蘇我一族大好きすぎる。
武内宿禰は、何代か名前を受け継いでいて(歌舞伎みたいに)、360歳まで一人が生きていたわけではないでしょうね。
確かに、それありそうだよな。
まだまだ眉唾の域を出ないし出ることもないだろうけど、「正統竹内文書」だっけか?口伝でのみ伝わってる、偽書認定の書物とは別モノのやつ、それによると武内宿禰はやはり役職名みたい。代々宿禰を名乗るべき人間が認定されるんだと。都市伝説レベルで捉えてオッケーよ。
分かりやすい勝者の歴史
どうしても『日出処の天子』を思い出してしまう。読んだ上で入鹿の山背大兄王暗殺の報を聞いた蝦夷の心中を思うと胸が熱くなる。
日本書紀は藤原氏に都合良い内容にするために蘇我氏を極悪非道な感じに描いた可能性があるので、それを鵜呑みにはできないですね。
それ古事記ちゃう?
昭和52年頃の土曜日の午後の笑って笑って60分の中で壬申の乱の頃の歴史ロマン的なドラマのコーナーで、この書物は焼かなければ(表紙に帝記と書かれていた)後世一族に禍を及ぼすと悪役(小学6年から見た捉え方=出家して吉野にこもった大海皇子が気の毒にかんじたが、最後には裏を返して大友皇子を攻め滅ぼして自ら天皇になった時にとても狡いやつと感じた)が必死になるシーンがありました。まあそのように時の権力者には事実を改ざんすることが当たり前だったのかもしれません。
歴史は勝者が造るというから、蘇我も悪者と宣伝されたと思う。本当はもっと良い名だったはずだ。
黒岩重吾さんの「落日の王子」を読んで、明日香村の入鹿の首塚や馬子の墓かも知れない石舞台を見に行ったことがあります。
12:15 『蝦夷は次の天皇に蝦夷の(異母)姉妹を母に持つ古人大兄皇子を考えていた』 それでいくと山背大兄王もそうだしむしろ同母(もしくは母と同族の女性)の姉妹の息子。蘇我氏系皇族のサラブレッドの山背大兄王。彼は皇族側の祖父母=父親の厩戸皇子の両親(用明天皇/穴穂部間人皇女)も共に蘇我氏の母をもち、自身の母も蝦夷の同母姉妹。右も左も近親者はみは蘇我氏の本家中枢の血を濃く引く人達しかいない。 蘇我氏本家が最も自分達と血液関係が濃い山背大兄王一族を消す理由がよく分からない。むしろ皇位を狙っていた皇族達が動機が沢山ありそうに思う。
蘇我氏の失敗を学んで成功したのが藤原氏やもんね
「当時は平均寿命が短いから・・・」平均寿命が短いのは乳幼児の死亡率が高いから、成人したら現代と大差ない年齢になる(高齢医療の不備はある)
現代のスパゲッティー症候群の高齢者医療より当時の方が幸せだったかもな。 まぁ延命の為なら「なんでもあり」が出来る現代みたいな医療があれば、家督相続で一族での争いは減少し末期養子なんて問題も起きないがな。
昔もちょくちょく70や80まで生きてる人いたからな
4:29 守屋の弟の贄子は戦死しなかったので滅びてはいないんじゃなかったか?。
雄略天皇までは、春秋歴を使っていた、半年を1年とした暦。故に半分にすれば現在の年齢に近くなる。後、武内宿禰は役職名みたいなモノだそうだ。奈良時代に作られた八草姓の一つでもある「宿禰」は身分を表す。武内宿禰も複数代に渡り襲名される。
蘇我倉山田石川麻呂さんの子孫が高校で日本史の先生でした! 有名人の身内?w
手を出しちゃいけないところまでいっちまったからよね。 聖徳太子の四人目の奥さんが蘇我氏以外の娘と結婚した途端夫婦揃って亡くなるし、一族郎党焼き討ちにされたのでしょう?
平清盛もしくじり先生お願いします😮
聖徳太子、推古天皇、馬子が同一人物説も最近ではありますよね
蘇我氏について詳しく知りたいと思っていたのですが、人間関係がややこしくて一度では理解できなかっ🥺。ラストの考察では威張っている人に対する感情は時代に関係ないと理解しました。上司か後輩かで態度の違う人は先輩でも尊敬できません
万円札をさっさと太子に戻そうぜ。小物を当てるからこんなに景気が悪いんだ。
福沢諭吉ね。俺も、あの陰気な顔は好きじゃない。
蘇我馬子が聖徳太子じゃないかな。仏教推進してるし。厩戸の皇子略して馬子だしね。同時期に二人存在していたら、邪魔で、馬子が聖徳太子を殺してるだろうしね。実力もわからない聖徳太子が隋に喧嘩的な外構文書を送れるとは思えないしね。
5000円は卑弥呼…
諭吉が万札になったのは慶應出身の政治家の悪だくみだろ、慶應のコマーシャル以外の何者でもない。早慶一塊から慶應が抜け出したのはそのせいだぞ。景気が悪くなって当たり前。亡国の所業だわ。
@@mhwsuenebsts 時代は、天孫系ピラミッド社会から出雲族系のゆるやかな支配体制に戻る気がするから、いいかもね。
乙巳の変の絵物語で蘇我入鹿の首😨😨😨😨😨😨😨見事に跳ねられているじゃないかよ!そして血飛沫がリアルに描かれているではないかいなぁ?
権力を、何世代にもわたって引き継いでいくのが、いかに困難かということですよね。世代交代の過程で、必ず一度はバラバラになるのだから。藤原氏だって、長い間に藤原氏内の権力闘争を繰り返してきたのだから。
曾我倉山田石川麻呂は馬子の弟が興した家の当主だと思われます。多分蝦夷の従兄弟そんなに近い血の人でもうらぎるんですね。 あ 入鹿と山背大兄王も従兄弟かなら仕方ないか。
中大兄皇子中臣鎌足の尊敬する人物に聖徳太子がいた説を信じたい
でも、血は藤原氏→皇族→源氏・平氏に受け継がれているという皮肉。
なぜ、乙巳の変の後中大兄皇子は直ぐに天皇に即位せず、軽皇子(孝徳天皇)が即位したのですか? 軽皇子は蘇我氏系豪族(蘇我倉山田 石川麻呂など)を重用したのですか? 難波に遷都した理由も知りたいです。明日香から難波に行く途中には蘇我氏と関係の深い葛城氏の本拠地を通ります。 元々律令制を取り入れたがっていたのは蘇我入鹿だと思います。邪魔をしたのは中大兄皇子? 歴史の改ざんをしたのは、藤原不比等? 法隆寺の聖霊会の蘇莫者(そまくしゃ)は蘇我入鹿の為?
葛城皇子、中大兄皇子がすぐに即位せず、母親や叔父、妹(妹の場合は諸説あります。)を天皇にしたのは、蘇我本家を滅ぼした事への世間の目が厳しかった事、天皇になれば、自分の行為、行動に制限がかかり、身内に即位させる事にして、自分の理想とする権力体制を磐石にする為に、天皇よりも自由がきく皇太子の地位に長年就いていたとか?様々な説あり。
@@user-bh6fh6dh6l 中大兄皇子(天智天皇)は乙巳の変後、古人大兄皇子を攻め殺して、蘇我倉山田 石川麻呂を一族ごと山田寺で自害させ(娘の遠智娘(持統天皇の母)は除く)、孝徳天皇を難波宮に置き去りにして(その後崩御)、孝徳天皇の息子の有間皇子を蘇我赤兄と組んで絞首刑と色々やってるよね。
一年の概念が違うのでは?
関西の番組に、ソガのプワジが。 (ソーセージ、学天即、プリマ旦那、和牛、GAG) 仮面ライダー響鬼の第1話でヒビキがかえるのうたに蘇我入鹿を混ぜ込んだ鼻唄を。
滅亡していません。氏と姓の大前提はいずこに…? 例えば本家となった系統(持統天皇の祖父の系統)は蘇我氏として石川を名乗り永く朝廷に仕えている。 蘇我氏に滅ぼされたとされる物部氏も、本流は物部氏として石上などを名乗り、やはり永く仕向している。 どちらも中央豪族の氏族として左前になりましたが、事件の当事者の近親系統が律令制施行後も下級貴族として地味に永らえています。
蘇我氏の本宗家?いやお元気ですよ今でも。 ちょっとな姓変わってますけど。あ、石川じゃありませんよ。
@@user-ps2ec4we6l 石川は、本宗家親子がクーデターで死に、 傍系筆頭であった蘇我倉山田石川麻呂(葛城皇子と共にクーデターの勝者)が蘇我氏筆頭本家となり、その後継が名乗った姓。 本宗家自体は敗者の死人2人を出しただけで存続はしましたが、当時氏代表であり続けるには体裁の悪さと一族全体に粛清の危険があり、 朝廷(と葛城皇子)に対し叛意のない新たな蘇我氏本家を創設周知する必要があった。 本宗家の正統性とは別に、政治的理由で傍系筆頭から本家本流とされた家であり姓です。 本家となった後∶倉山田石川麻呂、冤罪で粛清→名誉回復→孫が立后、後継が蘇我氏として石川を名乗る。 ※ちなみに倉山田石川麻呂の弟ら(赤兄など)は、壬申の乱で死罪・流罪となり蘇我氏傍流としては断絶(女系を通して天皇家に血統は残った)。
高句麗に負けた時日本へ逃げた百済蓋鹵王(王は戦死)の身内、木刕満致(木満致)=蘇我満智こそが蘇我氏の正体とする説が有力
馬子と厩戸王が対立したとは思えない。彼らの方向は同じだし。
孝明天皇も暗殺されてるよ。
異母兄妹間の婚姻が珍しくなかったようで、血縁関係がややこしいですな。聖徳太子の両親もそうですし。 入鹿と鎌足とは僧旻の門下で同級生だったようですし、近しい間で敵対したり権力者は大変ですな。
蝦夷の最大の罪は古書文庫に火放って古代日本の記録を闇に葬った事やな
自分が生きてきた短い時間でも、歴史教科書って変化し続けてる中、邪馬台国なんて無理だろう 「本当の事なんか言えない 本当の事なんか言えない 言えば~」て歌があったな
一応わかってられると思いますが入鹿の系譜の蘇我氏が滅んだだけで他の蘇我一族は残ってますよ、壬申の乱あとはむしろ藤原氏よりも蘇我氏のほうが勢力がつよかったですよ
あと、記紀で残っているのは後世の改竄ありきの話ではないかとみるほうが普通 日本書紀書かせたのが藤原不比等であり、身内同士の争いに加担した親のことを悪くは書かないでしょ
聖徳太子は亡くなられる前に、 推古天皇に「蘇我馬子」は天皇の地位を窺っている・・・のでせっかく編纂した『先代旧事本紀』が亡失する恐れがあります・・・とご相談されています。 先代旧事本紀(さきつ みよ ふるごとの もとつふみ)解説須藤大幹 序文より
敏達・舒明天皇系の中大兄が用明天皇系の山背大兄を殺されたからってのはどうかな? ライバルの1人でもあった山背が殺されるのをむしろ待ってたんじゃないかな?とも思う
豪族は、何故、天皇にとって代わろうとしなかったのかな?
この頃は、ひょっとしたら、豪族(物部、蘇我、葛城)とかから、皇子の中から優れた者が天皇になれる仕組みだったのかもね。
天皇家となる秦氏もその中にいたのかもだけど。
『武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇まで五代の天皇に使えた。計算すると360歳まで生きた事になる』ではなく、 『武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇まで五代の天皇に使えた。この五代は合計しても一人の人間が使える事ができる程度の期間であった』という事だと思う。 現在残されている系図だとすべて父子相続(14代仲哀天皇は13代成務天皇の弟である日本武尊の息子)だからこれだけの期間になってしまうが、実際には何代かは兄弟相続だったのでしょうね。
滅んでないでしょ石川氏の源流も蘇我氏だし、てかこの頃って身内同士の内乱状態じゃない
入鹿の首塚に花が絶えず地元では今でも人気があるそうです。先祖の武内宿祢は仲哀天皇を暗殺しています。
当時の中央政権は、現在の内閣とは比べ物にならないくらいに 絶大な権力があった。だからトップになれたら毎日ウハウハ!
考察が…「威張っていたからみんなに嫌われた」って・・・ みんなそんなに感情で動く?
まるぱくでくさ
曽我兄弟は末裔?
あれは全くの別物では?
日蓮大聖人様も崇峻天皇が殺された事例を通して、「さいわいは口より出でて身を破る」と御弟子や信徒に言葉使いや振る舞いについて厳しく御指南されています。
犬作、見てるかぁ~ww
タイトル出す時間が短いと思います。
歴史的な知識や見識が少ない方が作っている動画だって感じますね。
蘇我氏は創作かも。 蝦夷の名前。馬子と入鹿、読み方によっては馬鹿になる。 藤原氏の創作の可能性が高い。
自分は創作というよりも、蘇我氏は実は天皇家の皇位継承の資格を持つ一族だったのではと考えています。 入鹿暗殺の後に蝦夷が書物ごと焼いて自害したというけど、天皇家に準ずる一族だとわかってしまう書物がたくさんあったからこそ、蝦夷も殺して書物も焚書したのではないかと。
@@asa01053 それもありそうですね。
@@user-sh1pq2yh8p 蘇我氏自体は確かにいた。 悪事を働いていたいたかのような内容は、創作と思っています。 良い部分は、厩戸王の結果にした。
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武内宿禰は、何代か名前を受け継いでいて(歌舞伎みたいに)、360歳まで一人が生きていたわけではないでしょうね。
@user-my9tr2ln3k
Жыл бұрын
確かに、それありそうだよな。
@kumamorry
Жыл бұрын
まだまだ眉唾の域を出ないし出ることもないだろうけど、「正統竹内文書」だっけか?口伝でのみ伝わってる、偽書認定の書物とは別モノのやつ、それによると武内宿禰はやはり役職名みたい。代々宿禰を名乗るべき人間が認定されるんだと。都市伝説レベルで捉えてオッケーよ。
分かりやすい勝者の歴史
どうしても『日出処の天子』を思い出してしまう。読んだ上で入鹿の山背大兄王暗殺の報を聞いた蝦夷の心中を思うと胸が熱くなる。
日本書紀は藤原氏に都合良い内容にするために蘇我氏を極悪非道な感じに描いた可能性があるので、それを鵜呑みにはできないですね。
@Hunterlemmy
Жыл бұрын
それ古事記ちゃう?
@masatoaoki9411
Жыл бұрын
昭和52年頃の土曜日の午後の笑って笑って60分の中で壬申の乱の頃の歴史ロマン的なドラマのコーナーで、この書物は焼かなければ(表紙に帝記と書かれていた)後世一族に禍を及ぼすと悪役(小学6年から見た捉え方=出家して吉野にこもった大海皇子が気の毒にかんじたが、最後には裏を返して大友皇子を攻め滅ぼして自ら天皇になった時にとても狡いやつと感じた)が必死になるシーンがありました。まあそのように時の権力者には事実を改ざんすることが当たり前だったのかもしれません。
歴史は勝者が造るというから、蘇我も悪者と宣伝されたと思う。本当はもっと良い名だったはずだ。
黒岩重吾さんの「落日の王子」を読んで、明日香村の入鹿の首塚や馬子の墓かも知れない石舞台を見に行ったことがあります。
12:15 『蝦夷は次の天皇に蝦夷の(異母)姉妹を母に持つ古人大兄皇子を考えていた』 それでいくと山背大兄王もそうだしむしろ同母(もしくは母と同族の女性)の姉妹の息子。蘇我氏系皇族のサラブレッドの山背大兄王。彼は皇族側の祖父母=父親の厩戸皇子の両親(用明天皇/穴穂部間人皇女)も共に蘇我氏の母をもち、自身の母も蝦夷の同母姉妹。右も左も近親者はみは蘇我氏の本家中枢の血を濃く引く人達しかいない。 蘇我氏本家が最も自分達と血液関係が濃い山背大兄王一族を消す理由がよく分からない。むしろ皇位を狙っていた皇族達が動機が沢山ありそうに思う。
蘇我氏の失敗を学んで成功したのが藤原氏やもんね
「当時は平均寿命が短いから・・・」平均寿命が短いのは乳幼児の死亡率が高いから、成人したら現代と大差ない年齢になる(高齢医療の不備はある)
@user-gj7xd4nc1b
Жыл бұрын
現代のスパゲッティー症候群の高齢者医療より当時の方が幸せだったかもな。 まぁ延命の為なら「なんでもあり」が出来る現代みたいな医療があれば、家督相続で一族での争いは減少し末期養子なんて問題も起きないがな。
@user-ui7ux8gv5e
Жыл бұрын
昔もちょくちょく70や80まで生きてる人いたからな
4:29 守屋の弟の贄子は戦死しなかったので滅びてはいないんじゃなかったか?。
雄略天皇までは、春秋歴を使っていた、半年を1年とした暦。故に半分にすれば現在の年齢に近くなる。後、武内宿禰は役職名みたいなモノだそうだ。奈良時代に作られた八草姓の一つでもある「宿禰」は身分を表す。武内宿禰も複数代に渡り襲名される。
蘇我倉山田石川麻呂さんの子孫が高校で日本史の先生でした! 有名人の身内?w
手を出しちゃいけないところまでいっちまったからよね。 聖徳太子の四人目の奥さんが蘇我氏以外の娘と結婚した途端夫婦揃って亡くなるし、一族郎党焼き討ちにされたのでしょう?
平清盛もしくじり先生お願いします😮
聖徳太子、推古天皇、馬子が同一人物説も最近ではありますよね
蘇我氏について詳しく知りたいと思っていたのですが、人間関係がややこしくて一度では理解できなかっ🥺。ラストの考察では威張っている人に対する感情は時代に関係ないと理解しました。上司か後輩かで態度の違う人は先輩でも尊敬できません
万円札をさっさと太子に戻そうぜ。小物を当てるからこんなに景気が悪いんだ。
@user-mz8fg1st3p
Жыл бұрын
福沢諭吉ね。俺も、あの陰気な顔は好きじゃない。
@user-mz8fg1st3p
Жыл бұрын
蘇我馬子が聖徳太子じゃないかな。仏教推進してるし。厩戸の皇子略して馬子だしね。同時期に二人存在していたら、邪魔で、馬子が聖徳太子を殺してるだろうしね。実力もわからない聖徳太子が隋に喧嘩的な外構文書を送れるとは思えないしね。
@mhwsuenebsts
Жыл бұрын
5000円は卑弥呼…
@user-ps2ec4we6l
Жыл бұрын
諭吉が万札になったのは慶應出身の政治家の悪だくみだろ、慶應のコマーシャル以外の何者でもない。早慶一塊から慶應が抜け出したのはそのせいだぞ。景気が悪くなって当たり前。亡国の所業だわ。
@user-mz8fg1st3p
Жыл бұрын
@@mhwsuenebsts 時代は、天孫系ピラミッド社会から出雲族系のゆるやかな支配体制に戻る気がするから、いいかもね。
乙巳の変の絵物語で蘇我入鹿の首😨😨😨😨😨😨😨見事に跳ねられているじゃないかよ!そして血飛沫がリアルに描かれているではないかいなぁ?
権力を、何世代にもわたって引き継いでいくのが、いかに困難かということですよね。世代交代の過程で、必ず一度はバラバラになるのだから。藤原氏だって、長い間に藤原氏内の権力闘争を繰り返してきたのだから。
曾我倉山田石川麻呂は馬子の弟が興した家の当主だと思われます。多分蝦夷の従兄弟そんなに近い血の人でもうらぎるんですね。 あ 入鹿と山背大兄王も従兄弟かなら仕方ないか。
中大兄皇子中臣鎌足の尊敬する人物に聖徳太子がいた説を信じたい
でも、血は藤原氏→皇族→源氏・平氏に受け継がれているという皮肉。
なぜ、乙巳の変の後中大兄皇子は直ぐに天皇に即位せず、軽皇子(孝徳天皇)が即位したのですか? 軽皇子は蘇我氏系豪族(蘇我倉山田 石川麻呂など)を重用したのですか? 難波に遷都した理由も知りたいです。明日香から難波に行く途中には蘇我氏と関係の深い葛城氏の本拠地を通ります。 元々律令制を取り入れたがっていたのは蘇我入鹿だと思います。邪魔をしたのは中大兄皇子? 歴史の改ざんをしたのは、藤原不比等? 法隆寺の聖霊会の蘇莫者(そまくしゃ)は蘇我入鹿の為?
@user-bh6fh6dh6l
Жыл бұрын
葛城皇子、中大兄皇子がすぐに即位せず、母親や叔父、妹(妹の場合は諸説あります。)を天皇にしたのは、蘇我本家を滅ぼした事への世間の目が厳しかった事、天皇になれば、自分の行為、行動に制限がかかり、身内に即位させる事にして、自分の理想とする権力体制を磐石にする為に、天皇よりも自由がきく皇太子の地位に長年就いていたとか?様々な説あり。
@takeshisama0011
Жыл бұрын
@@user-bh6fh6dh6l 中大兄皇子(天智天皇)は乙巳の変後、古人大兄皇子を攻め殺して、蘇我倉山田 石川麻呂を一族ごと山田寺で自害させ(娘の遠智娘(持統天皇の母)は除く)、孝徳天皇を難波宮に置き去りにして(その後崩御)、孝徳天皇の息子の有間皇子を蘇我赤兄と組んで絞首刑と色々やってるよね。
一年の概念が違うのでは?
関西の番組に、ソガのプワジが。 (ソーセージ、学天即、プリマ旦那、和牛、GAG) 仮面ライダー響鬼の第1話でヒビキがかえるのうたに蘇我入鹿を混ぜ込んだ鼻唄を。
滅亡していません。氏と姓の大前提はいずこに…? 例えば本家となった系統(持統天皇の祖父の系統)は蘇我氏として石川を名乗り永く朝廷に仕えている。 蘇我氏に滅ぼされたとされる物部氏も、本流は物部氏として石上などを名乗り、やはり永く仕向している。 どちらも中央豪族の氏族として左前になりましたが、事件の当事者の近親系統が律令制施行後も下級貴族として地味に永らえています。
@user-ps2ec4we6l
Жыл бұрын
蘇我氏の本宗家?いやお元気ですよ今でも。 ちょっとな姓変わってますけど。あ、石川じゃありませんよ。
@user-ec8nu2di3d
Жыл бұрын
@@user-ps2ec4we6l 石川は、本宗家親子がクーデターで死に、 傍系筆頭であった蘇我倉山田石川麻呂(葛城皇子と共にクーデターの勝者)が蘇我氏筆頭本家となり、その後継が名乗った姓。 本宗家自体は敗者の死人2人を出しただけで存続はしましたが、当時氏代表であり続けるには体裁の悪さと一族全体に粛清の危険があり、 朝廷(と葛城皇子)に対し叛意のない新たな蘇我氏本家を創設周知する必要があった。 本宗家の正統性とは別に、政治的理由で傍系筆頭から本家本流とされた家であり姓です。 本家となった後∶倉山田石川麻呂、冤罪で粛清→名誉回復→孫が立后、後継が蘇我氏として石川を名乗る。 ※ちなみに倉山田石川麻呂の弟ら(赤兄など)は、壬申の乱で死罪・流罪となり蘇我氏傍流としては断絶(女系を通して天皇家に血統は残った)。
高句麗に負けた時日本へ逃げた百済蓋鹵王(王は戦死)の身内、木刕満致(木満致)=蘇我満智こそが蘇我氏の正体とする説が有力
馬子と厩戸王が対立したとは思えない。彼らの方向は同じだし。
孝明天皇も暗殺されてるよ。
異母兄妹間の婚姻が珍しくなかったようで、血縁関係がややこしいですな。聖徳太子の両親もそうですし。 入鹿と鎌足とは僧旻の門下で同級生だったようですし、近しい間で敵対したり権力者は大変ですな。
蝦夷の最大の罪は古書文庫に火放って古代日本の記録を闇に葬った事やな
自分が生きてきた短い時間でも、歴史教科書って変化し続けてる中、邪馬台国なんて無理だろう 「本当の事なんか言えない 本当の事なんか言えない 言えば~」て歌があったな
一応わかってられると思いますが入鹿の系譜の蘇我氏が滅んだだけで他の蘇我一族は残ってますよ、壬申の乱あとはむしろ藤原氏よりも蘇我氏のほうが勢力がつよかったですよ
あと、記紀で残っているのは後世の改竄ありきの話ではないかとみるほうが普通 日本書紀書かせたのが藤原不比等であり、身内同士の争いに加担した親のことを悪くは書かないでしょ
聖徳太子は亡くなられる前に、 推古天皇に「蘇我馬子」は天皇の地位を窺っている・・・のでせっかく編纂した『先代旧事本紀』が亡失する恐れがあります・・・とご相談されています。 先代旧事本紀(さきつ みよ ふるごとの もとつふみ)解説須藤大幹 序文より
敏達・舒明天皇系の中大兄が用明天皇系の山背大兄を殺されたからってのはどうかな? ライバルの1人でもあった山背が殺されるのをむしろ待ってたんじゃないかな?とも思う
豪族は、何故、天皇にとって代わろうとしなかったのかな?
@user-mz8fg1st3p
Жыл бұрын
この頃は、ひょっとしたら、豪族(物部、蘇我、葛城)とかから、皇子の中から優れた者が天皇になれる仕組みだったのかもね。
@user-mz8fg1st3p
Жыл бұрын
天皇家となる秦氏もその中にいたのかもだけど。
『武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇まで五代の天皇に使えた。計算すると360歳まで生きた事になる』ではなく、 『武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇まで五代の天皇に使えた。この五代は合計しても一人の人間が使える事ができる程度の期間であった』という事だと思う。 現在残されている系図だとすべて父子相続(14代仲哀天皇は13代成務天皇の弟である日本武尊の息子)だからこれだけの期間になってしまうが、実際には何代かは兄弟相続だったのでしょうね。
滅んでないでしょ石川氏の源流も蘇我氏だし、てかこの頃って身内同士の内乱状態じゃない
入鹿の首塚に花が絶えず地元では今でも人気があるそうです。先祖の武内宿祢は仲哀天皇を暗殺しています。
当時の中央政権は、現在の内閣とは比べ物にならないくらいに 絶大な権力があった。だからトップになれたら毎日ウハウハ!
考察が…「威張っていたからみんなに嫌われた」って・・・ みんなそんなに感情で動く?
まるぱくでくさ
曽我兄弟は末裔?
@user-xh5pv4le1p
Жыл бұрын
あれは全くの別物では?
日蓮大聖人様も崇峻天皇が殺された事例を通して、「さいわいは口より出でて身を破る」と御弟子や信徒に言葉使いや振る舞いについて厳しく御指南されています。
@user-gj7xd4nc1b
Жыл бұрын
犬作、見てるかぁ~ww
タイトル出す時間が短いと思います。
歴史的な知識や見識が少ない方が作っている動画だって感じますね。
蘇我氏は創作かも。 蝦夷の名前。馬子と入鹿、読み方によっては馬鹿になる。 藤原氏の創作の可能性が高い。
@user-sh1pq2yh8p
Жыл бұрын
自分は創作というよりも、蘇我氏は実は天皇家の皇位継承の資格を持つ一族だったのではと考えています。 入鹿暗殺の後に蝦夷が書物ごと焼いて自害したというけど、天皇家に準ずる一族だとわかってしまう書物がたくさんあったからこそ、蝦夷も殺して書物も焚書したのではないかと。
@traveler_japan
Жыл бұрын
@@asa01053 それもありそうですね。
@traveler_japan
Жыл бұрын
@@user-sh1pq2yh8p 蘇我氏自体は確かにいた。 悪事を働いていたいたかのような内容は、創作と思っています。 良い部分は、厩戸王の結果にした。