@wwaf1 さん、怒ったかね。今、江戸時代の建物が、そのまま残っていたら、それは奇跡だ。この茅葺き民家も、レストランに改造されている。当然ガラスもあるだろう。 電灯がついていたら、江戸時代に電気は無かった筈と、言うことと同じだ。

  • @wwaf1
    @wwaf123 күн бұрын

    @@Love-hs5fy では、どの辺が「江戸時代」なのでしょうか?それに、見ず知らずの人間に「アホ」 と言われて怒らない人はいないですよ。

  • @Love-hs5fy
    @Love-hs5fy23 күн бұрын

    @@wwaf1 では見ず知らずの人に動画にケチを付けられても、泣き寝入りですか… 何度も言いますが、街の区割りが江戸時代のままなんです。普通は道路を拡張して、クルマが通れるようにするのに、此処は集落内に車道がないんです。

  • @-sorakami-9485
    @-sorakami-9485Ай бұрын

    栃本集落ですね😇 年に数回訪れてます 首都近郊に天空の里があることに始めて訪れたときは、驚きました。 そしてものすごい遠い😂 民宿も何軒かあるようなのですが営業されてないのかな? 今なら大都会から天空の里に宿泊客で賑わうと思うのですが高齢化でダメなのかな。若い人が栃本プロジェクトなる栃本を活性化させる事をやってたような

  • @jamkayatu138
    @jamkayatu138Ай бұрын

    今は亡き祖父と祖母の家が見えました。長い事行けてないので、とても懐かしく甘い思い出がよみがえりました。とても素敵な動画をありがとうございます。

  • @user-dq7jj7vq7j
    @user-dq7jj7vq7jАй бұрын

    さっき原鶴温泉行く時に通りましたよ。 土砂災害以降、人は見なくなりましたね。廃墟も数多くあるみたい。

  • @reeknnc432
    @reeknnc432Ай бұрын

    なかなか帰れない故郷の風景が見ることができ、嬉しいです。カエルの声が良かったです。ありがとうございました。

  • @fktokoro
    @fktokoro2 ай бұрын

    やたらに、限界集落等と言い撮影しないで下さい、腹がたつ

  • @user-cm7gx6kz4i
    @user-cm7gx6kz4i2 ай бұрын

    新潟県は幾つの豪農があるのか、本田様には及びもないがせめてなりたや殿様に、と歌われた本田様より豪農、その陰で何人何百の小作が泣いて居ることか?負の部分もアップしてください、

  • @user-pj5nx5gz8g
    @user-pj5nx5gz8g2 ай бұрын

    これは、自分で楽しむのは良いけど…、snsに投稿するのは いかがと思います。

  • @user-pj5nx5gz8g
    @user-pj5nx5gz8g2 ай бұрын

    又、こいつか!。何処に住んでいるのかな?。見たいですよ!

  • @user-lu2qx2xu2h
    @user-lu2qx2xu2h2 ай бұрын

    母が子供の頃、住んでました。 今でも中はすごかったと昔話をしてきます。

  • @user-qc6xp4yz4x
    @user-qc6xp4yz4x3 ай бұрын

    哀れって何!

  • @mkuma3
    @mkuma33 ай бұрын

    懐かしい故郷(昔し、南巨摩郡三里村新倉)小・中学校時代(昭和20年~29年)過ごしました、 子供時代の「新倉」は早川入りでは一番ヒラケタ部落でしたね。パチンコ屋も有り、映画も(出張で) 観る事も出来ました、私達のクラスは40名(一クラス)居りましたね。最後に卒業した校舎は 今は町営「ヘルシー三里」です、過疎化になり寂しいですが、今も故郷は最高です、有難う❤❤

  • @autoexpress537
    @autoexpress5373 ай бұрын

    今はSeattleに住んでおりますが、動画見るたびに懐かしく思います。

  • @Love-hs5fy
    @Love-hs5fy3 ай бұрын

    ありがとう

  • @user-ob4lc7iq3w
    @user-ob4lc7iq3w4 ай бұрын

    屏風はじめ、多賀町一体、この周囲は風穴もありすべて石灰岩層で化石の宝庫です。石垣の石の中にもフズリナやウミユリ、三葉虫などなど、ペルム紀の化石がたくさん採取できます。化石の勉強にもなる地域です。かつての町長さんの奥さんにお会いし、自宅でたくさんの鹿の角を見せてもらいました。懐かしい思い出があります。原則、屏風へは声掛けをよろしく。

  • @fr6481
    @fr64815 ай бұрын

    ここは好きな場所で何度か訪れていますが、土日だと対向車が結構来ます。 すれ違いがギリギリの車幅なのでヒヤヒヤします。

  • @user-sw9iw6zm3l
    @user-sw9iw6zm3l5 ай бұрын

    南牧村バンザイ

  • @user-sl8om4wt6l
    @user-sl8om4wt6l5 ай бұрын

    車でフルーツラインから切差の方に出かけました。何年か前の事ですが、懐かしいです。今でもバスは運行してるんだろうか、太良峠も首地蔵も懐かしい、動画配信ありがとうございます。

  • @chram.ofsky7
    @chram.ofsky76 ай бұрын

    保存版にします。ありがとうございました🙇

  • @wwaf1
    @wwaf16 ай бұрын

    曲りなりにも廃墟探索なのにライト無し?肝心な所が真っ暗で見えない。

  • @user-yz5zp2nh3q
    @user-yz5zp2nh3q6 ай бұрын

    朽木元綱の所領かしら🫣風情ありますね

  • @emperor0001
    @emperor00016 ай бұрын

    でも今、豪農が存在出来ないのは?・・・市町村の固定資産税が高いからだよ?

  • @shione-ziyu-zin
    @shione-ziyu-zin7 ай бұрын

    素敵な雰囲気で感動しました。いつか行ってみたいです。ありがとうございました。

  • @asgardstrand4317
    @asgardstrand43177 ай бұрын

    冬は予想以上に地獄です

  • @sakuramiyama8599
    @sakuramiyama85997 ай бұрын

    ここも 可愛らしい🥰村…いま 山奥って 騒ぐほど…日本列島の山奥なんて大した事ないです😊以前は良く山の中を車で走り回りました。jeep🚗でもないセダンで🚘河原の横が大きな石だらけの山道があり、山奥の道になっていないところを隣の県まで、ただひたすらに走ったことがあります。山の幸を取りに行って熊にも会いました。怖いと思えば怖いかもしれませんが、感動と好奇心の方が増していました。本州は、月の輪熊🐻ですから、まだ良い😅 月へ行って帰る位の距離数を乗り倒しました😊日本人の若者が⛰️に暮らし、素晴らしい日本🇯🇵の国土を日本人のために守っていただきたいと切に願っております😊

  • @Love-hs5fy
    @Love-hs5fy7 ай бұрын

    コメントありがとう! 自分も昔はよく、山城巡りで山奥を走りましたよ。最近はパンクが怖くて、行きませんけどね。

  • @sakuramiyama8599
    @sakuramiyama85997 ай бұрын

    @@Love-hs5fy ⛰️の体験は、生きているって感じですね😊失敗談の方が多くなると慎重になりますね😅🚗👍

  • @chram.ofsky7
    @chram.ofsky77 ай бұрын

    当時の豪農そのまま残してくれてるのは嬉しいですね。 間取りも、お庭もお金持ちならではですね。 メンテナンスも大変なのに、拝観料を少しでもと思い ましたが、太っ腹なお金持ちは違いますね。 町並みも、趣きがあっていいですね。 配信ありがとうございました。

  • @nekoneko1963
    @nekoneko19637 ай бұрын

    単車はたぶんYB-50(YB-1)でしょうね 旧そうでいてそのカラーだと1996~なんでそんなでもないです …でもその保管でその状態、 異様ですね まるで実動機

  • @user-ik7yn9ky5n
    @user-ik7yn9ky5n8 ай бұрын

    懐かしい動画提供してくれてありがとう(*^-^*)ございます。現在の佐久市民の多くが存在を知らないのは、当然です 広河原集落は 平成の大合併以前佐久市とは別々の自治体であり又その前は、旧田口村という自治体に含まれており合併前の佐久市とは経済、文化共に交流がなかった為です。

  • @user-zg7vt2pp5n
    @user-zg7vt2pp5n8 ай бұрын

    この道好奇心で、興味深くて通った場所だ!怖かったなあ海から遠い地点がありますよね

  • @user-nl3ir9ze5b
    @user-nl3ir9ze5b8 ай бұрын

    もっと観光客で賑わうと良いですね☺️

  • @user-xh2nc4fw9h
    @user-xh2nc4fw9h8 ай бұрын

    上野村のヴィラせせらぎさんの高野料理長の作る料理が不味すぎて最悪でした 帝国料理で勤務経験があると言っていましたが本当ですか😱赤いきつねのカップラーメンの方が美味しいです😋 二度と泊まりません 怒鳴り声も聞こえました やばいです 絶対におすすめしません よにひ

  • @user-og6wv3xt5y
    @user-og6wv3xt5y8 ай бұрын

    南牧村好きです。自然が豊かで、心が、癒やされます。

  • @user-fd9bb7xz2j
    @user-fd9bb7xz2j8 ай бұрын

    立派な古民家 とても良い動画でした

  • @user-yx8tr4iz9l
    @user-yx8tr4iz9l8 ай бұрын

    すごいですね、今でもこのように昔のままで、残ってるんですね、行ってみたい。

  • @user-pd1di9hs8m
    @user-pd1di9hs8m8 ай бұрын

    戦×恋(ヴァルラヴ)

  • @user-yz2we4uh1v
    @user-yz2we4uh1v8 ай бұрын

    田麦って上越市では?

  • @user-kl5bb4el3v
    @user-kl5bb4el3v8 ай бұрын

    テーマパークみたいにすればなぁ、失ったら取り返せない‼️

  • @user-zu6tc9mb7s
    @user-zu6tc9mb7s8 ай бұрын

    萩原健一版八ツ墓村ファンで1度は訪れてみたいと思います。住むのは大変だなぁと思いました。当時は家族やら使用人がたくさんいて苦労はなかったのでしょうね。

  • @user-gd7um8qe8w
    @user-gd7um8qe8w8 ай бұрын

    東京から1時間、佐倉は私の好きな町です。 地形も良いし、城下町の町割りも残っています。 そして城下町の文化も、何処となく感じられます。

  • @chram.ofsky7
    @chram.ofsky78 ай бұрын

    趣きのあるレトロな街並み、いいですね。

  • @mitsuezodrow6419
    @mitsuezodrow64198 ай бұрын

    信越線上田は汽車の窓からの眺めだけでした。こんなに素敵な昔をしのばせてくれる場所が⁉ 長野県北部出身者。今更ながら感激。在米高齢者の為、訪日は無いのでこの動画での散歩だけ。 上田を取り上げて下さり感謝です。

  • @user-hf5zl4vs2r
    @user-hf5zl4vs2r9 ай бұрын

    いちおう国道なんですよね、廃校は小中学校一緒に建物だと思ってるました。 色々と見ようとしたが住民の方に失礼だと遠慮しました。 旗日にドライブしたら軒先に日の丸🇯🇵国旗が立ってました😊 住民が利用する小さいバス🚌 移動スーパーも来てた、ここの風景好きです。

  • @user-xh2nc4fw9h
    @user-xh2nc4fw9h9 ай бұрын

    上野村のヴィラせせらぎさんの高野料理長の作る料理が不味すぎて最悪でした 帝国料理で勤務経験があると言っていましたが本当ですか😱赤いきつねのカップラーメンの方が美味しいです😋 二度と泊まりません 怒鳴り声も聞こえました やばいです 絶対におすすめしません わよ

  • @user-ov3gh4cm4s
    @user-ov3gh4cm4s9 ай бұрын

    おすすめに出てきたので見させて頂きました。 とても懐かしさを感じる動画でした。

  • @user-gw4cs8hv3t
    @user-gw4cs8hv3t9 ай бұрын

    故郷の動画をアップしていただき有難うございます。 2:52辺りに「余川(よかわ)」という集落名(付近を流れる旭川の支流の名前でもあります)がありますが、この右手に昭和40年3月まで富小学校余川分校がありました。 ここから2.5kmほど北へ行くと「のとろ温泉天空の湯」があり、谷をはさんだ左手がたたら集落の跡地で、木が茂っていますが説明の看板もあり無料で見学できます。 子供の頃に川原で遊んでいると時々小さい隕石のような変わった石?が転がっていましたが、「カナクソ」と呼ばれるたたら製鉄によってできた鉄分の含まれた石だったようです。今はもうガードレールで降りられなくなり川も変わってしまいましたが、美ノ茅(みのかや:温泉の手前の元木地師の集落)ダムの少し上手には「まつけぶち(馬着け渕)」という、鉄を運ぶ馬に水を飲ませた渕があり、昭和の頃は子供たちの水浴び場でした。

  • @Love-hs5fy
    @Love-hs5fy9 ай бұрын

    故郷の思い出のコメントありがとうございます。 ナレーションを入れて、以前に作った動画のリニューアルを進めています。今回いただいたコメントを、ものがたり風にアレンジさせていただいても、宜しいでしょうか?

  • @user-gw4cs8hv3t
    @user-gw4cs8hv3t9 ай бұрын

    @@Love-hs5fy はい、問題ありませんので宜しくお願いします。

  • @Love-hs5fy
    @Love-hs5fy9 ай бұрын

    @@user-gw4cs8hv3t 樣 ありがとうございます。また子供の頃の思い出、学校の登下校などエピソードあれば、失礼のないように編集したいので、情報お願いします。

  • @user-gw4cs8hv3t
    @user-gw4cs8hv3t9 ай бұрын

    @@Love-hs5fy 余川谷と呼ばれる地域は、立尾(たてお)、余川、中ケ市(なかがいち)、美ノ茅、大仙屋敷の集落からなり、これが分校の学区でした。 この内美ノ茅、大仙屋敷の2集落は約200年前の天保の大飢饉以来土着した木地師の集落で、元々は全て小椋姓でしたが、令和5年現在3軒を残すのみでいずれも跡取りはなく数十年後には無人となりそうです。 私は昭和32年美ノ茅集落で生まれ育った分校最後の1年生です。 この頃1年生から4年生までが分校で、5・6年生は6キロ離れた本校に徒歩で通っていました。 昭和39年度は1年生から各2人、2人、5人、5人の合計14人(男10人女4人)、先生は下級生の西組が女性、東組が男性で、女先生は村内から単車、男先生は下宿していました。 当時の分校の様子を記録したものとして(昭和36年頃と思われますが)、校舎の新築を取材した「『岡山県ニュース』明るく学ぶへき地の子どもたち」という動画が、ユーチューブに公開されています。 当時各家庭は勤め人など皆無で、どの家も農業の他に炭焼きや林業関係の人夫仕事で生計を立てていましたが、そういった土着の家ばかりでなく、少し前まで盛んだった林業に従事するため戦前戦後に家族で移り住んだ家も何軒か残っていました。 子供は幼児から集落ごとに集団で遊んでおり、学校といっても先輩後輩といった意識は全く無く、雰囲気は遊びの延長のようなものでした。私も4年生にタメ口は勿論平気で口答えをしていました。 メンコ(パッチンと呼んでいました)、ビー玉、三角ベースボール、ゴム飛び、鬼ごっこ、陣取り(地面に四角の陣地を描き、そこから指で小石を三回だったか弾いて、元の陣地内にうまく戻れたらその軌跡が新たな陣地になるといった遊び)、冬は雪合戦や向かいの野原でスキーなどをして遊びました(最初は竹で自作、のち親戚からのお古。)また、村内にプールはなく、どの集落でも夏には川で泳いだり魚(ヤマメやハエの一種など)取りをしていましたが、谷水は冷たく、泳いだあとは焼けた岩に寝転んだりや焚き火で体を温めていました。 男の子は水鉄砲や紙鉄砲、魚捕り用に竹とゴムと自転車のフォークを加工した水中鉄砲なども自作して遊んでいました。 富山の廣貫堂(置き薬屋)さんがお土産にくれる紙やゴムの風船は、おもちゃ屋など無い田舎の子供にはとても嬉しいものでした。 おやつ等の習慣はなく、春はグイビや木イチゴ・シャジナッポ(いたどり)、秋は柿・アケビ・栗などその季節に採れるものを食べていました。 怖いといえば祖母と隣家のオバさんで、いたずらをしては蔵に閉じ込められたり、押さえ付けられて足の裏にお灸をすえられたりしましたが、一番可愛がってくれたのもこの二人でした。 昭和40年3月、明治以来の分校も少子化により休校となりました。地域住民の存続を願う声も多く、廃校ではなく取り敢えず休校とした経緯があったようです。 翌月から村が新規に購入したスクールバスでの通学が始まりましたが、送迎は分校までで、その後も一番遠い子は3キロ歩いて通いました。 私は2キロありましたので、NHKの「明るい農村」が終わる6時50分過ぎに家を出て、集落の先輩3人と一緒に通いました。 当時は余川集落の商店にしか電話がなく、雪の中を出てみると臨時休校だったことも何度かありました。本校の校庭(標高280m)で30cmが休校の目安だったようですが、標高540mの我が家あたりでは1m積もっていても不思議はないほど積雪量が違いました。 因みに、地域に電気が来たのは昭和25年、美ノ茅集落で最初のテレビと電話は我が家で36年と42年でした。毎週金曜日の夜だったか近所の人が大勢集まり、真っ暗にした部屋で力道山や豊登の活躍に熱狂する姿を覚えています。(今は2軒となってしまいましたが、その頃は10数軒ありました) 冠婚葬祭は集落総出で行い、什器や葬儀用具なども共同で所有・保管していました。バナナが食べられることが嬉しかった記憶があります。 また、毎年6月に当番の家に集まり、大きな数珠を回して無病息災を祈念する夏祈祷(なつぎとう)や、冬季の甘酒祭なども集落ごとに催していましたが、40年代には廃れていたと思います。 高度経済成長はこんなへき地の生活を一変させ、その後の過疎へと続いていきました。 岡山県では水島地域が新産業都市に指定されて工業化が進み、特に昭和40年頃から自動車関係の工場を県北の出稼ぎ労働者が支え、やがて彼らは季節労働者から正社員となっていきました。私の親の世代(昭和一桁から十年代生まれの人達)ですが、その殆どは単身赴任で「土帰月来」という言葉どおり、週末には帰宅して農業や家事に勤しむ生活で家族を支えていました。 やがて、へき地に見切りをつけ都市部に移住する家が続くことになります。 皮肉なことに、雨が降るとそこら中に水溜まりができ春先にはオタマジャクシの住処ともなっていた未舗装の凸凹道路が、立派な二車線の舗装道路に整備された頃には人がいなくなっていました。 この頃、明治27年生の祖父が言う「車」とは「大八車」のことで、私等もよく赤土を墓地まで運んだりしていましたが、まさか自分の家が自家用車を持つようになるとは思ってもみませんでした。 出稼ぎに当初は皆単車で100キロ余りを通っていましたが、43年には父も三菱ミニカを買いました。洗濯機やプロパンガスの使用もその頃だったと思います。それまでは川で洗濯し、竈で煮炊きをしていましたので、やっと日本の標準に追いついた頃かもしれません。 分校のストーブは勿論薪で、本校でも石油ストーブになったのは41年からでしたが、その頃がエネルギーの大転換の頃で、私共は太古から続いた木を燃やす時代の終焉に立ち会った、希少な世代と言えるかもしれません。 昭和40年度の本校生徒数は153名と記憶していますが、村内には他に昭和55年まで興基分校という分校があり、当時6年までで40名余り在籍していたと思います。 あれから約60年を経て、盛時2000人余りいた旧富村民も500人余りの老人村となり、先年閉校した中学校に続き、令和5年3月にはついに小学校も閉校となりました。 閉校時の児童数12名は余川分校閉校時より少なく、未就学児も数名を数えるのみでは残念ながらやむを得ないことだろうと思います。 岡山市内マンション育ちのわが子等は何不自由無く育ったように見えて、往時の自分と比べ、その実随分人間離れした生活を余儀なくされているのではなかろうかと、可哀想にも思う今日この頃ではあります。 なお、祖父の書いた大正4年(21歳)の日記が残っており、100年余り昔の暮らしぶりや当時の人々の名前と関係性などが伺われて興味深く、また貴重な資料ではなかろうかと思っています。 以上、取り留めもなく思いつくまま書き連ねましたが、お役に立てば幸いです。

  • @Love-hs5fy
    @Love-hs5fy9 ай бұрын

    @@user-gw4cs8hv3t 樣 貴重な思い出、情報提供いただき感謝します。こうなると再編しないと、お返しできないですね。なんとか年内ぐらいには編集してみたいです!

  • @user-ht5xl7vq5t
    @user-ht5xl7vq5t9 ай бұрын

    愚痴、ぼやき、?!頑張って!

  • @user-ps2dq1dg6f
    @user-ps2dq1dg6f9 ай бұрын

    県道沿いからの入り口が確か昔医者?だったとか?最後の川沿いの敷地内にお墓があるんですよね、関係なく失礼ですが市道に映ってる消雪パイプ私が作りました、懐かしいです。