こーぼーくん【哲学系】

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書経講読115☆書序・尚書序

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書経講読114☆4_32.秦誓

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書経講読106☆4_28.冏命

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ミリンダ11☆巻第七_1

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ミリンダ10☆巻第六

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ミリンダ9☆巻第五

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ミリンダ7☆巻第四_4

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ミリンダ8☆巻第四_5

ミリンダ8☆巻第四_5

ミリンダ5☆巻第四_2

ミリンダ5☆巻第四_2

ミリンダ6☆巻第四_3

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Пікірлер

  • @megu8376
    @megu837620 күн бұрын

    「カアウマ」の「マ」はこの梵字のどの部分になりますか?

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu18 күн бұрын

    1番上の点の部分です。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu3 ай бұрын

    【人材なき末の世】  さて又一の人は四五人まで並びて出で来ぬ。その中に法性寺殿の子共の摂政になられたる中に、中の殿(基実)の子近衛殿(基通)、又松殿(基房)・九条殿(兼実)の子どもには師家・良経也。父人(ててと)に三人の中に九条殿は社稷の心にしみたりしかばにや、兄二人の子孫には、人と覚ゆる器量は一人もなし。松殿の子に家房と言ひし中納言ぞ良くもやと聞こえしを、卅にも及ばで早世してき。  九条殿の子どもは昔の匂ひに付きつべし。三人まで取りどりになのめならずこの世の人には褒められき。良通内大臣は廿二にて失せにし。名誉、人口に在り。良経又<執>政臣になりて同じく<能>芸群に抜けたりき。詩歌・能書昔に恥ぢず、政理(=政治)・公事父祖を継げり。左大臣良輔(よしすけ)は漢才古今に比類なしとまで人思ひたりき。卅五にて早世。かやうの人どもの若死(わかじに)にて世の中かかるべしとは知られぬ。あな悲しあな悲し。  今、良経、後の京極殿(=良経)の子にて、左大臣(=道家)只一人残りたるばかりにて、こと兄々の子息は人型にて迷ふばかりにや。そのほか家々に一人も採るべき人なし。諸大夫家にもつやつやと人も無き也。職事・弁官の官の名ばかりは昔なれど、任人(にんじん)は無きが如し。おのづからありぬべきも出家入道とのみ聞こゆ。掘り求めば三四<人>などは出で来る人もありなんものを、すべて人を求められばこそは、ありて捨てられたらん<人ありて>こそ、頼もしくも聞こえめ。さればこは如何がせんずるや、この人の無さをば。この中に実房は左府入道とて生き残りたるが、ただこの世(=今の世)の人の心になりたるとかや。  僧中には、山には青蓮院座主の後は、いささかも匂ふべき人なし。失せて後六十年に多くあまりぬ。寺(=三井寺)には行慶・覚忠の後、又つやつやと聞こえず。[東寺には]御室(=仁和寺)には五宮(=鳥羽天皇第五子)まで也。東寺長者の中には、寛助・寛信など云ふ人こそ聞こえけれ。盛(さか)りざまには理性(りしやう=賢覚)・三密(=聖賢)などは名誉ありけり。南京(=奈良)方には恵信法務流されて後は、誰(たれ)こそなど申すべき。寸法にも及ばず。覚珍ぞ悪しうも聞こえぬ。中々当時法性寺殿の子にて残りたる信円前大僧正、上なる人の匂ひにも成りぬべきにこそ。又慈円大僧正弟にて山には残りたるにや。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu3 ай бұрын

    【多すぎる高官位の人】  さればこは如何にすべき世にか侍らん。この人の無さを思ひ続くるにこそ、徒(あだ)に、くさくさ心も成りて、待つべき事も頼もしくもなければ、今は臨終正念にて、とくとく頓死をし侍りなばやとのみこそ覚ゆれ。  この世の末に、あざやかにあな浅ましと見えて、かかれば成りにけりと覚ゆる印(しるし)には、摂籙経たる人の四五人四五人並びて葛(つづら)として侍るぞや。これは前官にて一人あるだにも猶ありがたき職どもを、小童(こわら)べの歌ひて舞ふ言葉にも、九条殿の摂政の時は、「入道殿下(基房)、小殿下(師家)、近衛殿下(基通)、当殿下(兼実)」と云ひて舞ひけり。それに良経摂政に又なられにしかば五人になりにき。  天台座主には慈円・実全・真性・承円・公円と五人あんめり。奈良(=興福寺)には信円・雅縁・覚憲・信憲・良円ありき。信憲も覚憲が生きたりしに<座主に>成りたりしやらん。  十大納言、十中納言、散三位五十人にもやなりぬらん。僧綱には正員(しやうゐん)の律師百五六十人になりぬるにや。故院(=後白河法皇)の御時、百法橋(ほつけう)と云ひてあざみけん事のやさしさよ(=恥づかいことよ)。僧正、故院の御時までも、五人には過ぎざりき。当時、正僧正一度に五人出で来て十三人まであるにや。前僧正又十余人あるにこそ、衛府は数(かぞ)へあらぬ程なれば、とかく申すに及ばず。  「官、人を求む」と云ふ事は言ひ出だすべき事ならず。人の官を求むるも今は失せにけり。成功々々と猶求むるに、成さんと云ふ人なし。されば半(なか)ばにも及ばで成すをいみじきに今はしたるとかや。それにとりて、この官位の事はかくはあれども、さてあらるる事にてありけり(=それは充分あり得ることである)。又世の末の手本(=典型)とも覚えたり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu3 ай бұрын

    【人あれどなきがごとし】  大方心ある人の無さこそ申しても申しても悲しけれ。かかれば<法師に>一の人の子の多さよ。この慈円僧正の座主に成りしまでは、山には昔より数(かぞ)へよく、摂籙の家の人の座主になりたるは、飯室(いいむろ)の僧正尋禅と、仁源・行玄・慈円とただ四人とこそ申ししか。当時(=今)は山ばかりにだに、一の人の子一度に並び出で来て十人にもあまりぬらん。  寺(=三井寺)・奈良(=興福寺)・仁和寺・醍醐と四五十人にもやあまりぬらん。一度に摂籙臣四五人まで前官ながら並びてあらんには、道理にてこそあれ。又宮たちは入道親王とて、御室の中にもありがたかりしを、山にも二人並びておはしますめり。新院(=土御門)・当今(=順徳)、又二宮(=高倉天皇第二子)・三宮(=同第三子)の御子など云ひて、数しらず幼き宮々、法師々々にと、師どもの元へ充てがはるめり。「世滅松」に聖徳太子の書き置かせたまへるも、哀れにこそ、ひしと適ひて見ゆれ。  これを昔は、されば、人の、子を儲(まう)けざりけるかと、世に疑ふ人多かりぬべし。よくよく心得らるべき也。昔は国王の御子々々多かれど、皆姓を賜はせて只(ただ)の大臣公卿にも為さるれば、親王たちの御子も沙汰に及ばず。  一の人の子も家を継ぎて、摂籙してんと思はぬほかは、みな只の凡人(ただびと)に振舞はせて、朝家(てうか)に仕(つか)へさせられき。次々の人の子も人がましかりぬべき子をこそ取り出だせ、さなきはただ這(は)ひ痴(し)れて止み止みすれば、ある人は皆よくて持て扱かふもなし。  今の世には宮も一の人の子も、又次々の人の子もさながら宮振舞ひ、摂籙の家嫡(かちやく)振舞ひにて、次々もよき親の様(やう)ならせんと、悪ろき子どもを充てがひて、この親々の取り出だせば、かくはあるなるべし。  又僧の中にもその所の長吏(ちやうり)を経つれば、又その門徒々々とて、出世の師弟は世間の父子(=親子)なれば、我も我もとその裁ち分け(=分派)の多さよ。  されば人無しとは、如何に[も]しかるべき人の多さこそとぞ言ふべき。哀れ哀れ「有若亡(うじやくまう)」、「有名無実」などいふ言葉を人の口につけて云ふは、ただこの料(れう=為)にこそ。かかればいよいよ緇素(しそ=僧俗)みな怨敵にして、闘諍(とうじやう)誠に堅固(=確実)なり。貴賎同じく人無くして、言語(ごんご)すでに道断侍りぬるになむ。しし(為仕?)以てまかりては、物の果てには問答したるが心は慰むなり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu3 ай бұрын

    【QA】 問、されば今は力及ばず、かうて世に直(なを)るまじきか。 答、分(ぶん=随分)には易く直りなむ。 問、すでに世下り果てたり。人又無(な)かん也。跡もなくなりにたるにこそ。しかるに易く直りなんとはいかに。 答、「分には」とはさて申す也。一定易々と直るべき也。 問、その直らんずるやう如何。 答、人は失せたれど、君と摂籙臣と御心一つにて、このある人の中に悪ろけれども、さりとては、僧俗を掻い選(え)り選りして、良からん人を、ただ鳥羽・白河の頃の官の数に召し使ひて、そのほかをばふつと捨てらるべきなり。不中用(=不要)の者をまことしく捨て果てて目をだに見せられずは、目出度めでたとして直らんずる也。随分に直ると云ふはこれなり。昔の如くには人の無ければ、<それも中々>叶ふまじ。選り正したらんずる寸法の世こそは悪ろながら、よく直りたるこの世にてあらんずれ。 問、この官の多さ、人の多さをば、いかに捨てんとては捨てられんずるぞ。 答、捨つと云ふは、ふつと召し使はず。<さ>る者や世にあらんとも知ろしめさるまじき也。陽成院(=上皇として)世におはしまして、やうやうの悪事せさせ給ひしかど、物も言はで聞き入れざりしかば、寛平・延喜の世、目出度くてありき。解官停任(=罷免)にも及ぶまじ。ただ捨てられぬにて、「まことに捨てられたらん人には、なあひしらひそ(=相手にするな)」と、選り採られたらん人に、仰せふくめて、さて有るべきなり。 問、その捨てられ人あまり多くて、寄り合ひて謀反や起こして大事にやならんずらん。 答、武士をかくて持たせおはしましたるは、その料(れう)ぞかし。少しもさる気色(=謀反)いかでか聞こえざらん。聞こえん時二三人さらん者を遠流せられなば、つやつやさる心を起こす人もあるまじき也。 問、此義なりて侍り。いみじいみじ。但し誰かその人をば選りとらんずるぞ。 答、これこれ大事なれ。但しこれ選りて参らする人四五人は一定ありぬべし。その四五人寄り合ひて、選り取りて参らせたらんを、君だにも強々(つよつよ)と働(はたら=変更)かさで、ひしと用ゐさせ給はば、易々とこの世は直らんずるなり。 問、解官せじとはいかに。 答、選り出だされむ人の、八座・弁官・職事ばかりになる人候らん所こそ要(かなめ)なれば、それは解官せられなんず(=前の人は罷免されるだらう)。言(こと)も愚かや。そのほかはせめて無沙汰なれと也。僧俗官の数の定め程こそ大事なれど、鳥羽院最中の数、末代よりよきほど也。

  • @ai6235
    @ai62354 ай бұрын

    こちらの動画で小林さんの詩経の本を知り買いました。難読な漢字もこちらの動画で読んで頂いてるので、理解がしやすくなって大変有り難いです。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu4 ай бұрын

    詩経、良いですよね〜♪ 本、買われたんですね。 小林氏は他にも色々出してますね。 詩経は、別チャンネルでも読んでますので、よろしければそちらにもお越し下さいませ kzread.info/head/PLh0NWYaDPDrAwBQlq1rH2dzjJVMKjqQyQ&si=id4qvEte99SACs_C

  • @ai6235
    @ai62354 ай бұрын

    とても良い動画。ありがとうございます。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu4 ай бұрын

    こちらこそ、コメントありがとうございます。 今後も色々な動画をあげていきますので、よろしくお願いします。

  • @user-rush4014
    @user-rush40146 ай бұрын

    前衛芸術の舞台のような構成、神秘的ですね。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu6 ай бұрын

    コメントありがとうございます。 前衛芸術系のものに抵抗がなければ、こちらもどうぞ。 kzread.info/dash/bejne/aamezJOJj8acj5c.htmlsi=AFLjOG6TOyU4nKLM

  • @user-bt7bl9nx3p
    @user-bt7bl9nx3p7 ай бұрын

    こんにちは。 貴重なお話を ありがとうございました😊💕✨

  • @user-zi4iq7tc2l
    @user-zi4iq7tc2l8 ай бұрын

    まだこの頃は御土居堀が無いので、「洛」の使い方が違うみたいですね。 洛中は御土居堀の中のことを指しますから。 大江山の場所、かなり遠いから、今の地名とは違うのかも。 今名前残ってる大江山は舞鶴の方だし、軍勢配置するには遠すぎます。もしかしたら、湯の花とか老ノ坂あたりならあり得そう。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu8 ай бұрын

    コメントありがとうございます。 現在の地理に重ね合わせて考えると、面白いですよね。 洛陽から洛が来ているのは知っていましたが、長安も出てきたり、川の名前も中国のものを流用してるところがあったような。

  • @user-zi4iq7tc2l
    @user-zi4iq7tc2l8 ай бұрын

    古賀畷(こがなわて)て、久我畷(こがなわて)て名前変わってるのかな。表記のブレかな。同じ表記があるの。(・・) 東寺(羅城門)から西に伸びてる西国街道の支線みたいなものだったかと。 今でも、山崎あたりまでの筋道は残ってるみたいです。 ※昔チャリで走った経路思い出そうとしたけど、地図では辿れませんでした。 サントリーロードの落合橋の袂に出てくるはずなのですが。(^^; ※広角の地図見てたら、京都南インターから斜めに左下に伸びるまっすぐな斜めの道があります。コレだったと思います。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu8 ай бұрын

    表記のブレとか当て字が多くて、とても鍛えられました。 字幕を編集中の現在、読み間違えを発見して訂正文をつけたつもりが、読み間違えていなかった(余計なことをしてしまった)ものもあります。 車よりも自転車や徒歩の方が、色々な発見がありそうですね。

  • @gigkz5132
    @gigkz513210 ай бұрын

    貴重な尊い知恵をありがたい、感謝するすぐ実践に役立てたい

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu9 ай бұрын

    コメントありがとうございます。 姉妹チャンネル【ささやき論語】もよろしくお願いします。 www.youtube.com/@sasayaki_rongo また、ライブはツイキャスで配信しています。 twitcasting.tv/kouyakun_cafe/

  • @makokanno5075
    @makokanno507511 ай бұрын

    たしか、提婆達多品が法華経に編入して後、如来寿量品は第十五から十六になったと記憶してます。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu11 ай бұрын

    コメントありがとうございます。法華経の成立や変遷は興味深いですね。

  • @makokanno5075
    @makokanno507511 ай бұрын

    観音経も後から法華経に編入されたと記憶しています。@@kobo_tetsu

  • @user-mv7zs1ef7y
    @user-mv7zs1ef7y Жыл бұрын

    ちょっと遅れましたが、メリー釈迦。 よくまとまっていると思います。おおまかな流れを確認したいときにちょうど良いです。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu Жыл бұрын

    恐れ入ります。 そのうち、何か新しいものにチャレンジしたいと思っています。 簡単に大まかにまとめるのって、意外と難しいんですよね…

  • @rukalovely4188
    @rukalovely4188 Жыл бұрын

    今年もメリシャカ!

  • @user-ti5sz8tn4j
    @user-ti5sz8tn4j Жыл бұрын

    始皇帝といえば兵馬俑だが、その兵馬俑は全て東を向いているという不思議。

  • @nouminboya
    @nouminboya Жыл бұрын

    中国古典の素読は難しいですねー💛 かえって中国語で読んだほうが簡単かもしれません😀。 中国🧖の古典漢字は奥深い意味があるので知れば知るほど味わい深いです🤩

  • @gigkz5132
    @gigkz5132 Жыл бұрын

    とても意義がありました。感謝します

  • @gigkz5132
    @gigkz5132 Жыл бұрын

    国破れて山河あり、また教え在、、でしょうか。天壌無窮の魂みつけたり

  • @user-uw4eb3zl4v
    @user-uw4eb3zl4v Жыл бұрын

    古典朗読の動画が以外に少ない。とてもありがたいです。どうぞ末長くご活躍下さい。 ps. カミナリではないですが、石原慎太郎「わが人生の時の時」の中に、霊の玉(ひのたま)が自動車のフロントガラスに当たる話が出てきます。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【怨霊と道理】つづき  一条摂政(=藤原伊尹)は朝成(あさひら)の中納言を生霊(いきすだま)に儲(まう=身に受)けて、義孝(のりたか)の少将まで失せぬと云ふめり。  朝成(あさひら)は定方(さだかた)右大臣の子也。宰相の時は一条摂政は下臈にて競望の間、放言(=悪口)し申したりけり。大納言所望の時は摂籙臣(=伊尹)になられたるに参りて、昔は左右(さう)なく上へ登る事もなかりけるに、良(やや)久しく庭に立ちて、たまたま(=やつと)呼び入れて会はれたるに、大納言には我(=朝成)がなるべき道理を立てけるをうち聞きて、「往年、納言のときは放言せられき。今は貴閣の昇進我が心に任せたり。世間は計り難き事ぞ」と云ひて、やがて内へ入られにければ、なのめならず腹立て出でける。車にまづ笏を投げ入れける二つに割れにけり。さて生霊となれり、とこそ江帥(がうのそち=大江匡房)も語りけれ。三条東洞院は朝<成>【平】が家の跡なり。それへは一条摂政の子孫は臨まずなど申すめり。  元方の大納言は天暦(=村上天皇)の第一皇子広平親王の外祖にて、冷泉院(=村上第二皇子が即位)を取り詰め参らせたり。顕光大臣は御堂の霊になれり(=第4巻)。小一条院(=敦明親王)<の>御舅(しうと)なりし故など、かやうに申す也。されども仏法と云ふものの盛りにて、智行の僧多かれば、かやうの事は祟(たた)れども、事のほかなる事をば防ぐめり。まめやかに<心>底より尊(たうと)き僧を頼みて、三宝の益をば得る也。九条殿は慈恵大師、御堂は三昧和尚・無動寺座主、宇治殿は滋賀僧正など、かやうに聞こゆめり。  深く世を見るには、讚岐院、知足院殿の霊の沙汰(=対策)のなくて、ただ我が家を失なはんと云ふ事にて、法性寺殿は子ながら余りに器量の、手掛(が)くべくもなければにや、我が御身にはあながちの(=ひどい)事もなし。中の殿の疾く失せざま、松殿・九条殿の事に合はれやう、近衛(このい)殿(=基通)のたびたび取られ給ひて、今まで命を生(い)けて遊びてこの家を失(うしな)はれぬる事と、後白河一代明け暮れ事に遭はせ給ふことなどは、験(あらた)に(=明らかに)この怨霊も何もただ道理を得る方の応(こた)ふる事にて侍るなり(道理③因果の道理)。  一(ひ)と当たりはただ易々とある事の、一大事にはなる也。讃岐より呼び返(か<へ>【は】)し参らせて、京に置き奉りて、国一つなど参らせて、「御作善(おんさぜん)候べし」などにて歌うち詠ませ参らせてあらましかば、かう程の事あるまじ。  知足院殿をも申し受けて、法性寺殿の御沙汰には、宇治の常楽院に据ゑ申して、いま少し庄どもも参らせて、同じく遊びして管絃もてなしておはしまさましかば、かう程の事はあるまじき也。  法性寺殿は我が親なれば、流刑のなきこそ所望(そまう)の事と思はれたりけるにや。それも言はれたれど、我身にあらたなる祟りはなけれども、いかに物の計らひは、これ程の様(やう)を深く思ひ解かぬ所に、事は出で来るなり。  人間界には怨憎会苦(をんぞうえく)、必ず果たすところなり。ただ口にて一言我に勝りたる人を過分に放言しつれば、当座にむずと突き殺して命を失なはるるなり。怨霊と云ふは、詮(せん)はただ現世ながら深く意趣を結びて敵(かたき)に取りて、小家(こいへ)より天下にも及びて、その敵を掘り転(まろ)ばかさんとして、讒言空事を作り出だすにて、世の乱れ又人の損ずる事はただ同じ事なり。顕(あらは)にその報ひを果たさねば冥(みやう)になるばかりなり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【末の世の姿】  聖徳太子の十七条の中に、「嫉妬をやめよ、嫉妬の思ひはその際(きは)なし。賢こく愚かなる事は、又環(たまき)の端無きが如し。我一人<心>得たりとな思ひそ」といましめて、「宝あるもの、憂へ(=訴訟)は易々と通るなり。石を水に投げ入るるやう也。貧しき者の憂へは難くて通る事なし。水にて岩を打つやう也」と仰られたる。  この三事の詮にては侍るを、世の末ざま、当時の世間にはさる戒(いまし)めのあるかとだにも思はで、わざとこれを目出度き事に思ひて、すこしも魂(たましい=分別)あらんと思ひ(=自認し)たる人は、物妬みと自是非他(=自分に甘く他人に厳しい態度)と追従・賄(まいない)とにて、これがひとへに(=こんなことだけで)世を保(<た>も)たんには難(なん=災難)の候はんぞな。あざやかあざやか(=明々白々)と侍るものかな。  治(をさ)まれる世には「官、人を求む」、乱れたる世には「人、官を求む」と。この頃の十人大納言、三位五六十人、故院の御時までも十人が内外(=前後)にてこそ侍りしか。靫負(ゆげい)の尉(ぜう)・検非違使は数も定まらず。一度の除目を見れば、靭負の尉・兵衛の尉四十人に劣るたびなし。千人にもなりぬらん。  人、官をもとめて、贖労(そくらう=買官)・脇差(わきざし)をたづねて願ふ者は、近臣恪勤(かくご=側近)の男女にてあらんには左右に及ばぬ(=ためらはない)ことぞかし。さまでは(=これほどひどい状況は)思ひ寄らず。  まことには、末代悪世、武士が世になりはて、末法(=1052年)にも入りにたれば、ただ塵(ちり)ばかりこの道理どもを君も思し召し出でて、こはいかにと驚き覚(さ)めさせ給ひて、さのみは如何にこの邪魔悪霊の手にも入るべきと思し召し、近臣の男女もいささか驚けかしとのみこそ念願せられ侍れ。  又武士将軍を失ひて、我身には恐ろしき物もなくて、地頭々々とてみな日本国の所当(=年貢)取り持ちたり。院の御事をば、近臣の脇、地頭の得分(=収益)にて、こそぐれば笑まずと云ふ事なし。武士なれば、当時心に叶はぬ物をば俺々とにらみつれば、手向かひする者なし。ただ心に任せてんと、ひしと案じたり(=心に決めた)と今は見ゆめり。  さてこれらの僻事の積もりて大乱になりて、この世(=今の世)は我も人も滅び果てなんずらん。大の三災(=水火兵)はまだしき物を、さすがに仏法の行ひも残りたり。宗廟社稷の神もきらきらとあんめり。ただいささかの正意とり出だして、無顕無道の事少しなのめ(=普通)になりて、さすがにこれを弁(わきま)へたる人、僧俗の中に二三人四五人などはあるらん物を、これを召し出だして、天下に仕(つか)へられよかし。  事の詮には、人の一切智具足してまことの賢人・聖人はかなふまじ。少しも分々に(=分に応じて)主(ぬし)とならん人は、国王より初めまいらせて、人の善し悪しを見知りて召し使いおはします御心一つが、やすかるべき事の詮になる事にて侍るなり。それがわざとするやうに、何事にも、さながら烏を鵜に使はるることにて侍るめれば、つやつやと世の失せ侍りぬるぞとよ。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【後世への期待】  又道理と云ふ物はやすやすと侍るぞかし。それ弁(わきま)へたらん臣下にて、武士の勢あらんを召し集めて仰せ聞かせばや。その仰せ言葉は、  「先づ武士と云ふものは、今は世の末に一定、当時あるやうに用ゐられてあるべき世の末になりたりとひしと見ゆ。さればそのやうは勿論(=異論なき)也。その上にはこの武士を悪ろしと思し召して<も>、これにまさりたる輩(ともがら)出で来べきにあらず。この様(やう)に付けても世の末ざま<なれ>ば、いよいよ悪ろき者のみこそあらんずれ。この輩(ともがら)滅ぼさんずる逆乱(げきらん=争乱)はいかばかりの事にてかはあるべき<やう>な<け>れば、冥(みやう)に天道の御沙汰のほかに、顕(あらは)に汝等を憎くも疑ひも思し召すことは無き也」。  地頭の事こそ大事なれ。これは静かに静かによくよく武士に仰せ合せて御計らひあるべき也。これ(=地頭)停(とど)められ参らせじとて、迎へ火を作りて朝家を威し参らする事もあるべからず。さればとて又怖ぢさせ給うべきことにもあらぬなり。ただ大方のやうの武士の輩(ともがら)が、今は正道を存ずべき世になりたる也。  この東宮、この将軍と云ふはわづかに二歳の少人なり。これを作り出で給ふことはひとへに宗廟の神の御沙汰あらはなる。東宮も御母はみなし子になられたり。祈念すべき人もなし。外祖父の願力の応(こた)ふらんをば知らねども、かかること今出で来給ふべしやは。将軍又かかる死して源氏平氏の氏つやつやと絶ゆべしやは。その代はりにこの子を用ゐるべしやは。一定只事(ただこと)にはあらぬ也。  昔より成り行く世を見るに、廃(す)たれ果てて又起こるべき時にあい当たりたり。これに過ぎては失せむとては、いかに失せむずるぞ。記典・明経もすこしは残れり。明法・法令も塵ばかりはあんめり。顕密の僧徒も又過失なくきこゆ。百王を数ふるにいま十六代は残れり。今この二歳の人々の大人しく成りて、世をば失ひも果て、起こしも立てむずるなり。  「それ今廿年待たん迄、武士僻事(ひがこと)すな僻事すな、僻事せずは自余の人の僻事は停めやすし」と仰せ聞かせて、神社・仏寺、祠官・僧侶に良けらかならん庄薗さらに珍しく寄せ給(た)びて、「この世を猶失なはん邪魔をば、神力・仏力にて押さへ、悪人、反道の心あらん輩をば、その心あらせぬ先に召し取れと祈念せよ」と、ひしと仰せられて、この賄(まいない)献芹(=献上)すこし停められよかし。世に安かりぬべき事かなとこそ、神武より今日(けふ)までの事がらを見下して思ひ続くるに、この道理はさすがに残りて侍る物をと悟られ侍れ。  あな多の申すべきことのを多さや。ただ塵ばかり書きつけ侍りぬ。これをこの人々大人しくおはしまさん折(をり)御覧ぜよかし。いかが思しめさん。露ばかり空事もなく、最も真実の<真実の>世の成り行くさま、書き付けたる人もよも侍らじとて、ただ一筋の道理と云ふことの侍るを書き侍りぬる也(道理②筋道・理屈)。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【後鳥羽上皇の心得違ひ】  又ことの詮(せん)一つ侍りけり。人と申すものは、詮(せん)が詮には、似るを友とすと申すことの、その詮にては侍るなり。それが世の末に、悪ろき人のさながら一つ心に同心合力してこの世(=今の世)を取りて侍るにこそ。善き人は又同じくあい語らひて同心に侍るべきに、善き人のあらばやは合力にも及ぶべき。あな悲しやと思ひつつ、いささか仏神の御沙汰を仰(あふ)ぐばかりなり。用ゐる時は虎となるべき人はさすがに候(さふらふ)らんものを、善き物は世の様(やう)を見てさし出でぬにこそ侍らめ。  かくこの世の失せゆく事は君も近臣も空事にて世を行なはるめり。空事と云ふ物は朝議の方にはいささかも無きこと也。空事と云ふ物を用ゐられんには、善き人の世に得(え)あるまじき也。  さやうの事も中々世の末には、民は正直なる将軍の出で来て、正(ただ)さずは、直(なを)る方あるまじきに、かかる将軍のかく出で来る事は大菩薩の御計らひにて、文武兼じて威勢ありて世を守り君を守るべき摂籙の人(=道家と頼経)をまうけて、世の為人の為君の御為に参らせらるるをば、君のえ御心得御座(おは)しまさぬにこそ。これこそ由々しき大事にて侍れ。  これは君の御為、摂籙臣と将軍と同(おな)じ人にて良かるべしと、一定照らし御沙汰の侍る物を、その故(ゆへ)顕(あらは)なり。謀反筋の心は無く、しかも威勢つよくして、君の御後見せさせむと也。  かく御心得られよかし。陽成院御事体(てい)ならんためなどこそ、いよいよ目出度かるべけれ。それを防ぎ思し召しては、君こそ太神宮・八幡の御心には違(たがは)せおはしまさんずれ。ここを構て君の悟らせたまうべき也。  この藤氏の摂籙の人の、君の為謀反の方の心遣ひは、けづりはてて、あるまじと定められたるなり。さてしかも君の悪ろくおはしまさんずるを、強く後見(うしろみ)まいらせて、王道の君の筋を違(たが)へず守り奉(たてまつ)れ、にて侍れば、陽成院のやうにおはしまさん君は御為こそ悪しからんずれ。さる君は又おぼろげにはおはしますまじ。さほどならん君は又よき摂籙をそねみ思し召さば、やは叶(かな)はんずる。太神宮・大菩薩の御心にてこそあらんずれ。この道理はすこしも違ふまじ。ひしと定(さだ)まりたることにて侍るなり。  始終落ち立たむずるやうの道理をも、この世の末の、昔より成り罷(まか)る道理の、宗廟社稷の神の照らさせ給ふやうをも知らせ給はで、浅き御沙汰とこそうけたまはり侍れ。物の道理、吾国の成り行くやうは、かくてこそひしとは落居(らくきよ)せんずることにて侍れ。  法門の十如是(じふによぜ)の中にも、如是本末究竟(くきやう)等と申すこと也。必ず昔<と>今は帰り合いて、様(やう=外見)は昔<と>今なれば変はるやうなれども、同じ筋<道>に帰りて持たふる事にて侍るなり。大織冠の入鹿を討たせ給ひて、世はひしと遮悪持善の理(ことはり)には適(かな)ひにしぞかし。今又この定めなるべきにこそ。このやうにてこそひしと君臣合体にて目出度からんずれ。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    五、初めより其の儀両方に分かれて、ひしひしと論じて揺(ゆ)り行くほどに、さすがに道理は一つこそあれば、其の道理へ言ひ勝ちて行なふ道理なり。これは地体(ぢたい=元々)に道理を知れるにはあらねど、しかるべくて威徳ある人の主人なる時はこれを用ゐる道理也。これは武士の世の方の頼朝までか。 はじめから、あることで議論が二つに分かれ、びしびしと論争して動揺する間に、さすがに道理というものは一つであるから、その一つの道理に向かって議論が勝ち進んでいき、それを実行するという道理が現れる。これはもともと道理を知っているというものではないが、すぐれて威徳のある人物が主人である場合は、この方法を用いて事を行うのが道理にかなっている。(武士の世界でいえば頼朝まで)

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    六、かくのごとく分別しがたくて、とかくあるいは論じあるいは未定にて過ぐるほどに、ついに一方(いつぱう)に就きて行なふ時、悪ろき心の引く方にて、無道を道理と悪しくはからひて、僻事(ひがごと)になるが道理なる道理なり。これはすべて世の移り行くさまの僻事が道理にて、悪ろき寸法の世々落ち下る時々の道理なり。これ又後白河よりこの院の御位(くらゐ)までか。 さて、こうして道理というものを分別することができなくなり、あれこれと論じたり、結論が出ないままで過ぎていくうちに、ついに一つの考えにしたがって事を処理すると、悪い心の誘う方向に流され、道理に反することを道理にしようと悪い企てをするようになり、間違った道をたどるようになるのが道理だという道理が現れる。これは世が移り変わっていく有様が、間違った方向へと進む場合にすべてあらわれる道理で、悪い形勢が時代とともにさらに下落していく過程の道理なのである(後白河上皇~現在の後鳥羽上皇が皇位についていたとき)

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    七、すべて初めより思ひ企つる所、道理と云ふ物をつやつや我も人も知らぬ間に、ただ当たるに従ひて後をかへりみず、腹に寸白(すばく=寄生虫)など病む人の、当時<病の>起こらぬとき喉(のど)の渇(かは)けばとて水などを飲みてしばしあれば、その病<の>起こりて死に行くにも及ぶ道理也。これはこの世(=今の世)の道理なり。されば今は道理<と>云ふ物は無き(道理①正しい道)にや。 ものみなすべて、はじめに考え企てたことが、自分も人も道理というものを少しも知らないためにただ成り行き任せになってしまい、先のことなど考えてみようともしないような状態、例えば海中の病気が重くなった人が、今は自覚症状がないので喉が渇くからと言って水を飲んだりすれば、やがて病気が重くなって死に至るのと同じ道理なのである。そしてこれが今の世の道理である。そうだとすると、今はもう道理というものはなくなってしまったのであろうか。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【歴史の推移と道理】  このやうを、日本国の世の初めより次第に王臣の器量果報衰(をとろ)へ行くに従ひて、かかる道理を作り換へ作り換へして世の中は過ぐるなり。劫初劫末の道理に、仏法王法、上古中古、王臣万民の器量をかくひしと作り表(あら)はする也。さればとかく思ふとも叶(かな)ふまじければ、叶はでかく落ち下る也。  かくはあれど内外典(ないげてん)に滅罪生善と<いふ>道理、遮悪持善といふ道理、諸悪莫作(まくさ)、諸善奉行といふ仏説のきらきらとして、諸仏菩薩の利生(りしやう)方便といふものの一定(いちぢやう)またあるなり。これをこの初めの(=上記の)道理どもに心得合はすべきなり。いかに心得合はすべきぞと言ふに、さらにさらに人これを教ふべからず。智恵あらん人の我が智解にて知るべきなり。但しもしやと心の及び言葉の行かん程をば申し開くべし。  大方古き昔のことは、ただ片端を聞くに皆よろづは知らるる心ばへの人にて、記し置く事極(きは)めてかすか也。これを見て申さむことは、ひとへの推量のやうなれば、又此頃の人は信を起こさぬことにて侍らんずれば、細かに申しがたし。をろをろは、又やがて事のけずらい(=核心)をば、さやうにやと云ふ事は書きつけ侍りぬ

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【国王の条件】  さて<世の>末ざまは事の繁くなりて尽くしがたく侍れども、清和の御時はじめて摂政を置かれて、良房の大臣(おとど)出で来たまひし後、その御子にて昭宣公(=基経)の我が甥(をひ)の陽成院をおろし奉りて、小松の御門を立て給ひしより後の事を申すべき也。  先づ道理移り行く事を、地体(ぢたい)によくよく人は心得べき也。いかに国王と云ふは、天下の沙汰をして世を鎮(しづ)め民を憐(あは)れむべきに、十(とを)が内なる幼き人を国王にはせんぞ(=するだらうか)と云ふ道理の侍るぞかし。  次に国王とて据ゑまいらせ後は、いかに悪ろくとも、たださてこそあらめ。それを我が御心より起こりて降りなんとも仰せられぬに、押し降ろしまいらすべきやうなし。「これを云ふぞかし、謀反とは」と云ふ道理又必然の事にて侍るぞかし。其れにこの陽成院を降ろし参らせられしをば、謂はれず昭宣公の謀反なりと申す人やは世々侍る。つやつやとさも思はず又申さぬぞかし。御門(みかど)の御為(ため)限りなき功にこそ申し伝へたれ。  又幼主とて四つ五つより位に即(つ)かせ給ふを、しかるべからず、もの沙汰するほどにならせ給ひてこそ、と云ふ人やは又侍る。昔今即(つ)くまじき人を位に即くる事なければ、幼しとて嫌はば、王位は絶へなんず(=だらう)れば、この道理によりて幼きを嫌ふことなし。これら二つにて物の道理をば知るべきなり。  大方世のため人のため良かるべきやうを用ゐる。何ごとにも道理詮(せん=究極)とは申すなり。世と申すと人と申すとは、二つの物にてはなき也。世とは人を申す也。  その、人にとりて世と言はるる方は公(おほやけ)道理とて、国の政(まつりこと)にかかりて善悪を定むるを世とは申す也。人と申すは、世の政にも臨まず、すべて一切の諸人の家の内までを穏(おだ)しく哀れむ方の政を、又人とは申すなり。其の人の中に国王より始めてあやしの民まで侍るぞかし。  それに国王には、国王の振舞ひ能(よ)くせん人のよかるべきに、日本国の習ひは、国王の種姓(しゆしやう)の人ならぬ筋を国王にはすまじと、神の代より定めたる国なり。その中には又同じくは善からんをと願ふは、又世の習ひ也。  それに必ずしも我からの手ごみ(=手はずよく)に目出度くおはします事の難(かた)ければ、御後見(うしろみ)を用ゐて大臣(おほおみ)と云ふ臣下をなして、仰せ合はせつつ世をば行なへと定めつる也。この道理にて国王もあまりに悪ろくならせ給ひぬれば、世と人との果報に押されて、え保(たも)たせ給はぬなり。その悪ろき国王の運の尽きさせたまうに、また様々(やうやう=さまざま)のさま(=様態)の侍るなり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    順徳 十一年。 諱守成。承元四年十一月廿五日受禅。十四。正治二年四月十五日立坊。四歳。後鳥羽院第二子。承元二年十二月廿五日御元服。十二。母修明門院、贈左大臣範季女。現存には従二位。 関白家実。承久三年四月廿日止摂政氏長者。四十三。 建暦二年。元年辛未。三月九日改元。建保六年。元年癸酉。十二月六日改元。承久三年。元年己卯。四月十二日改元。 座主前大僧正慈円。又還補。建暦二年正月十六日宣命。五十八。治一年。同(三)年正月十一日譲公円法印又辞退畢。此日先以公円被任権僧正。其後被下座主宣命云々。 権僧正公円。同年同月日宣命。四十六。治十け月。同年十一月南京衆徒山門衆徒清水寺相論事出来。仍辞退云々。 前大僧正慈円。猶還補四け度也。同三年十一月十九日宣命。五十九。治一年。建保二年六月十日又辞退。同年四月十三日焼三井寺、第五度。 前権僧正承円。還補。同年同月十二日宣命。 巳上代々摂政臣之外大臣は取要書之。つくして皆は不書也、心うべし。此山座主の間に前大僧正慈円の四度まで成て、かく辞ける事こそ心得がたくあさましき様なれ。かうほど辞申人をば上よりもいかに成たびけるにや、又下にもかう辞申べくば、いかにして又なりヽヽはせられけるにや。いかにもヽヽヽヽ 是は様あるべき事にや。かやうの事は山門の仏法、王法と相対する、仏法のまこと見へて侍けり。平の京にうつらるゝ始に、此山門建立せられて、いかにもいかにもやうあるべき事にて侍とあらはに覚ゆれば、山門の事を此奥に一帖かきあらはし侍る也。其に細にかやうに覚束なき事どもをば申ひらかんずる也。 承久元年七月十三日大内焼亡事、此大内炎上今度相加て十五け度。度々大内守護重代右馬権頭頼茂在謀反聞被召之間及合戦放火。頼茂焼畢云々。則被誅了。此大内造営事殊有御沙汰可有造営云々。白河・鳥羽両代は大略棄置云々。此事不審云々。 建保六年月日山大衆戴日吉神輿下洛、代々此事甚多不能記録、最略記なれば略之也。 承久二年十月之比記之了。後見之人此趣にて可書続也。最略尤大切歟。於別記者不能外見。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    今上三け月。 諱懐成。承久三年辛巳四月廿日甲戌受禅。四歳。建保六年十一月廿八日立坊。一歳。十月十日寅時御誕生。母中宮立子。土御門院太子。 摂政左大臣道家。受禅同日為摂政。廿九。後京極殿良経嫡男。外祖外舅為大臣之時無不居摂政之例、道理必然。被載宣命云々。同廿六日為藤氏長者。兵仗・勅授・一座・牛車等任例宣下。此日有兵仗拝賀。 同廿六日新院初御幸一院御所、賀陽院。去廿三日太上天皇尊号云々。本の新院をば土御門院云々。太上天皇三人初例云々。法皇にて令置給事は先例多云々

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    今上 十一。 諱茂仁。承久三年辛巳七月九日辛卯受禅。十歳。同年十二月一日庚辰於官庁即位。孫王即位、光仁以後無此例云々。高倉院御孫。入道守貞親王御子。後有太上天皇尊号。母北白河院。中納言基家女也。同四年正月三日御元服。 摂政家実。受禅前日、七月八日、以前帝詔還任云々。其後巳上無沙汰云々。 受禅当日、無節会、無宣命、無警固、無固関、云云。世以為奇歟。及八九月先帝之摂政詔を施行すべき由を有沙汰。外記仰天云云。花山院脱 夜こそさる不思議にて有けれど、翌日に摂政の詔は大入道殿に下されにけり。節会はなかりけれど、固関の事などは行なはれけり。今度の事むげの事かなとぞ世には申ける。 左大臣家通。摂政家実嫡男。左大将。 右大臣藤原公継。還任始例云々。実定公例不似之云々。兼大将。同年閠十月十日任。 内大臣藤原公経。右大将。同日任。同年閠十月十日大饗云々。任大臣夜如例云々。 貞応二年。元年壬午。四月十三日改元。 天台座主権僧正円基。承久三年八月廿七日宣命。 承久三年四月に、入道親王尊快年十八なるを被補天台座主由きこえき。されども大嘗会以前に宣命を下さるゝ事例なし。木曾義仲が時にこそ俊尭座主は宣命りけれど、例もよからずとて末被下宣命之間、五月十五日に乱起りて六月に武士打入て、此座主師弟等にげまどひなどしければ、十八歳天台座主、仏法・王法のかヽりける表示かなとぞ世の人はいひける。さて円基僧正摂政の弟とて成にけるなるべし。されば尊快親王をば座主の数にも書入れまじきにや。今年天下有内乱。これによて、俄に主上執政臣改易、世人迷惑云云。 一院遠流せられ給、隠岐国。七月八日於鳥羽殿御出家、十三日御下向云々。但うるはしきやうはなくて令首途給云々。御共には俄入道清範只一人、女房両三云々。則義茂法師参かはりて清範帰京云々。土御門院并新院・六条宮・冷泉宮、皆被行流刑給云々。新院同月廿一日佐渡国、冷泉宮同廿五日備前国小島、六条宮同廿四日但馬国、土御門院は其比すぎて、同年閠十月土佐国へ又被流刑給。其後同四年四月改元。五月比阿波国へうつらせ給ふ由聞ゆ。三院、両宮皆遠国に流され給へども、うるはしき儀はなしとぞ世に沙汰しける也。 承久三年八月十六日大王御尊号あり。日本国に此例いまだなきにや。漢高祖の父の太公の例を、是には似たるべきなど世に沙汰しける。国母の御院号の事は、貞応元年四月十三日従三位准三宮云々。御名は陳子と申。こぞの春御出家の御身にて其例もなきにや。但鎌倉の二位政子右大将頼朝卿の後家三位せられし例とかや。其例は又いづれの例にて侍べきにや。加様の事、末代ざまには何となき事にてあるにこそ。世の末こそ誠にあはれなる事にて侍れ。貞応の改元は、やがて此十三日也。同年の七月十一日准后陳子院号の定め、北白川院と申。二年五月十四日太上法皇崩御畢。如夢々々。天下諒闇。三年六月十三日関東武士将軍度々後見義時朝臣死去了。同十七日夕、息男武蔵守泰時下向関東畢。同十九日舎舎弟相模守時房同下向了。 此皇代年代之外に、神武より去々年に至るまで、世のうつり行道理の一とをりをかけり(道理②筋道・理屈)。 是を能々心得てみん人はみらるべき也。偏に仮名に書つくる事は、是も道理を思ひて書る也。先是をかくかヽんと思よる事は、物しれる事なき人の料也。此末代ざまの事をみるに、文簿にたづさわれる人は、高きも卑も、僧にも俗にも、ありがたく学問はさすがする由にて、僅に真名の文字をば読ども、又其義理をさとり知れる人はなし。男は紀伝・明経の文をほかれども、みしらざるがごとし。僧は経論章疏あれども、学する人すくなし。日本紀以下律令は我国の事なれども、今すこし読とく人ありがたし。仮名にかくばかりにては倭と詞の本体にて文字にえか(ヽ)らず。仮名に書たるも、猶よみにくき程のことばを、むげの事にして人是をわらふ。はたと・むずと・しやくと・どうと、などいふことばども也。是こそ此やまとことばの本体にてはあれ。此詞どもの心をば人皆是をしれり。あやしの夫とのゐ人までも、此ことのはやうなることぐさにて、多事をば心えらるヽ也。是をおかしとてかヽずはヾた、真名をこそ用いるべけれ。此道理どもを思つヾけて、是はかき付侍りぬる也。さすがに此国に生れて、是程だに国の風俗のなれるやう世のうつり行をもむきを、わきまへしらでは又あるべき事にもあらずと、思はからひ侍ぞかし。 かきおとす事申たき事の多さは、是をかく人の心にだに残る事は多く、あらわす事は少くこそ侍れば、ましてすこしもげにヽヽしき才人の目にさこそはみるべけれど、さのみかき侍らば、をほかたの文のおもてよだけく多く成て、みる人もあるまじ。あかれぬべければ皆とヾめつ。又無益の事ども書ぐしたりとありぬべきは、皆思ところ侍べし。心あらん人の目をとヾめん時は、心をつくるはしとなり、道理をわきまうるみちと成ぬべき事をのみかきて侍る也。才学めかしきかたは是より心つきて我今更に学問せらるべき也。又人語りつたふる事は皆たしかならず、さしもなき口弁にてまことの詮意趣をばいひのけたる事どもの多く侍れば、其うたがひある程の事をばえかきとヾめ侍らぬ也。 かく心得て是よりつぎヽヽの巻どもをば此時代に引合つヽ見るべき也。 此一帖の奥をば今四五代もかくばかりとて料紙をおきて、かくかけるをも、いま物もあらじとて思よらで見のこす人も侍らんずらん。奥にてかやうの物にはかく書つくる事もあらんかしなど思ひて、ひらきヽヽヽして文をみる程の心あるべくも侍らぬ世にて、今は人の心むげにすくなく成はてヽ侍れば、是もかく書つくる事をば道理かなと見なさるべき也。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    後一条つづき 山座主僧正明救。寛仁三年十月廿日宜命。七十四。治一年。同四年七月五日卒。七十五。 (西方院)法印院源。法務大僧正。同四年七月十七日宜命。六十七。治八年。万寿五年五月廿四日卒。七十九。 権僧正慶命。万寿五年六月十九日宣命。六十四。治十一年。長暦二年。九月七日卒。七十五。 長元九年四月十七日崩御。廿九。 后一人。女皇二人。 小一条院東宮にておわしますが此御時辞させ給ふ。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    後朱雀 九年。 諱敦良。長元九年四月十七日。乙巳。受禅。廿八。寛仁元年月日立坊。九。一条院第三子。寛仁三年八月廿八日御元服。十一。母上東門院。 関白左大臣頼通。 右大臣藤実資。右大将。 内大臣藤教通。左大将。 長歴三年。元年丁丑。四月廿一日改元。長久四年。元年庚辰。十一月十日改元。 寛徳二年。元年甲申。十一月廿四日改元。 二年正月十八日崩御。卅七。 山座主権大僧都教円。長暦三年三月十二日宣命。六十一。治九年。永承二年六月十日卒。七十。 寛徳二年正月十六日脱。 后五人。御子七人。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    後冷泉 廿三年。 諱親仁。寛徳二年正月十六日受禅。廿一。長暦元年八月十一日立坊。十三。後朱雀院第一子。長暦元年七月二日御元服。十一。母内侍督嬉子。御堂の乙女。后三人。御子おわしまさず。 関白太政大臣頼通。康平五年九月二日辞左大臣。同七年十二月十三日譲藤氏長者於左大臣。猶為関白。治歴三年七月准七日三宮。同年十二月五日辞関白。久四年正月廿九日於宇治出家。法名寂覚。年八十一。大臣後五十六年。同六年二月二日薨。八十三。 関白左大臣教通。康平三年七月任左大臣。同七年十二月十三日為藤原長者。治暦四年四月十七日為関白。 右大臣実資。永承元年正月八日薨。九十。 頼宗。右大将。康平三年七月十七日任。治暦元年正月五日依病出家。七十三。二月三日薨。 師実。左大将。康平三年七月十七日任内大臣。十九。治暦元年六月三日転右。 内大臣師房。右大将。具平親王三男。治暦元年六月三日任。五十八。同六日兼左大臣。 永承七年。元年丙戌。四月十四日改元。天喜五年。元年癸巳。正月十一日改元。康平七年。元年戉戌。八月廿九日改元。治暦四年。元年乙巳。八月二日改元。 治暦四年四月十九日天皇崩御。四十四。 山座法務大僧正明尊 永承三年八月十一日宣命。七十八。 権少僧都源心。権大僧都。同三年八月廿一日宣命。七十八。治五年。天喜元年十月十一日卒。八十三。 権僧正源泉。天喜元年十月廿六日宣命。七十八。 権大僧都明快。大僧正。天喜元年十月廿五日宣命。六十七。治十七年。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    後三条 四年。 諱尊仁。治暦四年四月十九日受禅。卅五。寛徳二年日立坊。十二。後朱雀院第二子。永承元年十二月十九日御元服。十三。母陽明門院禎子。三条院第三女。 関白太政大臣教通。 左大臣藤師実。 延久五年。元年己酉。四月十三日改元。 山座主権大僧都勝範。僧正。延久二年五月九日宣命。七十五。治七年。承保四年正月廿七日卒。八十二。 八幡放生会此御時はじまる。日吉稲荷等行幸同始れり。 延久四年十月六日脱屣。同五年四月廿一日御出家。法名金剛行。五月七日崩御。四十。 后三人。男女御子七人。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    白河 十四年。 諱貞仁。延久四年十月六日受禅。廿。同元年月日立坊。十七。後三条院第一子。治暦元年十二月九日御元服。十三。母贈皇太后藤原茂子。権大納言能信女。実には公成中納言女也。 関白教通。承保二年九月廿五日薨。八十。 関白左大臣師実。承保二年九月廿六日内覧。十月三日藤氏長者。同十五日関白。永保六年正月十九日辞大臣。 内大臣師通。左大将。同日任。廿二。 承保三年。元年甲寅。八月廿三日改元。 元年十月三日上東門院崩。八十七。 承暦四年。元年丁巳。十一月十七日改元。永保三年。元年辛酉。二月十日改元。 応徳三年。元年甲子。二月七日改元。 山座主法務大僧正覚円。承保四年二月五日宣命。五十七。 権大僧都覚尋。権僧正。同年同月七日宣命。六十六。治四年。永保元年十月一日卒。七十一。 今年六月四日山門大衆焼失三井寺事。依此座主被払山門畢。山座主被払事此時始れり。後々大略流刑歟。委旨在別帖。永保元年四月十五日焼三井寺。 権大僧都良真。大僧正。永保元年十月廿五日宣命。嘉保三年五月十三日卒。七十六。 応徳三年十一月廿六日脱。嘉保三年八月九日御出家。四十四。大治四年七月七日崩御。七十七。世を知食事五十余年。 后女御二人。男女御子九人。 後三条院おりさせ給て後、世を知食さんとする程に、程なくかくれさせ給ふ。此時よりかく太上天皇にて世を知食事久也。 法勝寺を立られて大乗会等多の御仏事をおかる。国王の氏寺にて今にあがめらる。此大乗会、講師は慈覚智証門人隔年為講師。御斎会・維摩会以南京僧為講師也。 康和に五十の御賀ありけり。 此御時院中に上下の北面をおかれて、上は諸太夫下は衛府所司允おほく候て、下北面、御幸御後には矢おいてつかふまつりけり。後にも皆其例也。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    堀河 廿一年。 諱善仁。応徳三年十一月廿六日受禅。此同日先為東宮。嘉承二年七月十九日崩御。廿九。后二人。御子三人。白川院第二子。寛治三年正月五日御元服。十一。母皇后宮賢子。京極大殿師実女。実には六条右大臣顕房女。 摂政太政大臣師実。後関白。寛治二年十二月十四日任太政大臣。嘉保元年三月十九日辞関白。康和二年正月廿九日出家。同二月三日薨。 関白内大臣師通。嘉保元年三月十九日為関白。年卅三。同十一日為氏長者。同廿二日給兵仗。同三年正月五日叙従一位。康和元年六月廿八日薨。卅八。 右大臣忠実。康和元年八月廿八日大納言之間内覧。藤氏長者。廿二。同二年七月十七日任右大臣。長治二年十二月廿五日関白。廿八。 寛治七年。元年丁卯。四年七日改元。嘉保二年。元年甲戌。十二月十五日改元。 永長一年。元年丙子。十二月十七日改元。承徳二年。元年丁丑。十一月廿一日改元。康和五年。元年己卯。八月廿八日改元。長治二年。元年甲申。二月十日改元。嘉承二年。元年丙戌。四月十日改元。 二年七月十九日崩御。御年廿九。 山座主僧正仁覚。大僧正。寛治七年九月十一日宣命。五十。治九年。康和四年三月廿八日卒。六十。 法印権大僧都慶朝。康和四年閠五月廿三日宣命。七十六。治三年。嘉承二年九月廿四日卒。八十二。 僧正増誉。長治二年閠二月十四日宣命。七十四。 法印仁源。権僧正。同年同月廿七日宣命。四十八。治四年天仁二年三月九日卒。五十二。 尊勝寺被建立。同立潅頂堂。胎金両部潅頂隔年被行之。慈覚智証門徒為潅頂阿闍梨。弘法大師門流仁和寺観音院被置之。有議定如此被定畢。 長治二年十月卅日、山大衆日吉神輿をぐしまいらせてくだりける事の始也。 季仲帥と八幡別当光清と同意して竃門社神輿を奉射。専当円徳法師殺害の訴也。先京極寺に下て奉振大内待賢門云々。季仲被流罪了。光清は同一日解却見任。又八幡宮訴申之間、同三日還着了。寛治六年始て此風聞ありけれどもさもなし。嘉保二年十二月に中堂まで奉振立云々。其も下洛はなし。寛治には為房と訴、嘉保には義綱を訴けり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【頼朝の旗揚げ】 さてかう程に世の中の又なりゆく事は、三条宮寺に七八日おはしましける間、諸国七道へ宮の宣とて武士を催さるヽ文どもを、書ちらかされたりけるを、もてつぎたりけるに、伊豆国に義朝が子頼朝兵衛佐とてありしは、世の事をふかく思てありけり。 平治の乱に十三にて兵衛佐とてありけるを、その乱は十二月なり、正月に永暦と改元ありける二月九日、頼盛が郎等に右兵衛尉平宗清と云者ありけるが、もとめ出してまいらせたりける。この頼盛が母と云は修理権大夫宗兼が女なり。いひしらぬ程の女房にてありけるが、夫の忠盛をももたへたる者なりけるが、保元の乱にも、頼盛が母が新院の一宮をやしなひまいらせければ、新院の御方へまいるべき者にて有けるを、「この事は一定新院の御方はまけなんず。勝べきやうもなき次第なり」とて、「ひしと兄の清盛につきてあれ」とおしへて有ける。かやうの者にて、この頼朝はあさましくおさなくて、いとおしき気したる者にてありけるを、「あれが頚をばいかヾは切んずる。我にゆるさせ給へ」となくヽヽこひうけて、伊豆には流刑に行ひてけるなり。物の始終は有興不思議なり。其時もかヽる又打かへして世のぬしとなるべき者なりければにや、頼盛をもふかく(た)のみたる気色にて有けるなりけり。 この頼朝、この宮の宣旨と云物をもて来りけるを見て、「さればよ、この世の事はさ思しものを」とて心おこりにけり。又光能卿院の御気色をみて、文覚とてあまりに高雄の事すヽめすごして伊豆に流されたる上人ありき。それして云やりたる旨も有けるとかや。但これはひが事なり。文覚・上覚・千覚とてぐしてあるひじり流されたりける中、四年同じ伊豆国にて朝夕に頼朝に馴たりける、その文覚、さかしき事どもを、仰もなけれども、上下の御の内をさぐりつヽ、いヽいたりけるなり。 さて治承四年より事をおこしてうち出けるには、梶原平三景時、土肥次郎実平、舅の伊豆の北条四郎時政、これらをぐして東国をうち従へんとしける程に、平家世を知て久くなりければ、東国にも郎等多かりける中に、畠山荘司、小山田別当と云者兄弟にてありけり。これらはその時京にありければ、それらが子どもの荘司次郎など云者どもの押寄て戦て、筥根の山に逐こめてけり。頼朝よろひぬぐ程になりにければ、実平ふるき者にて、「大将軍のよろひぬがせ給ふは、やうある事ぞかし」とて、松葉をきりて冑の下にしかせて、甲を取て上におきなんどして、いみじき事どもふるまひけるとかや。かくてこれらぐして船に乗て、上総の介の八郎広経が許へ行て勢つきにける後は、又東国の者皆従ひにけり。三浦党は頼朝がりきける道にて畠山とは戦ひたりけり。それより一所にあつまりにけり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【落日の平家】 北国の方には、帯刀先生義方が子にて、木曾冠者義仲と云者などおこりあひけり。宮の御子など云人くだりておはしけり。清盛は三条の以仁の宮うちとりて、弥心おごりつヽ、かやうにしてありけれど、東国に源氏おこりて国の大事になりにければ、小松内府嫡子三位中将維盛を大将軍にして、追討の宣旨下して頼朝うたんとて、治承四年九月廿一日下りしかば、人見物して有し程に、駿河の浮島原にて合戦にだに及ばで、東国の武士ぐしたりけるも、皆落て敵の方へゆきにければ、かへりのぼりけるは逃まどひたる姿にて京へ入にけり。其後平相国入道は同五年閏二月五日、温病大事にて程なく薨逝しぬ。その後に法皇に国の政かへりて、内大臣宗盛ぞ家を嗣て沙汰しける。 高倉院は先立て正月十四日にうせ給ひにき。かくて日にそへて、東国、北陸道みなふたがりて、このいくさにかたん事を沙汰してありけれど、上下諸人の心みな源氏に成にけり。次第にせめよするきこへども有ながら、入道うせて後、寿永二年七月までは三年が程すぎけるに、先づ北陸道の源氏すヽみて近江国にみちけり。これよりさき越前の方へ家の子どもやりたりけれど、散※※に追かへされてやみにけり。となみ山のいくさとぞ云ふ。かヽりける程に七月廿四(日)の夜、事火急になりて、六はらへ行幸なして、一家の者どもあつまりて、山しながために大納言頼盛をやりければ再三辞しけり。頼盛は、 「治承三年冬の比あしざまなる事ども聞ゑしかば、ながく弓箭のみちはすて候ぬる由故入道殿に申てき。遷都のころ奏聞し候き。今は如此事には不可供奉」 と云けれど、内大臣宗盛不用也。せめふせられければ、なまじいに山しなへむかいてけり。 かやうにしてけふあす義仲・東国武田など云もいりなんずるにてありければ、さらに京中にて大合戦あらんずるにてをのヽきあいける程に、廿四日の夜半に法王ひそかに法住寺殿をいでさせ給ひて、鞍馬の方よりまはりて横川へのぼらせをはしまして、あふみの源氏がりこの由仰つかはしけり。たヾ北面下臈にともやす、つヽみの兵衛と云男御輿かきなんどしてぞ候ける。暁にこの事あやめ出して六はらさはぎて、辰巳午両三時ばかりに、やうもなく内をぐしまいらせて、内大臣宗盛一族さながら鳥羽の方へ落て、船にのりて四国の方へむかいけり。六はらの家に火かけて焼ければ、京中に物とりと名付たる者いできて、火の中へあらそい入て物とりけり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【平家都落ちと義仲の入京】 その中に頼盛が山しなにあるにもつげざりけり。かくと聞て先子の兵衛佐為盛を使にして鳥羽にをひつきて、「いかに」と云ければ、返事をだにもゑせず、心もうせてみゑければ、はせかへりてその由云ければ、やがて追様に落ければ、心の内はとまらんと思ひけり。又この中に三位中将資盛はそのころ院のおぼゑしてさかりに候ければ、御気色うかヾはんと思けり。この二人鳥羽より打かへり法住寺殿に入り居ければ、又京中地をかへしてけるが、山へ二人ながら事由を申たりければ、頼盛には、「さ聞食つ。日比よりさ思食き。忍て八条院辺に候へ」と御返事承りにけり。もとより八条院のをちの宰相と云寛雅法印が妻はしうとめなれば、女院の御うしろみにて候ければ、さてとまりにけり。資盛は申いるヽ者もなくて、御返事をだに聞かざりければ、又落てあいぐしてけり。 さて廿五日東塔円融房へ御幸なりてありければ、座主明雲はひとへの平氏の護持僧にて、とまりたるをこそわろしと云ければ、山へはのぼりながらゑまいらざりけり。さて京の人さながら摂籙の近衛殿は一定ぐして落ぬらんと人は思ひたりけるも、ちがいてとヾまりて山へ参りにけり。松殿入道も九条右大臣も皆のぼりあつまりけり。 その刹那京中はたがいについぶくをして物もなく成ぬべかりければ、「残なく平氏は落ぬ。をそれ候まじ」にて、廿六日のつとめて御下京ありければ、近江に入りたる武田先まいりぬ。つヾきて又義仲は廿六日に入りにけり。六条堀川なる八条院のはヽき尼が家を給りて居にけり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【後鳥羽新帝の出現】 かくてひしめきてありける程に、いかさまにも国王は神璽・宝剣・内侍所あいぐして西国の方へ落給ひぬ。この京に国主なくてはいかでかあらんと云さたにてありけり。「父法皇をはしませば、西国王安否之後歟」などやうヽヽにさたありけり。この間の事は左右大臣、松殿入道など云人に仰合けれど、右大臣の申さるヽむねことにつまびらか也とて、それをぞ用ひられける。 さていかにもいかにも践祚はあるべしとて、高倉院の王子三人をはします。一人は六はらの二位やしないて船にぐしまいらせてありけり。いま二人は京にをはします。その御中に三宮・四宮なるを法皇よびまいらせて見まいらせられけるに、四宮御をもぎらいもなくよびをはしましけり。又御うらにもよくをはしましければ、四宮を寿永二年八月廿日御受禅をこなはれにけり。よろづ新儀どもなれど、仰合つヽ、右大臣ことに申をこなひて、国王こヽに出きさせをはしまして、

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【無能な関白近衛殿】 世はさればいかに落居なんずるぞと、日本国のなれる様今はかうにこそとて、摂籙臣こそ如此はさたすることを、山よりくだらせ給ふまヽに、近衛殿摂籙もとのごとしと被仰にけり。一定平氏にぐして落べき人のとまりたればにや。又いかなるやうかありけん。されど近衛殿はかやうの事申さたすべき人にもあらず。すこしもをぼつかなき事は右大臣に問つヽこそをはしければ、たヾ名ばかりの事にて、庄園文書まヽ母の我よりも弟なりしが手よりゑたる由にて、清盛にかくしなされたる人にてあるが、猶かくてあら(は)るヽ。いかにもいかにも人は心ゑぬことにてありしをば皆心ゑられたり。かう程にみだれん世は事もいはれたる事はあるまじき時節なるべし。大方摂籙臣はじまりて後これ程に不中用なる器量の人はいまだなし。かくてこの世はうせぬる也。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【後白河法皇の形勢判断】 贈左大臣範季の申しけるは、「すでに源氏は近江国にみちて六はらさはぎ候之時、院は今熊野にこもらせ給て候しに、近習にめしつけられて候しかば、ひまの候しに、「いかにもいかにも今は叶候まじ。東国武士は夫までも弓箭にたづさいて候へば、此平家かなひ候はじ。ちがはせをはします御沙汰や候べからん」と申て候しかば、ゑませをはしまして、「いまその期にこそは」と仰の候し」とかたりけり。もとより(の)御案なりけり。 この範季は後鳥羽院をやしないたてまいらせて、践祚の時もひとへにさたしまいらせし人也。さて加階は二位までしたりしかども、当今の母后のちヽなり。さて贈位もたまはれり。 範季がめい刑部卿の三位と云しは能円法師が妻也。能円は土御門院の母后承明門院の父なり。この僧の妻にて刑部卿三位はありし、その腹也。その上御めのとにて候しかども、能円は六はらの二位が子にしたる者にて、御めのとにもなしたりき。落し時あいぐして平氏の方にありしかば、其後は刑部卿の三位もひとへに範季をぢにかヽりてありしなり。それを通親内大臣又思て、子をいくらともなくむませて有き。故卿の二位は刑部卿三位が弟にて、ひしと君につきまいらせて、かヽる果報の人になりたるなり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【頼経東下】 かヽりけるほどに、尼二位使を参らする。行光とて年ごろ政所の事さたせさせていみじき者とつかいけり。成功まいらせて信濃の守になりたる者也。二品の熊野詣でも、奉行してのぼりたりける物をまいらせて、 「院の宮この中にさも候ぬべからんを、御下向候て、それを将軍になしまいらせて持まいらせられ候へ。将軍があとの武士、いまはありつきて数百候が、主人をうしない候て、一定やうヽヽの心も出き候ぬべし。さてこそのどまり候はめ」と申たりけり。 この事は、熊野詣のれうにのぼりたりけるに、実朝がありし時、子もまうけぬに、さやあるべきなど、卿二位ものがたりしたりと聞へし名残にや、かヽる事を申たりける。信清のをとヾのむすめに西の御方とて、院に候をば卿二位子にしたるが腹に、院の宮うみまいらせたるを、すぐる御前と名付て、卿二位がやしないまいらせたる、はじめは三井寺へ法師になしまいらせんとてありける、猶御元服有て親王にてをはしますを、もてあつかいて位の心も深く、さらずは将軍にまれなど思にや。人のにくくてかく推量どもをするにこそ。いかでかまことの心あらん人さは思ふべき。位あらそいばかりは昔よりきこゆる事なれど、今はその心有べくもなし、院の御気色をみながらはいかに。さて此宮所望のことを上皇きこしめして、「いかに将来にこの日本国二に分る事をばしをかんぞ。こはいかに」と有まじきことにをぼしめして、「ゑあらじ」とをほせられにけり。其御返事に、「次々のただの人は、関白摂政政の子なりとも申さむにしたがふべし」など云たヾの御詞の有ける。これにとりつきて、又もとより義村が思よりて、「此上は何も候まじ。左大臣殿の御子の三位の少将殿を、のぼりてむかへまいらせ候なん」と云けり。この心にてかさねて申けるやうは、 「左府の子息ゆかりも候。頼朝が妹のむまごうみ申たり。宮かなうまじく候はヾ、それをくだしてやしないたて候て、将軍にて君の御まもりにて候べし」と申てけり。 其後やうヽヽの儀ども有て、先にも御使にくだりたりきとて、忠綱を又御使にくだしつかはされたりけり。 されども、「せんはたヾもと申しヽ左府の若君、それはあまた候なれば、いづれにても」と申つめければ、 「さらば誠によかりなん」とて、二歳なる若公、祖父公経の大納言がもとにやしなひけるは、正月寅月の寅の歳寅時むまれて、誠にもつねのをさなき人にも似ぬ子の、占にも宿曜にもめでたく叶ひたりとて、それを、終に六月廿五日に、武士どもむかへにのぼりて、くだしつかはされにけり。京を出る時よりくだりつくまで、いささかもいささかもなくこゑなくてやまれにけりとて、不可思議のことかなと云けり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【頼茂謀殺と忠綱服罪】 さて大納言公経は、其冬十月十三日、終右大将になしたぶべしとて、「よろこび申の出立せよ」と仰られにけり。御熊野詣の後、十一月十三日の除目に、終に右大将になりて、其十九日拝賀めでたくして、よの人にほめられけり。 この年の七月十三日、俄に頼政がむまごの頼茂大内に候しを、謀反の心をこして我将軍にならんと思たりと云ことあらはれて、住京の武士ども申て、院へ召けれどまいらざりければ、大内裏を押まはしてうちけるほどに、内裏に火さして大内やけにけり。左衛門尉盛時頚を取て参りにけり。伊予の武士河野と云をかたらいけるが、かうヽヽと申たりけると聞へき。 又院は八月のころをい、御悩はづらいをはしましヽに、 「よくヽヽしづかに物を案ずるに、此忠綱と云男を、これら(な)どに殿上人内蔵頭までなしたるひがことこそ、いかに案ずるも取どころもなきひがことなりけれと、さとり思ふ也」とて、 やがて解官停任して、御領国さながらめしてすてられにけり。すこしも心ある人々は殊勝々々の事かなとをもへりければにや、其悩無為無事に御平愈ありけり。此関東の御使の間にも、やうヽヽのひがこと奇謀ども聞へき。 故後京極殿の子左府のをとヽは、松殿のむすめ北政所の腹なり。それを院の子にせんとて、めしとりて忠綱にやしなはせらるヽ有。それを、おとなしくもあり、将軍にくだし申さんなんどかまへて、そら事のみ京いなかと申けるも聞へけり。 又頼茂とことにかたらいて、あやしき事にも人も思けるに、頼茂が後見の法師からめられて、やうヽヽの事申なんど聞へけるは、披露もなくて関東へくだしつかはしてけり。万の事とりあつめて忠綱がうせぬること、不か思ぎの君の御運、御案のめでたさと、心ある人はこれらのみめでたくぞ思たりける。猶申ゆるさんとする卿の二位をぞ人はあざみける。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【この書の趣旨】 さて此日本国の王臣武士のなりゆく事は、事がらはこのかきつけて侍る次第にて、皆あらはれまかりぬれど、これはをりヽヽ道理に思ひかなへて、然も此ひが事の世をはかりなしつるよと、其ふしをさとりて心もつきて、後の人の能々つヽしみて世を治め、邪正のことはり善悪の道理をわきまへて、末代の道理にかなひて、仏神の利生のうつは物となりて、今百王の十六代のこりたる程、仏法王法を守りはてんことの、先かぎりなき利生の本意、仏神の冥応にて侍るべければ、それを詮にてかきをき侍なり。 そのやうは事ひろく侍れど、又々次ざまにかきつくし侍べし。其趣にひかれては、みむ人はねぶられてよも見侍らじ。このさきざまの事はよき物語にて、目もさめぬべく侍るめり、残る事のをヽさ、かきつくさぬ恨は力をよばず。 さのみはいかヾ書つくすべきなれば、これにて人の物語をも聞加ゑん人は、其まことそら事も心ゑぬべし。これにはかざりたる事、そらことヽ云事、神仏てらし給ふらん、一ことばも侍らぬ也。すこしをぼつかなかるべき事は、やがて其趣みへ侍めり。かきをとす事のをヽさこそ猶いやましく侍れ。さてこの後のやうをみるに、世のなりまからんずるさま、この二十年より以来、ことし承久までの世の政、人の心ばへの、むくいゆかんずる程の事のあやうさ申かぎりなし。こまかには未来記なれば申あてたらんも誠しからず。たヾ八幡大菩薩の照見にあらはれまからずらん。そのやうを又かきつけつヽ、心あらん人はしるしくはへらるべき也。 (以上、愚管抄巻第六了)

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【北条時政の専横と没落】 かくて京へかくりきのぼせて、千万御前元服せさせて、実朝と云名も京より給はりて、建仁三年十二月八日、やがて将軍宣旨申くだして、祖父の北条が世に関東は成て、いまだをさなく若き実朝を面に立てすぎける程に、将軍が妻に可然人のむすめあはせらるべしと云出出きて、信清大納言、院の御外舅、七条院の御弟なり。それがむすめをほかる中に、十三歳なるをいみじく(し)立て、関東より武士どもむかえにまいらせてくだりけるは、元久元年十一月三日なり。法勝寺の西の小路に御さじきつくらせて御覧じけり。其御さじきは延勝寺執行増円法印とてありし者ぞ、承てつくりたりける。 さて信清は一定死なんずとしたしきうとき思たる重病久しくわづらいて、やみいきて終に大臣になされて、建保三年二月十八日に出家して、同四年二月十五日にうせにけり。かやうに人の事を申侍れば、年月へだつるやうに侍也。 かくて関東すぐる程に、時正わかき妻を設けて、それが腹に子共設け、むすめ多くもちたりけり。この妻は大舎人允宗親と云ける者のむすめ也。せうとヽて大岡判官時親とて五位尉になりて有き。其宗親、頼盛入道がもとに多年つかいて、駿河国の大岡の牧と云所をしらせけり。武者にもあらず、かヽる物の中にかヽる果報の出くる(ふ)しぎの事也。 其子をば京にのぼせて馬助になしなどして有ける、程なく死にけり。むすめの嫡女には、ともまさとて源氏にて有けるはこれ義が弟にや、頼朝が猶子ときこゆる、この友正をば京へのぼせて、院にまいらせて、御かさがけのをりも参りなんどして、つ(か)はせけり。ことむすめ共も皆公卿・殿上人どもの妻に成てすぎけり。 さて関東にて又実朝をうちころして、この友正を大将軍にせんと云ことをしたくする由を聞て、母の尼君さはぎて、三浦の義村と云をよびて、「かヽる事聞ゆ。一定也。これたすけよ。いかヾせんずる」とてありければ、義村よきはかり事の物にて、ぐして義時が家にをきて、何ともなくてかざと郎等をもよをしあつめさせて、いくさ立て、「将軍の仰なり」とて、この祖父の時正が鎌倉にあるをよび出して、もとの伊豆国へやりてけり。さて京に朝政があるを、京にある武士どもにうてと云仰せて、この由を院奏してけり。京に六角東洞院に家作りて居たりける、武士ひしと巻て攻ければ、しばし戦ひて終に家に火かけ、打出て大津の方へ落にけり。わざとうしろをばあけて落さんとしけるなるべし。山科にて追武士共も有ければ、自害して死ける頚を、伯耆国守護武士にてかなもちと云者ありける、取てもてまいりたりければ、院は御車にて門に出て御覧じけると聞へき。これは元久二年後七月廿六日の事也。 かくして北条をば追こめて、子共と云は実朝が母頼朝が後家なればさうなし。義時又をやなれば、今の妻の方にてかヽるひが事をすれば、むまごが母方の祖父の我れころさんとするを追こむる也。されば実朝が世にひしと成て沙汰しけり。時正がむすめの、実朝・頼家が母いき残りたるが世にて有にや。義時と云時正が子をば奏聞して、又ふつと上臈になして、右京権大夫と云官になして、此いもうとせうとして関東をばをこないて有けり。 京には卿二位ひしと世を取たり。女人入眼の日本国いよヽヽまこと也けりと云べきにや。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【和田合戦】 かくてすぐる程に、時政が時、関東に勢もあり、さもすこしむつかしかりぬべき武士、荘司二郎重忠など以下皆うちてけり。重忠は武士の方はのぞみたりて第一に聞へき。さればうたれけるにも、よりつく人もなくて、終にわれとこそ死にけれ。 平氏のあと方なきほろびやう、又この源氏頼朝将軍昔今有難き器量にて、ひしと天下をしづめたりつるあとの成行やう、人のしわざとはをぼへず。顕には武士が世にて有べしと、宗廟の神も定めをぼしめしたることは、今は道理にかないて必然なり。其上は平家の多く怨霊もあり、只冥に因果のこたへゆくにやとぞ心ある人は思ふべき。 かやうにてあかしくらす程に、関東の方のこと共も又いかになど世の中にはうたがい思ふ程に、実朝卿やうヽヽをとなしく成て、われと世の事ども沙汰せんとて有けるに、仲章とて光遠と云し者の子、家を興して儒家に入て、菅家の長守朝臣が弟子にて学問したりといはるゝ者の有しが、事のえんども有ければにや、関東の将軍の師になりて、常に下りて、事の外に武の方よりも文に心を入れたりけり。仲章は京にては飛脚の沙汰などして有けり。これが将軍をやうやうに漢家の例引て教るなど、世の人沙汰しける程に、又いかなることかと人思ひたりけり。 実朝は又関東に不思議いできて、我が館みな焼れてあやうき事有けり。義盛左衛門と云三浦の長者、義時を深くそねみてうたんの志有けり。たヾあらはれにあらはれぬと聞て、にはかに建暦三年五月二日義時が家に押寄てければ、実朝一所にて有ければ、実朝面にふたがりてたヽかはせければ、当時ある程の武士はみな義時が方にて、二日戦ひて義盛が頚とりてけり。それに同意したる児玉・横山なんど云者は皆うせにけり。其後又頼家が子の、葉上上人がもとに法師に成て有ける、十四になりけるが、義盛が方に打もらされたる者のあつまりて、一心にて此禅師を取て打出んとしける。又聞へて皆うたれにけり。十四になる禅師の、自害いかめしくしてけり。其後はすこししづまりにけり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【摂政良経の死】 殿はまちざいはいおぼつかなく、当時はうら山しくもやおぼしけん。人目はよくとして、さられたるもよしにてすぎけるほどに、中御門京極にいづくにもまさりたるやうなる家つくりたてヽ山水池水峨々たる事にてめでたくして、元久三年三月十三日とかやに、絶たる曲水の宴をこなはんとて、鸚鵡坏つくらせなどして、いみじくよの人もまち悦て、松殿のむすめを北政所にせられたり、摂籙のやがて摂籙のむこになるもありがたき事にてありければ、さきの入道殿下を二人ながらをやしうとにてもたれたれば、公事のみち職者の方きはめたる人の、昔にすぎたる詠歌の道をきはめて、この宴をおこさるヽしかるべしと人も思ひつヽ、心をとき目耳をたてつヽありける程に、三月七日やうもなくね死にせられにけり。天下のをどろき云ばかりなし。院かぎりな(くな)げきおぼしめしけれど云にかいなし。さてちからをよばでこのたびは近衛殿の子、当時左大臣にてもとよりあれば関白になられにけり。 この春三星合とて大事なる天変のありける。司天の輩大にをぢ申けるに、その間慈円僧正五辻と云てしばしありける御所にて、とりつくろいたる薬師の御修法をはじめられたりける修中にこの変はありけり。太白・木星・火星となり、西の方によひヽヽにすでに犯分に三合のよりあいたりけるに、雨ふりて消にけり。又はれてみゑけるに、みへてはやがて雨ふりてきゑヽ四五日して、しばしはれざりければ、めでたきことかなにてありける程に、その雨はれてなを犯分のかぬ程にて現じたりけるを、さて第三日に又くもりて朝より夜に入るまで雨をおしみてありけり。いかばかり僧正も祈念しけんに、夜に入て雨しめ※※とめでたくふりて、つとめて、「消え候ぬ」と奏してけり。その雨はれて後は、犯分とをくさりて、この大事変ついに消えにけり。さてほどなくこの殿の頓死せられにけるをば、 晴光と云天文博士は、「一定この三星合は君の御大事にて候つるが、ついにからかいて消候にしが、殿下にとりかへまいらせられにけるに」とこそたしかに申けれ。このをりふしにさしあはせ、怨霊もちからをえけんとおぼゆるになん。その御修法はことに叡感ありて、勧賞などおこなはれにけり。さていかさまにもこの殿下のしなれたることは、世の末の口をしさ、かヽる人をえもたふまじき時運かなしきかなと人思へりけり。大方故内大臣良通、この摂政、かヽる死どもせられぬる事は、猶法性寺殿のすゑにかヽりけることの人のいでくるを、知足院殿の悪霊のしつるぞとこそは人は思へりけれ。法性寺殿よりこの摂政まで七人に成りぬるにこそ。其霊の後世菩提まめやかにたすけとぶらふ心したる人だにあらば、今はかうほどの事はよもあらじかし。あはれことの道理まことしく思ひたる臣下だにも二三人世の中にあらば、すこしはたのもしかりなんものを。 かヽりける程に、院にはもとよりうせたる摂政の事ふかくしのびをぼしめしければ、家実摂政になりて左大将あきけるところに、中納言中将道家をば左大将になされにけり。建永元年六月廿六日也。摂政関白程の人の名、かくはばからずをさへてかきヽヽしたる事は、わざとあざやかならんれうにかきて侍なり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【後白河法皇の怨霊】 又ふかしぎの事どもたりき。後白河院うせさせ給て後に、建久七年のころ、兼中と云公時二位入道がうしろみにつかいけるをとこありき。それが妻に故院つきしませをはしまして、「我祝へ、社つくり、国よせよ」など云ことを云いだして、沙汰にのりて兼中妻夫、妻は安房、夫は隠岐へ流罪せられなどしたる事の出きたりし也。しばしは人信ぜざりけれど、よしやすの中納言出家する程に、一定死なんずるにてありけるころ、すまヽヽと云て生にけるに、あだに信じたりけるに、後のたび又さやうに云ければ、申やうにさたあるべしなど、浄土寺の二位申などしけるを、七日よびとりて置て、一定事がらのまことそらことをみんとて、入道よびとれと云事にて、七日をきたりけるに、むげに云事もなく、しるしだちたる事のなかりければ、正体なきことかなとて、やがて狂惑になりて流されにき。 又七八年をへて、建永元年のころをひ、仲国法師は、ことなる光遠法師が子にて、故院には朝夕に候しが、妻につかせ給て、又、「我れいわへ」と云事出きて、浄土寺の丹後の二位などつねにあひて、なくヽヽこれをもてなしなどして、院へ申て公卿僉議に及て、すでにいはヽれんとする事ありけり。万の人皆、「さ候べし」と申たりけるに、今の前右府公継の公ぞ、すこしいかヾなど申たると聞えしを、(さ)かしく慈円僧正院にことにたのみをぼしたりければにや、大相国頼実、卿の二位をとこのもとへ一通の文をかきてやりける。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【慈円の功績】 「かヽる事聞へ候は、こはいかに候事哉。先如此の事は怨霊とさだめられたる人にとりてこそさる例多く候へ。故院の怨霊に君のためならせ給ふになり候なんずるは。又八幡大菩薩体に宗廟神の儀に候べきにや。あらたなる瑞相候にや。たヾ野犴・天狗とて、人につき候物の申事を信じて、かかること出き候べしやは。それはさる事にて、すでに京中の諸人これを承て、近所にたちて候趣、これを聞き候に、故院は下臈近く候て、世の中の狂ひ者と申て、みこ・かうなぎ・舞・猿楽のともがら、又あか金ざいく何かと申候ともがらの、これをとりなしまいらせ候はんずるやう見るこヽちこそし候へ。たヾ今世はうせ候なんず。猶さ候べくば誠しく御祈請候て、真実の冥感をきこしめすべく候」と云よしを申たりけるを、 やがて院きこしめして、「我もさ思ふ。めでたく申たる物かな」とて、やがてひしとこの事を仰合て、「仲国が夫妻流刑にをこなうべきか」と仰せ合せられたりければ、僧正又申けるやうは、 「この事はつやヽヽときつねたぬきもつき候はで、我心より申いでたるにて候はヾ、尤々流刑にもをこなはれ候べし。それが人不思議の者にて候と申ながら、それはよもさは候はじ。先に兼仲と申候し者の妻もかヽる事申いで候けり。それも物ぐるはしきうつは物の候に、必狐天狗など申物は又候ことなれば、さやうの物は、よのまことしからず成て、我をまつりなどするを一だん本意にをもいて、かく人をたぶらかし候事は昔今の物語にも候。又さ候べき事にても候なり。それがつきてさる病をし出して候にてこそ候へ。病ひすとて上より罪にをこなはるべきにても候はねば、たヾきこしめし入られ候はで、片角なんどにをいこめてをかれて候はヾ、さる狐狸はさやうに成候へば、やがてひき入りてをともし候はぬに候。さてたヾ事がらをや御覧候べく候らん」と申されたりければ、 「いみじく申たり」にて、その定に御さた有て、をいこめられたりければ、つの国なる山寺に仲山とかやに居てありける程に、又二めに物つきたりと云事もなくて、みそヽヽとしてさてやみにけり。心ある人はこれをかんぜずと云ことなし。浄土寺の二位もしらけヽとしてやみにけり。かヽる不思議こそ侍けれ。仲国は後にはふるされて、卿二位がうしろみにつかいてあん也。 これを思ふに、この院の御事はやむごとなくをはします君也。わが御心には是を正義とのみをぼしめしけるなるべし。それがあさましき人々のみ世にありて、口々に申になれば、又さもやとをぼしめすなるべし。さればあやうき事にて、もしかヽるさかしき人もなくば、さはふしぎもとげられて、一旦の己国は邪魔にせられなんずるはと、あさましくこそ。此天狗つき共は赦免せられていまだ生て侍也。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    清寧天皇  五年 元年庚申 卅九即位或卅七。 雄略第三子。母皇太(后)夫人韓媛。葛木円大臣女。 同国磐余甕栗宮。 此御門しらがおひて生給へり。故に御名をしらがとつけたてまつる。父の御門あやしみかしづきて東宮に立て給云々。御子をはしま〔さ〕ず。仍履中の御孫を二人よびとりて子にし給へり。安康の世の乱によりて丹波国にかくれておはしけり。 大臣大連如上。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    顕宗天皇  三年 元年乙丑 卅六即位 四十八。 履中の孫。市辺押羽皇子第三子。母夷媛。蟻臣のむまご。 近明日香八釣宮。 后一人。御子なし。 曲水宴此時はじまれり。 大臣大連如上。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    仁賢天皇  十一年 元年戊辰 五十。 顕宗の兄母同。清寧三年東宮とす。 大和国山辺郡石上広高宮。 后二人。男女御子八人。 此両天皇御事委在下。両所互譲給之間、御姉妹の女帝を奉立云々。号飯豊天皇云々。二月即位十一月崩御し給云々。常之皇代記略之歟。此二代殊世おさまれり。田舎におはしまして、民の愁をよく知食て政をおこなはれければにや。 左大臣平群真鳥大臣。 平群真鳥大臣、此御時に大伴金村連が為にころされぬ。此大臣五代の御門の大臣也。 大臣大伴金村連。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    武烈天皇  八年 元年戊寅 十歳即位 御年十八或五十七。 仁賢太子。同七年東宮とす。母皇后春日大娘皇女。 泊瀬列城宮。 后一人。御子なし。 限なき悪王也。人をころすを御遊にせられけり。 真鳥大

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    継体天皇  廿七年 元年丁亥 五十八即位 八十二。 応神天皇五世の孫、彦主人王の御子也。母振媛。いくめの御門の七世の孫のむすめ也。活目の御門とは垂仁天皇也。応神五世の孫者応神・隼総皇子・男太迹王・私斐王・彦主人王・継体天皇已上如此。但私斐王は異説歟云云。五世ととる事は、応神を如て数る歟。除之歟。神功皇后をも開化天皇の五世孫云々。其は一定開化を加て定也。若然ば私斐王僻説歟。慥可検知之。 大和国磐余玉穂宮。山城国(へ)遷都云々。依而猶遷都大和国云々。 此時百済国より五経博士を奉る。 武烈の後王胤絶了。越前国より此君を迎取まいらせたり。郡臣の沙汰也。粗委記下。 后九人。御子廿一人。男九人。女十二人。 大臣巨勢男(こせをひと)大臣。武内子。天皇廿年九月薨。 大連大伴金村連。     物部麁鹿火大連。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    安閑天皇  二年 元年癸丑 六十八即位 七十。 継体第二の嫡子。母目子媛。尾張連草香加娘。 大和国勾金橋宮。 后四人。御子なし。 無大臣。 大連同前。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【重衡斬罪】 さて九郎は大夫尉になされて、いけどりの宗盛公、重衡などぐして、五月七日頼朝がりくだりにけり。二人ながら又京へのぼせて、内大臣宗盛をば六月廿三日に、このせたの辺にて頚きりてけり。重衡をば、まさしく東大寺大仏やきたりし大将軍なりけり。かく仏の御敵うちてまいらするしるしにせんとて、わざと泉の木津の辺にて切て、その頚は奈良坂にかけてけり。前内大臣頚をば使庁へわたしければ、見物にて院も御覧じけり。 重衡をば頼政入道が子にて頼兼と云者をその使にさたしのぼせて、東大寺へぐしてゆきて切てけり。大津より醍醐とをり、ひつ川へいでヽ、宇治橋わたりて奈良へゆきけるに、重衡は、邦綱がをとむすめに大納言すけとて、高倉院に候しが安徳天皇の御めのとなりしにむことりたるが、あねの大夫三位が日野と醍醐とのあはいに家つくりて有りしにあいぐして居たりける、このもとの妻のもとに便路をよろこびてをりて、只今死なんずる身にて、なくヽヽ小袖きかへなどしてすぎけるをば、頼兼もゆるしてきせさせけり。大方積悪のさかりはこれをにくめども、又かヽる時にのぞみてはきく人かなしみの涙にをぼ(ほ)ゆる事なり。 範源法印とて季通入道が子ありき。天台宗碩学題者なり。そのかみ吉野山にかよふ事ありけるは、相人にてよく人相するをぼゑありき。それが吉野よりのぼりけるに、くぬ木原の程にこの重衡あいたりければ、「これは何事ぞ」ととはせけるに、かうヽヽと云ひければ、只今死なんずと云者の相こそをぼつかなけれ、見てんと思ひて、輿よりをりてその辺に武士わりごなんどのれうに馬どもやすめける所にて、すこしちかくよりて見けるに、つやヽヽと死相みへず。こはいかにと思ひてたちまはりつヽみけれど、ゑ見いださですぎにき。ふかしぎの事かなとこそ申けれ。相と云物はいかなるべきにか。 頼朝かやうのさたどもよの人舌なきをしてあふぎたりけり。 頼兼は頼政をつぎて猶大内の守護せさせられき。久くもなくてゑ思ふやうならでうせにき。それが子とて頼茂と云者ぞ又つぎて大内に候ける。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【九郎義経の謀反】 かやうにて今は世の中をち居ぬるにやとをもいしほどに、元暦二年七月九日午時ばかりなのめならぬ大地震ありき。古き堂のまろばぬなし。所々のついがきくづれぬなし。すこしもよはき家のやぶれぬもなし。山の根本中堂以下ゆがまぬ所なし。事もなのめならず竜王動とぞ申し。平相国竜になりてふりたると世には申き。法勝寺九重塔はあだにはたうれず、かたぶきてひえんは重ごとに皆をちにけり。 そのヽち九郎は検非違使五位尉伊与守などになされて、関東が鎌倉のたちへくだりて、又かへり上りなどして後、あしき心出きにけり。さて頼朝は次第に、国にありながら、加階して正二位までなりにけり。さて平家知行所領かきたてヽ、没官の所と名付て五百余所さながらつかはさる。東国・武蔵・相模をはじめて、申うくるまヽにたびてけり。 義仲京中にいりてとりくびらんとせしはじめに、頼盛大納言は頼朝がりくだりにけり。二日の道こなたへ頼朝はむかいて如父もてなしける。又頼朝がいもうとヽ云女房一人ありけるを、大宮権亮能康と云ふ人の妻にして年来ありけり。このゆへによしやす又妻ぐして鎌倉へくだりにき。かやうにしかるべき者どもくだりあつまりて、京中の人の程ども何もよくヽヽ頼朝しりにけり。 さて頼朝がかはりにて京に候この九郎判官、たちまちに頼朝をそむく心をおこして、同文治元年十一月三日、頼朝可追討宣旨給りにけり。人々に被仰合ければ、当時のをそれにたへず皆可然と申ける中に、九条右府一人こそ、追討宣旨など申事は依其罪過候事也、頼朝罪過なにごとにて候にか、いまだ其罪をしらず候へば、とかくはからい申がたき由申されたりけれ。この披露の後、頼朝郎従の中に土佐房と云ふ法師ありけり、左右なく九郎義経がもとへ夜打にいりにけり。九郎をきあいてひしヽヽとたヽかいて、その害をのがれにけれど、きすさへられてはか※※しく勢もなくて、宣旨を頚にかけて、文治元年十一月三日、西国方へとて船にのりて出にけりときこへしに、その夜京中ことにさはぎけり。人ひとりしちにやとらんずらんと思ひけれどたヾぞ落にける。川尻にて頼朝が方の郎従どもをいかヽりて、ちり※※にうせにけり。十郎蔵人行家とてありしは木曾義仲にぐしたりし。それと又ひとつにてありしもはなれて、北=石蔵(きた=いはくら)にてうたれてその頚なんど云者きこへき。九郎はしばしはとかくれつヽありきける。无動寺に財修とてありける堂衆が房には、暫かくしをきたりけるとのちに聞へき。ついにみちのくにの康衡がもとへ逃とをりて行にける。をそろしき事なりと聞へしかども、やすひらうちてこの由頼朝がり云けるをば、「それにもよらじ、わろきことしたり」とぞかの国にもいひける。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【頼朝の配慮】 同十二月廿八日に九条右大臣に内覧宣旨くだされにけり。この頼朝追討の宣旨くだしたる人々、皆勅勘候べき由申したりけり。蔵人頭光雅・大夫史隆職など解官せられにけり。上卿は左大臣経宗なり。それをばとかくも申さヾりけれど議奏の上卿とて申たりけるには、左大臣をばかきいれざりけり。これにてさよと人に思はせけり。これまでもいみじくはからいたりけるにや。又院の近習者泰経三位など皆をいこめてけり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【陸奥国平定】 同二年十一月廿六日に、又九郎を可搦進之由宣下ありけり。あさましき次第ども也。 又其後文治五年七月十九日に鎌倉をいでヽ、奥いりとて、終にみちの国のひでひらがあとやすひらと云、打とらんと頼朝の将軍思ひけり。尤いはれたり。かれは誰にもしたがはぬやうにて、みちの国ほどの国をひとへに領してあれば、いかでか我物にせざらん。ゆゝしく出でたちてせめいりて、同九月三日やすヽヽと打はらいてけり。さてみちの国も皆郎従どもにわけとらせて、この由上へ申てうるはしく国司なされて、年比にもにず国司のためもよくてありけり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【鎌倉武士の腕前】 ひでひらが子に母太郎・父太郎とて子二人ありけり。やすひらは母太郎也。それにつたへて父太郎は別の所をこしゑてありける。父太郎は武者がらゆヽしくて、いくさの日もぬけ出てあはれ物やと見へけるに、こなたよりあれを打とらんと心をかけたりけるにも、庄司次郎重忠こそ分入てやがて落合てくびとりて参たりけれ。すべて庄司次郎を頼朝は一番にはうたせうたせしてありけり。ゆヽしき武者なり。終にいかなる納涼をしけるにも、かたへの者ちかく膝をくみて居る事ゑせでやみける者とぞきこゆる。 頼朝は鎌倉を打出けるより、片時もとり弓せさせず。弓を身にはなつ事なかりければ、郎従どもヽなのめならずをぢあいけり。手のきヽざま狩などしけるには、大鹿にはせならびて角をとりて手どりにもとりけり。太郎頼家は又昔今ふつになき程の手きヽにてありけり。のくもりなくきこゑき。 (以上、愚管抄巻第五了)

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【二条天皇の内裏脱出】 さて内々この(事)しかるべき人々相議定して、「清盛熊野より帰てなにとなくてあれば、一定義朝も信頼もけふヽヽと思ふ様共おほからん。用心の堅固にては物のたかくなるもあやむる事なり。すこし心をのべてこそよからめ」にて、「清盛が名簿を信頼がりやるべき、そのよし子細を云へ」とてやりければ、 清盛はたヾ、「いかにもいかにもかやうの事は、人々の御はからひに候」と云ければ、内大臣公教の君ぞまさしくその名簿をばかきたりける。それを一の郎等家定に持せて云やりけるやうは、「かやうにて候へば、何となく御心おかれ候らん。さなしとておろかなるべきには候はねど、いかにもいかにも御はからひ御気色をばたがへまいらせ候まじきに候。そのしるしにはおそれながら名簿をまいらせ候なり」といはせたりければ、 これはこの行幸の日のつとめてにてありければ、返事には、「返々よろこびて承り候ぬ。このむねを存候て何事も申承候べし。尤本意に候」と云たりければ、「よしヽヽ」とてぞ。有けるしたくのごとくにしたりけり。 夜に入て惟方は院の御書所に参りて、小男にて有けるが直衣にくヽりあげて、ふと参りてそヽやき申て出にけり。車は又その御料にもまうけたりければ、院の御方事はさたする人もなく、見あやむ人もなかりければ、覚束なからず。 内の御方にはこの尹明候なれたる者にて、むしろを二枚まうけて、莚道に南殿の廻廊に敷て、一枚を歩ませ給ふ程に今一枚をしきヽヽして、内侍には伊予内侍・少輔内侍二人ぞ心ゑたりける。これら先しるしの御はこ宝剣とをば御車に入てけり。支度の如くにて焼亡の間、さりげなしにてやり出してけり。さて火消て後、信頼は、「焼亡は別事候はずと申させ給へ」と、蔵人して伊予内侍に云ければ、「さ申候ぬ」とて、この内侍どもは小袖ばかりきて、かみわきとりて出にけり。尹明はしづかに長櫃をまうけて、玄象、すヾか、御笛のはこ、だいとけいのからびつ、日の御座の御太刀、殿上の御倚子などさたし入て、追ざまに六波羅へまいれりければ、武士どもおさへて、弓長刀さしちがへさしちがへしてかためたるに、「誰かまいらせ給ふぞ」と云ければ、たかく「進士蔵人尹明が御物持せて参て候なり」と申させ給へ」と申たりければ、やがて申て、「とく入れよ」とて参りにけり。ほの※※とする程なりけり。やがて院の御幸、上西門院・美福門院、御幸どもなり合せ給てありけり。大殿関白相ぐしてまいられたりけり。大殿とは法性寺殿なり。 関白とはその子、十六歳にて保元三年八月十一日二条院受禅の同日に、関白氏長者皆ゆづられにける。あなわかやと人皆思ひたりけり。この中の殿とぞ世には云める。又六条摂政、中院とも申やらん。この関白は信頼が妹にむことられて有ければ、すこし法性寺殿をば心おかんなど云こと有けるにや。 六波羅にて院・内おはしましける御前にて人々候けるに、三条内府清盛方を見やりて、「関白まいられたりと申。いかに候べきやらん」と云たりければ、清盛さうなく、「摂籙の臣の御事などは議に及ぶべくも候はず。まいられざらんをぞわざとめさるべく候。参らせ給ひたらんは神妙の事にてこそ候へ」と申たりける。あはれよく申物かなと聞く人思ひたりけり。 その夜中には京中に、「行幸六波羅へなり候ぬるぞ+」とのヽしらせけり。山の青蓮院座主行玄の弟子にて、鳥羽院の七宮、法印法性寺座主とておはしける、知法のおぼゑありければにや、其時仏眼法うけ給りて修せられける白河房へも、夜半にたヽきて、「行幸六波羅へなり候。又よくヽヽいのり申させ給へ」と云御使ありけり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【義朝方の敗戦】 かヽりける程に内裏には信頼・義朝・師仲、南殿にてあぶの目ぬけたる如くにてありけり。後に師仲中納言申けるは、義朝は其時、信頼を、「日本第一の不覚人なりける人をたのみて、かヽる事をし出つる」と申けるをば、少しも物もゑいはざりけり。紫宸殿の大床に立てよろひとりてきける時、だいとけいの唐櫃の小鈎を守刀に付たりけるを、師仲は内侍所の御体をふところに入て持たりける、「たべ、その鈎これにぐしまいらせてもたん。その刀につけて無益なり」と云ければ、「誠に」とてなげおこせたりければ、取て、「いづちも御身をはなれ申まじきぞ」とて、あいずりの直垂をぞ着たりける。やがて義朝は甲の緒をしめて打出ける。馬のしりにうちぐしてありけれど、京の小路に入にける上は、散々にうちわかれにけり。 さて六波羅よりはやがて内裏へよせけり。義朝は又、「いかさまにも六波羅にて尸をさらさん。一あてしてこそ」とてよせけり。平氏が方には左衛門佐重盛清盛嫡男・三河守頼盛清盛舎弟、この二人こそ大将軍の誠にたヽかいはしたりけるはありけれ。重盛が馬をいさせて、堀河の材木の上に弓杖つきて立て、のりかへにのりける、ゆヽしく見へけり。鎧の上の矢どもおりかけて各六波羅に参れりける。かちての上は心もおち居て見物にてこそありけれ。 義朝は又六波羅のはた板のきはまでかけ寄て、物さはがしくなりける時、大将軍清盛はひた黒にさうぞきて、かちの直垂に黒革おどしの鎧にぬりのヽ矢おいて、黒き馬に乗て御所の中門の廊に引よせて、大鍬形の甲取て着て緒しめ打出ければ、歩武者の侍二三十人馬にそひて走りめぐりて、「物さはがしく候。見候はん」と云て、はたヽヽと打出けるこそ、時にとりてよにたのもしかりけれ。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【信頼・義朝の最期】 義朝が方には郎等わづか二十人が内になりにければ、何わざをかはせん、やがで落て、いかにも東国へ向ひて今一度会稽を遂んと思ひければ、大原の千束ががけにかヽりて近江の方へ落にけり。正清もなをはなれずぐしたりけり。 此時内の護持僧にて山の重輸僧正候ける。六波羅に参て香染にて丑寅の方に向て、「南無叡山三宝」とて如法に立、ぬかをつきて拝みけるこそ、よにたのもしかりけれ。かやうの時はさる者の必候べきなり。 又清盛は大内裏に信頼が宿所に咋日かきてやりたる名簿を、そのまヽにて今日とりかへしつるとてこそわらひけれ。 信頼は仁和寺の五の宮の御室へ参りたりけるを、次の日五の宮よりまいらせられたりけるに、清盛は一家者どもあつめて、六原のうしろに清水ある所に平ばりうちており居たりける所へ、成親中将と二人をぐして前に引すへたりけるに、信頼があやまたぬよし云ける、よにヽヽわろく聞へけり。かう程の事にさ云ばやは叶べき。清盛はなんでうとて顔をふりければ、心ゑて引たてヽ六条河原にてやがて頚きりてけり。成親は家成中納言が子にて、ふようの若殿上人にてありけるが、信頼にぐせられてありける。ふかヽるべき者ならねば、とがもいとなかりけり。武士どもヽ何も何も程々の刑罰は皆行はれにけり。 さて義朝は又馬にもゑのらず、かちはだしにて尾張国まで落行て、足もはれつかれたれば、郎等鎌田次郎正清がしうとにて内海荘司平忠致とて、大矢の左衛門むねつねが末孫と云者の有ける家にうちたのみて、かヽるゆかりなれば行つきたりける。侍よろこぶ由にていみじくいたはりつヽ、湯わかしてあぶさんとしけるに、正清事のけしきをかざどりて、こヽにてうたれなんずよと見てければ、「かなひ候はじ。あしく候」と云ければ、「さうなし。皆存たり。此頚打てよ」と云ければ、正清主の頚打落て、やがて我身自害してけり。さて義朝が頚はとりて京へまいらせてわたして、東の獄門のあての木にかけたりける。その頚のかたはらに歌をよみてかきつけたりけるをみければ、    下つけは木の上にこそなりにけれよしともみへぬかけづかさ哉 となんよめりける。 是をみる人かやうの歌の中に、これ程一文字もあだならぬ歌こそなけれとのヽしりけり。九条の大相国伊通の公ぞかヽる歌よみて、おほくおとし文にかきなどしけるとぞ、時の人思ひたりける。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【「中小別当」惟方】 かくて二条院当今にておはしますは、その十二月廿九日に、美福門院の御所八条殿へ行幸なりてわたらせ給ふ。後白河院をばその正月六日、八条堀河の顕長卿が家におはしまさせけるに、その家にはさじきのありけるにて、大路御覧じて下すなんどめしよせられければ、経宗・惟方などさたして堀河の板にて桟敷を外よりむずヽヽと打つけてけり。かやうの事どもにて、大方此二人して世をば院にしらせまいらせじ、内の御沙汰にてあるべし、と云けるをきこしめして、院は清盛をめして、「わが世にありなしはこの惟方・経宗にあり。これを思ふ程いましめてまいらせよ」となくヽヽ仰ありければ、その御前には法性寺殿もおはしましけるとかや。清盛又思ふやうどもヽありけん。忠景・為長と云二人の郎等して、この二人をからめとりて、陣頭に御幸なして御車の前に引すへて、おめかせてまいらせたりけるなど世には沙汰しき。その有さまはまがヽヽしければかきつくべからず。人皆しれるなるべし。さてやがて経宗をば阿波国、惟方をば長門国へ流してけり。信西が子どもは又かずを尽してめしかへしてけり。これらからむることは永暦元年二月廿日の事なり。これら流しける時、義朝が子の頼朝をば伊豆国へ同くながしやりてけり。同き三月十一日にぞ、この流刑どもは行はれける。惟方をば中小別当と云名付て世の人云さたしけり。 さてこの平治元年より応保二年まで三四年が程は、院・内、申し合つ、同じ御心にていみじくありける程に、主上をのろひまいらせけるきこゑありて、賀茂の上の宮に御かたちをかきてのろひまいらする事見あらはして、実長卿申たりけり。かうなぎ男からめられたりければ、院の近習者資賢卿など云恪勤の人々の所為とあらはれにけり。さてその六月二日資賢が修理大夫解官せられぬ。 又時忠が高倉院の生れさせ給ひける時、いもうとの小弁の殿うみまいらせけるに、ゆヽしき過言をしたりけるよし披露して、前の年解官せられにけり。かやうの事どもヽゆきあいて、資賢・時忠は応保二年六月廿三日に流されにけり。 さて長寛二年四月十日関白中殿をば清盛おさなきむすめにむことり申て、北政所にてありけり。 さて主上二条院世の事をば一向に行はせまいらせて、押小路東洞院に皇居つくりておはしまして、清盛が一家の者さながらその辺にとのゐ所どもつくりて、朝夕に候はせけり。いかにもいかにも 清盛もたれも下の心には、この後白河院の御世にて世をしろしめすことをば、いかヾとのみおもへりけるに、清盛はよくヽヽつヽしみていみじくはからひて、あなたこなたしけるにこそ。我妻のおとヽ小弁の殿は、院のおぼゑして皇子うみまいらせなどしてければ、それも下に思ふやうどもありけん。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【蓮華王院建立】 さて後白河院は多年の御宿願にて、千手観音千体の御堂をつくらんとおぼしめしけるをば、清盛奉りて備前国にてつくりてまいらせければ、長寛二年十二月十七日に供養ありけるに、行幸あらばやとおぼしめしたりけれど、二条院は少しもおぼしめしよらぬさまにてありけるに、寺づかさの勧賞申されけるをも沙汰もなかりけり。親範職事にて奉行して候ける、御使しける。この御堂をば蓮華王院とつけられたり。その御所にて御前へ召て、「いかに」と仰られければ、親範、「勅許候はぬにこそ」と申たりければ、御目に涙を一とはたうけて、「やヽ、なんのにくさに+」とぞ仰られて、「親範がとがとまでおぼしめされ候にし。おそれ候て」とぞ親範はかたり侍りける。此御堂は、真言の御師にてこまの僧正行慶は白河院の御子なり、三井門流にたうとき人なりしかば、院は偏にたのみおぼしめしたりけるが、ことにさたして中尊の丈六の御面相を手づからなをされけり。万の事に心きヽたる人とぞ人は云ける。六宮の御師なり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【二条天皇崩御】 二条院は御出家の義にて、仁和寺の五宮へわたりはじめておはしけるを、王胤なを大切なりにて、とりかへして遂に立坊ありけり。その御むつびにて五の宮は位の御時、この二条内裏の辺に三条坊門烏丸に壇所手づからつくりて、あさゆふにひしと候はせ給ければ、万機の御口入もありけり。さて六宮の天王寺別当とりてならせ給て、人々いはれさせ給ひけり。 さて応保二年三月七日、又経宗大納言はめしかへされて、長寛二年正月廿二日には大納言にかへりなりて、後には左大臣一の上にて多年職者にもちゐられてぞ候ける。この経宗の大納言はまさしき京極大殿のむまごなり。人がら有て祖父の二位大納言経実には似ず、公事よくつとめて職者がらもありぬべかりければ、知足院殿の知足院にうちこめられて腰いておはしける、人まいりてつねに世の事ならひまいらせければ、法性寺殿の方にはいよヽヽあやしみ思ひけり。世には、「二条院の外舅なり。摂籙もや」など云和讒ども有けれど、いまだこの科には及ばずぞ有ける。大方世の人の口のにくさ、すこしもよりくるやうにのみ人は物を云なり。返々これも心うべき事なり。又惟方はのちに永万二年三月にぞ召かへされたりける。 かくてすぐる程に法性寺殿のおとむすめ入内立后ありて、中宮とておはしましヽかども、なのめならぬおぼへながら、猶御懐姙はゑなかりけり。さて二条院は又永万元年六月に御病重くて、二歳なる皇子のおはしましける、御母はたれともさだかにきこゑず、この皇子に御譲位ありて、七月廿二日に御年廿三にてかくれさせ給ひにけり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【忠通、関白となる】 さて摂籙の臣をかゑんとをぼしめしけるに、大方その人なし。花山院左府家忠、京極殿の子にて、大納言の大将にて、さもやとをぼしめして顕隆にをほせあはせければ、「いなりまつりのさじきの事は」と申たりけりなどきこゆ。家忠の子忠宗中納言は、顕季卿が子の宰相がむこなり。かやうのゆかりにてそのとき顕季、家保などあつまりて、さじきにてさかもりして、さしかよはされたるなど人そしりけることなり。これは一定はしらねども、かくぞ申める。すこしもさやうならん人の、すべき事にてはこの摂政関白はなき也。 さて内大臣にて法性寺殿のをはしけるほかには、いさヽかも又さもといふ人なかりければ、ちからをよばで、「をやはをや、こはことこそは、げすもいふめれば、執政せよ」とをほせられければ、法性寺どのは 「この職をつぎ候ばかり候はヾ、忠通にゆるされて候て、一日父の勅勘を免ぜられ候て、門をひらかせ候て、代々の例この職は父のゆづりをゑ候てうけとり候夜、やがて拝賀などすることにて候を、たがへずし候はヾや。職に居候ばかりにて、父の勅勘ゑ申免ぜず候はんも、不孝の身になり候はヾ仏神の御とがめもや候べからん」と申されたりければ、 この申さるヽむねかゑすがゑす しかるべしと感思食とて、その定にすこしもたがへずをこないて、うけとられにけり。 法性寺どのは、白河院陣中に人の家をめしてをはしましけるうへ、かならず参内には先まいられけるに、世の中のこと先例をほせあはせられけるに、一度もとヾこをることなく、かヾみにむかうやうに申さたしてをはしければ、かばかりの人なしとをぽしめしてすぎけるほどに、鳥羽院は崇徳院の五にならせ給御とし御譲位ありけり。保安四年正月なり。白河院ひヽ子位につけて御らんじけり。大治四年正月九日摂政のむすめ入内。同十六日女御。これは皇嘉門院な(り)。さてその年の七月七日白河院は崩御。御年七十七までをはしましけるなり。天承元年二月九日立后ありけり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【忠実出仕の日のこと】 さて鳥羽院の御世になりて、知足院どのはことにみやづかへてとりいらせ給ければ、鳥羽院御本意とげむとて、脱屣のヽちにぞむすめの賀陽院は、なをまいらせ給にける。長承二年六月廿九日上皇の宮にいり給て、同三年三月十九日にぞ立后ありける。白河院うせさせ給てのち五年なり。それも王子もゑうませ給はず。 さて待賢門院、久安元年八月廿六日にぞうせ給にける。白川院の天永三年三月十六日の御賀は御らんじけん。をさなくてさふらはせ給けんに、鳥羽院の仁平二年三月七日の御賀は、御らんぜでうせ給にけり。その御なごりに閑院の人々いゑををこしたり。この女院は永久五年十二月十三日に入内。十七日に女御、同六年正月廿六日にぞ立后ありける。 かヽりけるほどに知足院殿申されけるやうは、 「きみの御ゆかりに不慮の篭居し候にしかども、摂籙は子息にひきうつして候へばよろこびて候。いま一ど出仕をして元日の拝礼にまいり候はん。さてこの関白が上に候はん」と申て、 天承二年正月三日なんたヾ一度出仕せられたり。その日は二男宇治左府頼長のきみは、中将にてしたがさねのしりとりてなどぞ物がたりに人は申す。この日摂政太政大臣忠通、次右大臣にて花園左府有仁、三宮御子なり。次内大臣宗忠、家人なり。そのつぎヽヽの公卿さながら礼ふかく家礼なりしに、花園の大臣一人うそゑみて揖してたヽれたりし。いみじかりきとこそ申けれ。 すべて知足院どのは執ふかき人にや。この拝礼にまいりて年よりやまいあるよしにて、いまだ公卿列立とヽのほらぬさきに、「脚病ひさしくたちて無術候」とて、「かつかつ拝さふらはん」とて、いそぎ拝せられけり。をきあつかはれければ摂政大政大臣よりてたすけ申されければ、諸卿の拝いぜんにいでられけるに、内大臣いげ家礼の人をほくありけるをも、人にみゑんとにやと人いひけり。時にとりていみじかりければ、ふるまいをほせられけり。かやうの心にてその霊もをそろし。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【悪左府頼長】 かヽりけるほどに、この頼長の公、日本第一大学生、和漢の才にとみて、はらあしくよろづにきはどき人なりけるが、てヽの殿にさいあいなりけり。一日摂籙内覧をへばやヽとあまりに申されけるを、一日へさせばやとをぼして、子の法性寺殿に、「さもありなんや。後には汝が子孫にこそかへさんずれ」と、たびヽヽねんごろに申されけるを、法性寺殿のともかくもその御返事を申されざりければ、のちにはやすからずをぼして、鳥羽院にこのよしを申て、「かなへかなはずは、つぎのことにて、存候はんやう、かへりごとのきヽたく候。上より仰たびて申状をきかせられ候へ」と申されければ、この由仰られたりける御返事に、存候むねはとて、 「手のきは、頼長が御心ばへはしか※※と候なり。かれ君の御うしろみになり候ては、天下の損じ候ぬべし。このやうを申候はヾ、いよヽヽ腹立し候はヾ不孝にも候べし。ちヽの申候へばとて承諾し候はば世のため不忠になり候ぬべし。仰天して候」 など申されたりけるをつかはされたりければ、「かくも返事はありけるは。などわが云には返事だになき」とて、いよヽヽふかく思つヽ、藤氏長者(は)君のしろしめさぬことなりとて、久安六年九月廿五日に藤氏長者をとり返して、東三条にをはしまして、左府に朱器台盤わたされにけり。さて院をとかくすかしまいらせられけるほどに、みそかに上卿などもよをして、久安七年正月に内覧はならびたる例もあればにて、内覧の宣旨ばかりくだされにけり。あさましきことかなと一天のあやしみになりぬ。 さてうえヽヽの御中あしきことは、崇徳院のくらいにをはしましけるに、鳥羽院は長実中納言がむすめをことに最愛にをぼしめして、はじめは三位せさせてをはしましけるを、東宮にたてヽ崇徳のきさきには、法性殿のむすめまいられたる。皇嘉門院なり。その御子のよしにて外祖の儀にてよくヽヽさたしまいらせよとをほせられければ、ことに心にいれて誠の外祖のほしさに、さたしまいらせけるに、「その定にて譲位候べし」と申されければ、崇徳院は「さ候べし」とて、永治元年十二月に御譲位ありける。 保延五年八月に東宮にはたたせ給にけり。その宣命に皇太子とぞあらんずらんとをぼしめしけるを、皇太弟(と)かヽせられけるとき、こはいかにと又崇徳院の御意趣にこもりけり。 さて近衛院くらいにてをはしましけるに、当今をとなしくならせ給て、頼長の公内覧の臣にて左大臣一の上にて、節会の内弁きらヽヽとつとめて、御堂のむかしこのもしくてありける。節会ごとに主上御帳にいでをはします事のなくて、ひきかうぶりてとのごもり+してひとゑに違例になりてけり。院よりいかに申させ給ひけるも、きかせをはしまさず。又関白「はがとがに成候なんず」と、返々申されけるをもきかせ給ぬ事にてありければ、「なをこれは関白がする」とをぼしめして御きそくあしかりけり。されど法性寺殿はすこしもこれを思ひいたるけもなくて、備前国ばかりうちしりて、関白、内覧をばとどむる人もなかりければ、出仕うちしてをはしけり。 其後内裏にて二たびあしくゆきあはれたりければ、左府は昔のごとく家礼してをひたちける兄なればなをいられけり。昔は法性寺殿の子にしてをはしければ、さやうの事思ひいでられける。あはれなりと人いひけり、てヽの殿は「いかに」とありけれど、「礼はとりかへさずと礼記の文なり。 中あしとていかでかいざらん」といわれけるをば時の人のヽしりけり。 かやうにてすぐるほどに、この左府、悪さふといふ名を天下の諸人つけたりければ、そのしるしあけくれのことにてありけるに、法勝寺御幸に実衡中納言が車やぶり、又院第一の寵人家成中納言が家ついぶくしたりければ、院の御心にうとみをぼしめしにけり。あにの殿は、「まことによくいひけるものを」とをぼしめしめがらさてすぎけり。人の物がたりに申しヽは、高松の中納言実衡が車やぶりたることを、父殿「いかにさることは」といはれける次に、「かくあしくとも家成などをばゑせじ物を」と、はらのたたれけるにいはれたりけるをきヽ(は)さみて、親にもかくをもはれたるやすからずとて、無二にあいし寵しける随身公春に心をあはせて、家成がいゑのかどに下人をたてゝまゑをとをられけるに、高あしだはきてありけるをおいいれたる由にて、ついぶくはしたりけるなり。あしく心たてたりといヽながら、身をうしなふほどの悪事かくせられけり。 さるほどに主上近衛院十七にて久寿二年七月にうせ給にけるは、ひとへにこのさふが呪咀なりと人いヽけり。院もをぼしめしたりけり。証拠共もありけるにや。かくうせさせ給ぬれば、「いまはわが身は一人内覧になりなん」とこそはをもはれけんに、例にまかせて大臣内覧辞表をあげたりけるを、かへしもたまはらでのち、次のとし正月に左大臣ばかりはもとのごとしとてありけり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【鳥羽法皇の失政】 院はこの次の位のことををぼしめしわづらいけり。四宮にて後白河院、待賢門院の御はらにて、新院崇徳に同宿してをはしましけるが、いたくさたヾしく御あそびなどありとて、即位の御器量にはあらずとをぼしめして、近衛院のあねの八条院ひめ宮なるを女帝か、新院一宮か、この四宮の御子二条院のをさなくをはしますかをなどやうヽヽにをぼしめして、その時は知足院どの左府といふことはなくて一向に法性寺殿に申あはせられける。御返事たびたび「いかにもいかにも君の御事は人臣のはからいに候はず。たヾ叡慮にあるべし」とのみ申されけるを、第四度のたび「ただはからわせ給へ。この御返事を大神宮の仰と思候はんずるなり」と、さしつめてをほせられたりけるたび、「この勅定の上は四宮、親王にて廿九にならせをはします、これがをわしまさん上は、先これを御即位の上の御案こそ候はめ」と申されたりければ、「左右なし、其定にさたせさせ給へ」とてありければ、主上の御事かなしみながら、例にまかせて、雅仁親王新院御所にをはしましける、むかへまいらせて、東三条南の町、高松殿にて、御譲位の儀めでたくをこなはれにけり。されば世をしろしめす太上天皇と、摂籙臣のをやのさきの関白殿、ともに、あにをにくみてをとヽをかたひき給て、かヽる世中の最大事をおこなはれけるが、世のすゑのかくなるべき時運につくりあはせてければ、鳥羽院、知足院一御心になりてしばし天下のありける(を)この巨害のこの世をばかくなしたりけるなり。されど鳥羽院の御在生までは、まのあたり内乱合戦はなくてやみにけり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【鳥羽法皇の崩御】 かくて鳥羽院は久寿を改元して四月廿四日に保元となりにけり。七月の二日うせ給ひける。御やまいのあいだ、「この君をはしまさずは、いかなる事かいでこんずらん」と、貴賎老少さヽやきつヽやきしけるを、宗能の内大臣といふ人、大納言かにてありけり。さまでの近習者にもなかりけれど、思ひあまりて文をかきて、「この世は君の御眼とぢをはしましなんのちは、いかになりなんずとかをぼしめしをはします。只今みだれうせ候なんず。よくヽヽはからいをほせをかるべし」などや申たりけん。さなしとても君も思召けん。さてきたをもてには、武士為義、清盛など十人とかやに祭文をかヽせて、美福門院にまいらせられにけり。後白河法皇くらいにて、少納言入道信西と云学生抜群の者ありけるが、年ごろの御めのとにて紀の二位と云妻もちてありける。これをば人もたのもしく思へりけるに、美福門院一向母后の儀にて、摂籙の法性寺殿、大臣諸卿ひとつ心にてあるべしと申をかれにけり。 さて七月二日御支度のごとく、鳥羽どのに安楽寿院とて御終焉の御堂御所しおかせ給たりけるにてうせさせ給にけり。 その時新院まいらせ給たりけれども、内へ入れまいらする人だにもなかりければ、はらだちて、鳥羽の南殿(の)、人もなき所へ御幸の御車ちらしてをはしましけるに、まさしき法皇の御閉眼のときなれば、馬車さはぎあふに、勝光明院のまへのほどにて、ちかのりが十七八のほど、のり家が子にて、勘解由次官になされてめしつかいけるが、まいりあいたりけるをうたせたまいけるほどに、目をうちつぶされたりとのヽしりけるを、すでに今はかうにてをはしましけるにまいりて、最後の御をもい人にて候ける光安がむすめの土佐殿といひける女房の、「新院のちかのりが目をうちつぶさせたまひたりと申あひ候」と申たりけるをきかせをはしまして、御目をきらりとみあげてをはしましたりけるが、まさしき最後にてひきいらせたまいにけりとぞ人はかたり侍し。 其後ちかのり現存して民部卿入道とて八十までいきてありしに、「かく人かたるはいかなりしぞ」ととい侍ければ、 「目はつぶれ候はず。きこへ候やうにまいりあいて候しに、御幸気色も候はヾ、やは車はちらしあい候しに、めしつぎがつぶてにて、のりて候し車のものみにうちあてヽ、はたとなり候しに、「新院の御幸ぞ」と申候しかば、さうなく、「車をおさへよ」とたかく、車ををどりをり候しほどに、いかにして候しやらん、車のすだれの竹のぬけて候しが、目の下のかはのうすく候所にあたりて、ぬいざまにつらぬかれて候し血の、顕文紗のしらあをヽきて候しかりぎぬの前にかヽりて候しをみ候て、めしつぎどもうちやみ候にし也。さ候はずは猶もうちふせられもやし候はまし。その血のかヽりやうは、かへりて冥加とぞをぼへ候にし」とぞかたり侍りける。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【保元の乱】 さて新院は田中殿の御所にをはしましけるほどに、宇治の左府申かはしけむ、にはかに七月九日鳥羽をいでヽ白河の中御門河原に、千体のあみだ堂の御所ときこゆるさじき殿と云御所へわたらせ給にけり。それもわが御所にてもなきを、おしあけてをはしましにけり。さればよとすでに京の内のだいりに、関白、徳大寺の左府などいヽし人々、ひしとまいりつどいて、祭文かきてまいらせたる武士ども候て、警固してをわしましけるに、 悪左府は宇治にをわしける。宇治よりまいらんずらんとて、のぶかぬと云武士、「ひつ河のへんにまかりむかいて、うちてまいらせよ」とすでに仰られにけるに、あまりに俄なればをそくゆきむかいけるほどに、夜半に宇治より中御門御所へまいられにけり。 さて為義を、宰相中将教長としごろの新院の近習者也、それしてたびヽヽめして、為義すぐに新院へまいりぬときこゑて、子二人ぐしてまいりにけり。四郎左衛門よりかた・源八ためともなり。さて嫡子のよしともは、御方にひしと候けり。としごろこの父の中よからず。子細どもことながし。さて十一日議定ありて、世の中はいかにいかにとののしりけるに、為義は新院にまいりて申けるようは、「むげに無勢に候。郎従はみな義朝につき候て内裏に候。わづかに小男二人候。なにごとをかはし候べき。この御所にてまちいくさになり候ては、すこしも叶候まじ。いそぎヽ てただ宇治にいらせをはしまして、宇治橋ひき候て、しばしもやさヽへられ候べき。さ候はずは、ただ近江国へ御下向候て、かうかの山うしろにあて、坂東武士候なんず。をそくまいり候はヾ、関東へ御幸候て、あしがらの山きりふさぎ候なば、やうヽヽ京中はゑたヽへ候はじ物を。東国はよりよし・義家がときより為義にしたがはぬもの候はず。京中は誰も誰もことがらをこそうかヾい候らめ。せめてならば、内裏にまいりて、一あてして、いかにも成候はヾや」と申しけるを、 左府、御前にて、「いたくないそぎ(そ)。只今何事のあらんずるぞ。当時まことに無勢げなり。やまとの国ひがきの冠者と云ものあり。「吉野の勢もよをして、やがていそぎまいれ」と仰てき。今はまいるらん。しばしあいまて」としづめられければ、「こは以外の御事哉」とて庭に候けり。為義がほかには、正弘・家弘・忠正・頼憲などの候ける。勢ずくななる者ども也。 内裏には義朝が申あげヽるは、「いかに、かくいつともなくてさヽへたる。御はからいは候にか、いくさの道はかくは候はず。先たヾをしよせて蹴ちらし候ての上のことに候。為義、よりかた・為朝ぐしてすでにまいり候にけり。親にて候へども御方にかくて候へば、まかりむかい候はヾ、かれらもひき候なん物を。たヾよせ候なん」とかしらをかきて申けるに、十日一日に(こ)ときれず、みちのり法し、にはに候て、「いかにいかに」と申けるに、 法性寺殿御まへにひしと候て、目をしばたヽきて、うちみあげうちみあげみて物もいはれざりけるを、実能・公能以下これをまぼりてありけるほどに、十一日の暁、「さらば、とくをいちらし候へ」といヽいだされたりけるに、下野守義朝はよろこびて、日いだしたりける紅の扇をはらヽヽとつかいて、 「義朝いくさにあふこと何け度になり候ぬる。みな朝家をおそれて、いかなるとがをか蒙候はんずらんと、むねに先こたへてをそれ候き。けふ追討の宣旨かうぶりて、只今敵にあい候ぬる心のすヾしさこそ候はね」とて、 安芸守清盛と手をわかちて、三条内裏より中御門へよせ参りける。このほかには源頼政・重成・光康など候けり。ほどやはあるべき、ほの※※によせかけたりけるに、頼賢・ためとも勢ずくなにて、ひしとさヽへたりけるには、義朝が一のらうどう鎌田の次郎まさきよは、たびヽヽかけかへされけれども、御方の勢はかりなければ、をしまはして火かけてければ、新院は御なをしにて御馬にたてまつりて、御馬のしりにはむまのすけのぶざねと云者のりて、仁和寺の御むろの宮ゑわたらせ給ひけり。左大臣は、したはらまきとかやきてをちられけるを、誰が矢にかありけん、かほにあたりてほうをつよく射つらぬかれにければ、馬よりをちにけり。小家にかき入てけり。 この日やがて藤氏長者は如元と云宣下ありて、法性寺殿にかへしつけられにけり。上の御さたにてかくなる事のはじめなり。 筑後の前司しげさだと云し武士は、土佐源太しげざねが子なり。入道して八十になりしにあいて侍しかば、「我が射て候し矢のまさしくあたり申て候し」とて、かいなをかきいだして、「七星のはヽくろのかく候て、弓矢のみやうが一度もふかく候はず」とぞ申し。

  • @tchan6847
    @tchan68472 жыл бұрын

    密教解説毎日ありがとうございます。こーぼうくんどの、是非百字偈の解説をお聞きしたいのですが。なかなか難しい制約があるようですが。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    コメントありがとうございます。 検討します。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【顕光大臣の怨霊】 後一条院廿年、後朱雀院九年、この二所は、上東門院の御腹にてをはしませばさうなし。 さて一条院のきさきに、顕光大臣のむすめをまいらせられたるは、皇子をもゑうまず。さて三条院の御子、東宮にたて給ひたるは小一条院なり。この東宮の女御に、又顕光大臣のむすめをまいらせたりけるが、東宮の、一条院の御子に、後一条・後朱雀など出き給にしうへは、我御身もてあつかはれなんとをぼしめして、東宮を辞して院号を申て、小一条院と申てをはしましける。御有心めでたくて、御堂これをいとをしみもてなし申されけるあまりに、むこにとりまいらせられければ、もとの女御、顕光のをとゞのむすめ、ゑまいらぬやうにならせ給けるを、心うくかなしく思ひながら、なぐさめ申さんとて我むすめに、「世のならひに候へば、なげかせ給そ」など申されければ、物も仰せられずして、御火をけにむかいてをはしけるが、火をけの火の、灰にうづもれりけるが、しはりしはりとなりける。涙のをちさせ給いけるが、火にかヽりてなりけるよとみて、あな心うやとかなしみふかくて、やがて悪霊となりにけりとぞ人はかたり侍るめる。さもありぬべき事なり。されば御堂の御あたりには、この霊はやうヽヽにこともありけれども、さまでの大事はゑなきにや。これらは御堂の御とがとや申べからんなれど、これまでもすこしも我あやまちにはまらず。たゞ世の中のあるやうが、かくてよかるべくて、なりゆくとぞ、うらヽヽとこそは御堂はをぼしめしけんを、あさくをもいて悪霊もいでくるなるべし。後朱雀院、東宮にかはりいて、其御子に後冷泉院は、又御堂のをとむすめ内侍のかみにてまいらせられたりけるがうみまいらせられたりければ、さうなきことにて、やがて位につかせ給にけるなり。顕光は悪霊のをとヽとて、こわき御物のけどもにてありける。 さて後冷泉又廿三年までたもたせ給ひければ、宇治殿は後一条・後朱雀・後冷泉三代のみかどの外舅にて、五十年ばかり執政臣にてをはしけり。 後冷泉のすゑに、摂籙を大二条殿と申は教通、宇治殿の御をとヽなり。てての御堂もよき子とをぼして、宇治殿にもをとらずもてなされけるが、年七十にて左大臣なりけるを、わが御子には通房の大将とてかぎりなくみめよく人もちいたりける御子の、廿にてうせられにけるのち、京極の大殿師実はむげにわかき人にてありけるに、こされむ事のいたましくをぼさるヽほどの器量にて大二条どのありければ、ゆづらせ給ひけるを、よの人宇治どのヽ御高名、善政の本体とをもへりけり。 【後三条天皇の時代】 さて後三条は後冷泉の御をとヽなれど、御母は陽明門院なり。この女院は三条院の御むすめ、御母は御堂の二のむすめなりけれども、すこしのきなりけり。後冷泉のきさきに、宇治殿の御むすめ四条宮と申をまいらせられけるが、王子をついにうみまいらせられぬによりて、そのヽちも一の人のむすめきさきにはたちながら、王子をうませたまはで、久しくたゑたりけり。 さて後朱雀の御やまいをもくて、後冷泉に御譲位ありけることを、宇治殿まいりて申さたしてたヽせ給けるに、後三条の御事のなにともさたもなかりけるに、御堂をと子の中に能信の大納言といふ人ありけり。閑院の公成中納言のむすめを子にしてありけるを、後三条のきさきにはまいらせたる人なり。宇治殿たヽせ給けるあとにまいりて、「二宮御出家の御師の事なり。この次にをヽせをかるべくや候らん」と申たりければ、「こはいかに。二宮は東宮にたヽんずる人をば」と勅答ありけるをきヽて、「さてはけふその御さた候はで、いつかは候べき」と申たりければ、「まことに思わすれて、やまいをもくて」とをほせられて、宇治殿めし返して、譲位の宣命に皇太子のよしのせられにけり。能信をば閑院東宮大夫とぞ申す。この申やうこそふかしぎなれと人をもへり。白川院のつねに能信をば、「故東宮大夫殿をはせずは、我身はかヽる運もあらましや」とをほせられけるには、かならずかならず殿の文字をつけてをほせられけり。やむごとなき事也。 【院政のはじまり】 さて世のすへの大なるかはりめは、後三条院世のすゑに、ひとゑに臣下のままにて摂籙臣世をとりて、内は幽玄のさかいにてをはしまさん事、末代に人の心はをだしからず。脱 のヽち太上天皇とて政をせぬならひはあしきことなりとをぼしめして、かた※※の道理さしもやはをぼしめしけん。くはしくはしらねども、道理のいたりよも叡慮にのこることあらじ。昔は君は政理かしこく、摂籙の人は一念わたくしなくてこそあれ。世のすへには、君はわかくて幼主がちにて、四十二にあまらせ給はきこへず。御政理さしもなし。宇治殿などはをほくわたくしありとこそは御覧じけめ。太上天皇にて世をしらん、当今はみなわが子にてこそあらんずればとをぼしめしける間に、ほどなくくらひををりさせ給て、延久四年十二月八日御譲位にて、同五年二月廿日住吉詣とて、陽明門院ぐしまいらせて、関白御ともして、天王寺・八幡などへまいりめぐらせたまいけり。住吉にて和歌会ありて、御製には、     いかばかり神もうれしと思らんむなしき船をさしてきたれば とありけり。 その中に経信の歌に、 をきつ風ふきにけらしな住吉の松のしづゑをあらうしら浪 とよめるはこのたびなり。 さて同四月廿一日より御悩大事にて、五月七日御とし四十にてうせさせ給にけり。 かゝる御心のをこりけるも、君の御わたくしやをほかりけん。我御身はしばしも御脱 のヽち世をばをこなひ給はず。事のだうりは又世のすゑには尤かヽるべければ、白川院はうけとらせをはしまして、太上天皇のヽち七十七まで世をばしろしめしたりけり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【後三条天皇の過ち】 後三条院の位の御時、公卿の勅使たてられけるに、震筆宣命をあそばして、御侍読にて匡房江中納言はありけるに、みせさせをはしましけるに、ひがことせずと云よしあそばしたりける所を、よみさしてありければ、いかにいかにひが事したる事のあるかと仰られけるを、かしこまりて申さヾりければ、たヾいへヽヽとせめ仰られければ、「実政をもちて隆方をこされ候しことはいかヾ候べからん。をぼしめしわすれて候やらん」と申たりければ、御顔をあかめて、告文をとりて内へいらせ給ひにけり。 これは東宮の御時、実政は東宮学士にて祭の使してわたりけるを、隆方がさじきをして見けるが、たからかに「まちざいはいのしらがこそ見ぐるしけれ」と云たりけるをきヽて、まつりはてヽいそぎ東宮にまいりて、「まさしく隆方がかヽる狂言をこそきヽ候つれ」と申たりけるを、きこしめしつめて、位の後御まつりことに、隆方は右中弁なりけるに、左中弁あきたるにすぐにこして、実政を左中弁にくはへられたりけるなり。これを世の人、実政はいかでか隆方をこへんと思ゑりける事を申たりけりとこそ世の人申けれ。 又我御身に仰られけるは、隆国が二男隆綱が年わかくて、をやばかりの者どもをこへて、宰相中将にてある事は、宇治殿(の)まつりことゆヽしきひがことヽをもいし程に、大神宮のうたへ出きて、神宮の辺にてきつねをいたることありけるさだめに、参議の末座にまいりて、定め文当座にかきけるに、射たれども射殺たりと云ことはたしならず、そのつみはいかヾなんど申人々ありけるを、雖聞飲羽之由、未知丘首之実とかきたりけるを御覧じては、かぎりなくほめをぼしめして、「隆綱が昇進過分なりと思ひしはひが事なりけり。かう程の器量の者にて有けるとこそしらね。道理なりけり」とこそ仰られけれ。大方理非くらからぬ君は、かくひがことヽをぼしめすをも、またかくこそ仰ことありけれ。礼記文にきつねしぬるときは、つかをまくらにすと云ふこと、又将軍はをのましむる威など云ことを、文章ゑたる者は思ひ出あはせて、やすヽヽとかきあらわしたる事を、世の人しありがたき事とをもへりけりとぞかたるめる。 【宇治殿のあとつぎ】 大方は宇治殿をばふかく御意趣どもありけるにやとぞ人は思ひならひたる。そのゆゑは、後朱雀院のきさきにて、陽明門院をはしますは、三条院の御むすめ、御母は御堂の二女なり。それに後に一条院の御子の式部卿宮敦康親王の御むすめは、御母は具平親王の御女なり。 宇治殿は具平親王のむこにとられて、その御むすめ北政所にてをはしましけれど、ついにむまずめにて、御子のいでこざりければ、進の命ぶとて候ける女房ををぼしめして、をヽくの御子うみたてまつりけるを、いたくねたませ給て、はじめ三人をば別の人の子になされにけり。はじめの定綱をば経家が子になされにけり。大はりまのかみと云は定綱なり。つぎの忠綱をば大納言信家の子になされにけり。忠綱は中宮亮になされにけり。第三の俊綱をば讚岐守橘俊遠子になされたる。ふしみの修理大夫俊綱と云名人これなり。 大はりま定綱がむこに花山院の家忠のをとヾはなりて、花山院はつたへられたるなり。花山院は京極の大殿の家にてあるを、定綱御所つくりてまいらせたりけるかはりに、花山院をばたびたりけるなり。ふるき家たヾ一のこりて、花山院とてあるなり。大原長宴僧都葉衣の鎮したる家なり。 さて通房大将うせて後、命婦腹に京極の大殿は小わらはにてをはしけるを、北政所「さる者ありとこそきけ。それをとりよせよかし」といわれければ、ゆるされかふむりてよろこびてむかへよせて、我子にはあらわれて家つがせ給たる也。 通房の母は為平親王の子に、三位にて右兵衛督憲定と云人のむすめ也。それをば北政所もまめやかに御子なければゆるして、なのめならぬみめよしにて、もてなされけるがうせて、 京極大殿と云運者又殊勝の器量にて、白河院をり居の御門にて、はじめて世をおこなはせ給に、あいヽヽまいらせてめでたくある也。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【皇后の系譜】 さてその敦康の親王の御むすめは、御堂の四の御むすめ、御堂の御存日に十九にて後冷泉院をうみまいらせて後うせさせたまいにけり。 後に陽明門院は又中宮とてをはしますを、やがて皇后宮にあげて、敦康王のむすめ嫄子を中宮になして、陽明門院をば内裏へもいれまいらせられざりけり。この中宮もをぼへにてひめみや二人うみてをわしましけれども、中一年にて程なくこの中宮うせさせ給にければ、其後こそ又陽明門院は、禎子とぞ申、かへりいらせをわしまして侍りけれ。 かやうのゆへは、この敦康の親王の母は、道隆の関白のむすめにて、たヾの親王にて位は思もよらず。されど御前にては、又具平親王の御むすめにてありければ、宇治殿の北政所をば高倉の北政所と申にや、あさましく命ながくてむごまでをはしけり。この北政所の弟にて、このあつやすのごぜんにてをはしければ、その御むすめにて嫄子の中宮はをはしますによりて、宇治殿の子にして姓も藤原氏の中宮にて、入内立后もありけるなり。かくあればにや、後三条院の、陽明門院の御母なるを、後冷泉院に譲位の時なにとなくてありけるに、 能信がふとまいりて、御出家の御師と申事は、 又御堂の御子の中にこの能信を陽明門院の御うしろみにつけてをはしましけり。女院の御母、御堂の御むすめなれば、女院皇后宮の時の大夫にて、やがてこの御腹の王子、後三条院の御うしろみにてありけるが、 御元服の時よのすけもなくて、春宮御元服あれど、女御にはまいらせたりけるなり。九条殿の子孫摂籙のかたをはなれて、閑院のかたざまに継ていのきみのならせ給ふはじめばかりこそみゆれ。このゆへに能信はさは申て申えたりけるなり。 かやうなる事にて宇治殿は、てヽの御堂をほくの勧賞どもありけるを、能信にもたびたりけるが、すこし昇進しにくき事書たりけるには、御堂にむかいらせて、能信もきヽけるに、「御子なればとてすゑずゑまで御勧賞などをたび候ときに、かヽるはづらいも候ぞかし」と、をとヽの事をその座(に)をきて、てヽ(の)とのに申されければ、御堂は物も仰られざりけりなど云つたへたることにて侍れば、かやうのことヾもの下につよくこもりたりけるなり。 さればとてもまたぞをろかならずあしきこともなかりけり。されば又後三条院もよくヽヽ人々の器量をも御覧じつヽ、終には京極大殿には、むすめ白河院のきさきにまいらせさせて、をだしくてこそは侍れ。その賢子の中宮を、白河院東宮の御時よりをぼしめしたりける。をぼゑがらのたぐひなく、無二無三の御ことにて、とかく人云ばかりなくめでたかりける間に、二条殿の子の信長太政大臣などの方ざまゑや、うつらんずらんなど人思ひたりけるも、さもなき事にてやみにけるなり。 【後三条天皇の新政】 この後三条位の御時、延久の宣旨斗と云物さたありて、今まで其を本にして用ひらるる斗まで御沙汰ありて、斗さしてまいりたれば、清涼殿の庭にてすなごを入てためされけるなんどをば、「こはいみじきことかな」とめであふぐ人もありけり。又、「かヽるまさなきことは、いかに目のくるヽやうにこそみれ」など云人もありけり。これは内裏の御ことは幽玄にてやさヽヽとのみ思ひならへる人の云なるべし。 延久の記録所とてはじめてをかれたりけるは、諸国七道の所領の宣旨官符もなくて公田をかすむる事、一天四海の巨害なりときこしめしつめてありけるは、すなはち宇治殿の時二の所の御領+とのみ云て、庄園諸国にみちて受領のつとめたへがたしなど云を、きこしめしもちたりけるにこそ。さて宣旨を下されて、諸人領知の庄園の文書をめされけるに、宇治殿へ仰られたりける御返事に、 「皆さ心ゑられたりけるにや、五十余年君の御うしろみをつかうまつりて候し間、所領もちて候者の強縁にせんなど思つヽよせたび候ひしかば、さにこそなんど申たるばかりにてまかりすぎ候き。なんでう文書かは候べき。たヾそれがしが領と申候はん所の、しかるべからず、たしかならずきこしめされ候はんをば、いさゝかの御はヾかり候べきことにも候はず。かやうの事は、かくこそ申さたすべき身にて候へば、かずをつくしてたをされ候べきなり」と、 さはやかに申されたりければ、あだに御支度さういの事にて、むごに御案ありて、別に宣旨をくだされて、この記録所へ文書どもめすことには、前太相国の領をばのぞくと云宣下ありて、中々つやヽヽと御沙汰なかりけり。この御さたをばいみじき事哉とこそ世の中に申けれ。 さて又当時氏の長者にては大二条殿をはしめけるに、延久のころ氏寺領、国司と相論事ありける。大事にをよびて御前にて定のありけるに、国司申かたに裁許あらんとしければ、長者の身面目をうしなふ上に神慮又はかりがたし。たヽ聖断をあをぐべし。ふして神の告をまつとて、すなはち座をたゝれにけり。藤氏の公卿舌をまき口をとぢてけり。其後やましな寺に如本裁許ありければ、衆徒さらに又長講はじめて国家の御祈しけりと、親経と申し中納言、儒卿こそさいかくの物にてかたりけれ。解脱房と云しひじりも説経にしけるとかや。宇治殿のゆづりをゑて、ことにきかれたてまつらんなどをもはれけるにや。 【師実の養女の入内】 又ある日記には、延久二年正月、除目終頭、関白攀縁、起座敷出殿上、此間事止数剋、依頻召帰参云云。なに事ゆへとはなけれども季綱ゆげいのすけになりける事にや。 世間のさたかやうにうちききて、宇治殿は年八十に成て宇治にこもりいて、御子の京極の大殿の左大臣とてをはしけるを、「内裏へ日参せよ。さしたることなくとも、日をかヽずまいりてほうこうをつむべきぞ」とをしへ申されければ、そのまヽにまいりて殿上に候て、いでヽヽせられけるに、主上はつねに蔵人をめして、「殿上にたれヽヽか候々 」と、日に二三度もとはせをはしましけるに、たびごとに、「左大臣候」と申て、日ごろ月ごろろになりけるほどに、ある日の夕べに御たづねありけるに、又、「左大臣候」と申けるを、「これへといへ」とをほせのありければ、蔵人まいりて、「御前のめし候」と申ければ、「めづらしき事かな。何ごとをほせあらんずるにか」とをぼして、心づくろいせられて御裳束ひきつくろいてまいられたりければ、「ちかくそれへ」と仰られて、なにとなき世の御物がたりどもありて、夜もやうヽヽふけゆきけるをはりつかたに、「むすめやもたれたる」と仰いだされたりければ、「ことように候めのわらは候」と申されける。 わがむすめはなかりけるを、師房の大臣の子の顕房のむすめを、ちの中より子にしてもたせたまへりける也。宇治殿は後中書王具平のむこにて、その御子土御門の右府師房を子にしてをはしけり。このゆかりにて、宇治殿の御子にして、師房をもその子の仁覚僧正と云山の座主も、一身あざりになしなどしてをはしけり。又ことにはやがて京極殿は、土御門右府師房の第三のむすめを北政所にしてをはしければ、顕房のむすめは北政所のめいなれば、子にしてをほしたて給ひけるなり。かやうのゆかりにて、源氏の人々もひとつになりてをはしけるゆへに、そのむすめをひとへに我子にはしてをはするなりけり。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【村上源氏の進出】 これをきこしめして、「さやうのむすめもたらば、とくヽヽ東宮へまいらせらるべきなり」と仰られけるを、うけ給はりかしこまりて、やがて御前をたちて、世間もをぼつかなかりつるに、いまはひしと世はをちいぬること、いそぎ宇治殿にきかせまいらせんとをぼして、内裏より夜ふけてやがて宇治へいられければ、「人はしらせてうぢのかけかへの所々へ、ひきかへの牛まいらせよ」とて、宇治へをもむかせ給けり。身もたへ心もすくよかなるほどをしはかられてありけるに、 うぢには又入道殿は小松殿といふ所にをはしけるが、なにとなく目うちさまして、「心のさはぐやうなる」とて、御前に火ともして、「京の方になにごとかあるらん」などをほせられければ、その時まで宇治のへんは、人も居くろみたるさまにてもなくて、こはた岡のやまでもはる※※とみやられてありけるに、人まいりて、「京の方より火のをヽくみへ候」と申ければ、あやしみをもへるに、「よくみよ」と仰られけるほどに、「たヾをほにをほくなり候て、宇治の方へもふでき候」と申ければ、「左府などのくるにや。夜中あやしきことかな」とて、「よくきけ。みよ」などをほせられけるほどに、随身のさきのこへかすかにしければ、かうヽヽと申ければ、さればよとをぼして、「火しろくかヽげよ」など仰られてありけり。随身のさきはみな馬上にて、みなかやうのをりはをふことなり。魔縁もをづることぞなどいひならへるなるべし。 さていらせ給を御覧ずれば、束帯をたヽしくして御前にまいりていられければ、いかにもことありとをぼして、「いかにいかに何事ぞ」と仰られければ、 「日ごろをほせのごとく参内日をかヽずつかうまつり候つるほどに、このゆうかた「御前のめし候」と蔵人きたり申候つれば、まいりて候つるほどに、こまやかに御物がたりども候て、「むすめあらば東宮へとくまいらせよ」と云勅定を眼前にうけ給候つれば、いそぎまいりて申候なり」と申されければ、 これをきかせ給て、宇治殿はさうなくはらヽヽと涙をおとして、「世中をぼつかなかりつるに、あはれなをこの君はめでたききみかな。とくヽヽいでたちてまいらせられよ」とて、ひしヽヽとさたありて、 東宮と申は白河院なり、東宮の女御にまいらせられにけり。くらいにつかせ給ては、中宮と申、立后ありて、いまに賢子の中宮とて、ほりかはの院の御母これなり。ひとへに一の人の御子のきさきの例にけふまでももちいれども、又源氏之むすめにて、ほりかはの院の位の御ときは、近習にてはこの人々をほく候はれけり。 後三条の聖主ほどにをはします君は、みな事のせんのすゑ※※にをちたヽんずる事を、ひしと結句をばしろしめしつヽ御さたはある事なれば、摂籙の家関白摂政をすヾろににくみすてんとは何かはをぼしめすべき。たヾ器量の浅深、道りの軽重をこそと(を)ぼしつヽ、御沙汰はある事なるを、 すゑざまには王臣中あしきやうにのみ近臣愚者もてなしもてなししつヽ、世はかたぶきうするなり。王臣近臣、世にあらん緇素男女、これをよくヽヽ心うべき也。内々のすゑざまの人の家のをさむるやうも、たヾをなじことにて、随分+にはある事ぞかし。さればけふまでも大むねはたがふ事なし。その中の細なりの事は、みな人の心による事なるを、末代ざまはその人の心に物の道りと云ものヽ、くらくうとくのみなりて、上は下をあはれまず、下は上をうやまはねば、聖徳太子いみじくかきをかせ給ふ十七の憲法もかいなし。それを本にして昔よりつくりをかれたる律令格式にもそむきて、たヾうせに世のうせまかる事こそ、こはいかヾせんずるとのみかなしき事なれども、猶百王までたのむ所は、宗廟社稷の神々の御めぐみ、三宝諸天の利生なり。この冥衆の利生も、又なかばヽ人の心にのりてこそ、機縁は和合して、事をばなする事にて侍れ。 それも心ゑがたくふかしぎの事のみ侍るべし。 【頼豪阿闍梨 その中にこの白河法皇御位の後、この賢子中宮にいかでか王子をうませ給べきとふかくをぼしめして、時にとりて三井の門徒の中に頼豪あざりと云たうとき僧ありければ、この御祈を仰つけて、成就したらば勧賞は申さんまヽにと仰ありけるに、心をつくしていのり申されけるほどに、をぼしめすまヽに王子をうみまいらせられたりければ、頼豪よろこびて、「この勧賞に三井寺に戒壇をたてヽ、年(としごろ)の本意をとげん」と申けるを、 「こはいかに、かやうの勧賞とやはをぼしめす。一度に僧正にならんとも云やうなる事こそあれ、これは山門の衆徒訴申て、両門徒のあらそい、仏法滅尽のしるしをば、いかでかをこなはれん」とて勅許なかりければ、 頼豪、「これを思てこそ御祈はして候へ。かない候まじくは、今は思ひ死にこそ候なれ。しに候なば、いのり出しまいらせて候王子は、とりまいらせ候なんず」とて、三井に帰り入て、持仏堂にこもり居にけり。これをきこしめして、「匡房こそ師檀のちぎりふかヽらんなれ。それしてなぐさめん」とて、匡房をめしてつかはされければ、いそぎ三井寺の房へゆきむかひて、「まさふさこそ御使にまいりて候へ」とて縁にしりをかけてありけるに、持仏堂のあかり障子ごまのけぶりにふすぼりて、なにとなく身の毛だちてをぼへけるに、しばしばかりありて、あららかにあかり障子をあけて出たるをみれば、目はくぼくをちいりて面の性もみへず。しらがのかみながくをほして、「なんでう仰の候はんずるぞ。申きり候にき。かヽる口惜しき事はいかでか候らん」とてかへりいりにければ、匡房も力をよばでかへり参て、このよし奏しける程に、頼豪ついに死て、ほどなく王子又三歳にならせ給ふ、うせをはしましにければ、このうへはとて山の西京座主良真をめして、「かヽることいできたり。いかヾせんずる。たしかに又王子いのりいでまいらせよ」と勅定ありければ、「うけ給り候候ぬ。我山三宝山王大師御力、いかでかこのうへはをよばで候はん」と申て、堀川院はいできさせおはしまして御位にはつかせ給て、やがて鳥羽院又出きおはしまして継体たえずをはしますなり。この事はすこしもかざらぬまことどもなれば、山法師は一定をもふところふかヽらんかし。

  • @user-xy1in6cd7g
    @user-xy1in6cd7g2 жыл бұрын

    学生時代小松茂先生の書道史の授業を受講しました。古筆を中心に平安から鎌倉、南北朝あたりまでの書道史は実に興味深く得難い経験でした。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    (つづき) 「経文には、妻子珍宝及王位、臨命終時不随者とこそは申て候へ。 法華経の序品にも、悉捨王位、今随出家、発大乗意、常臨梵行とときて候には候はずや。 提婆品には、時有阿私仙、来白於大王、我有微妙法、世間所希有、即便随仙人、供給於所須とこそは申て候。 尺迦仏も我小出家得阿耨菩提とこそは我御身の事をもとかせ給へ。 かヽる御心をこり候時、難入き仏道へはいらせたもふべきに候。 おぼしめしかへるといふとも、御発心の一念はくち候まじ。 妙法にすぎたる教門候はず。不軽の縁だにもつゐには得道してこそ候へ。 菩薩戒こそせんにては候へ。やぶれどもなをたもつになり候ぞかし。 さればこそ、受法はあれど捨法はなしとは申候へば、たヾまことしくおぼしめしたち候はヾ、とくヽヽとげさせ給へ」 などこそは、あさゆふ申されけめ。其上は、「君一定御出家にをよび候はヾ、やがて道兼も出家して、仏法修行の御同行とはなりまいらせ候べし。縁のふかくおはしませばこそ、王臣のかたまでも、けふは君につかへ候へ」など申されければ、いとヾ御心もをこりて、時いたりて寛和二年六月廿二日庚申夜半に、蔵人左少弁道兼、厳久法師と二人御車のしりにのせて、大内裏をいでさせ給けるには、縫殿陣よりとこそは申すめれ。ものがたりには、すでになに殿とかやのほどにて、「いたくにはかなり。なをしばし案ずげきにや」と仰られければ、道兼は、「爾剣すでに東宮御方へわたされ候ぬるには候はずや。いまはなかひ候はじ」と申されければ、「まことにまことにとていでさせ給けるとこそは申つたえたれ。 すでにとおぼしめしけるとき、道隆・道綱この人たちをまうけて、「いまは璽剣わたさるべくや」と申て、道隆・道綱、両種をもてち東宮一条院御方凝花舎へまいられりければ、右大臣まいりて諸門をとぢて、御堂の兵衛佐にておはしけるを頼忠のもとへはつかはして、「かヽる大事いできぬ」とはつげ給てげり。 さて立王の儀になりにければ、とかくいふばかりなし。一条院七歳にておはしませば、摂政になりてこのたびは此右大臣兼家は外祖なれば頼忠は思ひよらぬことにて、ひしと世はをちゐにけり。 さて花山と云は、元慶寺にて御ぐしおろされにければ、やがて道兼も出家せんずとおぼしめしけるを、なくヽヽ、 「いま一度おやをみ候はゞや。わがすがたをもいま一度みえ候はヾや。さ候はずは不孝の身になり候はヾ三宝もあやしとやおぼしめすべくや候らん。君の御出家とうけ給はり候なば、道兼をとヾむること候まじ。程なくかへりまいり候はん」 とてたヽれければ、「いかに我をすかしつるな」と仰られければ、「いかでかさること候はん」とて鞭を揚てかへりにけり。なにしにかは又まいるべき。 このことを聞て中納言義懐・左中弁惟成は、やがて華山にまいりてすなはち出家して、この二人はいさヽかのきずなく仏道に入とほりにけり。義懐は飯室の安楽五僧になりにけり。惟成は賀茂祭のわさづのひじりしてわたるほどになりにけりとこそは申侍めれ。花山法皇はのちにはさまあしく思かへりておはしましけれど、又はじめものちヽヽもめでたくをこなはせおはしますおりヽヽありければ、さだめて仏道にはいらせ給にけんかし。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    【奈良の都】 いかにもいかにも天武の御心ばへは、すぐれたる人におはしましけり。無益とおぼしめす方は、宇治の太子のごとし。なをそれをさえもちゐぬ人にあわせ給時は、我国うせなんずとつよくおぼしめして、うちかたせたまう方は又唐の太宗にことならずおはしましければにや、天智天王も我御子の大友皇子をさしをきて、世のぬしにはとおぼしめしけり。 天智の御遺誡こそまことにすゑとをりければ、女帝も二人まで持統・元明まで位におはしますめり。つぎに持統天皇位につかせ給。是は女帝なり。天智の第二の御女めなり。やがて天武の后にておはしましけるが王子をうみ給へりける。草壁の王子と申けるを東宮に立て、まづ例の事にて御母位につきておはしましける程に、草壁の皇子東宮にて程なくうせ給にければ、かなしみながら其御子を東宮に又たて給けるは、即文武天皇なり。この文武の御時より大宝と云年号はいできて、其後は年号たえずしていまヽで有也。 文武位後、太上天皇と云尊号給りて、太上天皇のはじまりは、この持統の女帝の御時也。文武の王子にて聖武天皇はいできておはしませども、二人女帝をつけたてまつる。元明・元正也。元明は天智の御女め、文武の御母なり。元正は文武のあね、やがて御母は元明天皇也。聖武はしばらく東宮にて、御母は大織冠のむまご不比等の大臣のむすめなり。是より大織冠子孫みな国王の御母とはなりにけり。をのづからこと人まじれども、今日までに藤原のうぢのみ国母にておはしますなり。 聖武の東宮にて、世をばおさめたまふ、元明の時はをさなくおはします。すえざまには世ををこなひ給。元正の御時は偏に東宮の御まヽにて、この御時百官に笏をもたせ、女人の衣装をさだめ、僧尼の度者を給せなどすることはこの御時也。 さて聖武は廿五の御歳、養老八年甲子二月四日甲午大極殿にて御即位有りけり。廿五年たもたせ給。この御時仏法はさかりなり。吉備大臣・玄昉僧正等入唐して、五千巻一切経をわたさる。東大寺作られたり。行基菩薩諸国の国分寺をつくる。かやうにして仏法はこの御時にさかりにきこゆ。皇子おはしまさで皇女に位をゆづりて、天平勝宝のとしおりさせ給て八年おわします。孝謙天皇是也。この御時、八幡大菩薩、託宣有て、東大寺をおがませ給んために宇佐より京へおわしますと云り。この時、太上天皇・主上・皇后・皆東大寺へまいらせおわしましたりけり。内裏に天下大平と云文字すヾろにいできたりけり。 (つづく)

  • @13ichirouyuukijun15
    @13ichirouyuukijun152 жыл бұрын

    神皇正統記 天  大日本者神国也。 天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝給ふ。我国のみ此事あり。 異朝には其たぐひなし。此故に神国といふなり。 神代には豊葦原千五百秋瑞穂國といふ。天地開闢の初より此名あり。天祖国常立尊、 陽神、陰神にさづけし給し勅にきこえたり。天照太御神、天孫の尊に譲ましまししにも、 此名あれば根本の號なりとはしりぬべし。  又は大八洲国といふ。是は陽神陰神、此国を生給しが、八の嶋なりしによって名けられたり。  又は耶麻土といふ。是は大八洲の中国の名なり。第八にあたるたび、 天御虚空豊秋津根別といふ神を生給ふ。 これを大日本豊秋津洲となづく。今は四十八ケ国にわかてり。 中州たりし上に、神武天皇東征より代々の皇都也。よりて其名をとりて、 餘の七州をもすべて耶麻土といふなるべし。 唐にも、周より出でたりしかば、天下を周といふ。漢の地よりをこりたれば、 海内を漢と名づけしがごとし。  耶麻土と云へることは山迹といふなり。昔天地わかれて泥のうるほひまだかはかず、 山をのみ往来として其跡おほかりければ山迹といふ。或は古語に居住を止といふ。 山に居住せしによりて山止なりともいへり。  大日本とも大倭とも書くことは、此国に漢字傳て後、国の名をかくに字を大日本と定てしかも 耶麻土とよませたるなり。大日霊のしろしめす御国なれば、其義をもとれるか。はた日のいづる 所にちかければしかいへるか。義はかかれども字のままひのもととはよまず。耶麻土と訓ぜり。 我国の漢字を訓ずることおほく如此。をのづから日の本などいへるは文字によれるなり。 国の名とせるにあらず。  裏書云。日のもととよめる哥、万葉云。  いざこどもはや日のもとへおほとものみつの浜松まちこひぬらん  又古より大日本とも若は大の字をくはへず、日本ともかけり。州の名を大日本豊秋津といふ。 懿徳・孝霊・孝元等の御諡みな大日本の字あり。垂仁天皇の御女大日本姫といふ。 これみな大の字あり。 天神饒の速日の尊、天の磐船にのり大虚をかけりて。「虚空見日本の国」と給ふ。 神武の御名神日本磐余彦と號したてまつる。 孝安を日本足、開化を稚日本とも號、景行天皇の御子小碓の見子を日本武尊と名づけ奉る。 是は大を加ざるなり。彼此同くやまととよませたれど大日霊の義をとらば、おおやまと読みても かなふべきか。 其後、漢土より字書を傳ける時、倭と書きて此國の名に用たるを、即領納して、又此字を耶麻土 と訓じて、日本の如に大を加へても又のぞきても同訓に通用しけり。 漢土より倭と名けける事は、昔此國の人はじめて彼土にいりたれりしに、 「汝が國の名をばいかがいふ」と問けるを、「吾國は」といふをききて、即倭と名づけたりと見ゆ。

  • @user-ow2mp4os5f
    @user-ow2mp4os5f2 жыл бұрын

    少しお考えになりつつ、沈黙があったりして、とっても飾り気がなくて心からホッとしながら聞かせていただきました。❇️ 私はクリスチャンなのですが、今のキリスト教は目を疑うような聖書に反したアメリカのウーマン・リブに毒されてて、この聖徳太子のお経のご説明を聞いてとても心が和みます。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    はじめまして。コメントありがとうございます。 少し考えたり少し眠ったり(眠気と戦っていることも多いです)、つっかえたり早口になったりですが、書物を通して古今東西のいろいろな人の考えを知るのは楽しいです。 クリスチャンでいらっしゃるとの事ですが、そちら方面は不案内なので、キリスト教圏の思想にも触れてみたいです。 急速なスピードで世の中が変わり、その宗教が成立した当時とは必ずしも合わない部分も出てきていると思いますが、聖なる教えを大事にしつつ現代の諸問題にも対応していければいいですね。宗教は、人を救い世界を良くするためのものですから。 今後ともよろしくお願いいたします。

  • @user-xy1in6cd7g
    @user-xy1in6cd7g2 жыл бұрын

    神皇正統記早速拝聴いたしました。ありがとうございます。

  • @tchan6847
    @tchan68472 жыл бұрын

    お大師さまご入定の日。お大師さま、三宝、こーぼーくん殿にに報恩感謝。

  • @user-xy1in6cd7g
    @user-xy1in6cd7g2 жыл бұрын

    早速ありがとうございます。今後とも楽しく聴いていきたいと思います。私の目は、黒字・白抜きのゴシック体でかつiPhoneなどの高輝度のディスプレイでしか見ることができません。かつては読書三昧の生活でしたが今は読むものも原典ばかりだったので妻も困っていました。私の欲求を満たす少ない機会がこの朗読であります。大変感謝しております。

  • @user-xy1in6cd7g
    @user-xy1in6cd7g2 жыл бұрын

    私は、視覚障害者なのでこの朗読がとてもありがたい。大変わがままなお願いですが、明月記や愚管抄、吾妻鏡なども読んでいただけたら嬉しい。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    リクエストありがとうございます。 愚管抄は無いけど、神皇正統記があったので順次アップします。愚管抄はそのうち読みます。 吾妻鏡は無いけど、太平記があるのでアップするかも。 明月記は検討します。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    愚管抄アップしていきますね kzread.info/head/PL-tDklNSUFrjtTppuyxRp365uaonnmHVP

  • @user-xy1in6cd7g
    @user-xy1in6cd7g2 жыл бұрын

    @@kobo_tetsu 愚管抄楽しく拝聴させていただいております。2022性霊集も早速聞かせていただいております。とてもありがたい番組といつも感謝しております。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    @@user-xy1in6cd7g コメントありがとうございます。愚管抄は読了しましたので、なるべく早めにアップロードしていきますね。 本当は系図などを入れて編集したかったのですが、そうするといつになるかわからなかったので、今回は諦めますが何卒ご寛恕ください。

  • @hiroooo2177
    @hiroooo21772 жыл бұрын

    暫くこれで勉強

  • @user-xy1in6cd7g
    @user-xy1in6cd7g2 жыл бұрын

    官子の解説がアップロードされていないようです。よろしくご確認下さいますようお願いいたします。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    ご連絡ありがとうございます。 ダラダラやってるのでどうしようかなと思いましたが、一応アップロードしました。 kzread.info/dash/bejne/fK2W1ZOKibaumc4.html

  • @hiroooo2177
    @hiroooo21772 жыл бұрын

    声が気に入りました、般若心経ひけん、さがしてたら、ここにたどり着きました。なんか、すごいって感じます。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    秘鍵いいですよね。 ご視聴済みかもしれませんが、下記カテゴリーにまとめています。 kzread.info/head/PL-tDklNSUFrgn3aE8xGxhqVLoKEq_Up9S ずいぶん前のものなので、再読したいと思っています。

  • @hiroooo2177
    @hiroooo21772 жыл бұрын

    こんにちわ。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    こんにちは!

  • @user-xy1in6cd7g
    @user-xy1in6cd7g2 жыл бұрын

    重度の視覚障害者なのでこーぼーくんの朗読がとても貴重です。機会があれば愚管抄や明月記なども取り上げてくれればありがたいです。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    コメントありがとうございます。 愚管抄も明月記も未読なので、ぜひ読んでみたいです。

  • @lastemperor3363
    @lastemperor33632 жыл бұрын

    弁顕密二経論ありがとうございます。 秘密曼荼羅付法伝もおすすめです(*^^*)

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    付法伝いいですよね。 略付法伝、広付法伝の録画を発掘してアップロードします。 見当たらなければ、再読します!

  • @lastemperor3363
    @lastemperor33632 жыл бұрын

    @@kobo_tetsu ご返事ありがとうございます。 それはそれは楽しみにしてます(*^^*)

  • @tchan6847
    @tchan68472 жыл бұрын

    お久しぶりです。相変わらずお大師さまに頼っております。「果てのない生き死にの世界をいかにしてたちきることができようか」の答えを語っておりますね。生きる苦しみをたちきることの答え、とも受け取っております。貴重です。アップ感謝します。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    おはようございます。 早速ご視聴いただきありがとうございます。おっしゃる通りですね。 ただいま私は入院中で、昨日は手術でした。もちろん簡単な手術なのですが、それでも何が起こるかは分かりません。 そう考えた時、私が今生に於いて為すべきことは「上求菩提 下化衆生」に尽きるのだなぁと改めて認識出来ました。 そして「下化衆生」はKZreadを上げる事もそうだろうと思い至り、術前の時間に過去の配信を急いでupしました。時間もあまりなかったので、何を上げようか迷ったのですが、正法眼蔵の続きよりも、十巻章! 即身義は上げてあったので秘鍵にしました。 今後もupしていきますので、宜しくお願い致します。

  • @tchan6847
    @tchan68472 жыл бұрын

    お大事にされてください。み仏のご加護をすでに受けられていらっしゃると察しますよ。

  • @kobo_tetsu
    @kobo_tetsu2 жыл бұрын

    @@tchan6847 ありがとうございます。

  • @tta9378
    @tta93782 жыл бұрын

    道元は、若い時と晩年では言説が違ってきていると解説する人がいます。訳者が、魂という言葉を使って訳すのは、晩年の道元は、それを認めていたという理解なのだろうか‥。

  • @tta9378
    @tta93782 жыл бұрын

    魂、輪廻、無我、それをどう説明するかというのも、仏教解釈の重要問題の一つですね。

  • @tta9378
    @tta93782 жыл бұрын

    「冥陽の神道」を魂のある者と訳していますね。訳者は、仏教と魂の問題、すなわち無我をどう理解しているのか気になります。

  • @tta9378
    @tta93782 жыл бұрын

    身心一如については、弁道話の後半の問答の部分の10番目のところで出てきます。この動画では、弁道話3で朗読されています。