【ゆっくり解説】島津義久・義弘兄弟相克編その11ー関ケ原の合戦(中)通説と色々違っていてもやはり壮絶だった島津軍の敵中突破
今回は関ケ原の合戦で撤退する島津軍が取った有名な敵中突破「島津退き口」について、それが敢行されるに至った背景や、通説とは異なる部分がある突破劇の実際について解説していきます。
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【ゆっくり解説】島津義久・義弘兄弟相克編その10ー関ケ原の合戦(上)なぜ義弘は西軍にたった1500の兵力で参加したのか?
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【ゆっくり解説】島津義久・義弘兄弟相克編その9ー庄内の乱(後)思わぬ苦戦を強いられ家康の干渉にも翻弄される島津
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関ケ原の戦いに色んな解釈が出ても、 島津がクレイジー敵中突破撤退したのは一貫してて笑える
義弘は5000の兵があればと言うけど、忠恒、義久からしたら追認せざるをえなかったとは言え何勝手に西軍についてんねんって話だから完全に世迷い言みたいなこと言ってる感じになってるの草
『葵 徳川三代』で、家康の命を受けて伏見城に入城🏯の際に鳥居元忠の断られ、 その際島津豊久が放った、『島津をみくびっとじゃなかど!』の台詞には痺れた!
三成は逃亡、小西行長も逃亡、宇喜多勢は総崩れごわす さーて どげんすっか・・・ 葵 徳川 義弘役 麿赤兒さんの鹿児島弁が好き
義弘公が後年に関ヶ原合戦を振り返り、涙して語ることが出来なかった。そしてそれがどの説明よりも説得力があり、納得した。という話、ホント好きです。義弘公が時間的にどれくらい泣いてたのかとか、何回も何回も思い出すたびに泣いたのかを想像するだけで義弘の苦心と家臣たちの気持ちに近づけるような、歴史とともに生きている気がします。
@user-ii9wu7fn7p
Ай бұрын
コメントありがとうございます!実際想像を絶する過酷さだったと思いますね。
@user-cy7hy3wy9n
Ай бұрын
年老いた自分を慕い本国から強行軍でやってきてくれた忠臣達が自分を守り逃がすため目の前でバタバタと死んでいった。様々な理由があったとはいえ真面目な義弘公は回想するたびに絶句し涙したのでしょうね。 うp主様、島津家編お疲れ様でした~。大作でしたね。ホントにどれも超面白くて何回も何回も再生しました。次回作も楽しみにしてます😄
葵 徳川三代での島津豊久役の山口祐一郎さんの演技はとても素晴らしかったですね。ちなみに、この頃に生まれた自分の息子に島津の武勇にあやかって隼人と名付けました。が、名前の通りには育たず、ニートになりかけてます。
@user-ne2js3lg2b
3 ай бұрын
薩摩隼人、九州隼人にごめんなさいしてくれ(笑)
@machazard
3 ай бұрын
@@user-ne2js3lg2b いやあ、ごめんなさいですわ。笑
@user-qz3go1ft3p
3 ай бұрын
まだまだこれからやで
@machazard
3 ай бұрын
@@user-qz3go1ft3p ありがとうございます
今回活躍した山田有栄さんのお父さんの山田有信さんも猛将で知られ耳川の戦いの時に大友勢数万に攻め寄せられながらも自身は伊東家から奪った高城というお城に城主として三百の兵で籠城して島津勢の援軍が到着するまでの時間を稼いだり 籠城中に有栄さんが産まれたという知らせが届くとこれで私は何時討ち死にしても大丈夫だ!と叫んだとかぼっけもんなお話が伝わっています。 有栄さんも九十歳の長寿を保ち、亀寿様がお亡くなりになるまで手放さなかった島津家の家宝を光久様に渡す役回りや三代目藩主の綱久様が関ヶ原の戦いの事を話してくれと聞かれた際にならば殿様はまず、三日間飲まず食わずの状態で私の所にお越し下さいと答えたとか 長寿院盛淳さんは義弘公の身代りとして名誉の戦死を遂げてますが伊集院忠棟と並ぶ佞人と島津家中で憎まれてましたから仮に生還したとしても鹿児島には居場所はなかったから戦死して家名を保ったと意地の悪い考えをしてしまいます。
NHKの番組で小早川秀秋が松尾山に入って西軍の糧道を断つ行動=裏切りが確定したから西軍が大垣城を出た可能性を言ってましたね なんでも松尾山の小早川軍の布陣跡が見つかってその向きが通説と合わないと
長寿院盛淳なんかは義久の依頼に応じて関ヶ原にいったけど、このときの動きをみると西軍に加わったという感じが全然ないですよねえ。 忠恒の路線を理解してて、漠然とではあるでしょうけど西軍は勝たない、でも、義弘は生き残らせなくてはならないって思ってたのかも。
それにしても、徳川家康からしてみれば島津軍……もとい義弘の行動は奇妙に写っただろうな 伏見城の守りを頼んだはずなのに、いつの間にか西軍の武将達と一緒に、伏見城攻め込んだかと思えば 関ヶ原戦いでは何故か傍観 かと思えば西軍総崩れになった途端、無謀ともいえる前線突破をして撤退…… 敵になった怒りよりも、何で?という気持ちの方が大きかっただろうな 何処をどう捉えても筋が通らない、という点は島津らしいといえばらしいけど……
変な見方だけど、井伊直正も西軍の文官大名に負傷させられたというよりも、鬼島津に狙撃された方が名誉の負傷として面目も立つので 島津家に一切恨みとかないっすって言った言葉は芯から本心だったんでしょうね
とても興味深い内容に感服しました! 素晴らしい! 私の学生時代の同級生の先祖が 鹿児島の加世田の薩摩武士の家系でした、 彼は伝えられるところによると「島津の退き口」で討ち死にした者の末裔でした... そして、大平洋戦争に従軍した祖父から...こんなことを聞かされたそうです。 その祖父は、南洋の某島の戦闘で、ボロ負けになり敗退する窮地に陥り、 圧倒的な勢いで激迫するアメリカ軍を目前にして、 孤立無援の機関銃陣地の銃手となってしまいました。 いよいよ、俺の死に場所はここか、 ひとりでもアメ公を倒して死んでやると「覚悟をした瞬間」 「ご先祖様」が背後から『そん、心意気よか! おまんの死に場所は俺と同じか! じゃどんここでは死なさんぞ!』 そういう声を聞き、 自分の両肩を「バンッ!」と叩かれて、大笑いする声を聞いた...そうです... その様なエピソードを思い起こしました。 当然のことながら、その言葉が現実になったからこそ、 このエピソードを、今日、ここに披露させて頂きます。
豊久の墓が養老郡にあるので手を合わせてきました😢
凄く楽しいです!
素晴らしい 豊久戦死のシーンは泣けるよなぁ 島津戦記のクライマックスだ
【悲報】義弘の兵が関ヶ原の合戦前に大垣城から出撃して曽根城の城下を焼いて銃撃したエピソード、カットされる
泗川の戦いでもそうだが、義弘は機と見るまでは動かないですね。 それを実行できる兵卒はとても練度が高いと思います
水野伍貴著「関ヶ原合戦を復元する」では①8〜9時に開戦→②10時頃に濃霧が晴れて戦いが激化→③11時に小早川秀秋が大谷吉継を攻撃→④正午あたりで大勢が決するとされています。秀秋が開戦直後に寝返らなかったのは霧が晴れてから山下の状況を確認しなければ動けないという、言われてみれば当然という理由でした。あと他の「新説」に対しても考察しています。正直近年言われている「新説」には納得できないものが多かったので、この本を見つけてよかったです。もし未読なら一度読むことをオススメします。
島津豊久はきっと異世界で活躍してますよ😂
@user-kg4rp2sh4z
3 ай бұрын
後年四兄弟までタイムスリップしてローマとバチコンするとは…
@user-ke7gr2kz3f
3 ай бұрын
@@user-kg4rp2sh4z 森兄弟も何処かの異世界転生して暴れるな、、、😅 可隆、長可、蘭丸、坊丸、力丸、忠政と強力
鹿児島の小学校で、島津の退き口に由来する「妙円寺詣り」に参加しました 22番まである歌があって、21番の歌詞 「興国全て夢なれど 敵に背を見せざるし 壮烈無比の薩摩武士 誉れは永遠に匂うなり」 鹿児島では、本当にまだ語り継がれています
なお忠勝勢に打ち破られた様子が太田和泉守記に記されている模様 吉川広家の手紙にも混乱に乗じて逃げ出した島津勢の姿が…
義弘の心中がわかる。それが 義弘:家久すまん!豊久を死なせてしもうて。
1番史実だと思えないのが確定してるの草
小早川に鉄砲云々は、たぶんだけど井伊家譜が初出のはず
我々の世代的には義弘は完全に麿赤兒のビジュアルイメージなんよw
家康は毛利輝元が参戦することに焦り秀忠よりも先に関ヶ原に行ってしまったという通説があるけど、三成らが秀忠軍ではなく本多や井伊が家康軍に同行してきたので錯乱状態だったと考える方が自然 この状態を義弘が冷静に分析した結果立花宗茂軍を待って挑んだ方がいいと考えていたかも…まあ上田城で家康に勝った真田のオッサンがそれを逆に家康に利用された事が敗因の一つでもあるけどw宗茂も義弘に劣らずの律儀&プライドの塊っぷりだし遅参しちゃったのよね
面白かったです。近年、関ケ原の戦いは研究が進んで、「関ケ原の戦いは無かった」というような本も出版されていますが、それでも「関ヶ原」にはロマンを感じます。余談ですから、個人的には岳宏一郎氏の「群雲 関ヶ原へ」が、司馬正太郎御大の「関ケ原」よりも好きです。すべてを達観して、この世を去った大谷刑部の最期の場面は未だに忘れがたいシーンです。
後ろから敵が追っかけてくるのがメインの脅威なら捨て奸状態になりそうですが、今回聞いたように次から次に敵が全方向からあらわれるなら、計画的に人を後ろに置いて兵力へらすより、全力でみんなで突撃のほーが、しっくりします。
関ヶ原の布陣(家康本陣が西軍に包囲されてる時点で明らかにおかしい)を見て、やる気をなくした島津義弘が、「負けるとしても島津の体面を保つ戦いをしたい」と思慮を巡らせた結果が、敵中突破だったのでしょうね。
薩摩には福島政則が晩年島津を頼って下野し、亡くなった後の墓が有る。 その子孫も墓参りしている逸話が有るから、敵陣の大名からも慕われてた
酒飲みながら見たんですが、すごい興奮した。
良かった。敵中突破は有ったんだ
戦国時代の全ての合戦で我々が忘れがちな事は、両軍が戦うつもりで始まった戦は一つも無くて実際は全てが一種の遭遇戦でなし崩し的に参加したり逃げたりしてなんとなく勝敗が決まること。天下分け目と言われる関ヶ原で実際に戦った人数は合わせて3万人ぐらい。当時の国内総兵力の1〜2%。兵は出しても戦わないが中世の当たり前。だから関ヶ原の島津軍の行動も普通な事
おお井伊直政が島津と戦いたいから追撃は俗説だったのね でもなんで豊久がドリフターズに出てきたかよくわかった たしかに信長並に生存説も出るのね
舟唄は笑った
日本にいた武士の95%にとって 何がなんだか良くわからかい戦いだった筈の関ヶ原。リアルはこの解説の流れだと思うな。多分実際戦った家も3対4ぐらいの数だと思う。 布陣図見ても何の統一意志も両方に無いのが明らかだしね。 神君伊賀越とこの島津の退き口は同じタイプの出来事で流されて行ったらたまたま上手く行ったから後年宣伝に使われただけ。何時も書きますが兵数さえ誰一人数えも把握もしてないのが定期。
中世の戦いでは、裏切りそうな奴に先陣を切らせると言うのがセオリーだったような?家康はセオリーを守ってる。いざとなったら普通に逃げてるだろうしw三成が大将ではなかったというのが大きいのかな?
@user-qz3go1ft3p
3 ай бұрын
これはヒエラルキーが無いと成り立たないし関ヶ原の西軍にはヒエラルキーがなかった。東軍にとっては福島正則がそれ。彼らの方がまだ秩序があった。
東軍側にも福島正則や井伊直政と言ったバーサーカーがいたのに、それらを掻い潜って生還は凄い。
徳川の問い鉄砲は現代の感覚で言えば「もう敵だからな?最後通牒は既に切ったから終わりだよ」になると思う、有り得ない
@user-er6xp8qx3i
3 ай бұрын
ふしひさ😊😅しはさら😊ひさはすらひさは😃😅😋😙🤔🤔😋😅😏😪😪😞😊🙃😞😊😞😅😅
@user-er6xp8qx3i
3 ай бұрын
笹は😊 差は😊!😊は😊😊 らさ😊😅
ここが〜SINI場所だぁ~! 構え〜放て〜 やったぞ~! その後宍戸錠の本多忠勝と槍を交えて一騎打ちする山口祐一郎島津豊久。 山口祐一郎が島津家役者になった嚆矢である。 篤姫では島津豊久とは真逆の冷徹さの 島津久光になった山口祐一郎。
八十島が下馬しないで督促してた話(7:35)だけど、九州統一戦争で大活躍してた暴れん坊の初代家久(12:02)が存命してたんなら一刀の下に斬り捨ててそうだな……。 あとは開戦直後に小早川が寝返ってそれで試合終了って新説が出てきたって魔理沙が言ってた下り(8:28)だけど、もしもこれが真実なら後世の記録だとあっさり終わったんじゃあ家康が天下の覇権を握った戦いにしては味気ないよなってことになって、半日がかりってところまで長引かせてるってことになりますよね……。 それと小早川は慶長の役の際に現地派遣軍の最高司令官に祭り上げられて有頂天になって色々やらかしたことがバレて所領召し上げになってた(秀吉没後に家康の意向で召し上げは撤回)のでそれを遺恨に思ってたっていう話もありますよね
@ichiyann1802
3 ай бұрын
三成は美濃方面軍の司令官でしかなかったと言われてますからね、総大将の回りに2000人しか居ないとか可笑しいですからね、伊勢攻略を優先したのは総大将の輝元だと言われてますし、総大将はまごう事なく輝元だったのでしょうね、戦後責任回避のために三成は責任を押し付けられただけかと、あと家康と行動を共にしようとしてた三成を翻意させたのは吉継だと通説とは真逆の話も出てきてる見たいですね。
@user-is9gx8ij5k
3 ай бұрын
@@ichiyann1802 でも輝元も所領の大減封食らってますやん……。 三成に責任をなすりつけたとしても減封食らったんじゃあ割に合わないかと……。
@ichiyann1802
3 ай бұрын
@@user-is9gx8ij5k 首謀者なのに取り潰されてないんだから幸運だろ。 秀秋が早々に裏切って吉継隊が早々に壊滅していなければ毛利本隊の参戦で戦の成り行きはどうなってたか分からんのよ、ある意味毛利にとっては減俸で済んだのは幸運だったんだが?
島津はおかしいのよ…ほんと。 そらイカれてるとか言われるわ
初回から5点取られてる状況で中継ぎ飛ばしてリリーフピッチャーに火消し頼んだところで肩作ってないようなものか 人によっちゃまだ風呂入ってるよ
火蓋をきって落とすは誤用です。きるだけです。 切って落とすのは幕です・・・。 豊久は若死にといえど30歳だったのですね・・・
関ヶ原の経緯を伝える一次資料って殆ど存在しませんしね。分かるのは小早川の裏切りで石田軍が崩壊した、島津豊久ら名のある武将が追撃戦で戦死したって事だけ。 島津退き口を肯定する資料も否定する資料もほぼすべて後世の二次資料だけなので"どの後付け資料を重視するか"という論者の立場合戦にしかならない所に不謹慎な面白味がある。
生き延びたのはいいが敗戦を誇るような武将はいない しかも一門までも討ち取られた戦でそれを高評価するのは信者極まるぞ
いつも興味深い解説をありがとうございます。とても楽しく拝見しております。 ただ、1つ1つのセリフが、主体の違う複数の文を「、」で繋げてしまっているため、長く感じます。聴いててちょっと、頭の息継ぎができない感じです。歴史に詳しい人なら、すらすらと入ってくるのかもしれませんが……。文の主体を意識して、「。」で区切ってみてはいかがでしょうか。 続きも楽しみにしております。
関ヶ原の戦い即時終了説がお好きのようですが、資料の信憑性は如何なんですか? 学説として支持されたと聞いていませんが、妄想? 籠城など数か月の戦いでも、「即時終了」と記録や手紙などに記載するのが当時の武士の常だったんで、専門職、つまり公職にある教授たちの支持は薄いようですけどね? それならば退き口そのものが偽証説が昔から提唱されているので、そちらを検証するのをお勧めします。 島津隊は壊滅状態で薩摩に逃げたのではなく戦力温存のまま大阪島津屋敷で謹慎したと記載された資料が発見されたとNHKニュースで放送されています。 そうなると的中突破は後年の虚飾の可能性が高いですよ。
@uniuni9254
3 ай бұрын
追撃を受けて壊滅したのは流石に史実では…?(豊久は戦死してるし)
@diopresario
3 ай бұрын
最近の歴史キッズによく居る、新しい説やトンデモ本をすべて無条件で真実だと思い込んじゃう可哀想な子かな???