【江戸幕府の部屋 30】今回は外様系の旗本家島津家を調べてみました。なかなか動画作成の時間が取れず期間を空けてしまいましたが、霊夢&魔理沙にゆっくり解説してもらいます。

幕末の雄島津を名乗る旗本島津家について、魔理沙と霊夢にゆっくり解説してもらいます。最後には今回紹介の島津家の当主たちの職歴等を書き出していますので、興味のある方はぜひご覧いただきたいと思います。
タイムスケジュール
0:00 「江戸幕府の部屋第30回」
2:10 ●外様系旗本島津家の紹介●
9:19 ●江戸時代中期の旗本島津家について●
19:45 ●江戸幕府の役職 御持筒頭について●
24:27 終了画面
終了時間  26:12
 当チャンネルは、江戸時代の中でも旗本関連の話を、霊夢と魔理沙による座談会的な雰囲気で深堀りし、ゆっくり解説するチャンネルです。
 私の独りよがりな考えや勘違いなどをそのまま発信していることも多いので、特に魔理沙には間違った発言をさせることも多いと思いますが、コメント等でご教示いただけたら、大変ありがたく、今後の参考にさせていただきたいと考えています。
 なかなか動画作成の時間が取れず、前回から期間が空いてしましましたが、これからも少しづつでも動画投稿を続けていきますので、今後もご視聴・応援いただけるような動画を作成していくつもりです。
 今回は旗本島津家を取り上げてみました。旗本島津家は薩摩藩島津家の分家の日向国佐土原藩島津家の分家筋の家の解説をしています。今後とも当チャンネルにお付き合いいただき、ご視聴くださいますようよろしくお願いします。
今回紹介の島津家当主の職歴等を記載しますので、興味のある方は、参考にしていただき、ぜひ動画視聴の参考にしていただきたいと思います。
島津家(3000石)
(1)島津式部少輔久寿(元禄3年5/29分知~元禄6年8/3死去)
  丹羽左京大夫長貴三男
  元禄 3年 5/29 島津惟久より3000石分知寄合入(27歳)
  元禄 4年 6/26 大番頭
  元禄 6年 8/ 3 死去30歳
(2)島津主税久武(元禄6年12/11~正徳3年9/1死去)
  丹羽左京大夫長貴三男
  元禄 6年12/11 跡目相続寄合入(27歳)
  正徳 3年 9/ 1 死去47歳
(3)島津主膳久睦(正徳3年10/29跡目~正徳5年2/22死去)
  丹羽左京大夫長貴三男
  正徳 3年10/29 跡目相続寄合入(17歳)
  正徳 5年 2/22 死去19歳
(4)島津山城守久芬(正徳5年6/2跡目~延享3年8/19死去)
  丹羽左京大夫長貴三男
  正徳 5年 6/ 2 跡目相続寄合入(15歳)
  享保15年 7/28 御使番
  享保15年12/18 布衣
  享保20年10/22 御小性組番頭
  享保20年12/16 従五位下山城守叙任
  元文 2年 7/15 御書院番頭
  延享 2年 7/ 1 大番頭
  延享 3年 8/19 死去46歳
(5)島津式部少輔久般(延享3年11/3跡目~寛政2年7/29隠居~?)
  延享 3年11/ 3 跡目相続寄合入(16歳)
  明和 8年 5/ 1 西丸御持筒頭
  明和 8年12/18 布衣
  安永 3年11/ 1 小普請組支配
  安永 8年 2/20 御小性組番頭
  安永 8年12/16 従五位下山城守叙任
  天明元年 5/26 西丸御小性組番頭
  天明 5年 7/17 西丸御書院番頭
  天明 8年 5/27 職を免じられる寄合入
  寛政 2年 7/29 隠居60歳
(6)島津式部久道(寛政2年7/29家督~文化7年■/■死去)
  寛政 2年 7/29 家督相続寄合入(23歳)
  文化 7年■/■ 死去44歳
(7)島津伊予守久房(文化7年5/3跡目~嘉永7年7/27隠居~?)
  文化 7年 5/ 3 跡目相続寄合入
  文政 6年 2/18 寄合から本所深川火事場見廻出役
  天保 4年 5/12 御持筒頭
  天保 4年12/16 布衣
  天保 9年 9/24 駿府御定番
  嘉永 2年 1/28 西丸御留守居
  嘉永 2年12/16 従五位下伊予守叙任
  嘉永 7年 2/27 辞任寄合入
  嘉永 7年 7/27 隠居
(8)島津伊予守房肥(嘉永7年7/27家督~)
  嘉永 7年 2/17 部屋住より中奥御番入
  嘉永 7年 7/27 家督相続
  安政 4年10/22 中奥御小性
  元治元年 8/ 5 御小性組番頭
  慶応元年 9/10 御書院番頭
  慶応 2年12/ 1 御役御免勤仕並寄合入
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#江戸幕府
#旗本
#島津

Пікірлер: 21

  • @78hirohiro35
    @78hirohiro358 күн бұрын

    島津家は古い家だから、そこら中に一族がいる。信濃の一族は武田家と戦ってたし。私の地元の播磨にも一族がいた。薩摩の島津家が参勤交代で播磨を通るときは挨拶等していたそうだ。

  • @user-zp2hk8xf5g

    @user-zp2hk8xf5g

    6 күн бұрын

    播磨の島津氏は、揖保郡の地頭で当主島津忠之が織田方の龍野赤松氏について、当時幕府に反抗していた小寺家の黒田官兵衛に敗れて戦死し、以後逼迫。島津忠之の遺児の名前が義弘・・・なのだが、島津義弘は浪人後に大坂の陣に加わって敗北。徒党を組んで播磨に逃走後に姫路藩に鎮圧されるが、命だけは助けられる。 以降、一族は播磨で帰農し、参勤交代の際に本家に挨拶していた。 島津義弘は同時代に二人いたという話。

  • @73moto

    @73moto

    6 күн бұрын

    映画の天と地とで上杉軍に島津家の家門が有ったから納得した。

  • @yh6146
    @yh61468 күн бұрын

    3:16 佐土原藩は2代藩主は忠興だけど三男で朝鮮出兵で亡くなった長男がいて、長男の息子が一門の垂水島津家を継いだ。だから薩摩藩では佐土原島津家は垂水の分家扱いで藩内では垂水島津家の下扱い。でも対外的には大名の佐土原が陪臣の垂水より上。

  • @user-kr4rg1vp2l
    @user-kr4rg1vp2l4 күн бұрын

    こういう故ありてという場合は、おそらく官僚制あるあるで若手の優秀な人や上のお気に入りの人に押し出されたケースなのかなと思います。

  • @user-zv1hd9hy8k
    @user-zv1hd9hy8k8 күн бұрын

    更新ありがとうございます。説明が丁寧だから内容が理解しやすいです。こうして続いてきたお家が幕末に薩摩島津の江戸藩邸が騒がしかった時代などはどんな気持ちで日々を送っていたものか想像妄想が掻き立てられました。話は変わりますが動画のほぼ全編で使用されている曲、曲は大変心地よいのですが、私の古いスマホで再生するとハイハットの音?が(タッタ♪タッ♪と)少し目立って気になる印象があります。再生環境や個人差によるところ大きいと思いますが念の為ご報告させて頂きます。

  • @user-ts1kp3tb5o
    @user-ts1kp3tb5o9 күн бұрын

    初代旗本島津家当主が長生きしていればもう少し家格が上がっていたのかも😊

  • @MedakaNoBoo
    @MedakaNoBoo2 күн бұрын

    佐土原(さいどばる)の直轄地は薩摩藩の流刑地あつかいで、そこの代官は分家の中郷(ほんごう)氏の中級役人が務めた、実質のとこ旗本島津氏は江戸育ちということになり小説であればスパイ説にしたいところだが、病気の治療といった江戸詰めのためにつくられた家禄だったように思える。平和な時代にキレやすいやつがいらんのは昔も今も同じだね

  • @73moto
    @73moto6 күн бұрын

    島津氏には旗本に成ったので、この動画に紹介された島津氏以外にも後藤島津家が有り、島津家の分家で相州家に島津運久が居るが、同族の伊作善久が下男に殺されてしまい、伊作善久の未亡人に島津運久が惚れて後妻に迎えたが、未亡人は自分の子を相州家の跡継ぎにする事を条件として再婚して連れ子は相州家を継いで島津忠良に成り、忠良の子で有る島津貴久が島津宗家を継いで貴久の子が戦国時代に最強と言われている島津四兄弟で、相州家の島津運久の実子で有る島津忠貞は廃嫡されて出家して長徳軒として薩摩から出されたので下野の足利学校に向かったが駿河沖で嵐に有って遭難して、今川氏親に助けられて、今川家に使えて還俗して島津忠貞と名乗り、忠貞は軍学や医術に精通していたので今川氏親の従兄弟で有る北条氏綱の病気治療に小田原に移り氏綱の病気を完治させたので、氏綱の強い勧めで今川家に戻らずに小田原に残り北条に使えた。北条が滅んだ後に島津忠貞の子は、徳川家に使えて旗本に成ったが、姓は後藤に成ったが、後藤家は島津の姓を名乗りたいと島津宗家に申し出たが、島津宗家は島津氏を名乗る事は認めたが家系図に乗せる事は拒否した。

  • @hirokage9427

    @hirokage9427

    6 күн бұрын

    波瀾万丈の生涯だなぁ

  • @user-ue5tc3mo1w
    @user-ue5tc3mo1w2 күн бұрын

    佳子さんの見合い相手と言われる分家島津家の宣伝か?😮😮😮😮😮

  • @4126iku
    @4126iku8 күн бұрын

    分知されて旗本に成るのか・・・ 島津家の家臣に成るのかと思っていたわ

  • @yh6146

    @yh6146

    8 күн бұрын

    薩摩島津家の有力分家4家は佐土原島津家よりも本家相続権が上だけど陪臣扱い。

  • @jodasow
    @jodasow8 күн бұрын

    落ち度もないのに旗本に降格は珍しいと思ったけど、そもそも落ち度があっても本人の代で大名から旗本に降格したという例すら思い出せない…

  • @sonchuzan
    @sonchuzan8 күн бұрын

    大名から分封されたら普通ただの大名分家じゃないの? なぜ「旗本」になれたのかが説明ではわからないのですが補足願えますか?

  • @user-nv3go8qp9f
    @user-nv3go8qp9f7 күн бұрын

    この特殊な経歴の島津家は戊辰戦争で(恐らく所領も当初のまま日向国)どう動いたのでしょうか?

  • @yh6146

    @yh6146

    3 күн бұрын

    更に大変だったのが盛岡藩の分家八戸藩に婿養子に行った信順。当時の薩摩藩主忠義の4代前の藩主重豪の14男だったから戊辰戦争の時には周り全て敵だったから大変だった。

  • @user-js9ev4no8p
    @user-js9ev4no8p8 күн бұрын

    領地が本家からの分与だったので幕府も口出しにくかったのでしょうね。これが関東あたりに新封を与えられてたら扱いも全然違ってたかも。 ことほど左様に分家旗本は本家の影響を受けるので、久般のお役御免もそれかなと思ったけど、同時期の本家当主はそこそこ名君の忠持だし違いそう。いやまて、薩摩藩が重豪隠居直後だけどそれが関係した?

  • @user-gm4qi7oo9s
    @user-gm4qi7oo9s8 күн бұрын

    旗本の島津家ですか。

  • @bakermaria3231
    @bakermaria32318 күн бұрын

    つぎは、土屋家かも?

  • @user-hc8pl4is7v
    @user-hc8pl4is7v8 күн бұрын

    今川さんや、武田さんなら、まだ分かるんだが、島津君は、徳川さんの旗本に、成っちゃってるのは知らなかったし、宮崎県に分家は、薄々だが、鹿児島県の本家筋の歴史で、チラでしたな、そういやね。

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