#燃ゆる白虎隊

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白虎隊(びゃっこたい)は、日本の幕末維新における戊辰戦争の一環である会津戦争に際して、会津藩が組織した、16歳から17歳の武家男子を集めた部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。名称は、中国の伝説の神獣「白虎」に由来する。
会津藩の敗色が濃くなる中での飯盛山での自刃で知られるが、戦死や自刃をしなかった隊士約290人は明治維新後を生きた。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。藩主松平容保が江戸幕府を支えて活動してきた会津藩は佐幕勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。
白虎隊は本来は予備兵力であった。隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度とされた。なお、装備していた火器は旧式銃(ヤーゲル銃(英語版)、短銃身化したゲベール銃、前装式の銃)のみであったとされる。これは火縄銃よりはましというレベルの装備であり、新政府軍の主力たる西南雄藩部隊の新型銃器(ミニエー銃、スナイドル銃)に対して著しく劣っていた(そもそも東北地方諸藩のほとんどは、旧式軍備の更新を行わないまま戊辰戦争に突入していた)。
会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来は城下町防衛の任に当たるべく組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。
しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けて潰走し、そこで数名の戦死者が出ている。8月23日に負傷者を抱えながら残りの合計7人(20人という説もある)が郊外の飯盛山へと落ち延びた(この間、庄田保鉄ら隊員数人が農家で草鞋を貰い受けている間にはぐれた)。この時、深刻な負傷によりこれ以上はもはや戦えないと悟り、結果として7名(20名という説もある)が自刃を決行し、6名(19名という説もある)が死亡。唯一喉を突いた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが一命を取り留めた。
1928年(昭和3年)に刊行された平石弁蔵『会津戊辰戦争 増補 白虎隊娘子軍高齢者之健闘』によって、白虎隊は若松城周辺から上がる煙を見て落城したと誤認し、自決を選んだという認識が一般に広まった。貞吉が生前に伝え残した手記『白虎隊顛末略記』(貞吉からの聞き書きに本人が朱を入れたもの)を、会津藩士の子孫や研究家からなる「白虎隊の会」事務局長の飯沼一元(貞吉の孫)が2010年頃に親類宅で見つけ、若松城へたどり着くか、敵軍に斬り込むか「甲怒り、乙罵り、激論以てこれ争う」というやり取りがあったことを知った。白虎隊の会は2011年、落城誤認説は誤りであるとする説明文を飯盛山に建てた[入城か突撃か、いずれを主張した隊士も、敵に捕まり生き恥を晒すよりはと、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したとみられる。
途中はぐれた庄田保鉄らはその後、鶴ヶ城に入城し、士中一番隊の生存者と共に白虎士中合同隊となって西本丸を守った。籠城戦は1か月続いたが、最終的に会津藩は降伏した。
その後、飯沼は電信技士として明治・大正を生き抜き、1931年(昭和6年)に77歳で没した。飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の悲劇が現在に伝わっている。ちなみに飯沼は電信技士をしていた時期に日清戦争が勃発し、陸軍歩兵大尉として出征して漢陽に渡った際、ピストルを携帯するように言いつけられたが、「自分は白虎隊として死んだ身である」と断ったという逸話が残っている。飯沼の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬された(ただし、飯沼の墓は他の隊士の墓から距離を置いて建てられている)。
このほか「士中二番隊」の隊士であった酒井峰治も生き残って北海道に移住して米穀業を営んだ。没後の1990年、孫の酒井峯男が仏壇の中から『戊辰戦争実歴談』を発見し、戸ノ口原の戦闘や会津城攻防戦などを詳述した貴重な史料となっている。士中二番隊半隊頭だった佐藤駒之進のように、地元会津では戦死と思われていたが、存命で北海道に移住したことが昭和40年代に知られたような例もある。

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