大宝山権現院千光寺(せんこうじ)②   広島県尾道市東土堂町15-1  

大宝山権現院千光寺(せんこうじ)②   広島県尾道市東土堂町15-1   #広島 #広島県 #尾道市 #千光寺 #寺院 #歴史 #弘法大師 #赤堂 #林芙美子 #玉の岩 #鐘楼 #文学のこみち 20240705 2   @akibingo
歴史
History
大宝山権現院千光寺は標高140m、尾道港を一望する大宝山の中腹にあり、
(大同元年・806年)弘法大師の開基で中興は多田満仲公と伝えられています。
珍しい舞台造りの本堂(貞享3年・1686年)は別名「赤堂」とも呼ばれ、
林芙美子も放浪記の中で「赤い千光寺の塔が見える」と書いています。
大宝山権現院千光寺は標高140m、尾道港を一望する大宝山の中腹にあり、
(大同元年・806年)弘法大師の開基で中興は多田満仲公と伝えられています。
開基は平安時代の始め大同元年(806年)で、後に源氏の名将多田満仲の中興と伝えている。
境内中央の巨岩「玉の岩」は昔この岩の頂に如意宝珠があって、夜毎に海上を照らしていたのでこの地を「玉の浦」と呼ぶとか。
玉の岩の右には朱塗りの本堂、左には龍宮造りの鐘楼を配して、尾道の風光のかなめをなしている。
本堂は貞享三年(1686年)の建立で、この地方には珍しい舞台造り、堂内に置かれた須弥壇は応永から永享(1394~1440年)頃の作で、和様に唐様を加味した形式で、ここに安置された本尊は秘仏の千手観世音菩薩。
鐘楼の鐘は除夜の鐘でもおなじみのもの「音に名高い千光寺の鐘は一里聞こえて二里ひびく」と俚謡にまでうたわれている。
本堂までの長い階段の左右には、かつて若杉慧の「野の仏」にも紹介された古い石仏や除虫菊の創始者上山英一郎翁の頌徳碑や児玉不揺の筆塚などもある。
この寺の眺望は我が国随一といわれ山頂から八合目あたりを巡る「文学のこみち」は、尾道の風光を愛でた文人墨客の作品を天然の岩に刻んだ遊歩道である。
中国観音霊場第十番札所、備後西国観音霊場第七番札所
●ご仏像・仏塔
千手観世音菩薩 (市重文) 本堂ご本尊
不動朙王 (市重文) 護摩堂に安置
地蔵菩薩 (市重文) 護摩堂に安置
石造阿弥陀三尊像 (市重文) 本堂下参道脇(磨崖仏)
須弥壇 (市重文) 本堂に安置
阿弥陀如来 (市重文) 護摩堂に安置
石造逆修塔 二基 (市重文) 本堂下参道脇
千光寺の想い・ご利益
本尊千手観世音菩薩は聖徳太子の御作と伝えられ、三十三年に一度開帳の秘仏。昔から「火伏せの観音」と称せられ、火難除けに霊験あらたかで、今は諸願成就の観音様としてお詣りが絶えません。尾道は往古より港町として栄え、風光明媚なことから多くの文人墨客が訪れています。中でも頼山陽は「六年重ねて来たる千光寺」と漢詩にも詠んでいます。
千光寺の伝説
千光寺にまつわる“尾道で最も有名な伝説”が『玉の岩』伝説です。千光寺の象徴ともいえる“玉の岩”の天頂部には、その昔光る玉がありました。尾道には“玉”にかかわる地名もあり、千光寺の名前の由来もここからきていると聞きます。
巡る
Discovery
名刹『千光寺』は806年の開基で、中興は多田満仲公宿願により造立したと伝えられ、
興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。
千光寺(せんこうじ)は、広島県尾道市東土堂町の千光寺公園内にある真言宗系の単立寺院。山号は大宝山(たいほうざん)。本尊は千手観音。中国三十三観音第十番札所、山陽花の寺二十四か寺第二十番札所である。
境内からは尾道の市街地と瀬戸内海の尾道水道、向島等が一望でき、ここから取られた写真がよく観光案内などに使用されている。
御詠歌:みなひとの 衣のうらの たまわそも 仏ともなる 宝なるらむ
歴史
寺伝によれば大同元年(806年)に創建され、源満仲(多田満仲)によって再興。戦国時代には備後国御調郡木梨村木梨城主の杉原元恒がこの地に出城を築いている。
境内
本堂
大師堂
客殿
護摩堂
三十三観音堂
大仙堂
毘沙門堂
鐘楼
撫松庵・磐石の庭
くさり山
玉の岩
鏡岩
梵字岩
岩割松
鼓岩
千畳敷・八畳岩
末広の松
末広の松
くさり山、烏天狗
くさり山、烏天狗
梵字岩
梵字岩
三重岩
三重岩
大仙堂、三十三観音堂
大仙堂、三十三観音堂
大師堂
大師堂
護摩堂
護摩堂
鐘楼
鐘楼
鏡岩
鏡岩
烏帽子岩(玉の岩)
烏帽子岩(玉の岩)
毘沙門堂
毘沙門堂
中腹にある伽藍
中腹にある伽藍
文学と千光寺
千光寺公園から当寺へ下る道を「文学のこみち」として整備されている。倉敷市に疎開していた横溝正史が、『獄門島』の舞台の1つとして「千光寺」の名前を登場させているが、当寺ではなく、これは岡山県倉敷市の千光寺を指している。
また千光寺山中腹にはおのみち文学の館が整備されており、麓から千光寺に至る登山道にて見学することができる。
千光寺へ登る階段部分に、足形みちの足形が展示されている。
所在地・交通アクセス
〒722-0033 広島県尾道市東土堂町15-1
JR西日本山陽本線尾道駅から車で15分
JR西日本山陽本線尾道駅から徒歩20分で千光寺山ロープウェイ山麓駅、3分で山上
隣の札所
中国三十三観音霊場
特別霊場 西國寺 -- 10 千光寺 -- 11 向上寺
山陽花の寺二十四か寺
19 西國寺 -- 20 千光寺 -- 21 佛通寺
近隣情報
尾道市立美術館
その他
境内にある玉の岩には昔、光る岩があったとされる玉の岩伝説がある。
鼓岩(ポンポン岩)は、NHK連続テレビ小説『てっぱん』では、オープニングのシーンに出てくる大きな岩として撮影された。
1976年、台風17号による集中豪雨で千光寺のある山の西側斜面が崩壊。発生した土石流が下流の民家が押し流して死者が出た。
文学のこみち(ぶんがくの・こみち)は、広島県尾道市の千光寺公園にある遊歩道。
概要
千光寺山頂(ロープウェイ山頂駅)から、途中千光寺敷地内を通り、千日稲荷まで続く全長約1kmの遊歩道。道沿いの自然の巨石に尾道ゆかりの作家・詩人など文化人らによる作品を刻んだ25基の石碑(文学碑)が立ち、横にはそれぞれ説明看板が付いている。これら文学碑を結ぶ小径が「文学のこみち」とよばれ観光客に親しまれている
瀬戸内海に面した港町である尾道は、古くから美しい歴史ある観光地として有名で、志賀直哉や林芙美子など多くの文人が訪れ、なかにはそれを記念して文学碑が作られた。1965年(昭和40年)・1969年(昭和44年)の2期にわたって尾道青年会議所が整備し、市に寄付した。
林芙美子文学碑とそこから望む尾道水道の風景は、尾道を紹介する風景として特に有名。中村憲吉文学碑はコースから少し離れ、旧居前にある。道の途中には1998年10月に行われた大相撲尾道場所を記念して作られた記念碑も立っており、貴乃花・曙・若乃花・武蔵丸の4横綱(当時)の手形が彫ってある。
なお、場所によっては段差のある坂道もあり、登山道に近いところもある。
文学碑
徳富蘇峰
前田曙山
正岡子規 : 1895年(明治28年)、日清戦争従軍記者として尾道を通過した時の作品が刻まれている。
物外
十返舎一九 : 年代は不明だが、山陽道漫遊中に尾道来遊時の作品が刻まれている。
金田一京助 : 1955年(昭和30年)尾道来遊時の作品が刻まれている。
江見水蔭
志賀直哉 : 暗夜行路の一節。筆者は小林和作。
林芙美子 : 放浪記の一節。筆者は小学校当時の恩師である小林正雄。
緒方洪庵 : 1862年(文久2年)初夏、尾道来遊時の作品が刻まれている。
巖谷小波 : 1932年(昭和7年)尾道来遊時の作品の一つが刻まれている。
山口玄洞 : 座右の銘の三文字が刻まれている。
山口誓子 : 1962年(昭和37年)千光寺詣での作品が刻まれている。
柳原白蓮 : 年代は不明だが、尾道に歌行脚したときの作品の一つが刻まれている。
河東碧梧桐 : 1910年(明治43年)、新傾向俳句運動をすすめる途中、尾道来遊時の作品が刻まれている。
竹田・竹下・伯秀 : 1835年(天保5年)8月1日、3人が千光寺山に登り玉の岩で詩を作り石に刻んだ。「瘞紅の碑」とも。
松尾芭蕉 : 1792年(寛政4年)10月12日、尾道で行われた芭蕉翁百年祭を記念して建立された。
中村憲吉
俚謡 : 作者不明。古くから尾道で愛誦されている。
吉井勇 : 1936年(昭和11年)、浄土寺や千光寺に詣でたときの一首が刻まれている。
古歌 : 作者不明。古くから尾道で愛誦されている。
小杉放庵 : 1954年(昭和29年)ごろ、尾道来遊時の作品が刻まれている。
菅茶山 : 1793年(寛政5年)、鼓岩に登った際の長誌の一節が刻まれている。
陣幕久五郎 : 句碑と手形碑からなる。
頼山陽 : 1829年(文政12年)千光寺山に登ったときの作品が刻まれている。

Пікірлер

    Келесі