懐かしの青函連絡船
速さの代わりに夢やロマンを失いました。
素晴らしいですね。ありがとうございます。😄
高校2年の正月に、廃止直前の青函連絡船に乗りました。深夜0時過ぎに函館出て、早朝4時過ぎに青森に着くダイヤは良かったですね。
88年に青函トンネルが開業し 本州~北海道が陸に繋がり ました。 そして、16年に北海道新幹線が開業しました🎵
青森も函館も青函連絡船は24時間365日休まず止まらずの不夜城やったなぁ〜✋⚓ 交通が発展し向上したいまは寂しくて淋しくのはちょっと残念だが本当だ✋
義理、人情のある、いい時代だったなぁ~。
初めての北海道旅行。昭和4 6年に上野駅から急行八甲田で青森駅へ。明け方のホームを歩き乗船口へ。気分は外国へ渡るような感じだったなあ。懐かしい。
昭和が懐かしい!
本当に懐かしい。ちょうどこの頃よく乗りました。乗船するとデッキでスタンプを押すのが恒例で、食堂で海峡ラーメンを食べました。たしか塩味でホタテがのっていたと思います。記憶ではそんなにまずいとは思いませんでした。また売店での買い物も楽しみの一つでした。とにかく乗船できたのがうれしくてシートや座敷には座っていませんでした。
私は青函連絡船が廃止された年の夏に運航されたリバイバル青函連絡船に乗りました。 オンタイムで乗りたかったのですが、当時は中学三年生、手持ちが無く、 廃止後に高校に進学し、高校生からできるバイトで貯めた金でようやくその最後の残り香を味わうことが出来ました。 八甲田から乗り換え羊蹄丸に乗船、帰りは青函トンネルから青森で青函連絡船で実施されてたシップホテルを利用しました。 寝る前に船内をあちこち探索しましたが、今回映像で懐かしく拝見しました。 貴重な映像、本当にありがとうございました。
本当にラッキーでしたね。
バブル真っ盛りの頃ですよね。 リバイバル運航は函館と青森で博覧会があったことを記念したものです。夜は簡易宿泊所として有償開放されていました。
仲宗根康太 ありがとうございます。本当に今思うとそう思いますね。 一生にたった1回だけのタイミングでしたがそれを味わうことができたのは、 まさに一生の思い出になると思います。
nanalinn 当時の青森駅や函館駅の駅前もだいぶ変わったと伺っています。 青森駅前にあった個人でやられているりんご屋さんで2時間だけりんご売りのバイトをさせてもらえました。 高校1年だったので、手持ちの金も乏しくなり、お土産で買うりんご代がギリギリで欲しいけどちょっと厳しいなぁ そんなことを話していたら、おばあちゃんがりんごを売るお手伝いをしてくれたらサービスするよと言ってくれたので、 一緒に行った仲間たち4人と、おいしいりんごをいかがですか! などと客引きや梱包等のお手伝いをさせていただき、最後に山のようにりんごをいただきました。 もうそういうお店もないように伺っています。ほんとにいい思い出です。
ナレーションが味出てるな。
青函連絡船の方が旅に情緒があり、良かったな~あの頃は~連絡船独特の汽笛もいいね~
青函連絡船も昭和を代表した乗り物でした。青函連絡船が廃止した後、青函トンネルが開通して、快速列車がたくさん走って大変便利になりました。しかし、今度は特急が主力になり、乗れたのは、青函トンネル区間だけだと思います。ところが、そのトンネルがすべて北海道新幹線になり、料金が高くなり、普通の切符では乗れなくなり、青森から北海道のルートは在来線では行けなくなりました。そこで私が考えたのは、青春18切符でも行けるように青函連絡船を復活して欲しいです。青森函館の足として楽です。またJR以外の他社の船舶特に自動車航送付きフェリーも各社で24時間運搬すればいいと思います。できれば高速船水中翼船も就航したらどうかと思います。
実は青春18キップにも有効に活躍した連絡船。札幌在住だった学生時代、東北ブラリの旅を思い付き敢行したが、「宿代わりの深夜便」により宿代を浮かす事が出来ました。
津軽丸から十和田丸まですべて乗船しました。登場している松前丸は函館ドックが建造した最初の船でした。当時のどつくでは設計図を自力で作成できず、津軽丸の浦賀ドックから購入したという話を聞いた事があります。偶然に一番乗船回数の多い船でしたので懐かしさもひとしおです。
貴重なビデオ有難うございます。 30年代に幾度も乗船しました。懐かしい~
懐かしい ただひたすら懐かしい
懐かしい映像ですね。青森市では小学6年生は函館へ1泊の修学旅行に出かけることになっていました。色とりどりの紙テープでの見送りがあったりしました。
私も懐かしく拝見しました。 私は函館の子どもでした。 小学校の修学旅行で青森に行きました。 浅虫温泉を見学した事を思い出しました。 母が野辺地出身だったり、北海道のローカル番組のラジオに青森の方の葉書投稿があったりで親近感がすごくあります。 当時は連絡船で時間はかかっても青森は隣人感覚がとてもあったと思います。
4:33 「焼 チャーハン 飯」が良いですね、そして、やたらイカ料理が多い。
セリカLB、スカイラインジャパン…駐車場に停まったクルマたちも懐かしい。
4往復くらい乗船したけど、横になって眠れるのは本当にありがたがったですね。初めて乗った時、函館に着く15分前になぜかロッキーのテーマが流れて思わず苦笑。
青函連絡船、私には特別な思い出が有ります!中学生時代に十和田湖へ修学旅行に行ったのが初めてでして、次いで高校時代の修学旅行でも利用した他、就職で北海道から東京へ上京したあともバイクで北海道へ帰省したときもモトトレインという列車でも、青函連絡船経由で函館迄移動して、札幌の実家迄バイクで自走して実家ヘ帰った思い出が有ります!懐かしい思い出ですよねぇ👋🤓
今なら同じくらいの時間で東京-函館間を新幹線で移動できますね。
松前丸メインにしていますな。冒頭の貨物船時代の桧山丸が見られる現存映像はこれだけかな?
廃止数年前に修学旅行で一往復乗り(乗らされ)ましたが、船酔いの記憶しか残ってません。天気のいい日に、自由気ままな旅で乗れたのなら、また印象も違ったのかもしれません。
懐かしい。いい時代だったよ。
船旅、船旅ってこの当時のどうみはつなぎの足 青森駅は道民の駅
今生き残っている青函連絡船は、八甲田丸と摩周丸の2隻だけになっています。かつては東京の船の科学館に羊蹄丸が展示されていました。
私の父は北海道へSLの写真撮影のために青函連絡船に乗ったことがある。と話していました。
懐かしいですねー 何回乗ったことか😁
最後に出てきたキハ80系、編成の長さからしておおぞらだと思います。
13輌ですからそうですね 千歳 滝川経由 6輌 函館⇔旭川 7輌 函館⇔釧路
大人の休日俱楽部パスで北海道新幹線乗車したが、連絡船乗ってる時間で新函館北斗に着けるんだなっと
技術の進歩は凄い!
大阪から高校の夏休みに18切符で北陸本線経由で5日かけて苫小牧回りで札幌でラーメン食べて小樽を通過して夜行鈍行で函館へ戻り連絡船でまた、大阪に帰ってきました。 駅寝もしてとても安くゆっくり楽しんだ5日間でした。今は絶対に出来ませんね。 貴重な経験をさせていただきました。
僕もs59に九州で18きっぷ二冊携えて北海道まで行きました。61年にはワイド周遊券で行ったですが、かなりラクでした。オッチャンなってカネとヒマができても、乗れる列車が激減なのは悲しいね。まぁ興味は海外向いてます
本州行くのに2往復乗りました。^^高校の修学旅行は波が高くて大変でした。
列車が青森に近くなると車掌が乗船名簿用紙を配りに来たのが懐かしい。
おー!青函連絡船のグリーン席、これこれ!35年くらい前に乗った!記憶には、はっきりと残っているけど、見たのはそれ以来だ!
貴重な映像どうもです、70年代独特の紹介動画ですね、 今から20年前バイクで北海道一周した時に北海道から利用させていただきました、国鉄(その頃はJRでした)も当時のバイクツーリングブーム受けて後ろの上のデッキに枠をつけてオートバイをクレーンで積み下ろししていました。 函館から乗ったのですが当時は函館はJR北海道、船はJR東日本で分割民営して間もなかったので陸上作業の北海道の方が「会社が違う会社になったので融通が効かなくて困ったな、」という声を生で聴いてしまいましたw。 因みに当時乗船した船は今は家から1時間程の東京都内の岸壁に展示されていますが中は改装されて当時の面影があまりありません、当時の夏休み中の席も座れない混雑と階段のトイレ近くに(確かその辺だった)テレビがあって高校野球中継をずっと見ていましたが青森入港直前には雑音だらけの音声だけになっていました。
ああ、あの頃に戻りたい・・・・
なんかゆっくりとしていい時代だったなー 4時間かけて函館にスシ食べに行ったり 東京までは8時間かけて寝台列車で行ったり 楽しかったな
国鉄時代に中学・高校の修学旅行で、連絡船🚢を利用しました。 特に中学の時は初めて内地(本州)に行くんだと、ワクワクしたものです(道民)
4:33食堂のメニューが安い(笑) 昔はこれが普通だったんだろうな〜
今はLCC航空機でそのまま新千歳空港に行っちゃうんだよね。しかもLCC機内は高速バスと似た雰囲気。
青函連絡船の寝台って、昼行便でも利用可能だったと聞いた事があります。
ただ、それにはその分の費用が必要だったとか?
函館市在住です。私が通っていた高校では学校祭の最終日を洋上フェスティバルとして、青函連絡船十和田丸を1日貸切っていました。船内でロックコンサートやクイズ大会、映画鑑賞や連絡船のOBの方のお話しなどが行われました。国鉄青函局さんにも打ち合わせで何度かお伺いしましたが、昭和61年当時で貸切料が1日137万円だったのを覚えています。その節は大変お世話になりました。また貴重な動画をアップくださりありがとうございました。
hatukari10 私は廃止前年の昭和62年に西高に入ったので最初で最後の洋上フェスティバルだったのですが他の学校にはない楽しい学校祭でしたね。 昨年末、摩周丸に行ったときに当時の運航ダイヤを見つけ、嬉しくて見入ってしまいました。
テレビでも取材に来ましたね。その時にサックスを吹いていた女子生徒は私の同級生で、現在セレブです。
函館西高のことですか。137万円とは、破格。一日の行事に大金。
@@gt-3922 西高はやることがすごい。稜北高と統合する前年にはこだてクリスマスファンタジーを一日ジャックするくらいだから。
青函連絡船八甲田丸は人間に例えると60歳となっております(長い間お疲れ様)
八甲田丸。 連絡船を使った最後の船(しかも偶然行きも帰りも)でした。 そして北海道からの帰りの航海が大時化で一番揺れたもので、かなり怖かったものですが良き思い出でもあります。 その八甲田丸、今は青森湾に係留されて中を見学可能。 なかなか行く機会に恵まれませんが、数年前訪れ、懐かしさにひたったものです。
今度は思い出の国鉄駅と走れ特急もUPして下さい
青函トンネルまだ工事中、👷(昭和)時 中学・高校の修学旅行で連絡船を🚢利用しました。特に中学時は初めて本州に行くということでワクワクしたものです(60代道民)。
ピストン輸送という懐かしいワード😊
私は廃止間近の連絡船に乗船しました。今となってはもう、30年以上前の話ですが。w ちょうど青函トンネルも開業間近で、トンネル開業への期待と連絡船廃止の寂しさとが入り混じった複雑な感覚がありましたね。 確か、青森からの乗船は摩周丸、函館からの乗船は羊蹄丸だったと記憶してます。季節がら、海が荒れに荒れ、特に函館からの便は揺れがものすごかったですね。デッキへの扉はロープで封鎖されて外に出られず、立ってまともに歩くこともできなかったので、升席でずっと寝そべっていました。w 廃止間近ということで、往年の出航時のドラも復活していました。懐かしいですねぇ。
当時は、青森や函館からの乗継の乗車券を持ってないと、満船で乗れない時が有ったんですよね。 私は、ねぶた祭の時に満船で乗れなかった事が有りました。
もともと北海道あるいは本州との乗り継ぎのために設けられた航路ですから。東日本フェリー(当時)も一般旅客を乗せていましたからね。ただ、いい顔はしませんでしたが。その会社が津軽海峡フェリーに引き継がれても電話口やカウンターのやる気のない態度は変わっていません。たから私は青函フェリー派です。
5時間もかかったよ 子供👧でしたけど
日本国有鉄道のマークが、懐かしいぃ〜。αトラックドライバーの専用室❓隔離❓
13回も乗りました(単なる自慢)‼️昼行便は4回しか乗ってないのでまずい?ラーメン🍜🍥は2回しか食べてません(あと1回はカレー&うなぎしかなかったので母に無理言ってうなぎ、1回は19:40函館発で速攻寝台で寝ました)。
今も船は必須だね。今もフェリーの利用者多い。
やっぱ津軽海峡は船で行きたいものです(゜-゜)(。_。) それにしても青函連絡船はカーフェリーとしての機能を併せ持つ画期的な船ですから、故に我々乗客を飽きさせない設備や装備が充実していたのも確かに周知の通りと言えようが、ただゲームコーナーの設置はさすがに許されなかったようですね。 それもそのはず、そもそも昭和時代後期の歴代の就航船はその大半が函館どっく(以下、函ど)や楢崎造船と言った地元資本の造船所で建造された船だったため、さらにその構造の難しさからいろいろな紆余曲折があったのかも知れません。つまり、その船自体の社会に照らし併せて見ると、正に長距離フェリーじゃあるまいしの世界と云わぬばかりに、四時間弱の船旅するための船故に、総トン数は若干控えめかつ前述の函どや楢崎のような地元資本の造船所で作られた船、しかも国鉄の船ということからゲーム云々などとは贅沢極まり無きもっての他感が滲み出ることだったのかも知れません。 そんなのだったらその船はとっくに三菱重工業やIHIなどの古い歴史と伝統の技術を持つ造船所で作られたに違いありません。 長文で失礼しました。
@@tomohikosatoh8897 松前丸だけ函館ドックで作られましたよ。退役後北朝鮮に行ったのは残念ですが。
青函連絡船のおかげで石川さゆりさんの「津軽海峡冬景色」や北島三郎さんの「函館の女」は名曲になったわけですね。
現在でも民間のフェリー航路が存続してる事からも、トラック物流をメインに船舶での需要が少なからずある青函航路。 旅客輸送も、東北北部~道南エリア程度の移動で、速達性より割安な料金を求めるとフェリーになりますかね! 東北南部~北海道の速達アクセスには、現状では十分とはいえないまでも新幹線が津軽海峡を渡った意味はあるでしょう! 首都圏~北海道の移動は現状飛行機主流が札幌延伸でどうなるか? 「旅情」「風情」など興味なし、ドライな2地点間速達を求めるビジネス需要のほうが多い現在、リソースがそちらに割かれるのはやむ無しでしょう! 旅行、行楽需要も、移動過程よりもやはり2地点間移動して旅先の時間を多く確保したい場合、費用はかかっても速達性を選びますし、移動過程を娯楽とする列車もバリエーションは増えています。 選択肢が増えていくのは良いことですね!
運賃よりも新幹線の料金がバカ高だから、フェリーに旅客が回帰している。
深夜に青森や函館に到着し、そのまま連絡船に乗ると、5時前に特急列車に連絡していたダイヤもありましたよね。 新幹線での旅は時間的に早くなり、観光地を楽しめますが、こういった連絡船での旅は乗船中も楽しむという、また違った楽しみ方ができたと思います。 一度でいいから、乗りたかった。
でも、寝る時間が実質3時間ってきついよ⁉️
@@psychedelicraspberry1457 さん、 その寝不足状態での早朝、荷物抱えて自由席乗り継ぎダッシュ、、、。 当時はみんな若かった。
急行日本海、急行きたぐに、急行しらゆき、急行下北、急行津軽、急行千秋、急行十和田、急行八甲田、急行おいらせ、急行くりこま、急行むつ、急行列車が良かった。
青森駅>急行王国であり特急王国(;´д`)
10年後 連絡船(貨物のみ?)復活の話しがありますね。 10年後 青函トンネルを新幹線専用で使用する目的で (方針を現時点で決めないと船復活の場合 造船や港湾整備が間に合わないかららしいです)
ただその場合、北海道側は函館ではなく室蘭になりそうです。函館はかつての船着き場を外航クルーズ船の船着き場にし、更なる魔改造も予定されているからです。となると、室蘭が貨物連絡船を着けるための改造の余地があるから、必然的にそうなるでしょう。となると道南いさりび鉄道は黙っていられなくなりますが。
@@nanalinn 様 返信ありがとうございます。 道南いさりび鉄道は貨物と共存しているから と言う事ですね? あと室蘭港と言う話は初耳です。 以前 室蘭港から発着便が複数社あったと 記憶してますが現在1社だけですもね。 連絡船実績で函館~青森間 4時間コース。 トンネル使用だと積替えもなく1時間位。 室蘭から船だと4時間では済まないですね。 札幌から関東まで出荷~荷受まで 現在3日間ですが もし室蘭港案だと もっと伸びますね。
@@090909YUJI 以前北海道新聞にて報じられていました。
懐かしいな~🌠蛍の光を聴きながら函館に向かって出港🛳️昭和47年頃上野発の夜行列車(急行八甲田)で乗船名簿書いて駆け込み乗船🛳️函館からD52蒸気機関車(鈍行)で札幌方面乗り継ぎながら旅した想い出……あれから50年かあー((〃´д`〃))前期高齢者のため息混じりの独り言かな🤣
青函連絡船のグリーン席や寝台、距離というか乗船時間というか、その割には割高感があったなぁ。 ちょっと「お金に余裕があったら乗ってみよう」という気が失せてしまう感じでした。
全席制覇しました(単なる自慢)‼️
当時の青函連絡船は、青森と函館を3時間50分で結んでいました。現在は青函トンネルを通過する北海道新幹線で最速1時間で結びます。それだけでなく、EH800形牽引の貨物列車やJR東日本の四季島も青函トンネルを走ります。
青函連絡船はなくなっても、今も津軽海峡は2航路3社でフェリーを運航しています。津軽海峡の航路が存続できるのは、時化た後の海面の回復が早く船を早く出せることがトラック会社に信頼されているからです。
@@nanalinn あと、やっぱり船って遅いし…なんだかんだで本州~北海道で船舶利用が最短のこのルートは賑わうはずです。
@@psychedelicraspberry1457 だけど、トラックドライバーにとって船は最高の休憩場所です。
@@nanalinn 青函フェリーがあるのならぜひとも乗ってみたいな。
青森駅にははくつるとゆうづるとあけぼのとはつかりといなほと白鳥が起点終点
そして日本海も(^-^)
0453発の、みちのくもいましたよ。0450発のはつかり1号が速達で、みちのくは、時々トマルヤツ、懐かしいですなあ。
幼少期に見た絵本で、連絡船に列車を乗せる図が載ってて強く記憶に残っているのですが、大人になって考えてみると、船と陸とで軌道を結ぶなんて難しいよねって思ってました(プラレールじゃあるまいし)。でも、実際に貨車を載せてたんですね。ではあの絵本は間違ってない・・・!?
今から35年前の青函連絡船の映像です 当時は大変賑わってた時代でした 始めの映像には当時の青函接続列車は常磐線経由は昼はみちのく号 夜行はゆうづる号 東北線経由は昼ははつかり号 夜行ははくつる号 そして急行の十和田号 八甲田号が運行していました 奥羽線経由は昼はいなほ号 夜行はあけぼの号が上野から運行していました また関西方面からは昼は我が国最長の昼間ナンバー1の特急白鳥号 夜行は2往復で運行の日本海号が運転していました こうした時代は青函トンネル開業によって変わりましたね~
確かに今ではどの特急も懐かしい光景となりました。何しろ今日では、東北・北海道新幹線の「はやぶさ」がその役を担っていますからね。
485系(特急型)電車や583系(寝台特急型)電車がまだまだ十分現役の時代でしたからね~ 連絡船を降りて青森駅のホームへ向かうとそこにはそれらの列車がずらりと! 観ただけでも壮観さが際立つ瞬間でしたね\(^o^)/ 左から上野行き『はつかり2号』、同じく上野行き『みちのく(常磐線経由)』、そして大阪行き『白鳥』と・・・ 正に壮観な風景が青森駅に広がって何も言えないほどの感動を覚えました。
急行津軽、きたぐにもありました。
大惨事になった洞爺丸の転覆事故が起きてからは全く事故を起こしていないのは凄いですね。
1984年3月3日 摩周丸が170便航海中に遊歩甲板高級船員居住区廊下で火災が発生し、一等航海士、二等航海士、事務長の3名が死亡しています。
@@mantani7580 今も函館駅の近くに摩周丸が保存されていますが、その歴史は抹殺されています。 杜このみが歌った「函館夜景」の歌詞の中にこの船の名前が歌われています。連絡船を歌った歌は数あれど、船の名前を歌ったのは、この歌が初めてです。
@@nanalinn 船が沈むような大事故じゃないですからね はしょられるのも仕方ないんじゃあ......
あ、酔った💦船、ダメ🆖オェー😱
松前丸の画像は貴重だな。いろいろ写真集見てるけど情報量が他の姉妹船に比べ少ない。シリーズネームシップの津軽丸もだけど。
早い段階で退役しました。北朝鮮に売られたのが残念です。函館ドックで建造された船だけに、市民も残念がっています。
宇高連絡線には急行列車扱いのホバークラフトがあったんですが、青函連絡船にはそういう高速便は無かったですよね? 津軽海峡では難しかったんですかね?
高速便はなかったですね。理由はさすがにわかりません…
瀬戸内海と津軽海峡では波が違います。 東日本フェリーの高速フェリーも普通の船に比べて就航率が悪かったそうです。
昔は昔の良さがありますね。そう考えると、北海道新幹線での旅はいささか味気ない気がしますね。
連絡船の旅は、現在の列車と違ってのびのびした雰囲気が味わえたんですからね。
連絡船の乗船時間3時間50分で東京ー新函館北斗に到達できるのは大きな進歩だが、なにせ特急料金がなー
廃線、廃駅ファンのワイは北海道新幹線楽しみです
1967年上京して大学での4年間、夏休みには必ず、札幌へ帰ってました。その都度上野からの夜行特急で青森へ、そしてこの連絡船。懐かしいの一言です。今は落ちぶれて埼玉の片隅で。
今は、亡き青函連絡船!
昭和54年か
旅は急がない、新幹線で北海道は僕には全く選択肢にない。 このビデオのような昭和の青函連絡船は忘れることないいい思い出。 去年の秋に久しぶりに北海道へは大洗から苫小牧往復、これも青函連絡船に負けない位いい旅が出来ました。 次は日本海側の船で北海道へ行きます。
幸福の科学の讃岐うどんと比べ物にならないが、この海峡ラーメンだけは不味かったw恐らく青森側のラーメンだろう。そこが懐かしい。
喜久蔵ラーメンよりかは美味いだろう。
@@nanalinn 笑点でネタにされてるだけで、味は普通らしいよ。
産声あげた、青函トンネルが出来て、32年経ちます。令和2年、2月23日、新型コロナで、景気ガタ落ち、新幹線、フェリー、バス、飛行機も、売り上げ減少しました。世界中の皆さん、日本の皆さん、この、コロナ不況を無くして、いきましょう。エール新幹線、バス、フェリー、飛行機も、コロナ不況ゼロにしていきましょう。
はい🎵そうです‼️皆で力を合わせてコロナ終息へ打ち勝とう‼️
食事の物価が今とそれほど変わらないな。
連絡船の頃は函館-青森は4時間だったのが今じゃ函館-東京が4時間だもんなぁ
3等客室で何度体を伸ばして、周囲に迷惑を掛けた事か(´-`).。oO
1:05 この船体に付いているイルカをあしらったシンボルマークは、1977年からつけられました。
ちなみに、 1:05 の連絡船は、『 松前丸 』ですね。 津軽丸型の中では、津軽丸と松前丸だけ操舵に関する機材が他の連絡船と違って扱いにくかったようで、『 この2隻だけ廃船になるのが早かった 』と記憶しています。 その上廃船後は行方不明になり、その後北朝鮮で見つかりますが、2隻とも『 恵まれない最期 』でしたね・・・。
譲渡先がよりによって北とは…どこのばかたれだ😠
今では飛行機でスピードを争う時代になってしまいつまらない
もう40年近く昔に青森の友達の所へ遊びに行った時、友達が風邪引いてちょっと時間が空いたので、北海道でも行こうかとしたんだけど、私も風引いて行けなくなりました。 今、思うと無理しても行っておけばよかった。
新幹線を通したことで函館行くのが不便になった。
料金面もあるが不便さもあるから 乗車率低いの分かる 新幹線ね
羊蹄丸「私の活躍の場が😭」
青森~函館間、青函連絡船は113km、北海道新幹線は在来線乗継含め約170km、確かに新幹線は距離的には、青函間には不便になったね。
ほすか(そうですか?
それが旅行ってもんよ
1979年
のどかな船旅…実際は座席取るために列車降りるところ、船降りるところですべて猛ダッシュだったけどな。
今の船ならWiFiつけないとな
昭和的独特なナレ-ションだなぁ~「優秀な船です!」 また、あのまずい海峡ラ-メンを食べてみたい。(叶わぬ夢)
でも船内で売っていた紅鮭弁当はおいしかった。高ったけど。
マジで!? つか優秀な船とあるようだけど、恐らく昭和時代後期の歴代の就航船はその大半が函館どっく(以下、函どと略す)や楢崎造船所で建造された船だったそうです。 だからこそ今就航している津軽海峡フェリーの船よりは若干小ぶりに作られたと思います。 構造としては、前者は鉄道の貨車や郵便・荷物車を積み込むため、非常に特殊になっていて、後者は乗用車やトラックなどを積み込むだけのこと、やはり似たり寄ったりなので、青函連絡船の場合はそれ以上の大型化は極めて難しく、普通のカーフェリーは可能な限り大型化できるわけです。その結果、もし青函連絡船がさらに大型化された場合、積み込む貨車の数もさらに増加するし、その分今度は桟橋側の改装工事を余儀なくされるだろうし、そして乗用車用の車輛甲板も広くなり 、船室やそれに付随する設備もある程度以上充実しているかも知れないし、そうなると食堂の他に、浴場やゲームコーナーも完備されていたことでしょう。
貨車も積載するから動力室の制限もありそうですね。 (通常だと後方にエンジンですが後方から貨車を積載する為)
木久蔵ラーメンよりかは美味いと思うけど
スーツ交通みたいな 話のないようですね
青森行き特急は北海道乗り継ぎの乗客用に、青森到着前に乗船名簿を配っていたね。少しでも時間の短縮にはなっていたのでしょうけどね。
2:44~2:50元祖ゴロンとシートかな?
雑魚寝とも言ったな〜通称ですが
そうとも言えますね。この辺では、国鉄末期以降鉄道車両でもこういった座席が出回りましたね。 しかし、カーペットは船ではごく普通の座席です。
そうして今日からは、北海道新幹線が1時間で運行しております。グランクラスでは、この内容の食堂や喫茶店以上のサービスをしております。
なぜ蛍の光が?
自分のいた地を去るから。
蛍の光ではなく別れのワルツだと思う
@@user-et4ze7ex8j 蛍の光も3拍子になればそうなりますよね。ちなみに編曲は1964年の東京オリンピックマーチの作曲者で知られる人です。
蛍の光は別れの歌だからでは?オッサン世代だと卒業式で必ず歌いました。
ある本によると…ですが、始まりはある時音楽好きの船員がこれを流した事だと…… 当時は戦時で先行きが見通せない時代。故郷を離れる乗客たちの間に涙が伝播していったのだとか………
二等しか乗れなかったな・・・床の所とシートの所。普通船室ってのかな。酔うからデッキにしかいられないから一等だろうが同じだったろうけどね。一等個室のお爺さんデッキで滝ゲロだったし
天候良くても横揺れがありましたね。
@@090909YUJI 横揺れ防止の装備が追加されたのは、廃止話が浮上した後ですからね。
뭐야? 이거?
김명섭 大丈夫ニダか?
お前が知る必要は無い
今のようにLCCができて、航空機のシェアが決定的になると、大きな資金と労力をかけて青函トンネルを掘る意味はあったのかなと思ってしまいます。
貨物を早く運ぶことを考えればメリットはあったように思います。これにより東京と北海道との週刊誌の発売の時間差が1日縮まったのですから。
航空機は、悪天候に弱いから、意味は有ると思う。
不味いと噂の海峡ラーメンを食べてみたかったです…。
青函連絡船の『海峡ラーメン』・・・不味いので有名(爆) 宇高連絡船の『讃岐うどん』・・・うまいので有名? このギャップって何だろう? たかが麺類系メニューだけでこの差はちょっとねぇ~(;´д`)
喜久蔵ラーメンよりかはましかと思うけど。
グリーンに誰も乗ってないんだね
やはり高いからですかね?
@@ohanamatumae8194 たしかにグリーンは高かった気がします
Пікірлер: 175
速さの代わりに夢やロマンを失いました。
素晴らしいですね。ありがとうございます。😄
高校2年の正月に、廃止直前の青函連絡船に乗りました。深夜0時過ぎに函館出て、早朝4時過ぎに青森に着くダイヤは良かったですね。
88年に青函トンネルが開業し 本州~北海道が陸に繋がり ました。 そして、16年に北海道新幹線が開業しました🎵
青森も函館も青函連絡船は24時間365日休まず止まらずの不夜城やったなぁ〜✋⚓ 交通が発展し向上したいまは寂しくて淋しくのはちょっと残念だが本当だ✋
義理、人情のある、いい時代だったなぁ~。
初めての北海道旅行。昭和4 6年に上野駅から急行八甲田で青森駅へ。明け方のホームを歩き乗船口へ。気分は外国へ渡るような感じだったなあ。懐かしい。
昭和が懐かしい!
本当に懐かしい。ちょうどこの頃よく乗りました。乗船するとデッキでスタンプを押すのが恒例で、食堂で海峡ラーメンを食べました。たしか塩味でホタテがのっていたと思います。記憶ではそんなにまずいとは思いませんでした。また売店での買い物も楽しみの一つでした。とにかく乗船できたのがうれしくてシートや座敷には座っていませんでした。
私は青函連絡船が廃止された年の夏に運航されたリバイバル青函連絡船に乗りました。 オンタイムで乗りたかったのですが、当時は中学三年生、手持ちが無く、 廃止後に高校に進学し、高校生からできるバイトで貯めた金でようやくその最後の残り香を味わうことが出来ました。 八甲田から乗り換え羊蹄丸に乗船、帰りは青函トンネルから青森で青函連絡船で実施されてたシップホテルを利用しました。 寝る前に船内をあちこち探索しましたが、今回映像で懐かしく拝見しました。 貴重な映像、本当にありがとうございました。
@user-jb4ed9zr6c
4 жыл бұрын
本当にラッキーでしたね。
@nanalinn
4 жыл бұрын
バブル真っ盛りの頃ですよね。 リバイバル運航は函館と青森で博覧会があったことを記念したものです。夜は簡易宿泊所として有償開放されていました。
@kumosukeponsuke
4 жыл бұрын
仲宗根康太 ありがとうございます。本当に今思うとそう思いますね。 一生にたった1回だけのタイミングでしたがそれを味わうことができたのは、 まさに一生の思い出になると思います。
@kumosukeponsuke
4 жыл бұрын
nanalinn 当時の青森駅や函館駅の駅前もだいぶ変わったと伺っています。 青森駅前にあった個人でやられているりんご屋さんで2時間だけりんご売りのバイトをさせてもらえました。 高校1年だったので、手持ちの金も乏しくなり、お土産で買うりんご代がギリギリで欲しいけどちょっと厳しいなぁ そんなことを話していたら、おばあちゃんがりんごを売るお手伝いをしてくれたらサービスするよと言ってくれたので、 一緒に行った仲間たち4人と、おいしいりんごをいかがですか! などと客引きや梱包等のお手伝いをさせていただき、最後に山のようにりんごをいただきました。 もうそういうお店もないように伺っています。ほんとにいい思い出です。
ナレーションが味出てるな。
青函連絡船の方が旅に情緒があり、良かったな~あの頃は~連絡船独特の汽笛もいいね~
青函連絡船も昭和を代表した乗り物でした。青函連絡船が廃止した後、青函トンネルが開通して、快速列車がたくさん走って大変便利になりました。しかし、今度は特急が主力になり、乗れたのは、青函トンネル区間だけだと思います。ところが、そのトンネルがすべて北海道新幹線になり、料金が高くなり、普通の切符では乗れなくなり、青森から北海道のルートは在来線では行けなくなりました。そこで私が考えたのは、青春18切符でも行けるように青函連絡船を復活して欲しいです。青森函館の足として楽です。またJR以外の他社の船舶特に自動車航送付きフェリーも各社で24時間運搬すればいいと思います。できれば高速船水中翼船も就航したらどうかと思います。
実は青春18キップにも有効に活躍した連絡船。札幌在住だった学生時代、東北ブラリの旅を思い付き敢行したが、「宿代わりの深夜便」により宿代を浮かす事が出来ました。
津軽丸から十和田丸まですべて乗船しました。登場している松前丸は函館ドックが建造した最初の船でした。当時のどつくでは設計図を自力で作成できず、津軽丸の浦賀ドックから購入したという話を聞いた事があります。偶然に一番乗船回数の多い船でしたので懐かしさもひとしおです。
貴重なビデオ有難うございます。 30年代に幾度も乗船しました。懐かしい~
懐かしい ただひたすら懐かしい
懐かしい映像ですね。青森市では小学6年生は函館へ1泊の修学旅行に出かけることになっていました。色とりどりの紙テープでの見送りがあったりしました。
@8m226
4 жыл бұрын
私も懐かしく拝見しました。 私は函館の子どもでした。 小学校の修学旅行で青森に行きました。 浅虫温泉を見学した事を思い出しました。 母が野辺地出身だったり、北海道のローカル番組のラジオに青森の方の葉書投稿があったりで親近感がすごくあります。 当時は連絡船で時間はかかっても青森は隣人感覚がとてもあったと思います。
4:33 「焼 チャーハン 飯」が良いですね、そして、やたらイカ料理が多い。
セリカLB、スカイラインジャパン…駐車場に停まったクルマたちも懐かしい。
4往復くらい乗船したけど、横になって眠れるのは本当にありがたがったですね。初めて乗った時、函館に着く15分前になぜかロッキーのテーマが流れて思わず苦笑。
青函連絡船、私には特別な思い出が有ります!中学生時代に十和田湖へ修学旅行に行ったのが初めてでして、次いで高校時代の修学旅行でも利用した他、就職で北海道から東京へ上京したあともバイクで北海道へ帰省したときもモトトレインという列車でも、青函連絡船経由で函館迄移動して、札幌の実家迄バイクで自走して実家ヘ帰った思い出が有ります!懐かしい思い出ですよねぇ👋🤓
今なら同じくらいの時間で東京-函館間を新幹線で移動できますね。
松前丸メインにしていますな。冒頭の貨物船時代の桧山丸が見られる現存映像はこれだけかな?
廃止数年前に修学旅行で一往復乗り(乗らされ)ましたが、船酔いの記憶しか残ってません。天気のいい日に、自由気ままな旅で乗れたのなら、また印象も違ったのかもしれません。
懐かしい。いい時代だったよ。
船旅、船旅ってこの当時のどうみはつなぎの足 青森駅は道民の駅
今生き残っている青函連絡船は、八甲田丸と摩周丸の2隻だけになっています。かつては東京の船の科学館に羊蹄丸が展示されていました。
私の父は北海道へSLの写真撮影のために青函連絡船に乗ったことがある。と話していました。
懐かしいですねー 何回乗ったことか😁
最後に出てきたキハ80系、編成の長さからしておおぞらだと思います。
@user-kd4hc4rd7i
3 жыл бұрын
13輌ですからそうですね 千歳 滝川経由 6輌 函館⇔旭川 7輌 函館⇔釧路
大人の休日俱楽部パスで北海道新幹線乗車したが、連絡船乗ってる時間で新函館北斗に着けるんだなっと
@ohanamatumae8194
2 жыл бұрын
技術の進歩は凄い!
大阪から高校の夏休みに18切符で北陸本線経由で5日かけて苫小牧回りで札幌でラーメン食べて小樽を通過して夜行鈍行で函館へ戻り連絡船でまた、大阪に帰ってきました。 駅寝もしてとても安くゆっくり楽しんだ5日間でした。今は絶対に出来ませんね。 貴重な経験をさせていただきました。
@sunami808
11 ай бұрын
僕もs59に九州で18きっぷ二冊携えて北海道まで行きました。61年にはワイド周遊券で行ったですが、かなりラクでした。オッチャンなってカネとヒマができても、乗れる列車が激減なのは悲しいね。まぁ興味は海外向いてます
本州行くのに2往復乗りました。^^高校の修学旅行は波が高くて大変でした。
列車が青森に近くなると車掌が乗船名簿用紙を配りに来たのが懐かしい。
おー!青函連絡船のグリーン席、これこれ!35年くらい前に乗った!記憶には、はっきりと残っているけど、見たのはそれ以来だ!
貴重な映像どうもです、70年代独特の紹介動画ですね、 今から20年前バイクで北海道一周した時に北海道から利用させていただきました、国鉄(その頃はJRでした)も当時のバイクツーリングブーム受けて後ろの上のデッキに枠をつけてオートバイをクレーンで積み下ろししていました。 函館から乗ったのですが当時は函館はJR北海道、船はJR東日本で分割民営して間もなかったので陸上作業の北海道の方が「会社が違う会社になったので融通が効かなくて困ったな、」という声を生で聴いてしまいましたw。 因みに当時乗船した船は今は家から1時間程の東京都内の岸壁に展示されていますが中は改装されて当時の面影があまりありません、当時の夏休み中の席も座れない混雑と階段のトイレ近くに(確かその辺だった)テレビがあって高校野球中継をずっと見ていましたが青森入港直前には雑音だらけの音声だけになっていました。
ああ、あの頃に戻りたい・・・・
なんかゆっくりとしていい時代だったなー 4時間かけて函館にスシ食べに行ったり 東京までは8時間かけて寝台列車で行ったり 楽しかったな
国鉄時代に中学・高校の修学旅行で、連絡船🚢を利用しました。 特に中学の時は初めて内地(本州)に行くんだと、ワクワクしたものです(道民)
4:33食堂のメニューが安い(笑) 昔はこれが普通だったんだろうな〜
今はLCC航空機でそのまま新千歳空港に行っちゃうんだよね。しかもLCC機内は高速バスと似た雰囲気。
青函連絡船の寝台って、昼行便でも利用可能だったと聞いた事があります。
@tomohikosatoh8897
5 жыл бұрын
ただ、それにはその分の費用が必要だったとか?
函館市在住です。私が通っていた高校では学校祭の最終日を洋上フェスティバルとして、青函連絡船十和田丸を1日貸切っていました。船内でロックコンサートやクイズ大会、映画鑑賞や連絡船のOBの方のお話しなどが行われました。国鉄青函局さんにも打ち合わせで何度かお伺いしましたが、昭和61年当時で貸切料が1日137万円だったのを覚えています。その節は大変お世話になりました。また貴重な動画をアップくださりありがとうございました。
@mercury48
9 жыл бұрын
hatukari10 私は廃止前年の昭和62年に西高に入ったので最初で最後の洋上フェスティバルだったのですが他の学校にはない楽しい学校祭でしたね。 昨年末、摩周丸に行ったときに当時の運航ダイヤを見つけ、嬉しくて見入ってしまいました。
@nanalinn
4 жыл бұрын
テレビでも取材に来ましたね。その時にサックスを吹いていた女子生徒は私の同級生で、現在セレブです。
@gt-3922
3 жыл бұрын
函館西高のことですか。137万円とは、破格。一日の行事に大金。
@nanalinn
3 жыл бұрын
@@gt-3922 西高はやることがすごい。稜北高と統合する前年にはこだてクリスマスファンタジーを一日ジャックするくらいだから。
青函連絡船八甲田丸は人間に例えると60歳となっております(長い間お疲れ様)
@user-pu7sh8ev5k
11 ай бұрын
八甲田丸。 連絡船を使った最後の船(しかも偶然行きも帰りも)でした。 そして北海道からの帰りの航海が大時化で一番揺れたもので、かなり怖かったものですが良き思い出でもあります。 その八甲田丸、今は青森湾に係留されて中を見学可能。 なかなか行く機会に恵まれませんが、数年前訪れ、懐かしさにひたったものです。
今度は思い出の国鉄駅と走れ特急もUPして下さい
青函トンネルまだ工事中、👷(昭和)時 中学・高校の修学旅行で連絡船を🚢利用しました。特に中学時は初めて本州に行くということでワクワクしたものです(60代道民)。
ピストン輸送という懐かしいワード😊
私は廃止間近の連絡船に乗船しました。今となってはもう、30年以上前の話ですが。w ちょうど青函トンネルも開業間近で、トンネル開業への期待と連絡船廃止の寂しさとが入り混じった複雑な感覚がありましたね。 確か、青森からの乗船は摩周丸、函館からの乗船は羊蹄丸だったと記憶してます。季節がら、海が荒れに荒れ、特に函館からの便は揺れがものすごかったですね。デッキへの扉はロープで封鎖されて外に出られず、立ってまともに歩くこともできなかったので、升席でずっと寝そべっていました。w 廃止間近ということで、往年の出航時のドラも復活していました。懐かしいですねぇ。
当時は、青森や函館からの乗継の乗車券を持ってないと、満船で乗れない時が有ったんですよね。 私は、ねぶた祭の時に満船で乗れなかった事が有りました。
@nanalinn
4 жыл бұрын
もともと北海道あるいは本州との乗り継ぎのために設けられた航路ですから。東日本フェリー(当時)も一般旅客を乗せていましたからね。ただ、いい顔はしませんでしたが。その会社が津軽海峡フェリーに引き継がれても電話口やカウンターのやる気のない態度は変わっていません。たから私は青函フェリー派です。
5時間もかかったよ 子供👧でしたけど
日本国有鉄道のマークが、懐かしいぃ〜。αトラックドライバーの専用室❓隔離❓
13回も乗りました(単なる自慢)‼️昼行便は4回しか乗ってないのでまずい?ラーメン🍜🍥は2回しか食べてません(あと1回はカレー&うなぎしかなかったので母に無理言ってうなぎ、1回は19:40函館発で速攻寝台で寝ました)。
今も船は必須だね。今もフェリーの利用者多い。
@tomohikosatoh8897
5 жыл бұрын
やっぱ津軽海峡は船で行きたいものです(゜-゜)(。_。) それにしても青函連絡船はカーフェリーとしての機能を併せ持つ画期的な船ですから、故に我々乗客を飽きさせない設備や装備が充実していたのも確かに周知の通りと言えようが、ただゲームコーナーの設置はさすがに許されなかったようですね。 それもそのはず、そもそも昭和時代後期の歴代の就航船はその大半が函館どっく(以下、函ど)や楢崎造船と言った地元資本の造船所で建造された船だったため、さらにその構造の難しさからいろいろな紆余曲折があったのかも知れません。つまり、その船自体の社会に照らし併せて見ると、正に長距離フェリーじゃあるまいしの世界と云わぬばかりに、四時間弱の船旅するための船故に、総トン数は若干控えめかつ前述の函どや楢崎のような地元資本の造船所で作られた船、しかも国鉄の船ということからゲーム云々などとは贅沢極まり無きもっての他感が滲み出ることだったのかも知れません。 そんなのだったらその船はとっくに三菱重工業やIHIなどの古い歴史と伝統の技術を持つ造船所で作られたに違いありません。 長文で失礼しました。
@nanalinn
4 жыл бұрын
@@tomohikosatoh8897 松前丸だけ函館ドックで作られましたよ。退役後北朝鮮に行ったのは残念ですが。
青函連絡船のおかげで石川さゆりさんの「津軽海峡冬景色」や北島三郎さんの「函館の女」は名曲になったわけですね。
現在でも民間のフェリー航路が存続してる事からも、トラック物流をメインに船舶での需要が少なからずある青函航路。 旅客輸送も、東北北部~道南エリア程度の移動で、速達性より割安な料金を求めるとフェリーになりますかね! 東北南部~北海道の速達アクセスには、現状では十分とはいえないまでも新幹線が津軽海峡を渡った意味はあるでしょう! 首都圏~北海道の移動は現状飛行機主流が札幌延伸でどうなるか? 「旅情」「風情」など興味なし、ドライな2地点間速達を求めるビジネス需要のほうが多い現在、リソースがそちらに割かれるのはやむ無しでしょう! 旅行、行楽需要も、移動過程よりもやはり2地点間移動して旅先の時間を多く確保したい場合、費用はかかっても速達性を選びますし、移動過程を娯楽とする列車もバリエーションは増えています。 選択肢が増えていくのは良いことですね!
@nanalinn
4 жыл бұрын
運賃よりも新幹線の料金がバカ高だから、フェリーに旅客が回帰している。
深夜に青森や函館に到着し、そのまま連絡船に乗ると、5時前に特急列車に連絡していたダイヤもありましたよね。 新幹線での旅は時間的に早くなり、観光地を楽しめますが、こういった連絡船での旅は乗船中も楽しむという、また違った楽しみ方ができたと思います。 一度でいいから、乗りたかった。
@psychedelicraspberry1457
3 жыл бұрын
でも、寝る時間が実質3時間ってきついよ⁉️
@user-wj5xh2cl9q
Жыл бұрын
@@psychedelicraspberry1457 さん、 その寝不足状態での早朝、荷物抱えて自由席乗り継ぎダッシュ、、、。 当時はみんな若かった。
急行日本海、急行きたぐに、急行しらゆき、急行下北、急行津軽、急行千秋、急行十和田、急行八甲田、急行おいらせ、急行くりこま、急行むつ、急行列車が良かった。
@tomohikosatoh8897
4 жыл бұрын
青森駅>急行王国であり特急王国(;´д`)
10年後 連絡船(貨物のみ?)復活の話しがありますね。 10年後 青函トンネルを新幹線専用で使用する目的で (方針を現時点で決めないと船復活の場合 造船や港湾整備が間に合わないかららしいです)
@nanalinn
3 жыл бұрын
ただその場合、北海道側は函館ではなく室蘭になりそうです。函館はかつての船着き場を外航クルーズ船の船着き場にし、更なる魔改造も予定されているからです。となると、室蘭が貨物連絡船を着けるための改造の余地があるから、必然的にそうなるでしょう。となると道南いさりび鉄道は黙っていられなくなりますが。
@090909YUJI
3 жыл бұрын
@@nanalinn 様 返信ありがとうございます。 道南いさりび鉄道は貨物と共存しているから と言う事ですね? あと室蘭港と言う話は初耳です。 以前 室蘭港から発着便が複数社あったと 記憶してますが現在1社だけですもね。 連絡船実績で函館~青森間 4時間コース。 トンネル使用だと積替えもなく1時間位。 室蘭から船だと4時間では済まないですね。 札幌から関東まで出荷~荷受まで 現在3日間ですが もし室蘭港案だと もっと伸びますね。
@nanalinn
3 жыл бұрын
@@090909YUJI 以前北海道新聞にて報じられていました。
懐かしいな~🌠蛍の光を聴きながら函館に向かって出港🛳️昭和47年頃上野発の夜行列車(急行八甲田)で乗船名簿書いて駆け込み乗船🛳️函館からD52蒸気機関車(鈍行)で札幌方面乗り継ぎながら旅した想い出……あれから50年かあー((〃´д`〃))前期高齢者のため息混じりの独り言かな🤣
青函連絡船のグリーン席や寝台、距離というか乗船時間というか、その割には割高感があったなぁ。 ちょっと「お金に余裕があったら乗ってみよう」という気が失せてしまう感じでした。
@psychedelicraspberry1457
3 жыл бұрын
全席制覇しました(単なる自慢)‼️
当時の青函連絡船は、青森と函館を3時間50分で結んでいました。現在は青函トンネルを通過する北海道新幹線で最速1時間で結びます。それだけでなく、EH800形牽引の貨物列車やJR東日本の四季島も青函トンネルを走ります。
@nanalinn
4 жыл бұрын
青函連絡船はなくなっても、今も津軽海峡は2航路3社でフェリーを運航しています。津軽海峡の航路が存続できるのは、時化た後の海面の回復が早く船を早く出せることがトラック会社に信頼されているからです。
@psychedelicraspberry1457
3 жыл бұрын
@@nanalinn あと、やっぱり船って遅いし…なんだかんだで本州~北海道で船舶利用が最短のこのルートは賑わうはずです。
@nanalinn
3 жыл бұрын
@@psychedelicraspberry1457 だけど、トラックドライバーにとって船は最高の休憩場所です。
@poronyumeno3904
2 жыл бұрын
@@nanalinn 青函フェリーがあるのならぜひとも乗ってみたいな。
青森駅にははくつるとゆうづるとあけぼのとはつかりといなほと白鳥が起点終点
@tomohikosatoh8897
4 жыл бұрын
そして日本海も(^-^)
@gt-3922
3 жыл бұрын
0453発の、みちのくもいましたよ。0450発のはつかり1号が速達で、みちのくは、時々トマルヤツ、懐かしいですなあ。
幼少期に見た絵本で、連絡船に列車を乗せる図が載ってて強く記憶に残っているのですが、大人になって考えてみると、船と陸とで軌道を結ぶなんて難しいよねって思ってました(プラレールじゃあるまいし)。でも、実際に貨車を載せてたんですね。ではあの絵本は間違ってない・・・!?
今から35年前の青函連絡船の映像です 当時は大変賑わってた時代でした 始めの映像には当時の青函接続列車は常磐線経由は昼はみちのく号 夜行はゆうづる号 東北線経由は昼ははつかり号 夜行ははくつる号 そして急行の十和田号 八甲田号が運行していました 奥羽線経由は昼はいなほ号 夜行はあけぼの号が上野から運行していました また関西方面からは昼は我が国最長の昼間ナンバー1の特急白鳥号 夜行は2往復で運行の日本海号が運転していました こうした時代は青函トンネル開業によって変わりましたね~
@poronyumeno3904
6 жыл бұрын
確かに今ではどの特急も懐かしい光景となりました。何しろ今日では、東北・北海道新幹線の「はやぶさ」がその役を担っていますからね。
@tomohikosatoh8897
5 жыл бұрын
485系(特急型)電車や583系(寝台特急型)電車がまだまだ十分現役の時代でしたからね~ 連絡船を降りて青森駅のホームへ向かうとそこにはそれらの列車がずらりと! 観ただけでも壮観さが際立つ瞬間でしたね\(^o^)/ 左から上野行き『はつかり2号』、同じく上野行き『みちのく(常磐線経由)』、そして大阪行き『白鳥』と・・・ 正に壮観な風景が青森駅に広がって何も言えないほどの感動を覚えました。
@user-wb3wg3we8w
4 жыл бұрын
急行津軽、きたぐにもありました。
大惨事になった洞爺丸の転覆事故が起きてからは全く事故を起こしていないのは凄いですね。
@mantani7580
4 жыл бұрын
1984年3月3日 摩周丸が170便航海中に遊歩甲板高級船員居住区廊下で火災が発生し、一等航海士、二等航海士、事務長の3名が死亡しています。
@nanalinn
4 жыл бұрын
@@mantani7580 今も函館駅の近くに摩周丸が保存されていますが、その歴史は抹殺されています。 杜このみが歌った「函館夜景」の歌詞の中にこの船の名前が歌われています。連絡船を歌った歌は数あれど、船の名前を歌ったのは、この歌が初めてです。
@user-is9gx8ij5k
3 жыл бұрын
@@nanalinn 船が沈むような大事故じゃないですからね はしょられるのも仕方ないんじゃあ......
@user-ev8fn7fd1s
7 ай бұрын
あ、酔った💦船、ダメ🆖オェー😱
松前丸の画像は貴重だな。いろいろ写真集見てるけど情報量が他の姉妹船に比べ少ない。シリーズネームシップの津軽丸もだけど。
@nanalinn
4 жыл бұрын
早い段階で退役しました。北朝鮮に売られたのが残念です。函館ドックで建造された船だけに、市民も残念がっています。
宇高連絡線には急行列車扱いのホバークラフトがあったんですが、青函連絡船にはそういう高速便は無かったですよね? 津軽海峡では難しかったんですかね?
@psychedelicraspberry1457
3 жыл бұрын
高速便はなかったですね。理由はさすがにわかりません…
@user-wj5xh2cl9q
Жыл бұрын
瀬戸内海と津軽海峡では波が違います。 東日本フェリーの高速フェリーも普通の船に比べて就航率が悪かったそうです。
昔は昔の良さがありますね。そう考えると、北海道新幹線での旅はいささか味気ない気がしますね。
@poronyumeno3904
6 жыл бұрын
連絡船の旅は、現在の列車と違ってのびのびした雰囲気が味わえたんですからね。
@user-zn3bj4qx2m
5 жыл бұрын
連絡船の乗船時間3時間50分で東京ー新函館北斗に到達できるのは大きな進歩だが、なにせ特急料金がなー
@A.Rimbaud
4 жыл бұрын
廃線、廃駅ファンのワイは北海道新幹線楽しみです
1967年上京して大学での4年間、夏休みには必ず、札幌へ帰ってました。その都度上野からの夜行特急で青森へ、そしてこの連絡船。懐かしいの一言です。今は落ちぶれて埼玉の片隅で。
今は、亡き青函連絡船!
昭和54年か
旅は急がない、新幹線で北海道は僕には全く選択肢にない。 このビデオのような昭和の青函連絡船は忘れることないいい思い出。 去年の秋に久しぶりに北海道へは大洗から苫小牧往復、これも青函連絡船に負けない位いい旅が出来ました。 次は日本海側の船で北海道へ行きます。
幸福の科学の讃岐うどんと比べ物にならないが、この海峡ラーメンだけは不味かったw恐らく青森側のラーメンだろう。そこが懐かしい。
@nanalinn
4 жыл бұрын
喜久蔵ラーメンよりかは美味いだろう。
@user-pe1ze7rz8i
2 жыл бұрын
@@nanalinn 笑点でネタにされてるだけで、味は普通らしいよ。
産声あげた、青函トンネルが出来て、32年経ちます。令和2年、2月23日、新型コロナで、景気ガタ落ち、新幹線、フェリー、バス、飛行機も、売り上げ減少しました。世界中の皆さん、日本の皆さん、この、コロナ不況を無くして、いきましょう。エール新幹線、バス、フェリー、飛行機も、コロナ不況ゼロにしていきましょう。
@user-lm7kx1ke8x
3 жыл бұрын
はい🎵そうです‼️皆で力を合わせてコロナ終息へ打ち勝とう‼️
食事の物価が今とそれほど変わらないな。
連絡船の頃は函館-青森は4時間だったのが今じゃ函館-東京が4時間だもんなぁ
3等客室で何度体を伸ばして、周囲に迷惑を掛けた事か(´-`).。oO
1:05 この船体に付いているイルカをあしらったシンボルマークは、1977年からつけられました。
@2002horibon
2 жыл бұрын
ちなみに、 1:05 の連絡船は、『 松前丸 』ですね。 津軽丸型の中では、津軽丸と松前丸だけ操舵に関する機材が他の連絡船と違って扱いにくかったようで、『 この2隻だけ廃船になるのが早かった 』と記憶しています。 その上廃船後は行方不明になり、その後北朝鮮で見つかりますが、2隻とも『 恵まれない最期 』でしたね・・・。
@user-nj4kt7eo6w
5 ай бұрын
譲渡先がよりによって北とは…どこのばかたれだ😠
今では飛行機でスピードを争う時代になってしまいつまらない
もう40年近く昔に青森の友達の所へ遊びに行った時、友達が風邪引いてちょっと時間が空いたので、北海道でも行こうかとしたんだけど、私も風引いて行けなくなりました。 今、思うと無理しても行っておけばよかった。
新幹線を通したことで函館行くのが不便になった。
@user-kd4hc4rd7i
3 жыл бұрын
料金面もあるが不便さもあるから 乗車率低いの分かる 新幹線ね
@user-ev8fn7fd1s
3 жыл бұрын
羊蹄丸「私の活躍の場が😭」
@user-cg7oc7cx4m
Жыл бұрын
青森~函館間、青函連絡船は113km、北海道新幹線は在来線乗継含め約170km、確かに新幹線は距離的には、青函間には不便になったね。
@biffgate-ii7od
6 ай бұрын
ほすか(そうですか?
@-.-q319
2 ай бұрын
それが旅行ってもんよ
1979年
のどかな船旅…実際は座席取るために列車降りるところ、船降りるところですべて猛ダッシュだったけどな。
今の船ならWiFiつけないとな
昭和的独特なナレ-ションだなぁ~「優秀な船です!」 また、あのまずい海峡ラ-メンを食べてみたい。(叶わぬ夢)
@marshall065
6 жыл бұрын
でも船内で売っていた紅鮭弁当はおいしかった。高ったけど。
@tomohikosatoh8897
5 жыл бұрын
マジで!? つか優秀な船とあるようだけど、恐らく昭和時代後期の歴代の就航船はその大半が函館どっく(以下、函どと略す)や楢崎造船所で建造された船だったそうです。 だからこそ今就航している津軽海峡フェリーの船よりは若干小ぶりに作られたと思います。 構造としては、前者は鉄道の貨車や郵便・荷物車を積み込むため、非常に特殊になっていて、後者は乗用車やトラックなどを積み込むだけのこと、やはり似たり寄ったりなので、青函連絡船の場合はそれ以上の大型化は極めて難しく、普通のカーフェリーは可能な限り大型化できるわけです。その結果、もし青函連絡船がさらに大型化された場合、積み込む貨車の数もさらに増加するし、その分今度は桟橋側の改装工事を余儀なくされるだろうし、そして乗用車用の車輛甲板も広くなり 、船室やそれに付随する設備もある程度以上充実しているかも知れないし、そうなると食堂の他に、浴場やゲームコーナーも完備されていたことでしょう。
@090909YUJI
5 жыл бұрын
貨車も積載するから動力室の制限もありそうですね。 (通常だと後方にエンジンですが後方から貨車を積載する為)
@nanalinn
4 жыл бұрын
木久蔵ラーメンよりかは美味いと思うけど
@nichihon
3 жыл бұрын
スーツ交通みたいな 話のないようですね
青森行き特急は北海道乗り継ぎの乗客用に、青森到着前に乗船名簿を配っていたね。少しでも時間の短縮にはなっていたのでしょうけどね。
2:44~2:50元祖ゴロンとシートかな?
@user-kd4hc4rd7i
3 жыл бұрын
雑魚寝とも言ったな〜通称ですが
@psychedelicraspberry1457
3 жыл бұрын
そうとも言えますね。この辺では、国鉄末期以降鉄道車両でもこういった座席が出回りましたね。 しかし、カーペットは船ではごく普通の座席です。
そうして今日からは、北海道新幹線が1時間で運行しております。グランクラスでは、この内容の食堂や喫茶店以上のサービスをしております。
なぜ蛍の光が?
@lannta2000
9 жыл бұрын
自分のいた地を去るから。
@user-et4ze7ex8j
4 жыл бұрын
蛍の光ではなく別れのワルツだと思う
@nanalinn
4 жыл бұрын
@@user-et4ze7ex8j 蛍の光も3拍子になればそうなりますよね。ちなみに編曲は1964年の東京オリンピックマーチの作曲者で知られる人です。
@psychedelicraspberry1457
3 жыл бұрын
蛍の光は別れの歌だからでは?オッサン世代だと卒業式で必ず歌いました。
@RK-sd7hb
3 жыл бұрын
ある本によると…ですが、始まりはある時音楽好きの船員がこれを流した事だと…… 当時は戦時で先行きが見通せない時代。故郷を離れる乗客たちの間に涙が伝播していったのだとか………
二等しか乗れなかったな・・・床の所とシートの所。普通船室ってのかな。酔うからデッキにしかいられないから一等だろうが同じだったろうけどね。一等個室のお爺さんデッキで滝ゲロだったし
@090909YUJI
5 жыл бұрын
天候良くても横揺れがありましたね。
@nanalinn
4 жыл бұрын
@@090909YUJI 横揺れ防止の装備が追加されたのは、廃止話が浮上した後ですからね。
뭐야? 이거?
@user-vp8jn7jr4h
7 жыл бұрын
김명섭 大丈夫ニダか?
@lotuseurope8806
2 ай бұрын
お前が知る必要は無い
今のようにLCCができて、航空機のシェアが決定的になると、大きな資金と労力をかけて青函トンネルを掘る意味はあったのかなと思ってしまいます。
@nanalinn
4 жыл бұрын
貨物を早く運ぶことを考えればメリットはあったように思います。これにより東京と北海道との週刊誌の発売の時間差が1日縮まったのですから。
@user-pe1ze7rz8i
2 жыл бұрын
航空機は、悪天候に弱いから、意味は有ると思う。
不味いと噂の海峡ラーメンを食べてみたかったです…。
@tomohikosatoh8897
5 жыл бұрын
青函連絡船の『海峡ラーメン』・・・不味いので有名(爆) 宇高連絡船の『讃岐うどん』・・・うまいので有名? このギャップって何だろう? たかが麺類系メニューだけでこの差はちょっとねぇ~(;´д`)
@nanalinn
4 жыл бұрын
喜久蔵ラーメンよりかはましかと思うけど。
グリーンに誰も乗ってないんだね
@ohanamatumae8194
2 жыл бұрын
やはり高いからですかね?
@user-ky5ki6cz3r
2 жыл бұрын
@@ohanamatumae8194 たしかにグリーンは高かった気がします