No.606_城跡巡り 浜田城址(三重県四日市市)

2024年5月26日(日)
浜田城(はまだじょう)
所 在:三重県四日市市鵜の森1丁目
34.9647455, 136.6168273
駐車場:なし
別 名:なし
⚫︎浜田城は、室町時代の文明2年(1470)に田原孫太郎景信の三男田原美作守忠秀が築いたものである。
その後、藤綱、元綱らがこの地を領したが、安土桃山時代の天正3年(1575)に織田信長の家臣滝川一益に攻められ落城したという。
(現地案内板より)
⚫︎浜田城は、四日市市内を流れる三滝川・天白川が形成した沖積平野に位置する。この地は、四のつく日に市が開かれていた場所であり、東海道五十三次の四日市宿にもあたっていて、宿場町としても発達した所である。現在の近鉄名古屋線四日市駅の西、鵜森公園にあたる。
 浜田城は、赤堀城・羽津城と共に赤堀三家の一つであり、田原景信の三男忠秀の築城になる。
(日本城郭大系10 83ページ)
⚫︎旧市内、近鉄四日市駅南西に鵜ノ森神社がある。市中心部唯一の森として、また運動時のある公園として、市民に親しまれているが、これが浜田城址である。
 城は、赤堀景信の三男忠宗の築くところで、文明2年(1470)といわれている。その後、藤綱、元綱、重綱と四代にわたって栄えたが、元亀3年(1572)滝川一益に攻められて落城、元綱は切腹、長子重綱は逃れて父の仇を討とうとしたが、その後の合戦で討死したという。
 鵜ノ森公園は、浜田城の一部に過ぎず、当時は堀も大きくなかなかの要害であった。いま、公園の北500メートルのところに天理教の四日市教会があり、庭内に老松が残っているが、ここは落城の際奮戦して死んだ中山掃部助の首を葬ったところで、掃部ノ森と名づけられ、以降約350年間、付近の木を伐ったり折ったりすると忽ち病に冒されるといい伝えられ、うっそうたる森であっらが、大正7年、教会設立の際、松と杉を形見に残して伐り払われ、掃部塚という名のみ残っている。
(日本城郭全集8 106ページより)
⚫︎15世紀後半、この地を治める田原美作守忠秀によって築かれたのが浜田城です。田原氏は、もともと上野国赤堀庄に住んでいましたが応永年間(1394~1428)に景信が伊勢に移り、四日市の赤堀に城を構えたとされます。景信は、長男の盛宗を羽津に、次男の秀宗を赤堀に、そして三男の忠秀を浜田に配しました。世にいう赤堀三家です。
 忠秀は、浜田城の西方にあった東海道を海に近い東に移して交通の便を図りました。また市場の整備をおこなったのも彼の頃で、四日市という地名も忠秀のころに生まれた名前のようです。
 「伊勢軍記」によると、忠秀の二代後の元網の時、織田信長の家臣、瀧川一益に攻められ落城、子の重綱は城を脱出し、織田信雄に属していましたが、羽柴秀吉と信雄の合戦で討ち死にし、浜田家は滅んだとされます。
 現在城跡は茶室を備えた鵜の森公園となり、公園内の鵜の森神社に、忠秀以下四代の霊が祀られています。
(四日市市ホームページより)
www.city.yokkaichi.lg.jp/www/...

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