Photo realizmが流行ってると思うけど、私は2018年からアメリカにいないし、それほど色々知ってるわけでもないが、私がやっと卒業した2013年はSan Francisco Art Insutitute(今潰れそう、か潰れた)はphoto realizmでした。写真から起こす、精密な絵画ね。私はそう言うのに興味なく、未だ抽象画が一番だと思ってる一人です。ちなみに中之島美術館で、木下佳通代さんの展覧会行ってきました。私より年上。最後はLAで、やっと抽象を描いてる。ただ、日本的で勇気に欠ける。勇気があるのが私は良い絵だと思う。
Пікірлер
山田五郎は一番アートを等身大で理解してる。布施って人はアートにパワーがあると信じすぎてて歪んだ解釈を垂れ流してる
ビリビリに破くの酷すぎるな...この質問者さんが絵を描くのが「嫌になった」とかじゃなくて「怖くなった」って言ってるのが印象的です...普通に可哀想。 ちなみに私は社会のノートに卑弥呼とか偉人のイラストを描きまくってた笑笑 今考えたらめっちゃ恥ずいけど良い思い出😊
まさにそうですね!
芸大出身の宮田長官かね。
阿刀田高さんの本を読めばキリスト教もギリシャ神話も、ホメロスも、色々わかりやすく読めます。
「茶色い朝」のフランス語版を買った、二百円。フランス語版付属の英訳版も買った、七百円。日本語訳版は千二百円。義務教育で外国語教育は英語だけはもうやめよう。
古書屋さんだって価値の分かるふさわしい人に買ってほしいでしょうからその本は五郎さんにぴったりですね
大塚国際美術館と榊原温泉ルーブル美術館に行けばいいだけや😂
神保町かなぁ‥‥
アート売買での収益を非課税にするだけで富裕層が資産として飛びつくので日本のアート市場は活況します(^^)
ユーチューブの盾、おめでとうございます🎵 ギター🎸の音色も、良かったです。😃
かけた苦労が伝わりやすいのも人気の理由かも。 写真と全く同じ画面になったとしても、シャッターを切るだけ(では断じてないんだけどそう思われてる)よりも苦労して描いた絵のほうが偉いという価値観。 別にQUEENの曲は好きじゃないのに、フレディ・マーキュリーが若くして死んだというストーリーを知ってるからQUEENが流れると感動するみたいな…… 受け手がどう見たって勝手ではあるけども、創作者側がそのニーズを自覚して迎合しちゃうのはなんだかなぁ
学なさ過ぎでしょ、、、そこら辺の中学生の方が知っとるかも、、、
20世紀の洋画家日本画家の作品が日本にはたくさんあるのだからどんどん展示してほしい。昭和アートブーム起こしてほしい。
一口に写真のようにというけど写真がどの程度のものかと、フィルム写真とデジタル写真の違いとかピントの深さとか色調とか画素数等‥突き詰めていくと写真の出来なんて千差万別、大きな絵画サイズに引き伸ばしてみれば果たしてどれだけのリアリティがあるものかと。
スーパーリアリズムって写真をそのまま再現するんじゃなくて、写真以上に細部を細密に見えるように描いたり(全てにピントが合っている状態)、「質感」を奇妙に誇張したりねじまけたり、現実にはありえないようなものを超リアルに描くその浮遊感を味わうものだと思ってます。 ただの「写真模写」だったらデッサンが得意な素人でもできるしアートとしては面白くも何ともない。プラスアルファがなけりゃ写真に負けますからね。
じゃあ次は名古屋の美術館訪問!お願いします
超写実絵画が流行るのはやっぱわかりやすいからだと思う。例えば音楽がいいかどうかという判断は人の感性や芸術に対する理解の経験値によって変わってくるが、ギターやピアノが高速で弾けますというのは音楽に興味がなくてもすごいのは誰にでもわかる。「写真に見える」写実画もそれと同じなのでは。ただ、それって本当にただの「技」や「芸」であって、アートなのか?とは思う。アートであるならばそのアーティストのフィルターを通してこの世界の新しい見方を作品で提示する必要がある(これがAIアートがアートになりえない理由でもある。)もちろん、そういう新しい見方を提示してくれるようなタイプの写実にチャレンジしている人もいるだろうが、超写実画というのはここで山田さんが言っているスペイン以外にも80年代にもアメリカ等でポップアートシーンで流行した時期がある。だからアートのコンセプトとしてはむしろ既にかなりやりつくされている領域なのではと思う。
木版画をやってますが、グループでの展示を見に来る人の中の多くが「写真みたい!」と褒めて帰ります。分かってないなと思っていましたが、無礼だとは今回気づきました。確かに。 因みに、わたしの木版画は薄墨の一版一刷りですが、「木版画には見えない」と言う人が多くて、勝手でしょと思っています。
写真みたいと言われますが、デジタルカメラでは、もとの写真を構図決めてきれいに撮るというのは原則ですが、元の画像レタッチして明るさ修正、色味、自分の思っている効果を出すのはハイアマチュアでは誰でもしてると思います。これもやり過ぎは不自然になりますが。やろうと思えば空全体を天の川で 置き換えることもたやすいですから。 写真では美人なのに、実際あってみると?というのは良く有ると思います。絵画も写真も心に響けば良いのではないでしょうか?
ポルノは写真
18世紀に京絵師曾我蕭白が円山応挙の絵を図で自分のは画だと言ってるけど、写実絵画は図だと思う。
なるほど、そういう考え方があるのね。納得しちゃいました。
音楽も似たような”経緯”を辿っている気がします。「平民」にわしらのゲージツがわかってたまるかぁ、という気風というか上から目線が”抽象”になっていったんじゃないか、と平民は思ってしまいます。人が感動すれば、それは全て芸術だと思うんですけど・・・ 「すごい、写真みたい」と思う平民の感動は、超写実の画家に失礼なんですか?違うと思うけどなぁ。
それはちょっと音楽好きとして反論したい・笑 平民というより、「既成の権威に対する反発」というのが大きいんじゃないですか。そうでなくては新しいものを生み出せないので。難解と思われがちな無調性音楽も結局「可能性の探究」ですし。そこで平民どうたらなんていうのが原動力になってる音楽家なんてほとんどいないと思います。多くの作曲家はやはり理解され支持され広まってほしいと願っているはず。 あとは、自らの芸術に対する信念ですかね。絶対にこれを表現したいんだという。古くはバッハなんかも「流行遅れだ」と批判され、経済的にもそんな余裕はなかったのに、完全に時代に逆行し、かつ、絶対売れそうもない抽象的な「フーガの技法」を最後に書きましたから。 ヒエラルキーの前に、芸術が暇を持て余した人間の道楽であり、結局娯楽だという点において、「楽しめればそれでいい」てのは真理だと思います。ただ超リアリズムに関しては、すごい、写真みたい、と言われると、「そこだけが価値と思われたくない」ともやもやする画家の気持ちも私は理解できます。人にもよると思いますけれどね。
「評論家」に分かってたまるかぁ の方がある。
抽象でも見えるものを描くのですよ。見えない物を描いたりしたら、それは作り物です。頭の産物で、目ではないね。
Photo realizmが流行ってると思うけど、私は2018年からアメリカにいないし、それほど色々知ってるわけでもないが、私がやっと卒業した2013年はSan Francisco Art Insutitute(今潰れそう、か潰れた)はphoto realizmでした。写真から起こす、精密な絵画ね。私はそう言うのに興味なく、未だ抽象画が一番だと思ってる一人です。ちなみに中之島美術館で、木下佳通代さんの展覧会行ってきました。私より年上。最後はLAで、やっと抽象を描いてる。ただ、日本的で勇気に欠ける。勇気があるのが私は良い絵だと思う。
足立美術館は時期的に入替えがあっても、基本的にはほぼ常設の美術館な気がします。 庭が素晴らしいので、展示されているものは考えずに行ってます。
goroh さん!こんにちは。たまたま「絵画」の世界の一端が伺える解説を拝聴致しました。 ド素人にとっては、さすがの分析と説明を思わせるgoroh節の冴えに再び感動です。素晴らしい語りでした。 質問なさった方の目線!審美眼も一端が拝見出来ました。 ちょっと思ったのは「音楽」も素晴らしい芸術でけど「絵」ほどの位置付けがないのが惜しいですね。 白い玉と」黒い玉が並んでるだけの紙一枚じゃどうしようもない(atarimaeda) 「ベートーヴェン」が「音はあらゆる啓示にまさる」って言ってたそうですが、 なんか、不充分って言うか矛盾って言うか、評価の分かれ目になる「価値観の違いはいかばかりか」って思う。
グラフィティーライターやタトゥーアーティストが描いてる絵も買えるし、若い画家さん・学生さんの絵も買えるし、有名人の絵だけがアートではないと思う。 どちらかと言うとそれらの作品と一般社会の人達との接点がなさ過ぎると思うし、欲しいと思ってる人も有名でないものを自分の感性で探して買って飾る、っていう習慣をまず作るべきかなと。
勘違いしてものめり込まないと良いもの創れない。
アントワーヌヴァトー フランソワブーシェ ジャンオノレフラゴナール
みうらさんにデカイ会場でMJフェスやってもらいましょう!あのコロナ画メインで!
まず、もうちょっと国内作家に目を向けるべきです。また海外作家でも、ウケそうな作家が未開拓。この辺学芸員に皆さまの奮起を期待します。ただ、問題は新聞社、TV局の衰退ですね。
たまたま見た記事では、円安の原因がNIISAによってアメリカ株を買う動きがエグいからだってことで、年内で16兆円分の流出が見込まれるらしい。もっと仕組み理解しておかないと日本が完全に転覆しちゃうよね。
筆触分割と点描は確かに違う。作品の印象が全然違う。点描は特徴をとらえてない。
円安というか、アベノミクスの弊害は今後数十年尾を引くでしょう。円安を容認するか金利を上げるか。進も地獄、戻るも地獄。芸術だけでなく学術、果ては安全保障と自国の通貨価値が下がって喜んでいるなど狂気の沙汰だと日本人もさすがに気付くでしょう。 なんと言っても日本は食料を輸入に頼っている割合が大きい。通貨価値が下がりながら外貨がかつてのように稼げなくなっている中でこの実態はかなり危険なことです。
例えばカメラマンにこれに抵抗もつ人多い 写真に文字を載せられると写真の価値がダダ下がりになるつって写真集には文字は基本載せない。五郎氏もよくご存じのはず。写真なら写真、絵なら絵でメッセージを伝えるべきで、そこに別のメディアが入ったらそりゃもう純粋な芸術とは言えない的な考えがあるのかもしれませんね 例えば詩を書いて、そのそばにわざわざ解説文を自分で書くようなものなのかも
教養ある人 無口 自信無さげ 優柔不断 何を語るにしても何をやるにしても ある種の罪悪感や後ろめたさが生じる人
大塚国際美術館に行くしかないね😂
美術館の常設展でも魅力的なものはたくさんあるけど 近所のギャラリーで絵なり彫刻なりを見に行くというのも良いんじゃないかなあ そんなに高いものでなければ買えば良いのにと思うこともあるし っていうか現在生きて活動している作家さんのを買えよって思うし・・・・・😐
そもそもこの箱を芸術作品として売り出したアーティスト自体もどうかと思うけどまあその話は別で
美術や芸術、文化にお金をかける(みんなの税金を使う)ことに猛反発する人、いますよね。 民間だけでなく、官公庁の中のそれなりの役職の人達の中にも。 中学高校の、美術教育の敗北なのかなぁ?
いや、日本にはもともと「芸術」や「美術」がないんです。「工芸」はありましたが。そもそも概念がないものが明治以降に入ってきて、「金かけて大切にしましょう」は腑に落ちないんでしょう。美大や日本アートシーンや美術館などの様々な問題の根本を掘っていくと、ここにたどり着きます。もちろん頭ではみんなわかってるんですよ?美術関係者じゃなくても一定以上のリテラシーがある人達は。でも、その人たちだって「芸術とは何か」を心の底から、魂から理解してる人はほぼいません。そしてヨーロッパの人はリテラシーがなくても魂で理解しているというのを、話すとまざまざと見せつけられます。
博物館自体がクローズドになりすぎているきらいもあります。地方が地元名士や政治家が所有する美術品とのアンにゃコンにゃがあるし、国立博物館は大学と博物館の癒着構造で、これまた学芸員実習のためのハードルが高すぎます。小生も学芸員資格は持っていますが実習は日本の最果てに行けと言われてしかも年数名のみの採用となってはいつまで経っても実習を履修できません。こういう事情を抱えては先行き暗いなとは思います
すごくわかります。日本人にとって「ありがたいもの」であって「ささるもの」でないので、そういう癒着や政治や根回しや金銭の対象として扱われやすいんです。こういう話になると美大教授とかはすぐ「枠」の少なさや「構造的欠陥」、「業務人材の負担」の話にしますが、そうではなく、その前に日本にどういう精神や空気が流れているかが作り出しているかが問題で、そこをなんとかすれば、そもそも実習で「教えてもらう」「教えてあげる」対象じゃないんだから、「枠」「構造的欠陥」「業務人材の負担」「構造的欠陥」全部解決します。
自分は絵を描いていて、周りもおしゃれな人は(服が好きな人が特に)結構アートを購入して楽しんでいるのでそれが普通な気がしていましたが、男性の受け答えが今の日本の現状なんだなと痛感しました。
エピソードのレベルが高いなあ
でも結局環境問題みんなわかってるって言いながら他人事なんだよね
ここに大勢いる環境活動家を非難する立場とは違い擁護する立場からの意見です。例えば山田五郎さんがこれまでここで挙げて来た数々の芸術家達も後にその功績を認められていますが、生きた時代、作品が発表された当時は多くの世間や有力な批評家、同業者からも猛烈な批判、嘲笑を受けており、いずれ環境活動家達もそうした功績を認められる事になると思います。少なくても現時点でその可能性を少しでも考えられなければ芸術の歴史を学んできた価値の幾らかを失っていると言えるでしょう。未知なもの、奇異なもの、未だ見ぬ可能性へ開かれた態度を取る事について。
パリス・ヒルトンみたいな😅
猫は個体差が大き過ぎるから、猫全体が象徴するものが設定し辛くて聖獣として祀り上げ難かったんだろうね。近所をうろつく野良猫だけでも、野生の猛獣みたいに敵意剥き出しの個体が居る一方で、本当に野良猫なのか?疑うくらいに人懐っこい個体も居る。かと思うと、個々の人間をしっかり識別して夫々に対応がガラリと変わる知能の高い個体も居る。 猫という集合体で一括りに出来ない個々の特徴が明瞭過ぎるんだよ。その裏返しで、化け猫やら猫又やら妖怪変化や魔物としてはよく登場するくらいに人間の理解から逸脱しているのが猫なんでしょうね。
1971年放浪旅行で行ったミラノの教会の最後の晩餐も、1976年ミラノのドゥオーモも入場無料でした。最後の晩餐は、修復前で部屋にも10人くらいしかいませんでした。
難しい用語や評論を前にするとどうしても構えてしまうけれど、基本美術は楽しいものだと思うので、人それぞれ自分のペースで鑑賞したり制作したりする方が、美術の世界はより広がると思う。ルソーみたいな生き方が理想。
愛知県はお金持ち多いと私も思う。ボストン美術館のあったのは金山ですね。オルゴール展ががあり、行きました。