【前代未聞】反乱者が勝利した80日間に渡る皇位継承戦|壬申の乱
壬申の乱(壬申の乱)について解説します。
✅参考記事
壬申の乱はなぜ起こったのか?勝者が天皇となった壬申の乱のポイント4つ
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"壬申の乱
- 刀剣ワールド"
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壬申の乱
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壬申の乱で一体何が起きたのか?大友皇子が首吊り死に追い込まれる
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壬申の乱
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天武天皇
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【ゆっくり解説】関ケ原に関する一考察
• 【ゆっくり解説】関ケ原に関する一考察
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もう一度火の鳥太陽編を読みたくなった
壬申の乱で最大のポイントは大海人皇子は実戦を高市皇子に任せたこと。 これにより大海人皇子対大友皇子ではなく、 高市皇子対大友皇子という戦いを一つ上から見る立場ということにできた。 という説がある
5:32 神田うの、の名付け元となった皇女。
これで一時は天武系の天皇が出るが途中で絶え、天智系に戻るのは皮肉な話だよなぁ…
@fujiwara_shino
Ай бұрын
天武系と言いつつ、草壁皇子の母が鸕野讚良皇女で天智天皇の娘だから、 女系で天智天皇と繋がってるし。 だから、淡海三船が継体持統の持統を諡号に選んだ、という説も。
@user-dp2ie8fg5m
Ай бұрын
天武は武王 天智は天智玉 天武と天智は赤の他人
@user-me7ox6to6c
26 күн бұрын
天武系から天智系に戻る時も、天智天皇の孫の光仁天皇が聖武天皇の皇女、井上内親王を皇后に迎えることで成立した。 が、後に井上内親王は呪詛の罪を着せられ廃后、彼女が生んだ皇子は廃太子された。
@fujiwara_shino
26 күн бұрын
@@user-dp2ie8fg5m 赤の他人かな。 異父兄弟説の方が説得力ありそうだけど。
@user-dp2ie8fg5m
24 күн бұрын
@@fujiwara_shino 漢籍にも精通していた森鴎外の『元号考』と『帝謚考』 「天智天皇」の諡号はどこから取られたのかというと、結論から言ってしまうとそれは古代中国の殷王朝の紂王のもってた天智玉に由来すると分析がある 皇室の菩提寺の泉湧寺に天武系の位牌が無いなど傍証は複数あります
朝ドラのタイトルが「虎に翼」って聞いた時に、、大河じゃないの?と思った、、
岐阜県の21号線(揖斐川の上)から西を望むと 養老山系や伊吹山系が連なる高い山の壁がそこから先の世界を完全に 塞いでしまっているように感じます。 この高い山々の向こうに本当に近畿地方が存在するのだろうかなんて不思議な気さえします。 三重県の鈴鹿の関や岐阜の不破の関でたまたまこの山たちの連なりが途切れている僅かな2つほどの少ない箇所がまるで堅固な城壁に唯一(唯二)空けられた城門のような役割を古代から果たしてきたのでしょうね。
・大海人皇子の妃「鵜野讃良皇女」は天智天皇の次女 ・天智天皇は健皇子という長男がいた(鵜野讃良の同母弟) 当初は健皇子を皇太子にする予定だったが健皇子は幼くして病死 健皇子が生きてたら大海人皇子が皇太子になることはなかったと推察 ・天智天皇は鏡王を側室にしてた 鏡王の妹が額田王。額田王は大海人皇子の恋人。2人には十市皇女という娘がいた。 ・天智天皇は大海人皇子に額田王を妻にしたい言い、代わりに自分の娘である長女(大田皇女)と次女(鵜野讃良皇女)を大海人皇子に嫁がせると言った ・天智天皇は鏡王を中臣鎌足に下賜したあとに額田王を側室にする ・大海人皇子と額田王の娘である十市皇女は大友皇子と結婚 つまり十市皇女からすれば実父と夫が戦争をしたという辛い立場 ・大海人皇子が行軍をしてる途中で伊勢に寄り、五十鈴川で身を清め「この戦いに勝利した際は伊勢神宮を国内最高位の神宮にする」と天照大神に祈願。 ・乱終結後、大海人皇子は誓いのとおり伊勢神宮に貢献し、それは現代でも続く ・乱後は十市皇女は大海人皇子に引き取られる が、微妙な立場であった彼女を大海人皇子は伊勢神宮の斎宮にすることを決める 伊勢に出立する当日に十市皇女は自◯する ・大友皇子と十市皇女にはかどの葛野王という息子がいた 彼は両親を失っても皇族の一員としてひっそりと暮らしてた こういうのを大河ドラマにすればいいのに
@fujiwara_shino
26 күн бұрын
タイトルは、天上の虹、で。
壬申の乱は年表しか知らなかったので、いい勉強になりました。
こういう動画を待ってた🎉歴史は地図を理解しないとちんぷんかんぷんになる😢
@user-yk7ri7vf5q
8 ай бұрын
歴史というのは内容を知れば知るほど面白くなりますね 歴史の授業がつまらないというのは内容を精査せず年代や事象や人物名だけを暗記させるような感じだからだと思います これだけ歴史的背景の大きな出来事でも 日本史の授業では「672年に大海人皇子と大友皇子によう後継者問題で壬申の乱が起こり後に大海人皇子が天武天皇として即位した」で終わりですから
漢字を間違えて「人身の乱」と書いたら、鉄道が「人身事故によるダイヤ乱れ」を起こしているように見える。
名前に大海なんて入れてる時点で親の斉明天皇の時点で皇位を継がせる気が無かったり、兄である天智天皇が嫡子継承に拘ったのは我が子可愛さではなく、唐のやり方を導入する改革の一環であったという話もありますね。天武天皇、マジで壬申の乱まで表舞台に全然出てこないので古代史研究にどえらい苦労すると聞きました。
@user-um9yo2xg6b
10 ай бұрын
皇極・斉明天皇の前夫の子であり、天智天皇の異父兄である漢皇子説もあります。日本書記に生年が記載されてないのは、本当に怪しいと思います。
@fujiwara_shino
Ай бұрын
大海人皇子の名前は、養育された凡海氏から付けられただけでは? 皇子皇女の名前としては、ごく普通の付け方だけど。
14:55頃、天武天皇と名乗りはさすがに変だろう。漢風諡号だぞ。
皇家と言えども継承戦争は避けられぬか 関ケ原…まさに天下の分水嶺よ
学生の頃は覚えるだけだったのに大人になると深掘りしたくなるw 3センチくらいは掘れたw
@morita0807
Ай бұрын
受験勉強がいかにクダラナイものか。歴史も古文も、受験を離れると趣味として楽しめますね。
案外最初に朝敵とされた側が勝ってるのよね 戊辰戦争のイメージ強かったりするけど 承久の乱なんて、上皇が配流されるというオチだし
@user-ot5wo3vc9r
9 ай бұрын
微妙に違うかもしれないけど、源頼朝も先に朝敵にされてましたね。旗色悪くなると源義経を朝敵にさせられたけど
@user-ck4cv3jh1j
7 ай бұрын
後白河法皇の院宣ですね
@ohoyamato
Ай бұрын
楠木正成は忠臣で、足利尊氏は朝敵で。 でも変だな、なんで今の天皇は北朝なんだ? と戦前の小学生が疑問に思って口にしたら、先生にぶっ飛ばされた。二度とそのような疑問を持つなと。
やっぱ勝敗を決するのは事前の準備(戦略的、戦術的価値のある場所を押さえる、味方を増やす)なんですね。
@user-ke1xz7lw3m
9 ай бұрын
中央の大豪族の大部分は大友側についていたよ。 大海人皇子の側についたのは、大半が畿内豪族から距離を置く立場である地方豪族だ。 天智天皇の治世は、中央集権を進めていたことから、地方豪族に特に大きな負担を強いられたのだろう。 その不満が爆発したものが壬申の乱だったようだ
@user-ke1xz7lw3m
9 ай бұрын
中央の大豪族の大部分は大友側についていたよ。 大海人皇子の側についたのは、大半が畿内豪族から距離を置く立場である地方豪族だ。 天智天皇の治世は、中央集権を進めていたことから、地方豪族に特に大きな負担を強いられたのだろう。 その不満が爆発したものが壬申の乱だったようだ
@user-of5bn4zk5t
5 ай бұрын
@@user-ke1xz7lw3m 目と鼻の先の大和国内で兵を揃えた途端に大伴吹負に指揮権ごと奪われてるし 古代日本での名家がこぞって大海人皇子側についてるから、畿内豪族から距離を置こうとしてた天智天皇が疎まれてたのが一番の理由だろう
@fujiwara_shino
26 күн бұрын
でも、天武·持統の二代で「大君は 神にしませば・・・」の通り、現人神として君臨し、大陸に倣った京の造営に、律令制と更に強力な中央集権体制を整えたけど。
吉野での隠遁生活は、大海人皇子には陰鬱なものだったかもしれないが、持統天皇にとってはしあわせな思い出だったらしく、生涯何度も吉野を再訪してますね。
一説によると関ヶ原の地形は大軍同士が戦うのに適していると、歴史関係の本で読んだことがあります。
@kta7843
10 ай бұрын
google earth等を見ると広い平地と小高い山側(丘)が点在する。丘に旗本を置き、軍を平地に置く。戦況は一目。最高司令官は丘の高いところから差配の指揮を取る。 昔の大軍同士の戦いはこんなもんだっのかな😃。 ただ、日本のドラマで大軍の軍事演習のシーンが一切出てこない。 中国のドラマだと、太鼓叩いたり、笛をならしたり、それに合わせて、軍部隊がうごくシーンが出てくる。 我々が高校生のとき、運動会で剣道の面に風船を付け、赤白(赤白各々150人ずつ)に別れて、戦闘を行っていた。 しかし、兵隊の一人である我々にどう動けの指示は全くないにも関わらず、お互い左回りに回って、後ろを取ろうとする。そして、最終的に戦闘となり、風船割りとなる。 日本では軍事教練は必要なかったからドラマにも描かれないのだろうか😂。
@user-ke1xz7lw3m
7 ай бұрын
大軍同士の戦いというのは横に長く広がる陣形になります。 なぜなら大軍であっても包囲されたら終わりだからです。包囲され身動きが取れなくなって攻撃されたら大軍でも脆い。 それを防ぐために敵の陣と出来るだけ同じ長さの広がりを陣形に持たせるのが定石となっています。 しかし日本は起伏の多い国土で、そのような何万もの大軍が展開できる場所は少ない どうしても縦に長い陣形になります。この陣形の方が分厚いので、防御力は強いですから横に広がる事が制限される環境なら有利ですが 大軍の価値を生かす事が出来ないでしょう。 まあ、大軍同士が衝突する戦になれば、日本では場所も限られるでしょう
新幹線が通ってるのは南北ともに断層地帯でトンネルを当時は掘ることが困難だったからです、本来考えられていたのは桑名付近からトンネルを掘って八風峠をくぐり永源寺ダム付近から大津に向かうつもりでしたが、掘ったら時間がかかりすぎて東京オリンピックに間に合わなかったでしょう。新名神が作れたのも技術の進歩のおかげです
天皇ってなんとなく高潔で神聖な印象があったけど歴史見ると以外とドロドロしてるよね
@user-gx3di8zv1y
10 ай бұрын
日本の権力のど真ん中だからね。公家も大概だし
@laughingswordfish3665
10 ай бұрын
同感です。でも生身の人間ですから…
@user-sh3rv1vw1z
10 ай бұрын
権力者なんてドロドロしてなんぼよ😅
@user-on8eg4xe7d
10 ай бұрын
天皇家が権威と権力を持っていた時代だからしゃーない。平安時代になって 天皇家が権力を持たなくなってから神聖な権威を持つ存在に変わっていった。
@koubutei-ryu-syu
10 ай бұрын
ドロドロしてない権力者なんてもはや権力者じゃないかもね()
中大兄大海人ともに両親が天皇…最高の血筋ですね。
宇宙皇子の初期が丁度この頃の設定だったよね。
この辺の話は里中満智子先生作の『天上の虹』を読んで理解を深めました。
俺の屍を超えていけ、でこんな事情で墓に埋められてた神様がいたなぁ…
駅鈴最強!
大海人皇子からしたら大友皇子が即位したことを認めたくない、 明治政府からしたらたとえ7か月であっても天皇が空位だったら都合が悪いってことなんでしょうかね
@user-ot5wo3vc9r
9 ай бұрын
空位が嫌なら、大海人皇子が即位してた事にすればいいので、大友皇子にしたのは、皇位継承順はまず息子が一番手なのを明治政府は 示したかったからでしょう
0:55秒の矢印にある「甥」と「叔父」逆じゃないでしょうか。
大友皇子は明治時代になってから弘文天皇を追贈されるんでしたっけ まさに勝てば官軍の戦いですね
@Hayato_Takezawa
10 ай бұрын
天智の意思はともかく、大友本人は空気を読んで即位しなかったのでは?と思います。 あと、天智の4は暗32が真相と思います。
@user-ke1xz7lw3m
9 ай бұрын
明治政府が南北朝時代も、それまで北朝が正当だとされていたのを改め 南朝も正当だったとするなど、歴史の再評価を行っているのよ 大友皇子を弘文天皇にしたのも、その一つでしょうよ
@user-ke1xz7lw3m
9 ай бұрын
明治政府が南北朝時代も、それまで北朝が正当だとされていたのを改め 南朝も正当だったとするなど、歴史の再評価を行っているのよ 大友皇子を弘文天皇にしたのも、その一つでしょうよ
大海人皇子⇛天武天皇。 大友皇子⇛弘文天皇。
史実に基づいた天武帝の正統性を伝える動画でしょうか?
どん兵衛は日本を変える指標の1つなのか
「東の勢力を味方につけて、東から西に進軍して敵を討つ」というのは神武天皇の東征の際にナガスネヒコを討ったときのエピソードをトレースしてる つまり「自分は太陽の神の子孫なのだから、日が昇る方向から西を討つことで神が味方する」ということ この後天武政権は正式に国号を「日本」としている
@hirox8834
9 ай бұрын
「東」 → 「日」+「亠」+「丨」+「个」 → 「日本」
@kokiimai6149
9 ай бұрын
@@hirox8834 「ひがし」という言葉の語源は「ひむがし=日向かし」ですからね
@social_com
7 ай бұрын
逆に古事記の記載が壬申の乱から生まれた可能性って無いんだろうか? とも思ったけど、稗田阿礼が帝紀を誦じてるから薄そうだな
天武天皇は律令国家の形成を進めたのですが、その一方で位田など豪族(貴族)の土地私有を認めたり、蔭位の制で位階を相続できるよう認めたり、分権的な性質も残しています。 そこら辺が、律令が定着していった理由でしょうか。まぁ制度を利用して最も得したのは藤原氏ですがw
火の鳥、太陽編の舞台になった
鸕野讚良が大海人皇子を焚き付けたのは、大友皇子の母が伊賀宅子娘という采女で、 非常に身分が低く、釆女の子が大王になるのが許せなかったから、 とも言われてる。 挙兵で東国に向かったのは、大海人皇子の名前の通り養育された凡海氏のつながりで、 尾張の海部郡から美濃にかけての豪族が、挙兵する手はずになってたから。 吉野を出てから隠郡の駅で驛鈴を手に入れ、積殖山口、加太、 とほぼ今の名阪国道に沿って僅か二日で三重に入れたのも、先回りして不破の関を抑えることが出来たのも 追い詰められての挙兵ではなく、入念に準備したうえでのこと。 近江宮に人質で残されていた高市、大津を脱走させ、伊勢で合流する事が出来たのも、 ちゃんと段取りをつけていたから。
@user-me7ox6to6c
8 күн бұрын
当時の慣習では、采女が生んだ子は天皇にはなれなかったもんね。 殆どの豪族たちが大海人皇子側についたのも、その辺りが原因とも言われてるね。
関が原で不破関資料館、自害峯の三本杉に行き、勉強したけど、すっかり忘れてしまい こちらでまた勉強できてよかった!大友皇子、大海人皇子って名前似てるけど どうやって覚えればいいの?!も~~紛らわしいです💦
古代・武埴安の乱に流用したエピソードかもね。又は彦坐王の話? 大津の宮は、開化の晩年の宮?葬于春日率川坂本陵。一云、坂上陵。次妃和珥臣遠祖姥津命之妹姥津媛生彥坐王。 和珥臣の本拠地であり、三尾氏の本拠地などで、古代と重ねると深く理解できるのかも?
白村江の戦いの動画でも斉明天皇の崩御後に中大兄皇子が天智天皇として即位するまで結構なタイムラグがあるように説明されていたので 大友皇子が大海人皇子を始末するまで即位しようとしてなかった(できなかった?)と考えるのも自然かもしれませんね 天皇が即位せずに不在の期間が存在するというのは当時では不思議ではなかったという見方もできるのではないでしょうか?
@user-um9yo2xg6b
10 ай бұрын
結局、大海人皇子を始末することなく、天智天皇は即位しています。それより、同母妹であり孝徳天皇の皇后であった間人の死後に即位したことが注目されていますね。
@user-ot5wo3vc9r
9 ай бұрын
そもそも大化の改新もクーデターの一種ですし···中大兄皇子の反乱が成功したとも言え、その後も反対者を処刑しているわけで。自分が天皇になると命が狙われたかもしれません
@user-ke1xz7lw3m
9 ай бұрын
斉明天皇の後では孝徳天皇が即位していますよ 孝徳天皇の後は斉明天皇が重訴して皇極天皇が即位している。 中大兄皇子の即位が遅れたのは、一つは大化の改新した後にすぐに即位すれば 自らの権力のために大化の改新を起こしたことになり、名分が立たないからと考えられています 蘇我入鹿は、自ら即位して天皇になったとも言われています。 それを討ったのですから、大逆を行ったことになりますからね。 この説はともかく、 大化の改新を主導した立場の中大兄皇子としては、すぐに即位するわけにはいかなかったのでしょう。 だから、自らの妹を皇后としている孝徳天皇を即位させ、さらに自らの母親である斉明天皇を再び即位させて皇極天皇としたのでしょう それでもいつでも即位できるように、大化の改新以降は自らは皇太子の地位であり続けていました。 大友皇子が大海人皇子を討つまで即位しなかったというのはわからないな。 即位した方が立場は圧倒的に強くなるのっだし 問題はないでしょう
@user-nq9zi9pr2d
2 ай бұрын
@@user-ke1xz7lw3m細かくてすみません。孝徳天皇の前が皇極天皇、重祚した後が斉明天皇です。
蘇我家の悪態も強調されず、乙巳の変が中大兄皇子と中臣鎌足がヒーローで悪たる蘇我家という教えを受けて来ましたが乙巳の変後、国民が平穏に暮らしている様子が伺われない歴史に長年疑問を抱いていました。 正当性に欠けてた意味がこの壬申の乱に至る経緯で明らかになり勉強になりました でも歴史は不正確とは言え一般的な見解と、どんな経緯が前後で起こっていたのかを 伝えるべきではないかと思います。 一方的な善悪の教育は社会に出て行く若人に対してはあまり良くない教えだと思います
勝者の歴史とプロパガンダ。
てっきり大友皇子が自分が息子で正統だからと反乱起こしてあっという間に鎮圧された戦いという程度の認識でしたが、実際は全然違ったんですね。日本史の先生が非常に教えずらそうにしていたのを思い出しました。
@user-um9yo2xg6b
10 ай бұрын
ただ、大友皇子は正式な天皇とは認められておらず、弘文天皇の諡号は明治時代に定められました。天皇の諡号は天智系の皇統に戻ってから定められたためでしょう。
@user-ke1xz7lw3m
9 ай бұрын
記紀には大友皇子が大海人皇子を討とうとしたから鎮圧されたようなことを書いていたと思うが。 実際には、大海人皇子が挙兵したとき、朝廷は慌てふためいたというから大海人皇子の側が一方的に挙兵したのでしょうよ 弘文天皇については、徳川光圀が編纂した大日本史に大友皇子が即位したのだろう。ただ、それでは大海人皇子が反乱を起こして天皇を弑逆したことになるので隠されたのだ って説が提示され、明治政府がそれを支持したことで弘文天皇の贈名が付けられたが。 学会は根拠がないと冷ややかですよ。 ただ、天智天皇が崩御したのは672年1月7日、壬申の乱が起こったのは672年 7月24日 つまり大友皇子が即位してないとしたら、壬申の乱までの間、半年以上も天皇が不在という事になる。 大友皇子がすでに皇太子として立太子していた事実を考えれば、これは不自然ですからね。 私もやはり、大友皇子は即位していたと思いますよ
@user-zq7zs1fv5p
8 ай бұрын
母親の身分が低いので本来は天皇に成れない大友皇子が天皇に成ろうとしたから支持基盤が脆弱だった。
@user-me7ox6to6c
8 күн бұрын
当時の慣習では、大友皇子は、母の身分が低すぎて天皇にはなれないはずなんですよね。 采女の生んだ皇子だから。 大海人皇子が挙兵したとして、なぜあれだけの豪族の支持を得られたかというと、大友皇子の母の身分が足りないことが大きかったとも言われてますね。
大友皇子伝説は何故か関東にあるけど何故なんだろうね
やる夫が大海皇子になるようです やる夫作品では屈指の傑作だからみんな見て
映画「関ケ原」でも、ちょっと触れてた。桃配り山で大海人皇子が桃を配ったって。。。
時代が変わっても、名将は同じ戦場を選ぶ。ヨーロッパの歴史でも同じ。話変わるが、天武朝は孝謙・称徳天皇で終わり、桓武天皇の父の代から天智系に戻る。天武系は陵墓も傍系と処遇されている。
讃岐姫👸
これ大河ドラマにしたら面白そうなのになぁ。
@user-cn1bl2bv3g
10 ай бұрын
皇室はタブーなんですかね? 本木雅弘さんが厩戸皇子やってましたけど
@user-xm4ln3tq2i
9 ай бұрын
聖徳太子から平城京遷都・大宝律令制定までで一つの大河作ったら面白そうだけどなぁ
@user-qe9mq9tz6x
9 ай бұрын
古代だと史料が少なくいかつ人気なくて視聴率的にも腰を上げないのかな😅
@gucci2042
9 ай бұрын
なってます。天上の虹だったかな。
@shimatsu5619
9 ай бұрын
@@gucci2042嘘はやめい
7世紀をもっと詳しく教えて下さい。壬申の乱は読みました。先日の新聞で天皇陵、斉明天皇も出ていました。石ノ森章太郎先生視点の歴史が知りたい。
NHKは聖徳太子は蘇我氏と物部氏争いを放映したが、壬申の乱は難しいみたいです。
@user-ot5wo3vc9r
9 ай бұрын
皇室の内乱では難しいでしょう、特に反乱側の勝利では
@user-wk8ih7im7d
9 ай бұрын
@@user-ot5wo3vc9r 壬申の乱は天智天皇は親唐派であり、天武天皇は国内派と言われます。天智天皇が崩御のまえから博多に相当数の唐艦船がいたときいています。 現代の政局とおなじようです。
明帝国の永楽帝と大海人皇子は共通点多い。
@user-wc2kv9hj2e
10 ай бұрын
明では二代目の皇帝は、建文帝ではなく、靖難の変で勝利した永楽帝とされていましたね。 そのせいで洪武帝が崩御したあとに、ダイレクトに永楽帝が即位したことになっていて、建文帝の存在はなかったことに。 清の乾隆帝の時代になって、ようやく建文帝の名誉は回復された模様。
@user-ow1ww6cf7p
Ай бұрын
双方後ろめたさから政治に熱心だったのも同じですね
叔父vs甥の結果、叔父が勝つところまで明の靖難の変そっくり
火の鳥を思い出した
南北朝時代にも青野ヶ原の戦いがあったね。天下分け目ってレベルではないが
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
@user-ro1bg9uc1v
10 ай бұрын
額田王か
@user-qh3zw6kd7m
28 күн бұрын
万葉集、額田王の歌ですね。
天上の虹ってマンガがありましてね。
明らかに簒奪王朝である天武系。渡来人説もいまだに消えず。最終的には天智系に戻るも、桓武以後までは謎だらけの時代。
@ats4wd
29 күн бұрын
国津神系から見れば天津神系は渡来人ですから、天智天武どちらにしても渡来人です。
コムロの乱が大事にならないことを願うが、現代の皇室にはもう一つの火種が・・・
受験生の時、友達(中央の有力者)を率いて負けたのが大友皇子て覚えたの思い出したわ
@morningspyder
9 ай бұрын
?
ちな、関ヶ原って地元の子らの学習カリキュラムはあまりないんだよなー
天智(玉)=紂王(殷) 天武(王)=武王(周) 易姓革命説
大前提として、天智が兄、天武が弟という構図がありますが、それって事実ですか?天武は出生が曖昧で、壬申の乱以前の記録ははっきりしていません。天武が宮廷内の権力争いに勝利し、壬申の乱以降の「正史」を書き換えたとするとこのあたりの流れがスッキリするんですねぇ☀️ まぁ、証拠はありませんが…😅
@user-ot5wo3vc9r
9 ай бұрын
それなら、天智天皇を大化の改新を始めとしたクーデターが成功したから成れたと、いっそ悪者にもできそうですが···そんな事は藤原不比等が認めなかったでしょうけど
@user-ow1ww6cf7p
Ай бұрын
正統性がない人が成人した正統な人物相手に支持を集めるのは難しいでしょう。 なので天武天皇は天智天皇と血のつながりがあったと思います。
なぜ壬申の変じゃないのかな?
◾️ 出 演 大友皇子 建文帝 大海人皇子 永楽帝 中大兄皇子 洪武帝 (制作・著作©️直隷省電視台)
当時の情報が少なくて勝因、敗因不明。 ただ、天智は殷の紂王、天武は周の武王を意識した諡ですね。
@user-ls9ux7yd3w
Ай бұрын
中国古代の易姓革命とはちとちがうかと あくまで日本は身内の争い
@user-tg4kj5xt8f
Ай бұрын
紂王と傑王は悪王の代名詞。周の武王は賢王の代名詞。 あえてそれを使ったということで、子孫は恨み骨髄。 後の代きっちり仕返ししてます。
外戚を作りたくない兄の意向とは言え、姪という姪を片っ端から娶りまくって子ども作りまくる大海とかいうインモラルなエロ漫画みたいな人
古代最大の征服戦争は 出雲王国を滅亡させ 吉備王国~大和王国を滅ぼし、 大和に征服王朝を樹立させた 第二次物部進攻。 古事記は 神武東征や 出雲国譲り 等とした。
壬申の乱でご先祖様が勝ってたら…。
庚午年籍、現代でのマイナンバーか。 昔も今も揉めたんだね。
天智天皇と天武天皇は兄弟ではあるが、異父兄弟で天武天皇の方が兄という説がある。 天武天皇、天智天皇の母親は今で言うバツイチなのは文献で証明されている。その前夫との間に産まれたのが後の天武天皇。 天智天皇は弟だったが、父親が天皇だった為、皇太子となり、後に天皇になった。 天武天皇の父親は天皇家の血筋ではあるが、かなり遠かったとも… 日本の最古の歴史書である日本書紀は、天武天皇が編纂指示をしたとされていて、 壬申の乱の話も天武天皇側に有利な話になっている 大海人皇子は実は既に天皇に即位していたと最近ではなっているが、日本書紀には記載されていない。 一説には天智天皇は天武天皇に暗殺されたという説もある。 歴史は勝者の歴史と言われているから、仕方が無いです。
@user-ot5wo3vc9r
9 ай бұрын
そもそも大化の改新等なければ、天智も天武も無かったかもしれないし···蘇我氏の思いのまま操れる皇族が即位してたでしょうし
@user-ye7fv6zw5u
4 ай бұрын
天武天皇の正妃で後の持統天皇は天智天皇の娘だから、天武系だけど血筋で言えば天智系ともいえますね 持統天皇の異母妹で従姉妹でもある元明天皇の実父も天智天皇ですし 男系は維持されてますね
大友皇子は母親の身分が低いというのは初めて知りました。
@user-ke1xz7lw3m
9 ай бұрын
大友皇子の生母・伊賀宅子娘は皇族ではなかった。 その名前から伊賀郡司の娘ではないかと言われているが 后や妃ではなく。采女として後宮に入ったところからも、身分が低かったこともわかる 当時は生母が皇族ではない皇子が立太子することは異例のことでね そのことに不満をもった豪族も存在したかも知れないが。 しかし壬申の乱では中央豪族は大部分が大友皇子の側についたのだし。朝廷をまとめることはできたのかも知れない
@user-ye7fv6zw5u
4 ай бұрын
幼くして病死した天智天皇の長男・健皇子の母親は蘇我の傍系出身でしたからね(蘇我毛人の異母弟) それでも蘇我一族。やはり健皇子とは身分が違いますね 健皇子が生きてたら、天智天皇は大友皇子を後継者にすることはなかったでしょう
大友皇子の側についた豪族の多くは中央の有力豪族だった。 対して大海人皇子の側についたのは、例外もいますが。ほとんどが地方豪族でしたよ 天智天皇が中央集権体制の確立を目指しましたから、中央に権力を集中するということはそれは他ならぬ地方豪族の力を削るというものですからね。 天智天皇への地方豪族の不満が強かったのでしょう。 壬申の乱は、畿内を中心とした中央豪族と地方豪族の戦いという側面もあったわけです。 そしてこの壬申の乱で有力豪族は軒並み力を落としたことから、天智天皇の中央集権体制は進んだわけですね
天下分け目の戦いといえば、自分の中では筑後川の戦いです。 菊池武光と戦う王子、懐良親王の熱い物語は映画にもできそうなのに知名度イマイチ。 日本三大合戦、筑後川の戦いをぜひ動画で取り上げてください。
@user-un6zp8de7m
10 ай бұрын
しかし調子に乗り過ぎた懐良親王は、足利義満がキレて今川了俊を派遣して北朝有利になると大宰府失陥して失意のうちに死去。
@user-ot5wo3vc9r
9 ай бұрын
そりゃ歴史上は北朝が最終的には勝者なので、南朝側が勝った戦いは知名度下げられますね。
井沢元彦さんの唱える、ベトナム戦争のような、新羅と百済の代理戦争という説はどうなんでしょう? 鎖国の江戸時代を除いて、古代はもっと、外国・大陸との関係が深かったみたいに言われてましたが。
@user-ot5wo3vc9r
9 ай бұрын
百済は既に滅んでいるからどうなんなろう。天智が百済天武が新羅なら、天智即位前にも天皇になれた気もしなくはない。天智を殺す気は無かったかもしれませんが
天下取るむねに・・・壬申の乱。 すみません、言いたかっただけです
天智天皇が天国...?
壬申の乱は.天智と天武の直接対決。天智が負けて入水自殺した、九州での出来事。
野洲川 でもね 後世には 天保の義民 元 都庁職員著
壬申の乱で人心が乱れた
天武系の主な天皇 文武(病弱、夭折) 聖武(無駄遣い) 称徳(道鏡事件) 聖武系の主な天皇 光仁、桓武、平城、嵯峨。 差が歴然としている。
やすがわでも
大友皇子の子孫はその後も近江大津に留まり、35代目のときに五家に分家し現在に至っている。 本家は大友家、わたしは分家の男子である。
昔は壬申の乱ってこういう話だと信じてたな。今は嘘だと思っているけど。
「愛子さまを天皇に!」 とか言ってるヤツらはこういう状況を 起こしたいと言っているようなもの。
@shimotakahara
9 ай бұрын
弟の宮様の大麻事件や学生時代の落第逃れ事件 そのお子様の学校の成績や 親不孝があるから どうしても思ってしまいますよ
大友皇子は天智天皇の子供で天智天皇は中大兄皇子ですから韓人であり百済系。大海人皇子は出自がはっきりしませんが蘇我入鹿の子供説があり蘇我系と思われます。すると壬申の乱は百済系の近江王朝と蘇我王朝の戦いではないでしょうか。尾張氏は蘇我系ですから大海人皇子側についたと思われます。
さて、通説ではと、一言付け加えたほうが丁寧でしょう。 600年代まで大和朝廷の都は、九州北部現在の福岡県域にあったとの説があるよ。
チャンネル主は東大受験とかしてるのかな
結局アッホの天智天皇が優秀なブレインであった大海人皇子に嫉妬しただけ。そしてアマちゃん大友皇子が勝てるわけないって。
@babukishi
5 күн бұрын
結局アッホの秀吉が優秀なブレインであった家康に嫉妬しただけ。そしてアマちゃん秀頼が勝てるわけないって。
大友皇子の側についた豪族の多くは中央の有力豪族だった。 対して大海人皇子の側についたのは、例外もいますが。ほとんどが地方豪族でしたよ 天智天皇が中央集権体制の確立を目指しましたから、中央に権力を集中するということはそれは他ならぬ地方豪族の力を削るというものですからね。 天智天皇への地方豪族の不満が強かったのでしょう。 壬申の乱は、畿内を中心とした中央豪族と地方豪族の戦いという側面もあったわけです。 そしてこの壬申の乱で有力豪族は軒並み力を落としたことから、天智天皇の中央集権体制は進んだわけですね
@yshivu3
8 ай бұрын
外交から来る中央集権化の要請という政治課題、中央対地方という豪族の対立、母系対父系という皇族の対立。 全てが揃って戦乱以外に解決策が見出せなくなった結果の壬申の乱と考えれば、多少大雑把とは言え理解し易いですね。 加えてそこに外交方針や出自の相違も含めれば更に鮮明になるやも。