宇喜多秀家の子孫のその後 お役所仕事と化していた前田家の八丈島への支援の実態とは

備前、美作57万石の領主として、豊臣政権では五大老も務めた宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦い、改易処分となってしまいます。
薩摩国への逃亡の末、徳川家康に引き渡され、八丈島へ流罪となった秀家の子孫は、江戸時代を通じて続き、明治時代には罪を許されて東京に戻りました。
宇喜多家を長年にわたって支援し続けたのが、秀家の妻の実家の加賀前田家でしたが、江戸時代も中盤となると、宇喜多家支援の実態は、ただの定例の事務作業と化していました。
それでも、先例を遵守する加賀藩によって宇喜多家は生かされ、現代にまで続くことになります。
そんな八丈島での宇喜多秀家の後半生、子孫のその後について紹介します。
参考文献
論集 加賀藩前田家と八丈島宇喜多一類
amzn.to/3vF4HF1
#日本史 #歴史

Пікірлер: 51

  • @user-tm4ed2tt8p
    @user-tm4ed2tt8p Жыл бұрын

    血族だからと数百年支援は凄いな

  • @ny1997p
    @ny1997p Жыл бұрын

    宇喜多家には裏を取る術もないだろうから「財政悪化につき支援のお断りをしますが悪しからず」なんて前田家には出来たんだろうけど、やはり支援が続いたのは当時の価値観なんだろうな。

  • @rekishock

    @rekishock

    Жыл бұрын

    ましてや、幕府が滅びてもなお自前の軍艦で支援物資を届けようとしていたところなんか、当時の価値観を最もよく表していますよね

  • @hanamo2015
    @hanamo2015 Жыл бұрын

    秀家が関ケ原後、行方知れずという歴史までは学んでいましたが 実際の人生、知れることが出来て興味深いものがあります。

  • @user-en7np9kc3v
    @user-en7np9kc3v2 ай бұрын

    宇喜多秀家の子孫の話動画勉強になりました動画見せて貰ってありがとうございます

  • @user-ed2ee6od6b
    @user-ed2ee6od6b Жыл бұрын

    こういった「幕府に認められた諸々の政」を形を変えることなく粛々と執り行い続けることによって「幕府への二心なし」という姿勢を見せつけていたのでしょうね。加賀藩前田家にとってこの『宇喜多家への支援申請』は幕府との安定した関係を維持するのに必要だったのでしょう。

  • @kumosukeponsuke
    @kumosukeponsuke Жыл бұрын

    板橋区の秀家の墓は結構大きくて立派ですよ。

  • @allanmarcha9782
    @allanmarcha9782 Жыл бұрын

    好きな武将の一人でしたので大変興味深く拝見しました。とても良い内容でした。ありがとうございます。

  • @73moto
    @73moto Жыл бұрын

    宇喜多秀家の子孫で横山光輝の三国志が連鎖していた潮出版社のコミックトム(現在は休刊)の編集部員に浮田さんが居て、浮田さんは藤子・F・不二雄先生の担当をしていた。元はみなもと太郎の「風雲児たち」で宇喜多秀家が死去する場面でナレーションで子孫はその後も残りコミックトム編集部に生き残りが居るのだったと書かれて居る。

  • @momota1003
    @momota1003 Жыл бұрын

    私の一族の祖先は戦国乱世の時代に宇喜多直家の家臣となり、宇喜多四天王の一人として活躍 したらしい。しかし、関ヶ原で敗れて帰農して岡山の田舎で代々暮らしております。

  • @rekishock

    @rekishock

    Жыл бұрын

    気になります…!

  • @user-zs9vd6oy6v

    @user-zs9vd6oy6v

    Жыл бұрын

    地元の歴史を調べると、昔しのぎを削っていた土豪と同じ姓の人達がいっぱいいますね。 廃城になり城跡しか残ってないけど元城主の子孫だとか。 誰に着くかで運命が大きく変わった。 土豪などの血筋の方は、庄屋とか地域のまとめ役になっていた方も多いみたいです。

  • @user-wn6bz7mr1k
    @user-wn6bz7mr1k Жыл бұрын

    宇喜多、浮田、喜多とある。 本家は宇喜多、次男の分家が浮田。 本家の分家が喜多。 因みに長男秀高、次男秀継 最終的に次男秀継の家系のみ 繁栄した。

  • @syouhukukimura7249
    @syouhukukimura7249 Жыл бұрын

    宇喜多家の元家臣で旗本5000石の花房家も支援していたはずですが。

  • @user-zt5ss6dv9z
    @user-zt5ss6dv9z Жыл бұрын

    秀家が秀高を止めずに賛同してれば 「八丈島より泳いで参った」 の可能性はあったんですね

  • @rekishock

    @rekishock

    Жыл бұрын

    大坂城にずぶ濡れで参上することは難しいでしょうが、伊豆半島への上陸ならばどうにかできたかもしれません

  • @au1827
    @au18272 ай бұрын

    浮田左武郎さんの現役時代を知っています。 私は現在北区滝野川に住まい東光寺の近所です、不思議な縁を感じます。

  • @yosihirookazaki
    @yosihirookazaki Жыл бұрын

    嘘かホントか…我が先祖が宇喜多家の附家老だったらしいので、それもあって宇喜多家のその後も少し気になっていました。 動画ありがとうございます。

  • @user-om9li4in9g

    @user-om9li4in9g

    10 ай бұрын

    嘘かホントか 祖母が宇喜多家の女系子孫だと言ってました💦

  • @user-co4uy9zu1s
    @user-co4uy9zu1s Жыл бұрын

    八丈島には今でも浮田さんが多く居るが 殆どは秀家が島で作った子供の子孫が繁栄してるみたい

  • @73moto

    @73moto

    Жыл бұрын

    江戸時代中期に北方探検家の近藤重蔵が息子と共に殺傷事件を起こして息子の近藤富蔵は八丈島に流刑になり宇喜多秀家の子孫で有る娘と結婚し八丈島の百科事典とも言える「八丈実記」を書いた。

  • @user-dw6dc7ju4f
    @user-dw6dc7ju4f Жыл бұрын

    宇喜多秀家の辞世「米の粥を喰うて死にたし」は有名ですね💡 確か宇喜多家の現当主さんが秀高さんと仰言って 笑っていいともに御出演された記憶が有りますが🥵😅

  • @rekishock

    @rekishock

    Жыл бұрын

    いいともに出てたんですね!知らなかったです! 内容気になります。

  • @user-dw6dc7ju4f

    @user-dw6dc7ju4f

    Жыл бұрын

    @@rekishock さん 残念ながら内容自体は大した事無いです🥵😅 例えば大石内蔵助良雄の子孫の方、浅井長政の子孫の方、等に毎回出自を伏せて御登場頂き、「さぁ今回の此の方は何方様の子孫の方でしょうか❓」とバレバレの絵文字のフリップでヒントを出し、其れに爆笑問題の2人+ゲストが答える(つーか爆笑問題の太田光がわざと見え見えのボケをかます)つークイズ形式がメインで 「へ~あの⭕⭕の子孫の方ね~💡」で終わってしまうんで其の御先祖の方のエピソードの紹介とかはほぼ皆無でした😢🥵😅御免なさいm(_ _)m 自分が記憶しとるのは大石内蔵助良雄、細川ガラシャ、武田信玄、浅井長政、足利尊氏の子孫の皆さんが出演しておられました🥵😅

  • @ABT098
    @ABT098 Жыл бұрын

    八丈島の宇喜多家は有名ですが、浮田左武郎は知らなかったです。

  • @iTa358
    @iTa3584 ай бұрын

    関ヶ原の合戦だけでなく、八丈島を語る上でも、 「宇喜多 秀家」なくしては語れないのですね。   宇喜多家(秀家の時代から昭和の時代くらいまで)は、 日本一数奇な運命を携えてきた大名家と言っても良いでしょう。 明治維新後、 赦免で東京へ「戻った」一族が、その後東京での苦労が多く、 一部、八丈島に「戻った」方がいらっしゃるとのこと。 同じ「戻った」という言い方ができるのも、歴史と不思議さを感じさせます。

  • @shun1670
    @shun1670 Жыл бұрын

    熊本藩出身の徳富蘇峰と同期で同志社から早稲田に移籍、大隈重信の側近になった浮田和民も秀家の実子の家系との伝承があります。

  • @rekishock

    @rekishock

    Жыл бұрын

    そのようですね。 八丈島の宇喜多一族とは別系統のようですので、どの段階で熊本藩に仕えたのか気になります。

  • @user-dm5yt7xl8t

    @user-dm5yt7xl8t

    Жыл бұрын

    島津に匿って貰っていた頃にと考えるのがスマートかなと思うんですけど。

  • @hiroyukis537
    @hiroyukis537 Жыл бұрын

    面白かった

  • @georgejohns6419
    @georgejohns6419 Жыл бұрын

    帰島した者が大勢とは驚き

  • @filedingus543

    @filedingus543

    Жыл бұрын

    住めば都とはこのようなことを言うのでしょうね

  • @user-qz3go1ft3p
    @user-qz3go1ft3p Жыл бұрын

    前田家の支援は当然 藩というのは家史によって成り立つ法人 なので草創期を蔑ろには出来ない。

  • @user-vs9hc9cq4l
    @user-vs9hc9cq4l Жыл бұрын

    最後だから西郷というダジャレ?

  • @asaichban9842
    @asaichban9842 Жыл бұрын

    加賀藩領である富山には「浮田家」という重要文化財がある、浮田氏は 加賀藩奥山廻1500石だったとか この浮田氏は 宇喜多氏と関係あるのですかね?

  • @rekishock

    @rekishock

    Жыл бұрын

    富山の浮田家は知らなかったので調べてみたのですが、江戸時代初期から続いている家のようですね。 江戸時代初期に八丈島から脱出することは難しいはずなので、何か関係があるとしたら、宇喜多秀家の親類が豪姫の縁を頼って前田家の厄介になったといったところでしょうか…? お分かりになる方いたら教えていただきたいです…

  • @user-jg9ys3zr6c

    @user-jg9ys3zr6c

    Жыл бұрын

    @@rekishock 以前同じ職場に富山出身の〇沢さんて方がいまして母の旧姓が浮田で宇喜多秀家の子孫と言ってました。江戸時代はやはり幕府の眼とかがあり漢字を変えて浮田としたと言ってました。聡明な方で東大出身,弟さんも東大卒と言ってました。20代後半に会社を退職し父の会社を継いでるようです。

  • @user-fq3vf4xh9f

    @user-fq3vf4xh9f

    Жыл бұрын

    宇喜多秀家…はちじょあ

  • @user-pp2vv8ye9p

    @user-pp2vv8ye9p

    Жыл бұрын

    @@user-jg9ys3zr6c ほか

  • @user-wn6bz7mr1k

    @user-wn6bz7mr1k

    Жыл бұрын

    前田家に引取られた豪姫がお化粧料1500石貰った事により 一族の宇喜多久閑が金沢に招かれたとあります。

  • @user-hd4cg3nd5f
    @user-hd4cg3nd5f Жыл бұрын

    島津氏の所領、宮崎県都城市には宇喜多の姓も長宗我部の姓も未だあると聞いています。末裔の方々なんでしょうか…。

  • @user-wn6bz7mr1k

    @user-wn6bz7mr1k

    Жыл бұрын

    十年間薩摩で匿われてたので 村の娘と長男、次男が交わった可能性は有り得ますね。 因みに秀頼伝説は全て宇喜多秀家親子の事と見れば納得がいきます。

  • @miketakun

    @miketakun

    Жыл бұрын

    四国の長宗我部の子孫については司馬遼太郎が書いていましたね。 ただ残念ながらどの本に書いていたかは忘れてしまいました。

  • @user-gp7mw9em4y
    @user-gp7mw9em4y Жыл бұрын

    宇喜多秀家の父親にあたる宇喜多直家は今の岡山県にあたる凄い大名だった?戦国時代豊臣秀吉が中国地方に攻めていた時に、秀吉公にとりいって自分の妻をどうだと言わんばかりに言ったと言うが、本当かは分からない?それで先のことや自分の子供のことを考えて、上手く世渡りしたお陰で息子の秀家公は豊臣家の5大老の一人になって行った。その話を知っている人はどのくらいいるだろうか?

  • @user-zs9vd6oy6v

    @user-zs9vd6oy6v

    Жыл бұрын

    宇喜多直家は熱狂的な日蓮宗の信者で、備前備中近辺の寺を襲い無理矢理改宗をさせていた。 やはり権謀術数でのし上がり、また治世が短かったのであまり評価されないのでは。

  • @user-pz1kn8ib1d

    @user-pz1kn8ib1d

    9 ай бұрын

    秀吉が備前に進出してきた時には、もう直家は病死してたはずだった気が‥

  • @georgejohns6419
    @georgejohns6419 Жыл бұрын

    秀吉の肖像画は全くの嘘。

  • @user-ui5ud5rl1u
    @user-ui5ud5rl1u Жыл бұрын

    宇喜多秀家は武士として腹を切らなかったのですね⁉️最後がとても 見苦しと思いますね、 いろいろな戦国武将の話しを聞きますが皆 最後は勇ましく切腹をしているのに何故宇喜多秀家は切腹しなかったんでしょうね⁉️

  • @rekishock

    @rekishock

    Жыл бұрын

    石田、小西、島津、みな逃げていますし、城が攻め込まれたわけではなく、あくまでも野戦での敗戦でしかありませんからね。まだ反撃のチャンスはあるという認識だったのでしょう。 秀家も岡山城に追い詰められて一族滅亡の瀬戸際、という状況だったら切腹していたと思います。

  • @user-xt9rs2fn2p

    @user-xt9rs2fn2p

    Жыл бұрын

    最後の最後まで生き抜いて反撃することのほうが正しいやろ。そんなすぐに腹切ってたら腹たりないわ

  • @user-pz1kn8ib1d

    @user-pz1kn8ib1d

    9 ай бұрын

    小早川秀秋の陣に、突っ込んで討死しようとしたのを、明石全登に止められて、落ち延びたので往生際は悪くないと思いますよ。島津氏が秀家を匿っているとうわさが広まった時、島津のため潔く、出頭してますし。

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